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第2章 魔人どもの野望
回想の狂戦地ルドストン⑫
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地獄の魔蟲は虚空に浮いていた。
正確には寝台に横たえられたユグマ少年の額に根元まで凶針を突き刺し、10本の肢を不気味に蠢かせながら、再び自身の呪われし分泌物を注入しているものらしい。
だが、つい10セスタ(90分前)、雄叫びを途切れさせて前のめりに倒れていた際には3倍超にまで膨張していた魔少年の筋肉は、〈神命液〉のいかなる作用によるものか、最極呪念士の餌食となる以前のサイズへと縮小しているではないか…。
そして雷に撃たれたかの様に逆立っていた頭髪、あたかも鬼神と化したかの如くであった表情も束の間の現象であろうが旧に復しており、“異様極まる額の飾り”を除けば、疲れ切った凛々しき若者が幸福な眠りを貪っているとしか傍目には窺われない…。
されど、通常時でさえ2.4レクト(180cm)、370フォセア(74kg)に達する肉体を、海龍党頭目は自慢の“呪念力”によって寝台へと安置したというのであろうか?
いや、そうではなかった。
寝台の両脇には、ユグマを凌駕する厳つい体格を浅葱色の戦闘服に内包した特守部隊員が一人ずつ控えていたのである。
2人はワーズフと乾坤一擲の叛乱劇によって教率者の座を奪取せんとする統衞軍総司令との映話が終了すると同時に、事前の申し合わせ通り最極呪念士の助手を務めるべく“教率者暗殺”に必要な装備を携えて入室し、直ちに指示に従って“完成間近の実行者”を台上に横たえた後は、興味と嫌悪が入り混じった複雑な表情で2体の怪物を見下ろしていたのであった…。
だが、湧き上がる疑問を遂に抑えきれなかったものか、左側に立った年長の戦士…“勇者の証明”か、その左目は銀糸で凱鱗領の紋章をあしらった濃紺の眼帯で覆われている…が、精悍な口許を開くに至った。
「…無礼を承知の上でお尋ねします…。
偉大なる呪念士よ、今現在、【殲闘躰】はいかなる状態にあるのでありましょうか?」
主都特守部隊々長・トゥーガも決して期待して問うた訳ではなかったが、施術が順調である証でもあろうか、予想外に上機嫌な怪虫は黄色い牙を剥き出して返答の意志を示した。
「尤もな疑問じゃな…。
それでは、諸君の協力に免じ、明かせる範囲で我が秘術の一端を語ろうかの…。
ところで、その前に…。
貴公の右腕という、“部隊随一の敏腕間諜”があの忌むべき4兄弟を海底宮殿に運搬して来るそうだが、真に全員であるのか?」
一旦、息を呑んだ隊長だが、すぐに持ち前の不敵な表情を取り戻して否定した。
「…いいえ、秘密倉庫から出発したアイアスからの“暗号通信”では、連中がディラックに乗り込んだ直後、まず水上移動都市に立ち寄ることを求めたことが確認されています…。
どうやら、そこでまず2匹が下車するとか…。
何しろ相手は魔獣の如き教軍超兵…しかも複数でありますゆえ、“傍受リスク”を警戒して“臨時本部”との通信は停止する予定であったのですが、あまりに重大な情報であったためか、身命を顧みず報告してきたものと思われます…!」
感情の抑制に腐心しつつも、語調に滲み出る誇らしさを感取したワーズフは不気味な笑みと共に応じた。
「それはまさしく賢明な、殊勲に値する行為じゃな…。
教権奪取後、部隊を挙げてケエギル殿に存分なる褒賞を求めるがよい。
尤も、わしの見立て通りの動きであるため、何らの驚きもないのであるが…」
この言に、トゥーガの左頬がぴくりと痙攣するが、固く結ばれた唇が綻びる気配はない。
が、敵味方問わず他者への嘲弄を何よりの快事とする海龍党頭目は、今後の特守部隊を自陣の麾下に置くためか、隻眼の古強者と肚を割って対話する心算のようであった。
「何、実情さえ認識しておれば何の不思議もない…。
勿体ぶらず、我が信条に従って単刀直入に述べようか。
即ち、4兄弟が絶対者として奉る教軍首領がその魂魄を震わすほどに渇望する“依巫”がベウルセンに滞在しておるからじゃ!」
「依巫、ですと…?」
只ならぬ野心を抱懐しつつもその性情は廉直な軍人である特守部隊長にとって、突如として出現した不可解な単語はまさに、今現在も決して警戒を解き得ない神牙教軍という“魔敵”が体現する不気味さと、この上なく共鳴する存在として捉えられた。
だが、この凱鱗領どころか、ラージャーラ全界を揺るがすに足る仰天情報を、鏡の教聖への“対等意識”の表れか、最極呪念士は惜し気もなく、むしろ淡々と明かしてのけた。
「さよう…。
凱鱗領制圧を足掛かりとして全教界を支配下に置くため、確と大地に存在するために、どうしてもそれが必要なのじゃて…!」
このワーズフの解説は、“素朴な肉体的存在者”に過ぎぬ戦士たちを更なる混乱に追いやったのみであった。
「すると…
“ラージャーラ史上最恐の存在”と畏怖される鏡の教聖には、現時点において、手で触れて確かめるべき実体というものが無いとおっしゃられるのですか…?」
「その通りじゃ…!
だが、それゆえにこそ、教聖は言の通りに“最恐にして最強”の唯一無二の絶対者として君臨することが出来たといえようか…」
呆然とするトゥーガであったが、直ちに想起された疑問を迷うことなく呪念士にぶつけた。
「と、いうことは…史実において鏡の教聖が直接臨んだ“唯一の実戦”と見なされる、刃獣の素体調達のための【ヤーゼリ妖樹高原】奪取を目的とした、“辺境独立地”【霊空勝士殿】における“仮面の拳士”もまた幻影であったと…?」
きけけけ、と久々に不快極まる生来の笑声を挙げた魔蟲は、ここで初めて質問者を見上げたのであったが、若年の犠牲者がそうであったのは当然としても、“第一次侵攻”の経験者としてのみならず、大方20年に及ばんとする軍隊生活で数々の血生臭い修羅場に立ち合い、そして踏み越えてきた鋼の精神を有するはずの特守部隊長にしてからが、全身に粟を生じ、胃の腑から苦汁が込み上げてくる事態をいかんともし難かったのであった。
「さすがは教養文化の薫り高い、ルドストン凱鱗領における優秀なる戦士じゃ…
この件のみならず、歴史を動かした幾多の戦闘において、並々ならぬ洞察を有しておるようじゃな…。
僭越ながら個人的見解を述べさせて頂くと、あの時点における教聖はその通り、非実体であったと見ておる。
根拠としては、もはや無謀を通り越した愚行として、身に寸鉄も帯びることなく満場の衆目下で一騎討ちに臨んだ“怪僧王”ガ=ラルを筆頭とする5名が、一指をも触れること叶わず惨死を遂げた事実と、当の観衆全員が一夜の内に精神に異変を生じさせ、教軍に“戦力”として確保された幸運者以外はあたかも木偶の如く心体共に一切の抵抗力を喪失したまま、唯々諾々と“餓駆竜の始祖”の餌食となったことからも窺えるのではないかの…。
だが、これはあくまでも特例じゃ。
現実としてラージャーラ全界に号令する、言わば“史上最大の教率者”として君臨するとなれば、何としても血肉を備えた存在として降臨せねばならぬとの思いは理解は出来る…。
だが、その“依巫”が、何故に、断固としてあの女でなければならぬのかは、わしには完全に理解不能じゃが…」
慨嘆に耐えぬ、と言わんばかりの海龍党頭目の口調に、断続する吐き気を一瞬忘れた特守部隊長は叫ぶように問うた。
「その女とは…
一体、誰なのでありますか⁉」
その瞬間、最極呪念士の赫い眼光が自分に向かって地獄の焔のごとく噴出されたと認識したトゥーガは、1人とはいえ腹心の部下の面前であることも忘れて不様な悲鳴を発しつつ、顔面を庇うように両腕を交差させながら後方に倒れるようにしゃがみ込んだ。
「きっけけけけけけっ!
どうしても知りたいというのならば教えて進ぜようか。
神牙教軍首領・鏡の教聖が“受躰”に値すると評価した至上の存在…。
その女とは…あの忌まわしき教率者めの寵愛を一身に受け、眼下の愚かなる小童が心魂すり減らして恋い焦がれる、絆獣聖団最高の美女にして俊秀なる特級操獣師…
リサラ=ハギムラじゃ!!」
正確には寝台に横たえられたユグマ少年の額に根元まで凶針を突き刺し、10本の肢を不気味に蠢かせながら、再び自身の呪われし分泌物を注入しているものらしい。
だが、つい10セスタ(90分前)、雄叫びを途切れさせて前のめりに倒れていた際には3倍超にまで膨張していた魔少年の筋肉は、〈神命液〉のいかなる作用によるものか、最極呪念士の餌食となる以前のサイズへと縮小しているではないか…。
そして雷に撃たれたかの様に逆立っていた頭髪、あたかも鬼神と化したかの如くであった表情も束の間の現象であろうが旧に復しており、“異様極まる額の飾り”を除けば、疲れ切った凛々しき若者が幸福な眠りを貪っているとしか傍目には窺われない…。
されど、通常時でさえ2.4レクト(180cm)、370フォセア(74kg)に達する肉体を、海龍党頭目は自慢の“呪念力”によって寝台へと安置したというのであろうか?
いや、そうではなかった。
寝台の両脇には、ユグマを凌駕する厳つい体格を浅葱色の戦闘服に内包した特守部隊員が一人ずつ控えていたのである。
2人はワーズフと乾坤一擲の叛乱劇によって教率者の座を奪取せんとする統衞軍総司令との映話が終了すると同時に、事前の申し合わせ通り最極呪念士の助手を務めるべく“教率者暗殺”に必要な装備を携えて入室し、直ちに指示に従って“完成間近の実行者”を台上に横たえた後は、興味と嫌悪が入り混じった複雑な表情で2体の怪物を見下ろしていたのであった…。
だが、湧き上がる疑問を遂に抑えきれなかったものか、左側に立った年長の戦士…“勇者の証明”か、その左目は銀糸で凱鱗領の紋章をあしらった濃紺の眼帯で覆われている…が、精悍な口許を開くに至った。
「…無礼を承知の上でお尋ねします…。
偉大なる呪念士よ、今現在、【殲闘躰】はいかなる状態にあるのでありましょうか?」
主都特守部隊々長・トゥーガも決して期待して問うた訳ではなかったが、施術が順調である証でもあろうか、予想外に上機嫌な怪虫は黄色い牙を剥き出して返答の意志を示した。
「尤もな疑問じゃな…。
それでは、諸君の協力に免じ、明かせる範囲で我が秘術の一端を語ろうかの…。
ところで、その前に…。
貴公の右腕という、“部隊随一の敏腕間諜”があの忌むべき4兄弟を海底宮殿に運搬して来るそうだが、真に全員であるのか?」
一旦、息を呑んだ隊長だが、すぐに持ち前の不敵な表情を取り戻して否定した。
「…いいえ、秘密倉庫から出発したアイアスからの“暗号通信”では、連中がディラックに乗り込んだ直後、まず水上移動都市に立ち寄ることを求めたことが確認されています…。
どうやら、そこでまず2匹が下車するとか…。
何しろ相手は魔獣の如き教軍超兵…しかも複数でありますゆえ、“傍受リスク”を警戒して“臨時本部”との通信は停止する予定であったのですが、あまりに重大な情報であったためか、身命を顧みず報告してきたものと思われます…!」
感情の抑制に腐心しつつも、語調に滲み出る誇らしさを感取したワーズフは不気味な笑みと共に応じた。
「それはまさしく賢明な、殊勲に値する行為じゃな…。
教権奪取後、部隊を挙げてケエギル殿に存分なる褒賞を求めるがよい。
尤も、わしの見立て通りの動きであるため、何らの驚きもないのであるが…」
この言に、トゥーガの左頬がぴくりと痙攣するが、固く結ばれた唇が綻びる気配はない。
が、敵味方問わず他者への嘲弄を何よりの快事とする海龍党頭目は、今後の特守部隊を自陣の麾下に置くためか、隻眼の古強者と肚を割って対話する心算のようであった。
「何、実情さえ認識しておれば何の不思議もない…。
勿体ぶらず、我が信条に従って単刀直入に述べようか。
即ち、4兄弟が絶対者として奉る教軍首領がその魂魄を震わすほどに渇望する“依巫”がベウルセンに滞在しておるからじゃ!」
「依巫、ですと…?」
只ならぬ野心を抱懐しつつもその性情は廉直な軍人である特守部隊長にとって、突如として出現した不可解な単語はまさに、今現在も決して警戒を解き得ない神牙教軍という“魔敵”が体現する不気味さと、この上なく共鳴する存在として捉えられた。
だが、この凱鱗領どころか、ラージャーラ全界を揺るがすに足る仰天情報を、鏡の教聖への“対等意識”の表れか、最極呪念士は惜し気もなく、むしろ淡々と明かしてのけた。
「さよう…。
凱鱗領制圧を足掛かりとして全教界を支配下に置くため、確と大地に存在するために、どうしてもそれが必要なのじゃて…!」
このワーズフの解説は、“素朴な肉体的存在者”に過ぎぬ戦士たちを更なる混乱に追いやったのみであった。
「すると…
“ラージャーラ史上最恐の存在”と畏怖される鏡の教聖には、現時点において、手で触れて確かめるべき実体というものが無いとおっしゃられるのですか…?」
「その通りじゃ…!
だが、それゆえにこそ、教聖は言の通りに“最恐にして最強”の唯一無二の絶対者として君臨することが出来たといえようか…」
呆然とするトゥーガであったが、直ちに想起された疑問を迷うことなく呪念士にぶつけた。
「と、いうことは…史実において鏡の教聖が直接臨んだ“唯一の実戦”と見なされる、刃獣の素体調達のための【ヤーゼリ妖樹高原】奪取を目的とした、“辺境独立地”【霊空勝士殿】における“仮面の拳士”もまた幻影であったと…?」
きけけけ、と久々に不快極まる生来の笑声を挙げた魔蟲は、ここで初めて質問者を見上げたのであったが、若年の犠牲者がそうであったのは当然としても、“第一次侵攻”の経験者としてのみならず、大方20年に及ばんとする軍隊生活で数々の血生臭い修羅場に立ち合い、そして踏み越えてきた鋼の精神を有するはずの特守部隊長にしてからが、全身に粟を生じ、胃の腑から苦汁が込み上げてくる事態をいかんともし難かったのであった。
「さすがは教養文化の薫り高い、ルドストン凱鱗領における優秀なる戦士じゃ…
この件のみならず、歴史を動かした幾多の戦闘において、並々ならぬ洞察を有しておるようじゃな…。
僭越ながら個人的見解を述べさせて頂くと、あの時点における教聖はその通り、非実体であったと見ておる。
根拠としては、もはや無謀を通り越した愚行として、身に寸鉄も帯びることなく満場の衆目下で一騎討ちに臨んだ“怪僧王”ガ=ラルを筆頭とする5名が、一指をも触れること叶わず惨死を遂げた事実と、当の観衆全員が一夜の内に精神に異変を生じさせ、教軍に“戦力”として確保された幸運者以外はあたかも木偶の如く心体共に一切の抵抗力を喪失したまま、唯々諾々と“餓駆竜の始祖”の餌食となったことからも窺えるのではないかの…。
だが、これはあくまでも特例じゃ。
現実としてラージャーラ全界に号令する、言わば“史上最大の教率者”として君臨するとなれば、何としても血肉を備えた存在として降臨せねばならぬとの思いは理解は出来る…。
だが、その“依巫”が、何故に、断固としてあの女でなければならぬのかは、わしには完全に理解不能じゃが…」
慨嘆に耐えぬ、と言わんばかりの海龍党頭目の口調に、断続する吐き気を一瞬忘れた特守部隊長は叫ぶように問うた。
「その女とは…
一体、誰なのでありますか⁉」
その瞬間、最極呪念士の赫い眼光が自分に向かって地獄の焔のごとく噴出されたと認識したトゥーガは、1人とはいえ腹心の部下の面前であることも忘れて不様な悲鳴を発しつつ、顔面を庇うように両腕を交差させながら後方に倒れるようにしゃがみ込んだ。
「きっけけけけけけっ!
どうしても知りたいというのならば教えて進ぜようか。
神牙教軍首領・鏡の教聖が“受躰”に値すると評価した至上の存在…。
その女とは…あの忌まわしき教率者めの寵愛を一身に受け、眼下の愚かなる小童が心魂すり減らして恋い焦がれる、絆獣聖団最高の美女にして俊秀なる特級操獣師…
リサラ=ハギムラじゃ!!」
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