21 / 35
第21話:空っぽの玉座と、女王の慰め
しおりを挟む
そのキスは、味がしなかった。 蓮の唇から伝わるのは、絶望と、深い自己嫌悪の味だけ。 雫の瞳は、虚ろなまま、何も映してはいない。
蓮は、まるで氷の人形を抱いているかのような絶望感に襲われ、ゆっくりと彼女から身体を離した。 情熱も、怒りも、すべてが潮が引くように消えていく。 後に残ったのは、どうしようもないほどの、広大な虚無だった。
「……雫」
絞り出した声は、掠れていた。
だが、雫はもう、彼を見ていなかった。 彼女は静かに彼に背を向けると、寝室のクローゼットへと向かった。 そして、小さなボストンバッグを取り出すと、まるで出張の準備でもするかのように、淡々と数枚の着替えだけを詰めていく。 その所作には、何の感情も、迷いもなかった。
「……何をしている」 「ご覧の通りです」 「ふざけるな。どこへ行くつもりだ」
蓮が彼女の腕を掴もうとした、その瞬間。 雫は、初めて、蓮の手を強く、振り払った。 パシン、という乾いた音が、静まり返ったペントハウスに響く。
蓮の手が、止まった。 雫が、自分を、拒絶した。
彼女は、ゆっくりと振り返った。 その顔は、驚くほど静かで、穏やかだった。 まるで、全ての苦しみから解放された聖女のように。
「わたくしは、あなたの弱点であり、お荷物です」 「違うと言っているだろう!」
「……いいえ。もう、いいのです」 彼女は、諦めたように、ふわりと微笑んだ。
「イザベラ様の言う通り、わたくしがいない方が、あなたはもっと高く飛べる。わたくしは、あなたの翼を縛り付ける、重たい鎖でした」 「雫……!」 「愛しています」
彼女は、そっと言った。 それは、今までにないほど、透明で、純粋な響きだった。
「愛しているから……あなたを、自由にして差し上げます」
彼女は、蓮の横をすり抜け、玄関へと向かう。 蓮は、動けなかった。 「行くな」という言葉が、鉛のように重く、喉に詰まって出てこない。 彼女のあの“解放された”顔を前に、どんな言葉も無力だと、本能で悟ってしまったからだ。
ガチャリ、と無機質な音を立てて、重厚なドアが開く。
「……さようなら、蓮さん」
最後に一度だけ振り返った彼女の瞳には、涙はなかった。 ただ、深い、深い、凪いだ海のような静けさがあるだけだった。
ドアが、閉まる。 蓮は、一人、広すぎるリビングの真ん中に立ち尽くした。
王は、その手で、唯一無二の女王を、城から去らせてしまった。 天空の城の、空っぽになった玉座で、彼は崩れ落ちるように、その場に膝をついた。 喉の奥から、言葉にならない、獣のような呻き声が漏れ出た。
その日から、蓮は抜け殻になった。 会社には、現れない。 『ネオ・フロンティア』は、王と女王を同時に失い、混乱の極みに達していた。 田中や佐藤が、必死でペントハウスのインターホンを鳴らしても、蓮が応えることはなかった。
彼は、ただ、酒を煽っていた。 皮肉なことに、イザベラとのコンペに敗北したことで、橘家も古賀会長も、もはや敵ですらなかった。彼らは、自らの不正が暴かれたことで、それどころではなくなっていたからだ。 蓮は、全ての敵に勝利したのだ。 だが、その代償として、全てを失った。
空っぽのベッド、二人で使っていた揃いのマグカップ、彼女が育てていた観葉植物。 その全てが、蓮の心を容赦なく抉っていく。
そんな、自暴自棄になっていた、嵐の夜。 ペントハウスのインターホンが、執拗に鳴り響いた。
「……うるさい……消えろ……!」
蓮が、酒瓶を床に叩きつけようとした、その時。 インターホンのスピーカーから、あの声が聞こえた。
『随分と、荒れているようね、レン』
イザベラ・ヴォスだった。
蓮は、獣のような目で、モニターを睨みつけた。 全ての元凶。この女が、雫を、俺から奪った。
『開けなさい。それとも、私がドアを開けさせてもいいのよ?』
その声には、有無を言わせぬ、絶対的な支配者の響きがあった。 蓮は、ふらつく足取りでドアのロックを解除した。 殺してやる、と。その衝動だけが、彼を動かしていた。
ドアが開くと、イザベラは、ずぶ濡れの蓮の姿と、荒れ果てた部屋を見回し、痛ましそうに、しかしどこか満足そうに、ため息をついた。
「……酷い有様。まるで、捨てられた子犬のようだわ」 「……お前の、せいだ……!」 「私のせい? 違うわ。あの女が、弱すぎただけ。あなたの“重さ”に、耐えられなかっただけよ」
彼女は、躊躇いなく部屋に上がり込むと、蓮が握りしめていたグラスを、そっと取り上げた。 そして、その氷のように冷たい指で、蓮の無精髭に覆われた頬を、優しく撫でた。
「可哀想に……。でも、これで良かったのよ、レン」
彼女の青い瞳が、獲物を捕らえる蛇のように、妖しく細められる。
「あなたは、自由になった。……ようやく、本当のあなたになれる。私と同じ、孤独で、貪欲な、獣にね」
彼女は、蓮の胸に、そっと身体を寄せた。 高級な香水の匂いが、アルコールで麻痺した蓮の脳を、直接刺激する。
「泣かないで、レン。私が、慰めてあげる」
イザベラは、ゆっくりと顔を近づけ、荒れた蓮の唇に、自らの唇を重ねた。 それは、雫の優しさとは違う。 全てを焼き尽くす、毒のように甘く、支配的なキスだった。
蓮は、抵抗しなかった。 雫を失った巨大な空洞を、何かで埋めなければ、彼は今にも張り裂けてしまいそうだった。 たとえ、それが、猛毒であったとしても。
氷の女王が、空っぽになった玉座に、静かに腰を下ろそうとしていた。
【続く】
蓮は、まるで氷の人形を抱いているかのような絶望感に襲われ、ゆっくりと彼女から身体を離した。 情熱も、怒りも、すべてが潮が引くように消えていく。 後に残ったのは、どうしようもないほどの、広大な虚無だった。
「……雫」
絞り出した声は、掠れていた。
だが、雫はもう、彼を見ていなかった。 彼女は静かに彼に背を向けると、寝室のクローゼットへと向かった。 そして、小さなボストンバッグを取り出すと、まるで出張の準備でもするかのように、淡々と数枚の着替えだけを詰めていく。 その所作には、何の感情も、迷いもなかった。
「……何をしている」 「ご覧の通りです」 「ふざけるな。どこへ行くつもりだ」
蓮が彼女の腕を掴もうとした、その瞬間。 雫は、初めて、蓮の手を強く、振り払った。 パシン、という乾いた音が、静まり返ったペントハウスに響く。
蓮の手が、止まった。 雫が、自分を、拒絶した。
彼女は、ゆっくりと振り返った。 その顔は、驚くほど静かで、穏やかだった。 まるで、全ての苦しみから解放された聖女のように。
「わたくしは、あなたの弱点であり、お荷物です」 「違うと言っているだろう!」
「……いいえ。もう、いいのです」 彼女は、諦めたように、ふわりと微笑んだ。
「イザベラ様の言う通り、わたくしがいない方が、あなたはもっと高く飛べる。わたくしは、あなたの翼を縛り付ける、重たい鎖でした」 「雫……!」 「愛しています」
彼女は、そっと言った。 それは、今までにないほど、透明で、純粋な響きだった。
「愛しているから……あなたを、自由にして差し上げます」
彼女は、蓮の横をすり抜け、玄関へと向かう。 蓮は、動けなかった。 「行くな」という言葉が、鉛のように重く、喉に詰まって出てこない。 彼女のあの“解放された”顔を前に、どんな言葉も無力だと、本能で悟ってしまったからだ。
ガチャリ、と無機質な音を立てて、重厚なドアが開く。
「……さようなら、蓮さん」
最後に一度だけ振り返った彼女の瞳には、涙はなかった。 ただ、深い、深い、凪いだ海のような静けさがあるだけだった。
ドアが、閉まる。 蓮は、一人、広すぎるリビングの真ん中に立ち尽くした。
王は、その手で、唯一無二の女王を、城から去らせてしまった。 天空の城の、空っぽになった玉座で、彼は崩れ落ちるように、その場に膝をついた。 喉の奥から、言葉にならない、獣のような呻き声が漏れ出た。
その日から、蓮は抜け殻になった。 会社には、現れない。 『ネオ・フロンティア』は、王と女王を同時に失い、混乱の極みに達していた。 田中や佐藤が、必死でペントハウスのインターホンを鳴らしても、蓮が応えることはなかった。
彼は、ただ、酒を煽っていた。 皮肉なことに、イザベラとのコンペに敗北したことで、橘家も古賀会長も、もはや敵ですらなかった。彼らは、自らの不正が暴かれたことで、それどころではなくなっていたからだ。 蓮は、全ての敵に勝利したのだ。 だが、その代償として、全てを失った。
空っぽのベッド、二人で使っていた揃いのマグカップ、彼女が育てていた観葉植物。 その全てが、蓮の心を容赦なく抉っていく。
そんな、自暴自棄になっていた、嵐の夜。 ペントハウスのインターホンが、執拗に鳴り響いた。
「……うるさい……消えろ……!」
蓮が、酒瓶を床に叩きつけようとした、その時。 インターホンのスピーカーから、あの声が聞こえた。
『随分と、荒れているようね、レン』
イザベラ・ヴォスだった。
蓮は、獣のような目で、モニターを睨みつけた。 全ての元凶。この女が、雫を、俺から奪った。
『開けなさい。それとも、私がドアを開けさせてもいいのよ?』
その声には、有無を言わせぬ、絶対的な支配者の響きがあった。 蓮は、ふらつく足取りでドアのロックを解除した。 殺してやる、と。その衝動だけが、彼を動かしていた。
ドアが開くと、イザベラは、ずぶ濡れの蓮の姿と、荒れ果てた部屋を見回し、痛ましそうに、しかしどこか満足そうに、ため息をついた。
「……酷い有様。まるで、捨てられた子犬のようだわ」 「……お前の、せいだ……!」 「私のせい? 違うわ。あの女が、弱すぎただけ。あなたの“重さ”に、耐えられなかっただけよ」
彼女は、躊躇いなく部屋に上がり込むと、蓮が握りしめていたグラスを、そっと取り上げた。 そして、その氷のように冷たい指で、蓮の無精髭に覆われた頬を、優しく撫でた。
「可哀想に……。でも、これで良かったのよ、レン」
彼女の青い瞳が、獲物を捕らえる蛇のように、妖しく細められる。
「あなたは、自由になった。……ようやく、本当のあなたになれる。私と同じ、孤独で、貪欲な、獣にね」
彼女は、蓮の胸に、そっと身体を寄せた。 高級な香水の匂いが、アルコールで麻痺した蓮の脳を、直接刺激する。
「泣かないで、レン。私が、慰めてあげる」
イザベラは、ゆっくりと顔を近づけ、荒れた蓮の唇に、自らの唇を重ねた。 それは、雫の優しさとは違う。 全てを焼き尽くす、毒のように甘く、支配的なキスだった。
蓮は、抵抗しなかった。 雫を失った巨大な空洞を、何かで埋めなければ、彼は今にも張り裂けてしまいそうだった。 たとえ、それが、猛毒であったとしても。
氷の女王が、空っぽになった玉座に、静かに腰を下ろそうとしていた。
【続く】
0
あなたにおすすめの小説
M&A成立の代償は、冷徹CEOとの夜の“特別業務”でした〜完璧な右腕(秘書)は、幼馴染の執着から逃げられない〜
どえろん
経済・企業
経営危機に陥った老舗メーカーを立て直すべく、若くしてCEOに就任した御堂 蓮(みどう れん)。その完璧な右腕として冷徹に業務を遂行する敏腕秘書の結衣(ゆい)。
社内では「氷の最強タッグ」と恐れられる二人だが、実は幼馴染。ある夜、大型買収(M&A)の成功を祝う社長室で、張り詰めていた糸が切れ、二人は“一夜の過ち”を犯してしまう。
「ビジネスパートナー」という一線を越えた日から、昼間は厳しい上司、夜は結衣を甘く縛り付ける雄へと変貌する蓮。企業戦略の裏で繰り広げられる、執着と快楽のオフィス・ラブストーリー。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる