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3章 天空寮(ダイジェスト版)
寮案内2
しおりを挟むはい、またまたここまで。
わーっ、そんな顔で睨まないでよ。僕だっていろいろあるんだよ!
それにどさくさ紛れで、女の子同士の会話を書いてキモいとか言わないで。
そんなこといったら、男性の小説家に失礼でしょ?
ま、そんなわけで、どうせ、特徴のある喋り方で君もわかっているだろうけど、女子会の闖入者は紅原円だ。
だが、ただ割って入ってきただけならまだましだったんだろうけどね。
最後にわかれた時のことを思い出して気まずい環だけど、存在に気付かれた。
しかたなくおひさしぶり、とか挨拶すると、なんと帰ってきたセリフが「ごめん、どこかで会ったかな?」。
……いや、だから「どういうことだ」って胸ぐら掴んで詰め寄らないで。
まあ、慌てないでよ。
ちゃんと順を追って説明するから。
もちろん、こんなことを言っても、すでに二人が知り合いだということを知っている利音がいるから、そのままで終わるわけがない。
ショックを受けて呆然とする環に、利音と真田が二人して紅原を責めるわけだ。
二人対一人で言い返せる程、紅原って強い男じゃないよ。
困惑しつつ、環に謝るけど、環はショックからか、その場でよろけてしまう。
それを心配した紅原が何を思ったのか、初対面だと言いはったその場で部屋に運ぶと環を横抱きにしたんだ。
横抱き、通称お姫様抱っこだよ。
ヒューヒュー。
え? うざい? ひどい。
まあ、それに対して周囲の反応も様々だった。
ちょうど、双子が現れて、それに対応していた利音は気付かず、真田は驚きつつも紅原を諌めず。
環は羞恥から下ろしてくれと頼むけど紅原は聞く耳持たずだ。
紅原はさっさと環を抱えたまま、部屋に連れて行き、部屋の近くまで運んでしまう。
力持ちだよね。環ってさほど小柄じゃないから、結構重たいと思うんだ。
あ、でも僕も君くらいなら、抱えることはできると思うよ?
え? そんなこと聞いていない? そもそもセクハラだって?
そんな。
まあ、そんな優しさを見せる紅原に対して、環はとっても複雑だった。
だって、知り合って何度も名前を呼ばれて、学外でも会っているのにいまさら「君誰?」とか、普通の戸惑うよね。
最後まで自分の事を思い出してはくれず、呼び名も名前から『多岐さん』になった紅原と分かれて、自室で環は考える。
ありえないって思うけど、それでも彼女には一つだけ紅原の症状に心当たりがあった。
君もわかるんじゃない?
ゲームをフルコンプした君なら。
そうだよ。紅原の記憶喪失イベントだ。
紅原は過去の出来事から、恋すると相手の記憶を失う特異な体質だ。
もうわかってるかもしれないけど、紅原は環に恋をして、記憶を失ってしまったんだ。
え? まだ出会って二ヶ月も立ってない?
やだなあ。人を好きになるのに時間なんて関係ないよ。
相手を好きになるきっかけさえあれば、ね。
だから、今の僕は君にフォーリンラブさ。
は? わけがわからない?
またまた、とぼける君も好きだけどね。
ええ? 信じてくれないの?
うざい? ……ひどい。
いいもん、それでも僕の気持ちは変わらないもん。
え、いじける前に、さっさと続きを語れって? 君、鬼だね。
まあ、いいよ。
でもそんな知識があっても環は紅原が自分を好きになったから忘れたんだと思わなかった。
環にはね、語るも涙の過去があって、自分は異性から愛されないと思ってるんだ。
環にはね、死んだ父親に忘れられた過去がある。
病気で、徐々に記憶を失っていく父親に、他所の子供だと思われて手ひどく振り払われたことがあるんだ。
そのショックで、自分は忘れられてしまうほど価値の無い人間だと思っている部分があるんだ。
だから今回の事も、環は紅原の忘却を、自分が悪いのだと勘違いしてしまう。
切ないね。
それでも人に忘れられて明るい気持ちでいられる人はいない。
重い心を抱えて、環はそのまま自室で現実から、目を背ける様に眠ってしまう。
そこで、気持ちが過去に帰るように父親に罵倒された時の夢を見るんだけど、いつもちとがって最後だけ父親は優しく環を抱きしめ慰めてくれた。
それに安堵して、環は、夢も見ないほどの深い眠りに誘われるんだけど。
……ええ、お察しの通りだよ。
うふふ。うん、気持ち悪いって思われるのわかってた。
ま、そんなわけでちょろっと紅原視点で見てみる?
ちょっとさかのぼって、紅原が真田に会いに来たところから、はい。
◆ ◆ ◆
その日、紅原が幼馴染のところに行ったのは仕事のためだ。
月下騎士としての仕事に必要な資料を先日幼馴染が整理していたのを思いだし、聞きにきたのだ。
天空寮にいるだろうと踏んで向かった先の食堂で紅原はそこでとある少女の存在に気を惹かれた。
最初彼女を見たとき、智星寮から遊びに来た一般生徒だと思った。
確か名前は多岐環、だったか。長い黒髪の背は高いが凡庸な印象の地味な女子生徒。
天空寮に入寮する女子生徒は容姿の優れた才女であることが多い。
別に彼女の容姿が悪いとは言わないが、今まで天空寮にいた美女達と比べてしまうとどうしても、地味さが目についた。
環はぎこちないながらも紅原に「おひさしぶりです」と挨拶した。
しかし、紅原に彼女に会った覚えはなかった。
だが、紅原も自分が学内で有名人であることに自覚はある。
自分が知らなくてもまるで知り合いのように語りかけてくる相手は今回が初めてではなかった。
その場合適当に話を合わせておくか、無視するか。
大抵は無視なのだが、なぜか彼女に対してはどちらもできなかった。
自分でもわからないが、妙な焦りが胸の内に湧き上がり、ポロリと覚えていないことを環に伝えてしまう。
その瞬間驚愕とともに、悲しみに彩られた瞳を紅原は激しく動揺した。
狼狽する自分の姿を怪訝に見る幼馴染と彼女とは初対面ではないと非難する聖利音にすら慌てる始末。
そんな中先に動揺から立ち直ったのは環の方だった。
自分が地味だから覚えられなかったのだろうと、笑みさえ浮かべる彼女の様子を一緒に見ていた女子二人の非難の視線が自分に突き刺さるのを感じる。
「環ちゃんが社交辞令でも笑うなんて。本当にショックだったんだ」
「そうなのか?……円。君ってば本当に多岐さんになにしたんだい?」
「え、いや、なにもしとらん……と思うけど」
「そこも覚えてもいないなんて……円君。さいてー」
「ちょっと、利音ちゃん。そないに人を誑しみたいに言わんといて」
ジト目で睨んでくる利音の視線には苦笑いを浮かべつつ、特別感じるところはない。
彼女は美人だが、彼女の視線で動揺することはなかった。
ふと多岐さんと呼ばれている彼女を見れば顔色が悪い、一瞬ふらついた彼女に気づいたとき無意識に手を伸ばしていた。
腕をつかめばあっさりと手のひらで一回りつかめる腕の細さに驚く。
紅原の手に気づいた彼女が真っ赤になるのが見えた。
何とも初な反応になんだかこちらのほうが恥ずかしいことをしている何とも言えない気分になる。
とにかく顔色の悪い彼女を部屋に返すのが先決と考えたとき、自然に部屋まで送るという考えが浮かんだ。
そのことを口にすると驚いた幼馴染の顔が見えた。
彼女のその表情の意味はわかっている。自分でも驚いているのだ。
紅原は自分が紳士ではないことは自覚している。母親には女子には優しくするように言われているが、大して親しいわけでもない女子にまで親切にする必要は感じないし、女子をわざわざ送ったりするような紳士紛いな行動など自分に利がある場合以外自発的にこれまでしたことはなかった。
おそらくそんな自分が言い出したことに驚いたのだろうが、特別幼馴染は理由を問うたりしなかった。正直ありがたい。
紅原にも理由なんてわからなかったから。
けれど、紅原が手を差し伸べても環はなかなか首を縦に振らなかった。
彼女の媚びのない様子を少しだけ好ましく思うが、すぐに自身の体調を考えない態度にイラつき始めた。
あまりに強情な彼女に紅原はあまり使わないようにしている方法を使った。
紳士的な態度はあまり使わないが、決してできないわけじゃない。
顔と態度を最大限に利用して彼女を誘導する。
「じゃあ、行こうか。多岐さん。部屋は…」
怯えさせないように僅かに笑みを浮かべる。
見たところ彼女は男慣れしているようには見えない。
案の定、一瞬惚けてくれるが、すぐにこちらの意図に気づいて抵抗しようとするのですかさず、抵抗を封じる言葉を紡ぐ。
「いや、だから一人で大丈夫なので離して…」
「……そんなに俺に送られるの嫌?」
そっと耳元で囁くように、そして最大限彼女の罪悪感を煽るような顔を作って見せれば、わかりやすく彼女の顔が固まる。
自分の顔がいいことは知っている。そして傍から見ればどういう効果を及ぼすのかも。
父親によく似た顔はあまり好きではないのだが、利用できるものはなんでも使わなければ紅原で生きていくことはできなかった。
利用の仕方は知ってる。それを使うことで傷つく自尊心などとっくの昔に擦り切れているのだ。
自嘲に口が歪まないよう、感情を押し殺しそっと彼女の罪悪感を煽るよう憂いを含ませた表情を作り出す。
憂うように目を伏せ、囁くように名前を呼べば、彼女の瞳に罪悪感めいた色が浮んだ。
自分から誘惑しておいてなんだが、強情なようでいてこんなに簡単に男にだまされる彼女の純粋さに勝手な話だが苛立った。
そしてとうとう彼女が目をそらしたことで折れたことがわかった。
内心の苛立ちを隠して、わざと紅原はさらりと憂いを消した笑みを浮かべた。
そのことで、どことなく「騙された」ことがわかった彼女の悔しそうな顔を浮かべた。
そのことに紅原は少し満足する。あまりにこの娘は無防備な気がした。
これで少しは危機感を持ってくれればよいのだが、と実に自分でも勝手なことだと内心自嘲した。
しかし、いざ送ろうとしたとき、お菓子の匂いを嗅ぎつけた双子が現れた。
目当ては利音だったらしく、二人共紅原たちの存在に気づいていない。
下手に見つかって、時間をとられたくないと思った紅原は普段考えもつかない行動に出た。
一言「ごめんな」と言いおいて、環の背と足裏に腕を沿わせて無理矢理抱き上げた。
いきなりのことに驚いているのか、抵抗を見せることもないあっさりと環の体は紅原の腕の中に収まった。
彼女は背が高い分重さはしっかりあった。
しかしその重さが、彼女という存在が今腕の中にあるを実感させてなぜか心が浮き立つ。
環の体は硬直していた。顔も驚きに固まっており、一応一言言いおいた後の行動とは言え、返事も聞かずに勝手にやったので当然か。そんな彼女の体は正直抱き上げにくかった。
もっと体を密着させて、体を預け首に手を回してくれたら楽なのだが、そこまでは望み過ぎだということはさすがにわかっていた。
そんな彼女を抱えるのは容易ではなく、普通の人間であればもしかしたら、力が足りなくてよろけていたかもしれない。そう思うと、人でない身が少しだけ得に思えた。
この状況でよろけるなどカッコ悪いにも程がある。
紅原は吸血鬼が嫌いだ。
優越種だと思い込み、力こそがすべてと弱いものを存在すら認めない。
だから自分が吸血鬼であることを一度もよしと思ったことはなかったのに、こんなことは初めてだった。
突然抱き上げたことに非難の声を上げる真田を無視し、悲鳴を上げかけた様子の環に双子に見つかりたくなければ静かにするように言い置く。
それに顔を真赤にしながら何度も頷く環を可愛いと思う。
だが、その感情を正直、紅原は怖いと感じていた。
どう考えてもこの感情はおかしい。先程会った人間に抱く感情ではない。
しかしいくら考えても、僅かな頭痛がするだけで彼女の存在は記憶にない。
一目惚れだとでも言うのだろうか。
両親がそうだったように、自分にもそういった感情を抱く資質があったのか。
そうだとしたらなんて苦い感情か。
両親のように周りを見ずに行動しすべてを、自身だけでなく愛しい相手の身さえ破滅に追いやる。
先を考えない刹那の感情で愚か。恋情とはそういった感情だ、と紅原は思っている。
もしこれがそうなら、自分はどうしたら……。
不意に制服を引かれる力に意識を浮上される。
見れば彼女の手が紅原にしがみつくように襟元を握っている。
彼女の顔を確認しても相変わらず下を向いたまま硬直しており、そのことに気づいている様子はない。
おそらく不安定な体勢を安定させようと、無意識に手が動いているのだろう。
彼女から身を寄せられたことで感じる体温になんだかすべての思考がどうでも良くなった。
そうだった、今優先すべきは彼女を部屋まで送ることだ。
考えるのは後でもできるし、この感情がどうであれ今はどうでも良いことだ。
紅原はいつの間にかうつむいていた視線を前に向けた。
隣を歩く幼馴染はそれを見てなぜか少し驚いたふうな顔をしたが、何か悟ったように両手のふさがっている紅原の代わりに扉を開けてくれた。
そんな真田に環が不安そうに視線を送っているが無視して、廊下に出る。
しばらくそのままあるくが、彼女がおろしてくれというので、おろした。
正直このまま運んでも差し支えないのだが、あまり聞き分けなくすると彼女が腕の中で暴れそうだと感じたからだ。
暴れて取り落としたら怪我をするのは自分だというのに己の身を顧みない彼女の思考に呆れる。
そんな環の姿を不意に既に知っているような感覚に陥る。
やはり会ったことがあるという利音の言葉は正しいのか。
さらに思い出そうと記憶を辿ろうとした時、どこか遠くから自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
どこから、と思った瞬間、鋭く頭の奥が痛んだ。
瞬間、目の前が真っ赤に染まりすべての思考を止める。
顔をしかめ、続く鈍い頭痛に耐える。
目の裏を重い鈍器でゆっくり殴られているような痛みに頭を押さえた。
突然なんなのかと思ったが、やがてそれは収まった。
手を頭から離せば、一瞬何を考えていたのか忘れている自分に気がつく。
だが、なんとなく大したことではないような気がしてそれ以上思い出そうとするのをやめる。
彼女を見れば、足場を確かめるようにトントンと足音を鳴らす彼女は気づいていないようだった。
彼女の足元を見ればやはりまだ体調が良くないのかフラフラとしている。
とりあえず腕をとって支えるが、思いがけず赤面する彼女の顔と対面する。
そこで紅原は不思議と、さきほどまで感じていた彼女に対する感情が自分の中で薄れていることに気づく。彼女を見ても特別何も感じなかった。
不思議に思って先ほどの感情を思い出そうとするが、なぜかよく思い出せない。
結局、そのあとも特別会話もなくたどり着いた彼女の部屋の前ですぐに別れた。
体調の悪い彼女を引き止めるのは躊躇われた。
軽く礼を言われたがすぐに締まる彼女の部屋の扉。
閉じられた扉の前で紅原はしばらく立ち尽くす。
先程から、自分の不可解な感情に振り回され、少し疲れていた。
初対面の女子にひどく心を揺さぶられたかと思えば、彼女のことを思い出そうとすると激しい頭痛に襲われる。
一体自分はどうしてしまったというのか。
不安にその場に立ち尽くしていたら、ガチャン、とそれまで静かに物音ひとつしなかった部屋から音がした。
それは微かな音だった。
おそらく紅原が普通の人間であれば聞き逃したような小さな音。
だが、それに不安を覚えて、紅原はそっとドアをノックし、名前を読んだ。
しかし反応はなく、今度は強めにノックをする。
しかし相変わらず返事はない。
いくらかの逡巡の後、ドアノブに手をかけた。
あっさり回るドアノブに舌打ちしたくなった。
鍵が空いている。無防備すぎる行為に苛立った。
希から寮の説明がなされているのなら、この寮には男が出入りすることは聞いているだろうに。
少しだけドアノブを握ったまま悩んだが、音の元を確認するだけだ、と意を決して紅原は扉を開けた。
開いた隙間から覗くと共用スペースが見えた。
中央に置かれた備え付けの家具の脇にまだ片付いていないらしいダンボールが見えた。
まだまだ日の高い時間なので、窓から差し込む日差しが室内に入り込み、部屋は明るかった。
見たところ共用スペースには人の気配はない。さらに先ほどの音の元となりそうな物も見当たらない。
紅原は奥に通じる個室へ通じる扉に目を移した。
そこが寝室であることはほぼ同じ構造である幼馴染の部屋から知っていた。
先ほどの体調の悪さを考えると、おそらく寝ているだろうことはわかっている。
寝ている女子の寝室に入るなど、通常では考えられないが、音の出どころが気になるため確かめないわけにはいかない。
ドアに近づいて、なんとなく嫌な予感がして紅原はドアノブを回してみる。
あっさりと回ったそれに、紅原は盛大に眉を顰めた。
外扉に続いて内扉にも鍵がかかっていなかった。
いくら体調が悪くても、もう少し身の安全に気を使って欲しいものだ。
不法侵入している自分が言えた義理ではないが。
安全を確認したら部屋には入らず、すぐに出ていこうと心に決め、扉をわずかに開く。
室内に動く生き物の気配がない。
穏やかな呼吸音だけがわずかに聞こえた。
そのことで自分の心配が杞憂で終わったことがわかって、胸をなでおろす。
と、わずかに開いた扉の奥の光景にぎょっとする。
以前、入寮したばかりの幼馴染に部屋を見せてもらったことがあるので、女子部屋の構造は知っていた。
扉を開けた正面に、窓のある壁があり、窓を正面に左側の壁に簡易の机と椅子。そして右側の壁に沿う形でベッドが置かれているはずだ。
覗いた室内は、覚えている通りの配置の家具が見えた。
もらった新たな転寮生の資料の日付は数日前。そう日が経っていないので転寮して間もないのだろう。
ならばおそらく片付いてはいまいと思ったが、案の定、備え付けの家具を避けるようにダンボールがあり、あまり数はないがそれらが窓からの光を遮っているらしく、思った以上に部屋は薄暗い。
それはいい。それはいいのだが。
部屋の住人である少女はなぜかベッド横の床に丸まって、眠っていた。
どうしてベッドで寝ていないのか。
彼女の傍らには引っ張ったのかシーツがずり落ちており、その下に散乱した鞄とその中身が見えた。
先ほどの音の正体はこれかと勘付く。
鞄は学校指定の革製のもので、金属で補強しており、女子に重いと不評のものだ。
落とせばかなりの音が出るというのに、起きなかったようだ。
だが、こんな床の上で寝ていては風邪を引く。
もともと体調が悪くて送ったのに、床で寝てさらに病状が悪化したのでは意味がない。
いくらか考えた末、紅原はそっと部屋に入る。
床で寝ている彼女を見てしまった以上、これを放置して風邪をひかせても寝覚めが悪い。
音を立てないようにそっとそっと近づいた。
丸まって顔はよく見えないが、よく眠っているようだ。
紅原が近づいても、起きる気配はない。
上着とリボンタイだけ外した制服姿に思わず嘆息する。
先程抱えた際に触れた彼女の体は、身長の高さで判りづらいが思う以上に細く小さい。
呼吸する毎に上下する薄いシャツ越しに見える肩は細く、首筋はたやすく折れてしまいそうなほど華奢だ。
体を丸めるように眠る彼女の黒髪の隙間から覗く項が艶かしく、わずかに覗く白い肌に思わず人外としての食欲が刺激され、唾をのみこんだ。
紅原は目を閉じた。
(…何考えてんの、俺は。今日あったばっかりの女子に)
先ほどからの感情の動きで本当に初対面かどうかわからなくなってはいるが、それでも女子を見てこんな風に思ったのは初めてだった。
理性は強いほうだし、紅原は吸血鬼としての衝動は薄く淡白な質だったはずだ。
純血であり、欲望に忠実な従兄弟に言わせれば、異常という評価をもらっているが、ほしくないものはほしくない。
幼いころは何度か母親からもらったことはあるが、そのたびに父親から睨まれるので、吸血行為自体恐ろしいもののように思えて、欲望が湧かないのも手伝ってここ数年まともに飲んでいなかった。
そうだというのにどうして彼女に対してこんな衝動に駆られるのか。
自分の中に湧いたおかしな衝動を無理矢理ねじ伏せ、極力心を無にして彼女をベッドへ抱え上げるべく傍らにそっと跪いた。
そこまで近づいて紅原は初めて気が付いた。
彼女は泣いていた。
丸めた背をわずかに震わせ、痛みに耐えるかのように蹲りながら次から次へととめどなく泣き続けている。
その光景に思いがけず激しく動揺して固まってしまう。
もぞりと彼女が身じろぎして涙が流れ、床を濡らす。
痛みに耐えるように眉根を寄せ、寝惚けているのか僅かに唇が動かす仕草が見えた。
微かな声が紅原の耳に届く。
「…ん……環…よ。………忘れ…たの?」
目を閉じたまま涙を流し続け彼女の様子を見ても起きているようには見えない。
おそらく寝言だろう。
しかし、その言葉に苦い思いが胸に去来する。
(……忘れたの、か)
おそらく彼女は紅原を認識していたわけではない。
決して自分に向けた言葉ではないことはわかっていた。
しかし、先ほどのやりとりを思い出せばまるで責められているように感じた。
苦い思いにとらわれるが、いつまでもこのままでいるわけにはいかない。
彼女をベッドに寝かしつけて、出ていかなかければ。
のろのろと体を動かし、そっと彼女を抱き上げるべく、そっとその背に手を伸ばす。
すると触れた瞬間びくりと彼女の体が跳ねた。
起こしたかと思ったが、彼女の瞳が開くことはなかったため、そのまま彼女の上体を抱き起こす。
その瞬間涙の滴が零れ、床に落ちた。
なんだかそれがもったいない気がして、背を支える手と逆の指でそっと拭った。
彼女はそれでも起きなかった。
涙を拭った指に何気なく唇に寄せれば、塩辛いだけのそれはなんだかひどく苦い気がした。
紅原は彼女の頬を撫でるように流れる涙を何度も指で受け止めた。
しかしぬぐってもぬぐっても彼女の涙は止まらない。
まるで彼女の流した涙で自分がおぼれそうな錯覚さえ抱く。
とうとう紅原は拭うのを諦め、自分の胸に彼女の顔を押し付けた。
先ほど飲んだ涙のせいなのか、胸が苦く痛い。
なだめるように肩を撫で、紅原は先ほど名乗られた彼女が口にしていた名前をそっと唇に載せた。
「…環」
名前を呼んだ瞬間彼女の体が僅かに跳ねた。
起きたのかと思って一瞬ひやりとするが、次の瞬間の彼女の行動に思考が吹き飛んだ。
突然腕が首に伸びたかと思うと、そのまましがみつかれる。
もともと足場が狭く無理な体制だったのを彼女の行動のせいで思いがけず姿勢が崩れた。
背後にあったベッドのおかげで後ろに倒れるような醜態は晒さなかったが、思いがけず彼女の肩口に顔を埋める羽目になる。
僅かに流れる長い黒髪から薫る甘い匂いが鼻をくすぐり、一瞬理性がぐらりと揺れる。
襟元から溢れる白く柔らかな肌にいつもは気にしない発達した犬歯が疼いた。
思わずそのまま食らいついてしまいそうな衝動を止めるため紅原は理性を総動員しなければならなかった。
硬直したこちらに気づいた様子はなく、寝ぼけた様子ですがりついてくる。
どうしたらいいのか分からず、ただ硬直するしかない紅原はふと、彼女から薫るにはおかしい香りに気がついた。
ごく僅かな香りだ。これほど近づかなければわからない程度の。
しかし、その香りの正体に気がついたとき紅原は目を見開いた。
(これは、まさか…)
背中が冷えるのを感じた。
それまでまるで熱に浮かされているかのようだった頭に一気に氷水を浴びせられた気分だった。
嗚咽の止まらない彼女の体を抱え直す。
泣き続ける彼女の背をそっとなだめるように叩いてやりながら、先程の香りについて考えを巡らせた。
どうしてあんなものが彼女から漂ってくるのか。
時間が経っているのかごく微かなものではあったが、紅原にはそれが何であるのかわかった。
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