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第20話:氷の刃と、亀裂の入った聖域
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書斎での激しい交わりは、イザベラという悪魔を祓う儀式になるはずだった。 だが、それは逆効果だった。 雫の心は、蓮が自分を慰めようとすればするほど、惨めな嫉妬の泥沼に深く沈んでいった。
(……慰め、だ)
蓮さんの優しさは、あの女には敵わない、哀れな私への“同情”なのだ。 彼は、私を傷つけまいとして、過去の真実を隠している。 その“優しさ”が、雫にとっては、何よりも残酷な刃となっていた。
二人の関係は、修復不可能なほどに歪み始めていた。 天空の城では、蓮と雫は完璧なキングとクイーンを演じ続ける。スタッフたちも、二人の間に生まれた見えない亀裂には、まだ気づいていない。 だが、ペントハウスに戻り、二人きりになった瞬間、空気は凍りつく。
蓮は、どう接すればいいのか分からなかった。 下手に過去を語れば、それが更なる火種になることを恐れ、かといって沈黙すれば、雫の不信感を煽る。 彼は、愛する女を前にして、初めて無力感を覚えていた。
そして、雫は、嫉妬という名の病に、その身を任せるようになっていた。 蓮が会議でイザベラの名前を口にするだけで、指先が冷たくなる。 蓮が海外出張で、イザベラと同じ都市に滞在すると知った夜には、一人でウォッカを煽り、シーツを涙で濡らした。
(わたくしは、女王なんかじゃない。ただの、捨てられるのを待つ女……)
そんな二人の歪んだ関係を、氷の女王が見逃すはずがなかった。
その日、ネオ・フロンティアは、業界の未来を左右するほど巨大な国際プロジェクトのコンペに参加していた。 最終選考に残ったのは、俺たち『ネオ・フロンティア』と、イザベラ率いる『サーベラス・キャピタル』。 事実上、俺とイザベラの、一騎打ちだった。
会場となったホテルの大ホールは、異様な熱気に包まれていた。 俺は壇上で、これまでの人生の全てを懸けた、完璧なプレゼンテーションを行った。技術力、未来へのビジョン、そして情熱。 会場は万雷の拍手に包まれ、誰もが俺たちの勝利を確信した。
だが、最後に登壇したイザベラは、余裕の笑みを崩さなかった。 彼女がモニターに映し出したのは、事業計画書ではなかった。
「……皆様、素晴らしい夢物語をありがとうございました、レン」
彼女は、マイクを通して、俺だけを挑発するように言った。
「ですが、ビジネスは“信頼”が全て。皆様は、自らのパートナーの“心”さえマネジメントできない男に、数百億ドルの未来を託せると、本気でお思いですの?」
会場が、ざわめく。 イザベラが何を言おうとしているのか、俺は血の気が引くのを感じた。
「彼は、素晴らしい才能を持っています。ですが、同時に、致命的な“弱点”も抱えている。……それは、感情のコントロールができない、不安定な女を、公私混同して傍に置いていることです」
イザベラはそう言うと、オペレーターに合図を送った。 モニターに映し出されたのは、一枚のレポート。
それは、雫が通っている心療内科の、診断記録だった。 『重度の不安障害、及び、嫉妬に起因するうつ状態』 盗撮されたものだろうか、薬局で処方箋を受け取る雫の写真まで添えられている。
「……っ!」
俺の隣で、雫が息を呑み、その場に崩れ落ちそうになるのを、俺はかろうじて支えた。 会場は、水を打ったように静まり返る。
イザベラは、その地獄のような静寂の中で、悪魔のように、優雅に告げた。
「わたくしは、彼のように、私情でビジネスを危機に晒したりは致しません。わたくしが愛するのは、数字と、確実な勝利だけ。……皆様、どちらが“信頼”に足るパートナーか、もうお分かりですわね?」
それは、完璧なプレゼンテーションを、たった一つの“スキャンダル”で覆す、イザベラにしかできない、冷酷非情な攻撃だった。 技術や未来ではなく、俺たちの愛の、その最も脆い部分を、満座の前で引き裂いてみせたのだ。
コンペの結果は、言うまでもなかった。 勝利の女神は、イザベラに微笑んだ。
ペントハウスへの帰り道、車の中は、死んだような沈黙に満ちていた。 雫は、窓の外を虚ろな目で見つめたまま、一言も発しない。
俺は、怒りで、腸が煮えくり返っていた。 イザベラへの怒り。そして、何よりも、雫の苦しみに気づけず、こんな形で彼女を衆目に晒してしまった、自分自身への激しい怒り。
部屋に着くなり、俺は雫の肩を掴んだ。
「……なぜ、言わなかった」
「……」
「病院に通っていたこと、薬を飲んでいたこと……なぜ、俺に隠していた!」
それは、彼女を心配するがゆえの言葉だった。 だが、その激情は、最も残酷な形で、彼女に突き刺さった。
「……言えるはずが、ないでしょう」
雫は、人形のような無表情で、ゆっくりと顔を上げた。 その瞳から、光は完全に消えていた。
「あなたの“弱点”だと、あの人に言われて……。これ以上、あなたの足手まといになりたくなかった……!」
「足手まといだと!?」
「そうです! あなたは、わたくしがいない方が、もっと自由に戦える! あの人の言う通りだわ……わたくしが、あなたの“獣”を、弱くしていたのよ!」
「違う!!」
俺は叫び、彼女を壁に押し付けた。 だが、彼女はもう、怯えなかった。
「……もう、終わりにしましょう、蓮さん」
彼女は、氷のように冷たい声で、告げた。
「わたくしでは、あなたの女王にはなれない。……あなたのお荷物になるくらいなら、わたくしは……あなたを、解放します」
「……ふざけるな!」
俺は、彼女の言葉を否定するように、その唇を塞いだ。 だが、そこに、いつもの熱はなかった。 彼女の唇は、まるで死んだように冷たく、俺のキスを、ただ無抵抗に受け入れているだけだった。 それは、生きている女を抱いているのではなく、精巧に作られた、冷たい人形を抱いているかのようだった。
俺たちの聖域に走った亀裂は、今、修復不可能なほど、深く、大きく広がってしまっていた。
【続く】
(……慰め、だ)
蓮さんの優しさは、あの女には敵わない、哀れな私への“同情”なのだ。 彼は、私を傷つけまいとして、過去の真実を隠している。 その“優しさ”が、雫にとっては、何よりも残酷な刃となっていた。
二人の関係は、修復不可能なほどに歪み始めていた。 天空の城では、蓮と雫は完璧なキングとクイーンを演じ続ける。スタッフたちも、二人の間に生まれた見えない亀裂には、まだ気づいていない。 だが、ペントハウスに戻り、二人きりになった瞬間、空気は凍りつく。
蓮は、どう接すればいいのか分からなかった。 下手に過去を語れば、それが更なる火種になることを恐れ、かといって沈黙すれば、雫の不信感を煽る。 彼は、愛する女を前にして、初めて無力感を覚えていた。
そして、雫は、嫉妬という名の病に、その身を任せるようになっていた。 蓮が会議でイザベラの名前を口にするだけで、指先が冷たくなる。 蓮が海外出張で、イザベラと同じ都市に滞在すると知った夜には、一人でウォッカを煽り、シーツを涙で濡らした。
(わたくしは、女王なんかじゃない。ただの、捨てられるのを待つ女……)
そんな二人の歪んだ関係を、氷の女王が見逃すはずがなかった。
その日、ネオ・フロンティアは、業界の未来を左右するほど巨大な国際プロジェクトのコンペに参加していた。 最終選考に残ったのは、俺たち『ネオ・フロンティア』と、イザベラ率いる『サーベラス・キャピタル』。 事実上、俺とイザベラの、一騎打ちだった。
会場となったホテルの大ホールは、異様な熱気に包まれていた。 俺は壇上で、これまでの人生の全てを懸けた、完璧なプレゼンテーションを行った。技術力、未来へのビジョン、そして情熱。 会場は万雷の拍手に包まれ、誰もが俺たちの勝利を確信した。
だが、最後に登壇したイザベラは、余裕の笑みを崩さなかった。 彼女がモニターに映し出したのは、事業計画書ではなかった。
「……皆様、素晴らしい夢物語をありがとうございました、レン」
彼女は、マイクを通して、俺だけを挑発するように言った。
「ですが、ビジネスは“信頼”が全て。皆様は、自らのパートナーの“心”さえマネジメントできない男に、数百億ドルの未来を託せると、本気でお思いですの?」
会場が、ざわめく。 イザベラが何を言おうとしているのか、俺は血の気が引くのを感じた。
「彼は、素晴らしい才能を持っています。ですが、同時に、致命的な“弱点”も抱えている。……それは、感情のコントロールができない、不安定な女を、公私混同して傍に置いていることです」
イザベラはそう言うと、オペレーターに合図を送った。 モニターに映し出されたのは、一枚のレポート。
それは、雫が通っている心療内科の、診断記録だった。 『重度の不安障害、及び、嫉妬に起因するうつ状態』 盗撮されたものだろうか、薬局で処方箋を受け取る雫の写真まで添えられている。
「……っ!」
俺の隣で、雫が息を呑み、その場に崩れ落ちそうになるのを、俺はかろうじて支えた。 会場は、水を打ったように静まり返る。
イザベラは、その地獄のような静寂の中で、悪魔のように、優雅に告げた。
「わたくしは、彼のように、私情でビジネスを危機に晒したりは致しません。わたくしが愛するのは、数字と、確実な勝利だけ。……皆様、どちらが“信頼”に足るパートナーか、もうお分かりですわね?」
それは、完璧なプレゼンテーションを、たった一つの“スキャンダル”で覆す、イザベラにしかできない、冷酷非情な攻撃だった。 技術や未来ではなく、俺たちの愛の、その最も脆い部分を、満座の前で引き裂いてみせたのだ。
コンペの結果は、言うまでもなかった。 勝利の女神は、イザベラに微笑んだ。
ペントハウスへの帰り道、車の中は、死んだような沈黙に満ちていた。 雫は、窓の外を虚ろな目で見つめたまま、一言も発しない。
俺は、怒りで、腸が煮えくり返っていた。 イザベラへの怒り。そして、何よりも、雫の苦しみに気づけず、こんな形で彼女を衆目に晒してしまった、自分自身への激しい怒り。
部屋に着くなり、俺は雫の肩を掴んだ。
「……なぜ、言わなかった」
「……」
「病院に通っていたこと、薬を飲んでいたこと……なぜ、俺に隠していた!」
それは、彼女を心配するがゆえの言葉だった。 だが、その激情は、最も残酷な形で、彼女に突き刺さった。
「……言えるはずが、ないでしょう」
雫は、人形のような無表情で、ゆっくりと顔を上げた。 その瞳から、光は完全に消えていた。
「あなたの“弱点”だと、あの人に言われて……。これ以上、あなたの足手まといになりたくなかった……!」
「足手まといだと!?」
「そうです! あなたは、わたくしがいない方が、もっと自由に戦える! あの人の言う通りだわ……わたくしが、あなたの“獣”を、弱くしていたのよ!」
「違う!!」
俺は叫び、彼女を壁に押し付けた。 だが、彼女はもう、怯えなかった。
「……もう、終わりにしましょう、蓮さん」
彼女は、氷のように冷たい声で、告げた。
「わたくしでは、あなたの女王にはなれない。……あなたのお荷物になるくらいなら、わたくしは……あなたを、解放します」
「……ふざけるな!」
俺は、彼女の言葉を否定するように、その唇を塞いだ。 だが、そこに、いつもの熱はなかった。 彼女の唇は、まるで死んだように冷たく、俺のキスを、ただ無抵抗に受け入れているだけだった。 それは、生きている女を抱いているのではなく、精巧に作られた、冷たい人形を抱いているかのようだった。
俺たちの聖域に走った亀裂は、今、修復不可能なほど、深く、大きく広がってしまっていた。
【続く】
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