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一章
喝采 (人物紹介有)
ざわざわと、まるで風に舞い散る木の葉。朝早くから昼を過ぎた今の時間まで慌ただしく行き来する人々の姿は、例えればそんな感じだ。服の裾を翻すのも、美女であるならばさぞ見栄えがするだろうに、ここでそれをやるのはいい歳をした男たち。しかも、役人。翻るのも見慣れた地味な官服で、決して麗しい光景とはいえない。
はーあ、と景舜(ジンシュン)は欠伸をひとつ噛み殺し、めんどくさそうな顔を隠しもせずに、役人たちが目の前を通り過ぎる様をただぼうっと眺めていた。
春の昼下がり。夜番明けでないのがまだ救いではあるが、一日のうちで一番眠気が辛い時間だ。人の行き来のために開け放たれたままの門の脇に控え、身分証や顔を確認しながら一応の警備に当たっている。気を抜いて変な人間を中に入れるわけにはいかないのだが、こうも眠いとつい瞼が落ちてくる。彼の仕事は、一言で言えば門番である。
ここは、県府。つまり県の役所で、田舎にある割に敷地が広く、ふだんから人の出入りは割とある。景舜は三年前にここの武官に志願し、門番や警備をして食い扶持をいただいている。一応官と言っても末端中の末端で、国試を受けて就いた役職でもないので、仕事も基本的に腕自慢でさえあればいい。まだ二十二歳という若さだが、出世欲とはかけ離れた、堅実かつ質素な生活を好む青年である。
同い年で同期で同じ門番の貞(テイ)が門柱の向こう側からこちらにきて、顔を寄せて耳打ちのように話しかけてきた。
「えらい騒ぎだな。長官交代ともなると」
「まあ、な」
そういったことに全く興味のない景舜は、返すのも生返事だ。
今日はこの県府の長官職である県令の、新任者着任の日である。迎える準備が何日も前から文官の手によって進められてきたはずだが、当日になってあとどれだけ何を整える必要があるのか、人々は右往左往の様子だった。この騒ぎは恐らく、歓迎の宴が開かれる夜まで続くことだろう。県内外からの来客も後を絶たないはずで、門番としては多少なり緊張が必要なところだが、景舜は暢気なものだった。
どうせ、三年。都から赴任してくる役人が座る椅子は、県府には一つしかなく、彼らは都の官吏同様三年の任期をもってそこに着く。それなりに使える人物であろうと、なまくら官吏であろうと、同じだ。ちなみに、次官である県丞以下の役人は全て地元出身者で、十年以上勤める者も多い。景舜などの、進士上がりではない下っ端の官においては、中央官吏にまで上り詰める道は初めから存在せず、県で毎日同じような仕事を繰り返して一生を終えるのが普通だ。
さて、県府長官となれば府に持ち込まれる様々な采配を一手に担う立場だから、まともな人間であって欲しいというのは一般市民の願いではある。しかし、都から早馬を飛ばしても半日かかるこんな片田舎に、さほど有能な人物が派遣されてくるとは思えない。せめて地元出身の郷貢進士から昇った役人ならばとは思うが、高級官吏などもっぱら都の貴族出身者と決まり切っている。今回のもそうだと聞いた。期待するだけ無駄というわけだ。地元の有力者や県府内の重役と癒着でもしてたっぷり銀をくすねて去って行くだけ、そういう輩だと景舜は認識している。
「どうもさ、変な噂があるらしいぜ」
貞の話はまだ終わっていなかった。声色を変えてそんなことを付け加えたところを見ると、本題はむしろこちらにあったらしい。もちろん、景舜の興味の有するところではないのだが。
「都のお偉方なんて、後ろ暗いところのない奴はいないだろ」
「まあ、そうなんだろうけどさ。どうも名門の子息で、二十二にして科挙を合格、五年後の去年礼部に入ったところで、急にこっちに赴任だそうだ。なんかありそうだろ?」
どこからその情報を得たのか、貞は実に得意げである。新しい長官についてのおおまかな説明は景舜も同じ場で受けたが、礼部からの異動で歳が二十八という以外のことは聞いていないずだ。田舎では生粋の都人は珍しい。皆の興味を引いてしまうと、どこからともなく噂は流れてくるものであるらしい。
「まだ若いみたいだし、若気の至りでつまらんことに首突っ込んだんじゃねえの? もしくは上官を怒らせた」
「お前ほんとに冷めてるな」
気のない景舜の反応がつまらなかったらしく、貞は少々不満気だ。
「興味ねえもん」
「とかなんとか言ってられるのも今のうちだぜ。なんでも今度の長官、すっげー……」
にわかに色めき立った貞の言葉をかき消すように、馬のいななきが鋭く聞こえた。門前の通りからだ。
そちらに目を向けると、毛艶のいい黒馬の引く車が仰々しく屋敷の前で足を止めた。ざっと砂煙が上がるさまも堂々たるものだ。
「来た!」
「えらく早いお出ましだな」
噂をすればのところで、ご到着であるらしい。中の人物が高貴であることは天蓋付きの車が随分立派であることからわかる。貞があわてて府内に知らせに行こうとしたが、それよりも早く中からまろぶように人が押し出されてきた。
「長官殿、無事のご到着でようございました」
まだ車の中から出てきてもいないのにそう声をかけたのは、次官である。もったりとふくよかな壮年の男で、地元出身の書院(国試を目指す者の学校)出身でずっとこの県府に勤めているそうだ。長年、長官が変わるたびにこうして出迎えてきたはずの人物で、腰の低さは謙虚というよりはへつらっているようにしか見えない。
やがて、車の中から服の裾と靴が見え、白い手が張布をはらった。供の者が車に階段をかけ、出てきた人物がまだうつむいた姿勢のままでそれを一段一段降りてくる。
そして、すっくと背を伸ばし立ち上がると、
「出迎え恐れ入る」
と、涼し気な声が次官に礼を言った。二人が向かい合い、敬礼で互いに名乗り合う。
「蘇李秀(スー リーシウ)と申します。今日より宜しく頼みます」
誰ともなくついたため息が、いくつも重なる一瞬があった。
都の人間を見たことのない者ばかりではないはずの、その場に居合わせた人々、それでもほうっと息をついた。この、新任長官の姿とたたずまいに目を奪われたからだ。
優雅な身のこなし、標準語を流れるように話す抑揚、落ち着きのある美声、視線の運びでさえ優美で、彼のいる場所だけ別の風が吹いているようだった。もちろんそれだけではなかった。容姿があまりにも美しい。絵に描かれた天女のごとき麗しさでありながら、なよなよとしたところがなく、凛々しい。透けるような白い肌に、結い上げた髪は艶をおびた絹。非の打ちどころのない麗人である。
「これが都人か……」
誰かが呆けた呟きを落とした。それが場の時を再び動かすきっかけとなった。
「都人だからって普通はこれほどなわけがないだろうよ」
「傾国の美女か何かか」
「男だ。わかってるだろうがな」
皆どこか夢見心地な顔で、そんな声をひそひそと交わしていた。
その麗人は次官に導かれ、流れるような足取りで県府の門をくぐっていく。当然、門番の前を通り過ぎて。
皆が彼の姿から目が離せないように、遠ざかっていく背をただ見つめていた。
身を引いて道を開けた景舜の元に芳しい香りが届いたのは、たぶん彼の焚きしめてきた香のせいだろう。奥ゆかしい、控えめな香りだった。しかしそれだけでもないような気がした。
今のは、何だ? 景舜でさえ思わずにいられなかった。
明らかに男、なのに超絶美形。作り物のように整った容姿。物腰も、背丈や肩幅、歩幅も確かに男のものでありながら、美しい以上の形容を見つけられなかった。
目を疑った。あれは何なんだ? 生まれてこの方、あれほどまでに美しい生身の人間は見たことがない。
「問題起こしたって聞いたけど、アレならわかるよな。噂なんて足元にも及ばん美人様じゃないか。こっちでも厄介なことになるんじゃないか?」
どこかにやけたような声で、貞が言う。先程言いかけたのは、このことであったようだ。
なるほど。そういうことか。世事に疎い景舜にも想像がついた。後宮の花にでも気に入られたか、あるいは……。少なくともあの息を飲む美貌が原因であることは確かなのだろう。
しかしこんな田舎では、悪目立ちにしかならないのではないか。あれだけの容姿ならばいっそ、都で人心を惑わすよりは田舎に閉じ込めておけという采配だろうか。なんなら誰かの寵童にでもなっているのが平和な気がするが、それは下世話というものだろうか。
蘇李秀は、待ち構えていた官たちにたちまち取り囲まれながら、屋敷の中に入っていった。その様は、蝶を集める花の如しだ。
姿が見えなくなってから、門の周辺に取り残された者たちが、にわかにざわめきを見せた。本日の主役、はやくも府内に大きな波紋を広げたようである。
「荷車はどちらへ?」
後についてきた御者に問いかけられ、景舜の意識はたちまち仕事に戻った。いつまでも馬鹿のように呆けているのは情けない。
「荷は、その脇にある台の上に降ろしてくれ。雑役が部屋まで運ぶ。馬は厩舎が右手を曲がった奥にある。控室もあるから自由に使ってくれ」
「承知した」
御者は馬を降り、手綱を引いて案内した方へ向かって行った。主だった荷物は一昨日に先に届けられていたから、彼のごく身近な手荷物だけが乗せられているらしい荷台は思いがけなくとても小さい。
一体どんな男なのだろうかと、さすがの景舜も思わずにはいられなかった。貞が言うまでもなく、厄介事の予感しかしないだろう、あれは。
講堂では着任式が盛大に取り行われ、その気配は門まで熱気として届いていた。
しかし、門番はもちろん、警備の者は基本的にその様子を目にすることはない。ただし武官でも上官に近い者たちは数人で堂内の警備に当たっているから、それらは例外となる。
景舜たちはといえば、先程から途切れ間なく届く祝いの品の受け入れに追われていた。
式典に招待されるのは特別な賓客。県府という大きな機関に係る者も、地元の有力者にも序列があり、招待を受けなかった者は改めて謁見に来たり、こうして式典に合わせて贈り物だけを届けたりもする。県令ともなれば、都への繋ぎとして重要な立場だ。そのぶん、いかにも下心が溢れるこういった貢ぎ物たちも、大した量になる。
品々を目録と照らし合わせて入念に点検し、安全確認とともに仕分けするのはまた別の役人の仕事なのだが、門前に列なす荷車をひとつひとつ受け入れていくのもまたたいがいの労力となる。中には景舜でも見知ってしまうほど頻繁に府に出入りしている車もあり、式典の後の宴に招待された者が乗ってくる。これは丁寧に迎える必要があり、気も使う。
そんなこんなを貞と二人で数時間にわたってこなし、やっと顔を上げて辺りを見渡せばもう日が暮れかけていた。
宴の招待客の目録にも、全員分印が入った。彼らは今、式典の終わった講堂にしつらえられた宴席について、歓談でも楽しんでいることだろう。その前に到着した楽隊や踊り子たちも、出番の前に支度を進めているはずだ。厨から芳しい料理の香りが流れてきて、景舜の腹が小さく鳴った。もうすぐ門番も交代の時間だ。
景舜と貞はもう通りに入門待ちの者がないことを確認し、動かせば軋む分厚い扉を閉めた。宴が終わり、自宅へ帰る客が出てくるまで、ここからは閉門した状態になる。誰かが来ればその都度通すというやり方だ。
定刻を示す太鼓が鳴り、交代要員がやってきた。彼らに仕事を引き継ぎ、貞と景舜は警備兵の詰め所へと向かう。
県府の敷地は広く、公務の行われる主殿や講堂の他に、官らの執務室や蔵書庫のある脇殿、接客用の離れ、それから官舎もある。官吏は基本的に官舎で寝起きをするが、そのほかに集会や会議等に使われる詰め所と食堂が併設されている。それらは役職の上下によって区別され、雑務を担う下級官吏たちの生活空間のほうは雑多で気楽なものだ。
「今日の飯は何だろうな」
貞が、景舜よりも盛大に腹を鳴らしながら言った。当然、宴に出される料理とは雲泥の差の、ごく一般的な食事であっても、ここの料理番は腕がよく、役人たちにはなかなかの好評である。
「なんでもいい。美味くて腹いっぱいになりゃあな」
いかな武官の体力とはいえ、今日は午後から忙しくて休む暇はなかった。当然腹も減る。
珍しくよく喋ったせいで喉が渇いており、歩きながら瓢箪の水を最後の一滴まで飲み干すと、唇からあふれた雫が顎を伝って胸元に落ちた。
詰め所に戻り鎧を脱いで軽装になると、手を清めて食堂だ。今日は役人の誰もが大忙しで立ち回って緊張も限界に来ていたのだろう、ここにきて気を緩ませた彼らは普段よりもずっとくつろいだ顔で膳の前に座っていた。それに倣い、景舜と貞もまたほっと気を緩める。
「あー。くったびれた。明日も日勤でよかったな」
貞が、疲労に掠れた声で言った。確かに、このあと夜勤で警備当番だと、軽く倒れる自信がある。
「ああ。でもまだしばらく客やらなんやらは後を絶たんだろうさ」
「そうだよなあ。とほほ。あの美人さんどんだけ貢ぎもん集めるんだか。若いくせに」
「うん。若いな。まあ、国試合格が二十なんぼならそんなもんか」
普通、初めて国試を受けるのが二十歳くらいだ。それで合格する者などまずは出ず、不合格者は三年に一度の機会に何度も何度も挑戦し、おおむね三十を過ぎてから合格を手にしはじめる。中には五十を過ぎても諦めぬ者もいる中、二十歳を過ぎてすぐ一発合格なんて、化け物という扱いである。国の高官を生む国試は、多少の縁故だけでどうにかかるものではないのだ。
「信じられん天才が、あの顔だもんな。いっそ気の毒だわ」
「違いねえ」
全くの他人事に近い彼らはそうやって無責任に笑い合い、料理にちょうど箸をつけたところだった。
「おーい、景沐辰(ジン ムーチェン)はいるか?」
県府次官の補佐を務める文官が、にぎやかな食堂いっぱいに響く声を張り上げた。
「あーん?」
箸でつまんだ肉団子をほおばり、その声に顔をしかめた景舜である。景沐辰とは彼のことで、舜は彼の名である。貞は同期で仲がいいので名で呼ぶが、公的には字(あざな)の沐辰で呼ばれる。
「んーっ」
まだ肉団子を咀嚼しながらなので喋れないが、とりあえず返事はして箸を持ったままの手を上げた。
やっと仕事を終えて腹ごしらえを始めたばかりなのに、とんだ邪魔が入ったものである。しかし仕事がらみの伝達か、あるいは不手際のお咎めであった場合を思い、めんどくさい顔はいったん隠し、引き締めてその次官補佐のもとへと駆けつけた。
「お前が景沐辰か」
「はい。そうですが、何か」
よく考えれば、こんな上級役人から呼び出されるようなことは、良きにも悪しきにも身に覚えがない。仕事の件ならば直属の上官から伝えられるはずだ。そう思うとこの状況の不自然さに首をかしげてしまう。
「間違いないな?」
「同姓同名は県府には一人もいませんよ」
「ならよい。ついてこい」
「はい?」
「いいから。次官殿がお呼びだ」
なんで。驚きよりも不信感が強いのと、せっかくの晩飯を失う危機に、げんなりである。
「貞、すまんが遅かったら膳を下げといてくれ。欲しいもんは食ってもいい」
心配げな視線を寄越していた貞にそう言うと、了解と返された。
早く来いと急かされて、次官補佐の後をついていく。向かう先も知らされないままだ。しかし、下っ端は普段からわりとそういう扱いも受けがちである。
「あの、何なんですかね。俺、まずいことしましたか」
景舜よりも頭一個以上背丈の低い相手に問いかけると、彼は歩きながらちょいと振り向いて、とんでもないことを言った。
「お前の剣舞の腕は有名だ。蘇長官にお披露目せよとの、次官殿のおおせだ」
「はあ?」
「はあ?ではない」
「は……はい……? なんで」
「だから、剣舞だ。私も去年の正月に見た。確かに見事であったぞ」
次官補佐はまた前を向いたまま話を続けた。足取りは早く、確かにこのまま宴席まで向かいそうな方向である。
「だからって、今日はあれでしょ、県内随一の踊り子を馬鹿高い税金使って呼んでんでしょ。なにも俺なんかがやらなくても。長官殿のお目汚しですよ」
「馬鹿高い税金は余分だ」
「そこじゃなくって」
景舜、必死である。確かにその道には覚えがある。しかし、所詮こんな片田舎の門兵が真似事に覚えた程度のものだ。都から来た高級官吏に見せるような代物ではないはずなのだ。楼閣一の妓女によるものならば多少の余興になるのかもしれないが、景舜などがそれに張り合えるものでもない。
「やめときましょ、ね。県府の恥をさらすことになりますよ。都人の……しかもあんな美人さんに、一体なにを見せるつもりだっていうんすよ」
できるなら肩でも掴んで止めたいところ、さすがに礼を欠くのでそれはできず、こうして言葉でなんとか引き留めようとする。そこで次官補佐は急に足を止めた。
「おっと」
ぶつかりそうになって、慌てて身をよじる。向き合った次官補佐は、ここで初めてまっすぐに景舜と視線を合わせた。
「私も都にいたことがある。しかし、お前ほどの剣舞を見たことは一度もないぞ。自信を持て。しかも、長官はあの御容姿だ。美しいものは鏡で見飽きておられるさ。それよりも勇壮で……いや、そなたの舞は十分美しいな。見劣りはするまいよ」
な?と、次官補佐からは肩を叩かれた。
本気か。
にっこりと、可愛らしくもない笑みまで添えられて、もう、抵抗は無駄だと突き付けられた。
「そら、急げ。長官殿が待ちわびておられる」
「嘘でしょ~」
正直、泣きたい気分である。
講堂の前まで辿り着くと、強引に服まで着替えさせられた。腰帯と上衣を着替えただけだが、咄嗟に誰から調達してきたか、ものすごい上物だった。
そして、手には二振りの湾刀。これは地元で昔から使われている、普段使いしやすい大きさの三日月形の刀だ。渡されたのは舞踏用に作られた姿の美しいもので、柄には赤い房が装飾として結ばれていた。これは舞うときに翻り、とても見栄えのするものだ。しつこいようだが、いいものである。なんならそれなりの名品かもしれない。もちろん景舜が個人的に所持しているのは、普通に鉈(なた)として実用されているものだが。
前に剣舞を披露したのは、去年の正月の余興としてだった。まあ、自分なりには特技という認識を持っていたため、人々に受けたのは正直嬉しかった。しかし、そもそも目立つつもりのない性格の景舜、人前で何か目立つことをすることそのものを好まず、成り行きでやらされたそれ一度きりだ。後から何度か乞われたが、ずっと断ってきた。それがだ。
なんで、よりによって。
ため息しか出ず、ここはもう恥をかいてさっさと終わらせてしまおうと、覚悟を決めた。
花を生け布で豪華に飾られた宴席の真ん中、今まで楽を奏でていた楽師たちが曲を終え、そっと場所を譲った。景舜は音楽を伴わず、ただ身一つで舞うのみだ。
ここのところ練習など全くしていなかった。体が覚え込んだ動きを忠実に再現するしかない。
景舜の姿に気が付き、次官殿が満足げに三回頷いた。そしてその視線で、出て来いと促される。さすがに緊張で鼓動がはやり、息を飲んだ。
くらくらするほどのきらびやかな席。その中央に敷かれた絨毯の上、大舞台に躍り出る。
『後悔しても俺のせいじゃねえぞ!』
心でそう叫び、ぐっと、剣を持つ手を一度強く握った。
すうっと持ち上げ、上下に、次には水平に構える。それを一度静止し、それからふうわりと弧を描くように振り下ろす。そこからは、夢中だった。舞に没頭し、人の視線を浴びていることさえも感じなくなる。
剣舞、好きではあるのだ。腕には多少自信のある刀の使い方では、一番だ。ちょうどいい重みのある剣が空を切り、優雅に弧を描く軌跡が美しい。鋼の見せる独特の輝き、穢れのない刀の持つ神気の尊さ。それを身にまとうような感覚に酔える、剣と一体化した瞬間がとても、好きなのだ。
横に薙ぎ、斜めに回し、頭上に掲げ、振り下ろして飛躍する。着地して逆手に持ち変える。指で回して持ち直し、空に高く放り投げ、その間に自分も一度宙返りをして、受け止める。
そしてまた、構えて静止。
それを二周通して、景舜はそっと剣を下ろした。
一呼吸の後、その場に喝采が起きた。五十人ほどの賓客すべてが杯を置いて手を叩いていた。見事だ、素晴らしいと口々に声が上がった。前に見せたときは県府の人間からのものであったが、今は違う。こういった余興にも目が肥えているはずの御仁によるそれだ。確かに、手ごたえはあったということらしい。拍手を送ってくる面々の中に、宴席で首座に座るかの麗人も、いた。
とにかく、無礼は働かずに終えられたようだ。
ほっとした景舜は、事前に礼を取らなかったことに気が付き、改めて席の全方位に向かって手を重ねた。そして今一度上段にしつらえられた首座に向かい、一際深い礼をする。そして、もうここに用はないとばかり、すぐに席をはずそうとしたが、あの涼しい声にすかさず呼び止められた。
「君」
夕刻に聞いたよりも、少し熱を帯びた声だった。酒のせいかもしれないし、もしかすると剣舞による興奮のせいかもしれなかった。
「素晴らしい! 都の外でこれほどの技を見られるとは」
言った言葉もまた、軽く跳ねるようだった。白い頬がうっすら紅潮していた。そこには満面の笑み。巫山神女もかくやの美笑である。
「勿体ない御言葉です」
「褒美を遣わしたい。よいだろうか」
隣席の次官に言ったが、彼はあいにくと眉を寄せる。
「これは我が県府の誇る名手ではありますが、一武官にすぎませぬ。特別な俸禄は、お控えください」
「武官! こんな雅な武官がいるのか、ここには! 君、名は何と? 所属はどこの隊だ」
興奮冷めやらぬ蘇李秀の言葉に、今度は景舜が返答の許可を次官に尋ねる。
「いいだろう。答えなさい」
許しを得たのでその場に膝を折り、また礼をとった。あまりにも美しい長官を正視できず、重ねた手と袖で顔を覆うことにした。
「えっと、俺……、私は、景沐辰と申します、門番と警護を務めております」
「軍兵じゃなくてか」
「まあ、有事の際は、それなりに」
「……驚いたな」
ただの雑兵でしかないことを知り、特に名家の出でもなく、ましてその道の達人でもないことは理解されたようだ。買いかぶられても困るので、早めに認識を正しく持ってくれたのはありがたかった。
蘇李秀は身を乗り出したまま、また話しかけてきた。このいたたまれなさに気が付いて、はやく開放してほしいものだと思うが、相手にそのような気配はない。
「君、食事中に駆り出してしまったらしいね。悪いことをした。せめてここに君の膳をしつらえさせてくれないか。話をしたい。私の杯を受けてくれ」
また変なことを言い出した御仁である。よほど剣舞がお気に召したようだが、個人的な宴ならばともかく、場をわきまえてほしい。
「ありがたきお言葉ではありますが、一介の門兵には過ぎたる褒美。どうか、お気持ちだけで」
正直、緊張で腹の虫などどこかへ行って黙りこくってしまっていた。この時間ではもう食堂に行っても膳は残っていないだろうから、後から腹を空かせることになるだろうが、かといって蘇李秀の申し出はとても受けられたものではない。
「そうか。残念だ。ならば、礼だけは言わせてくれ。実に素晴らしい剣舞であった。また、話だけでも別の機会に聞かせてくれるか」
「ご随意に」
退出の時、最後に一度顔を上げてみた。
呆れるほどに美しい笑みがそこにあって、景舜は逃げるようにその場を辞した。
速足のままで戻ると、食堂には既に貞の姿はなかった。自室に戻ったのだろう。仕方なく景舜も自分にあてがわれている狭い部屋に向かい、寝台にどさりと身を投げ出した。
気が付けば、まだ鼓動が大きく早かった。それを鎮めたくて、何度も深呼吸を繰り返す。
天井を見上げながら、先程の出来事の記憶をたどった。最中は何も考えられなかったが、一人になって落ち着いてみると、情景は霧が晴れるようにすこしずつ思い出されてくるようだ。
「ま、よかった」
何がよかったのかは後から考えた。剣舞を成功させることができたことだ、たぶん。
粗相もしなかった。まあ、自分としては体も軽くしなやかに動いたし、なかなかの出来だったと思う。少なくともあの席には好評を得た。主賓からもだ。
自分の役目は果たした。それでいい。あまり人前でやりたくはないが、褒められて嫌なものでもないのだから。
しばらくして、部屋の戸が叩かれた。出てみると、使いの者から大きな岡持ちを手渡された。長官からの心づけだという。
蓋を開けてみれば、まだ温かい汁物椀と大量の天心が入った蒸籠が鎮座していた。景舜はそれを見て笑った。急に、腹の虫も騒ぎ出した。
悪い長官ではないらしい。いや、むしろ県の長としては珍しく上出来ではないだろうか。
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