潤 閉ざされた楽園

リリーブルー

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第一章 学校と洋講堂にて

初めての会話

 ある日の下校途上、瑶は、潤が瑶の前を歩いているのに気づいた。
 潤は、古い二階建ての建物の一階にある、小さな書店に入っていった。書店の外壁は、青灰色がかった、天然石のスレート張りだった。瑶が、書店の入り口のガラス戸に顔をつけて中を覗いて見ると、奥に細長い、天井まで本棚のある昔風のつくりだった。
 店内には、背の高い男の客が一人いるだけだった。潤は、どこに消えたのだろう。
 瑶は、思いきって引き戸を開けて店に入った。瑶が店内に歩み入ると、書棚の前で本を開いていた背の高い男が顔をあげて瑶を見た。その若い男の顔を、瑶は、どこかで見たことがあった。
 鍵型になった店の、右奥の棚の前に、瑶は、潤の後姿を見つけ、さりげなく側へ寄った。潤の華奢なうなじに、黒髪がしどけなくまとわりついていた。
 瑶に気付いて顔をあげた潤は、驚いた表情を瑶に向け、唇を開いた。
「正木……瑶?」
潤の口から、自分の名を聞くのは初めてだった。瑶は、潤と、それまで話したことが一度もなかった。潤の射るような視線に、瑶はたじろいだ。
 クラスメイトの名前を、瑶も全員は覚えていなかった。だから、潤が、話したこともない瑶の名前を覚えていたのは奇跡だと思った。スターのような美少年の潤に、自分の名前を、しかもフルネームで呼ばれたのは、光栄でなくてなんであろう。
 潤には、瑶の名を覚えていることが恩恵だと感じさせるようなものがあった。その半ば人を怖じさせる気品のようなものの正体が、単にスノビッシュな雰囲気からくるものなのか、何なのかは、よくわからなかった。
 瑶は、潤のかもし出す高貴な雰囲気に気おくれしながら、潤が手にしようとしていたあたりの本を眺めた。そこには瑶の知らない難しそうなドイツの詩人の詩集や、翻訳小説が並べられてあった。瑶は感心して、
「おおあらい君は、こういうのを読むの?」
とかしこまって尋ねると、潤は、
「潤でいいよ」
と言って、一瞬、顔を赤らめた。潤は、瑶の問いには答えずに、素早く何か小さな本を一冊、棚から抜き取って、勘定台へ向かった。

 勘定をすませた潤は、
「二階が喫茶室になっているんだけど、行ってみる?」
と、瑶を誘った。
 瑶は、潤のあとについて階段を上った。

 二階へ上がる階段の左手の壁に、エミール・ガレ風の、大正時代のものと思しきガラス製の花形の照明があり、黄色っぽい光を、赤絨毯の足元に投げかけていた。
 潤が先にたって木製格子のガラスのドアを押すと、カランとカウベルのようなドアチャイムが鳴った。中はサロンのような、小さな喫茶室で、右手にキッチンカウンターがあり、左手は窓だった。赤いびろうど張りのロココ調の椅子と丸テーブルが数組、奥にアップライトピアノが置いてあって、瑶たちのほかに客は誰もいなかった。
 黒いパンツとベスト、白シャツを着た、二十代くらいのマスターが注文を聞きにきた。潤はコーヒーを頼んだので瑶も真似をした。しばらくしてマスターがコーヒーを持ってきた。
「兄さんが、下で待ってるよ」
潤が、親しげにマスターに告げると、マスターは、
「ちょっと挨拶してくるから、よろしく」
と潤にことわって出て行った。潤は、
「ごゆっくり」
と落ち着き払って答えた。
 潤はコーヒーカップに唇をつけてから、書店の青いブックカバーのかかった縦長の新書本をめくった。
「何が書いてあるの?」
と瑶がたずねると、潤はあたたかみのある落ち着いた声で、それを読んできかせた。それは、翻訳詩らしかった。内容は象徴的で瑶には意味不明だったが、潤の声で朗読されると、流れるような言葉の響きとイメージが耳に心地よかった。
 潤の声が途絶えて、静寂が訪れた。詩を一編、読み終えたらしい。
「この詩人は同性愛者なんだ」
潤が、本の頁に目を落としたまま、ふいに言った。瑶の心臓が、どくんと脈うった。こんな二人きりの状況で、そんなことを言い出すなんて。こんな美しい潤と二人きりの静かな部屋で。瑶がほかの話題に切り替えようと口を開きかけたのを、潤は無視した。
 潤は、象徴的な詩の、具体的な意味について解説しはじめた。瑶は、きわどい内容に、いつマスターが帰ってくるかと気が気ではなかった。こんなことを話しているのを聞かれたら、なんと思われるかわからない。そんなそわそわした瑶の様子に気づいたのか、潤が、
「ここのマスターのコウさんも、同性愛者だからだいじょうぶだよ」
と言った。だいじょうぶ!?
「恋人に会いに行ったんだ」
「恋人って……?」
そういえばさっき、兄さんが下で待っているとかなんとか、言ってたけど。
「俺の兄貴。下にいただろ?」
「ええっ……」
瑶は背の高い若い男の姿を思い出した。そうだ、どこかで見た顔と思ったのは、潤に似ていたのか! いや、入学式で見た、潤の保護者にも似ていた。
 潤には、かっこいいお兄さんがいるという噂だったが、やはり男前だった。
「俺の兄貴が最初、俺をこの店に連れてきたんだ」
潤は、機嫌よさげに言った。
「へえ。お兄さんがこの本屋の常連だったんだ?」
それは、初耳だ。だいたい潤が、この本屋に通っているなんて、聞いたことがなかった。案外、みんな潤のことを何も知らないのだろう。瑶は、同級生たちに対して、優越感を感じた。
「うん。俺の親も、高校生の時に、この店に通ってたらしいよ。店主も先代だったとき」
潤は、家族のことを案外気軽に話してくれた。
「潤のお父さんも僕らと同じ高校?」
「うん、おじさまも、兄貴たちもね」
「おじさまって……?」
と瑶が聞こうとすると、潤がとたんに、不機嫌になったので、瑶は聞くのをやめた。潤は、家族のことを聞かれるのを嫌うといううわさだった。
「僕の父も、うちの高校の卒業生だよ。僕には兄弟はいないけど。潤は、お兄さんと仲が良さそうで、うらやましいな」
「仲がいいっていうか……」
潤は、言いよどんだ。
 潤は、話しを切り替えた。
「瑶は、好きな人いる?」
瑶は、急にそんなことを聞かれて、ぼうぜんとした。潤のうなじに触れたい気持ちは? こうして潤と二人きりでいて、どきどきする気持ちは? 瑶は自問した。
 瑶が返答に窮しているのを察したのか、潤は聞き直してきた。
「瑤は、今、誰かとつきあっている?」
「いや、いない」
その問いには即答できた。
 瑶は、今どころか、まだ誰とも一度もつきあったことがなかった。瑶は、もの慣れて大人っぽい潤に、子どもっぽい、つまらない人間だとは思われたくなかった。だから、自分の話は、さっさと終わらせたかった。それで瑶は、話しを潤に振り向けた。
「潤は、もてるってうわさだけど、最近、どうなの?」
潤は、すねたような表情をして、
「最近は、そうでもないよ」
と、いっぱしの大人みたいに答えた。えっ、毎日のように上級生に呼び出されているのに。
「でも、好きな人がいるんでしょ?」
瑶が、ものほしげに思われないように慎重に尋ねると、
「どうかな」
と潤はミステリアスに答え、
「瑶は、キスしたことある?」
と、また話を瑶にふってきた。
「ないよ」
つきあったこともないのに、キスなんてしたことあるわけないじゃないか。中学生の頃からすでに何人もの美男美女と、とっかえひっかえ付き合っていたといううわさのある潤の前で、瑶は何の経験もない自分の幼さが恥ずかしく感じられ、頬が熱くなった。
「赤くなってる」
潤は、そんな瑶を見て笑った。そうして笑みを浮かべると、尖った冷たい印象が薄れ、優しく柔らかい雰囲気になった。瑶の気持ちが、潤の笑顔にやわらいだ矢先、
「じゃあ、俺としてみない?」
と潤は、提案してきた。
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