長風歌

桂葉

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四章

目くらまし


 先日の指摘を受けて、例の抜け道と扉の修繕がさっそく執り行われた。景舜らも立場上その構造などを聞かされるのだが、今回の工事で県府の外側に出る井戸の扉は中からのみ施錠と開閉が可能なものに取り換えられたそうだ。万一使われるとすれば、中から外への一方向にしか必要性がないためだ。これにより、間諜などの侵入をより固く防ぐことができるようになった。
 余談ではあるが、通路の途中に隠し扉が見つかり、そこから少なくない銀が出てきたそうで、それは長官の判断により府の財源に充てられることになったと聞いた。その采配に顔を青くした官吏がいたのだろうが、詳細は景舜の知るところではない。
「なに辛気臭い顔してんだよ! 行くぞ」
 ドンと背を叩いたのは貞である。つい他所事を考えてしまっていた景舜に対し、うきうきと上機嫌な彼は容赦をしてくれない。
 割と強引に誘われた結果、今日は彼と町に繰り出す約束になっていた。朝は遅くまで寝ておいて、これから腹ごしらえを兼ねて凱旋するところである。
「ああ、行くか」
 懐深くに入れた財布を服の上から感触で確かめ、景舜はニヤリと笑った。
 七日に一度巡ってくる休日に、景舜は官舎を出ないことも多いのだが、こうして誘いに乗ることもある。たまには若者らしいことだってしたいのだ。
 先程工事のことを思い出したのは、今日大工たちが撤収になるようで、その荷支度を見かけたからだった。
 またひとつ、なにかが滞りなく終えられていく。あの人の采配で動かされていく物事は、景舜が知りえない範囲の方が広い。きっと、同時にいくつもの案件が動き、処理されているのだろう。景舜が成せることとは規模も意味合いも格段に違うのだなと、そんなことを今更ながらに感じてしまったのだ。
あれから、蘇李秀とは言葉を交わすどころか顔も合わせていない。あの時は少し心が通じたのだと思ったが、所詮住む世界が違うということだろう。まあ、自分にできることなどたかが知れているわけだが、少なくとも味方ではいてやりたいと思う。
 そして、景舜には景舜の生活がある。今日は思い切り羽を伸ばして休みを楽しむつもりだ。代わりの門番に声をかけ、いざ町へ。
「なあ、仕入れに行くぜ、今日は」
 門を出てたちまち、目尻を下げて貞が言う。よだれでも垂らしそうなその顔が言いたいことにはすぐに察しがついた。
「また買うのかよ。前のはどうした」
「飽きたから、後輩に売りつけた。その金で新しいのをさ」
 ひっひっひと、あまり品のよろしくない笑いが止まらない貞である。
「……好きだなあ」
「んなこと言うんなら貸さねえぞ。お前は自分で買わずに俺の見てヌイてるとかずるいんだよ」
「阿呆!」
 役所の門前でとんでもないことを言い出した不埒者の口を、咄嗟に手で覆った。その寸劇のせいで、通り過ぎる人が変な目で振り返る。景舜は貞をほぼ横抱きにふんじばったまま、とにかく門の前から遠ざかった。あまりにも恥さらしだ。
『お前、よせよこんなところで。恥知らずめ』
『すまんすまん。つい……』
 腕をほどかれた貞が、肩をすくめて苦笑する。新しい春画本を購入することを、街に繰り出す楽しみの一つに位置付けている貞である。恋人のできにくい若い下級官吏の実態といえば情けないがこんなもんで、景舜も決して例外とは言えない。
「貸し賃は取っていいから」
「毎度ごひいきに」
 という取引が成立して、長い。この二人は、仕事でも同じ隊で行動することが多いが、私的な生活でも共有する部分がけっこうある。
 多少いかがわしい店に入ることも、美味いものを買い食いすることも、可愛い娘に声をかけることも、彼らの休日の姿だ。とてもつつましく、ありきたりと言えばそうだが、他にはこれと言って楽しみがない。いずれ親の決めた相手と家庭を持つことになるまでの、貴重な羽目外しなのである。
 町は、少し高台にある県府から四半時ほど川辺に向かったところに広がっている。都から随分と離れた地方ではあるが川があるおかげで物流が豊かで、煌びやかとまでは言えないが、町も常に賑わいを見せていた。
 そこの象徴ともいえる安西橋という名の大きな石橋が川に渡されており、見下ろす運河の様子はなかなかに良いものだ。物売りの船が行き交い、遊覧船や岸の人々に声をかける姿は活気があって心が躍る。景舜は、生家からほど近いこの町が昔から大好きだった。
 橋の上はせわしなく行き交う人がたまに肩をぶつけあうほどににぎわっており、そういったきっかけで若者同士が知り合うなどと言うことも、ままあるのだとかいう話。それを通り過ぎると、向こう側には店が立ち並んでいる。物売りも蓆を広げているし、流しの楽師が陽気な音楽を奏でていたり、大道芸人が客を集めていることもある。
 既に昼時で店はどこも客に溢れており、人気店の玄関には長い列ができていた。二人はそれを横目に露店で天心や包を買って食い、酒を瓶のまま煽った。これが格別に気分がいい。
 ほろ酔い気分に乗じて、貞が麺屋の売り子にちょっかいを掛けた。娘は片目を瞑り、「何をご注文?」と軽く返す。二人は「君がいい」と言い放ち、「あなたたちのお給金より高いわよ」と断られて去る。
 軽い遊び心が通じる街なのだ。女はおおらかで、男は気がいい。特に歓楽街はそういう空気が流れていて、皆弁えながら分相応の楽しみ方ができる。ふだん、地味な県府で警備などという味気ない仕事をしている二人にとっては、興を得られる最高の場所だ。
 ほどよく腹が満たされてから、いよいよと貞が誘い込んだのは、御用達の書店である。店構えはどこにでもある古書店のようだが歓楽街の片隅にあり、屋号は『桃薫堂』。成人した男なら誰でも一度は入ったことがあるくらいには老舗の有名店である。いかがわしい本を売っているくせに老店主の愛想は最悪で、逆に照れずに買えるというので初心者に優しい店だ。
「お前も買っていいんだぜ。自分の好みでさ」
 そんなことを言って、貞は自分の目指す棚に消えて行った。御用達の店なので、陳列も熟知しているらしい。店先で取り残された景舜はさすがに体裁が悪いので、自分もこそこそと店に入っていった。
 左程慣れてもいない景舜は、どこか気恥ずかしさを持て余しながらうろうろと店内を回った。それらは一見普通の本に見えるよう、表紙にいきなりあられもない絵が描いてあるわけではないから、目を覆うほどの居心地の悪さはない。ただ、店の奥は危険で、いわゆる大人の玩具やその時に使うあれこれがふつうに売られているわけである。そこは回れ右で引き返し、隣の書架でふと足が止まった。
 何気に目を引かれた『春龍譚』と草書で書かれた浅黄色の表紙が、男女の行為を描いたものでないことは察した。
 にわかに騒ぎ出した鼓動が、重く早鐘を打ち始めた。別に、初めてはない。描いてある絵も男女のとそう大きくは変わらないことも知っている。何食わぬ顔で、同じ棚から一冊持って行った中年の客とさっきすれ違った。別に珍しくも特別でもなんでもない。
 それでも、つい伸ばした手は固く、なかなか手に取ることができなかった。なら見なければいいとわかるのに、妙に興味は惹かれてしまっていた。
 そんな自分に、戸惑いは強かった。なぜ今日はこれが気になるのか。これまで龍陽(男色)ものなど気にも留めなかった自分が、今それを手にしようとしている、その理由にあまりにも簡単にたどり着いてしまったからだ。
 駄目だと、伸ばしかけた手を止めて拳を握りしめた。
 そこに描かれた世界がもしも、今の自分に要らぬ影響を及ぼしてしまったらと考えると、急に怖くなった。そして、自分が意識してしまったことそのものが許しがたかった。そこと繋げてはいけないはずなのに、軽い出来心で触れてしまって、自分の目が曇ってしまうとすれば、それは由々しきことだ。言い訳はしない。あの人を一瞬でもこういったことの引き合いにしそうとした、下品な自分を恥じた。
 彼がこれまでにどのような人間関係の中にいたにしても、自分と接する彼とは切り離されてしかるべきなのだから。そういったことは極めて私的な領域で、少し話をしただけの他人が興味を持ってはいけない。そのはずだ。ここでこの状況で意識してしまうこと自体がおかしいのだ。
「おい、もういいか」
 急に横から声を掛けられ、声を上げそうになるほどに驚いた。本当に、心臓が飛び跳ねて口から出るかと思った。
「お、お前か」
「俺以外に誰がいるってんだよ」
 驚かれたことに少なからず驚いた様子の貞は、目を丸くしたまま言った。持参した肩掛け袋には、どうも数冊本が入ったようだ。
「そうだな。買ったのか」
「まあね。帰ったらお前も見る?」
 ほくほくと言う貞に、しかし景舜は同じようには返せなかった。
「……今日はいいよ」
「お前も買うの?」
「え……」
「ずっとここから動かねえじゃん。気に入ったのあったか?」
「いや……」
 とても、言えない。この場にいるのもどうかというところだ。景舜の立つ一帯の書架が龍陽ものであることには、貞は気が付いているのだろうかと聞くのもこわい。
「じゃ、行くか」
「いいのか?」
「買わねえよ!」
 景舜は振り切るようにその場を離れ、貞を店の外まで連れ出した。
 ドクドクと、鼓動が重いのに早かった。酔いはすっかり醒めてしまっていた。



 結局、ふらふらと店を冷かしているうちに夕刻近くなっていたので、二人は酒楼で追い酒を決め込んだ。遊ぶ日はとことん遊ぶ主義だ。
 しかし、門限までに県府まで帰らねばならない身としては、あまりゆっくりしてもいられない。書店での一件からあまり酔えないままでいた景舜は貞に付き合ってはいたが、彼がそろそろ酔いすぎていることに気が付いて、急いで勘定を済ませた。
 店の外に出ればもう空は薄暗く、明かりを買って帰るかを悩まねばならない時刻になっていた。しかし、店を出て歩き出したときに貞の足元がおぼつかないことを知り、明かりは諦めた。
 貞の肩を支え、二人でふらつきながら町を出ようとしたところで、ふと正気を取り戻した貞が景舜の腕をはらって踵を返した。
「もう一軒行くぞ」
 やけに威勢のいい一言を発し、別の店に指をさす。耳を疑った。
「は? お前、帰れなくなるぞ」
「いいや、お前が満足してねえだろ。なあ、お触りいけるとこ、行かん? 奢るぜ? 月末に返してくれたらいい」
 また厄介な酔い方をしたようで、ふざけたことを言い出したものだ。満足していないとすれば貞の方だろう。
「それ、奢りじゃねえから。なんだよ欲求不満か?」
「違うって。まあそれもだけどそうじゃなくて、お前が心配なの」
「は?」
 一人で立つと途端に足をもつれさせる貞をまた支えに行って、景舜はその「心配」の一言に首を傾げた。
「今心配な状態はお前だと思うぞ。野垂れ死にたくなかったら、さっさと帰る。いいな?」
 駄々っ子をいなすように彼の背を押して促そうとしたが、貞は足を進めてくれない。代わりに、ぐっと近いその距離で、酔いに潤んだ目をして景舜を見つめてきた。その表情には、一瞬素面とも思わせる緊張があった。
「こないだお持ち帰りされたじゃん」
「は?」
 なんの話だと半分思いかけたところで、理解が追い付いた。
 そして、なぜそれを知っている?
「お前単純なとこあるからさ、あんな美人にちょっと遊ばれたの本気にして惚れちゃって、後から泣かないかと思って」
「……寝ぼけてんのか?」
 泣き出しそうな顔を見せたのは貞のほうだ。切羽詰まった早口で畳みかけてくるが、その言い分は突飛にすぎて返す言葉を失う。
「お前けっこう顔いいし、カラダいいし、下っ端だから後腐れナイし」
「おい」
「なあ、大丈夫か? お前も女の子がいいよな? キレイなお兄さんになら抱かれたいとか、ないよな?」
 何を馬鹿な、と言うしかない。しかし、後ろ暗い思いが全くないとも言えず、そんな自分に嫌気がさした。
 貞にまで心配されていたことも、軽くない衝撃だった。
「……なわけ、ねえだろ。安心しろ」
 抱かれたいとか、そういう方向ではない。ただ、……。いや。そうではなくて。
 ぐらりと揺れた心の行き場を見つけられず、強い否定ができないままでいると、貞は眉をぎゅっと寄せて景舜の視線を追いかけてくる。
「ほんとかよ~? さっきは深刻な顔で男色本睨んでっしさ。俺には隠すなよ、一人で悩むな、な?どうなのよ、まだキズモノになってねえな?」
「!」
 例の本にはやはり気づかれていたらしい。そのことにギクリとしたが、貞が景舜の尻を撫でに来たという突拍子もない衝撃に、見事ぶっ飛んだ。
「ケツを触るな!」
「痛いの?」
「クソ阿呆! 掘られてねえわ!」
 あまりにもお粗末な叫びが、宵の空に響いた。焦りと後悔と戸惑いと、そしてまだ形を成そうとしない感情が、重く熱く胸を焼いた。



 半分寝ているような状態の貞を引きずりながら、県府に滑り込んだのは門限ぎりぎりの時刻だった。
 意味のない野宿だけは避けたいと必死になってここまで辿り着いて、なんとか間に合ったことへの安堵に、門を入ったすぐのところでとうとう座り込んだ景舜である。
「おい、大丈夫なのか」
 門番が、二人を中に通した後で扉に閂(かんぬき)を掛けながら言う。見せたのは、心配顔というよりは呆れた方だ。酔っ払いと関わりあいたくないのは誰でもそうで、今は景舜という連れがいるのだからとばかりに、彼らは声だけかけておいてから逃げるように去っていった。
 景舜はもはや、それを引き留める気力も失せていた。貞と二人で暗がりに取り残され、まずはしばらく休もうと思った。
 門柱に貞をもたれかせ、自分も石段に腰かける。酔い覚めどころか、疲労しかない。しかし、貞に思いの外心配をかけていたことにも驚いたし、今日彼がいつもよりも積極的に町娘に声を掛けていたことや接待付きの店に入ろうとした理由を知り、なんとも言えない気分だ。
 そういうんじゃない。いくらでもそう言えるのに、胸のどこかに残る後ろめたさに気が付いてしまった。龍陽本などを見て、あの人を想像してしまったせいだろう。自分が彼をそのように見てしまったことへの後味の悪さが、そうさせたに違いない。
 ついに、ため息が落ちた。
 見つめていた自分の靴の向こうに、もう一つの靴が近づいてきて、顔を上げた。
「おや、ずいぶん出来上がっているね。大丈夫かい?」
「あ……!」
 なんと間の悪いことだろう。よりによって、後ろめたさの根源ともいえる人物の登場である。
 たまたま通りかかったというよりは、遠くから人影でも見つけて、気になって来てみれば景舜だったというところだろうか。今日もこんな時間まで仕事をしていたのか、彼はまだ官服のままだ。
「早くせねば、この辺りはすぐに消灯されてしまう。どれ、片方手伝おう」
 蘇李秀は、そう言ってかがみ、貞の手を取ろうとした。
「いや、あなたの手を煩わせるわけには」
 貞のもう片方の手を取って景舜は言ったが、相手はそれに取り合ってはくれなかった。えずきだした貞を見て、綺麗な弧を描く眉をひそめる。
「吐かせたほうがいいかもしれないが……どうだろうね」
「いや、あなたの服を汚しちゃ駄目だから」
「君ならいいのか? 避けたいだろう?」
「うっ……」
 二人の会話の結論には間に合わなかった。景舜が貞の体を支え、雨水用の細い溝にうつむかせると、同時に貞は胃の中のものを吐き出した。衣服などに被害がなかったようだが、一度吐いたくらいでは貞はすっきりとしないようだ。ぐってりとその場にくずおれ、手足を投げ出してしまう。
「ほんっと、馬鹿……」
 情けなすぎる友の姿に、ため息をつく。それを見下ろし、蘇李秀が肩をすくめた。
「やれやれ。どうしてこんなになるまで飲ませたんだ? 彼、あまり強くないだろう」
「すんません」
 楽しむ程度の節度は守るのが貞の飲み方のはずが、今日は限度を大幅に過ぎたのも自分のせいかもしれなくて、何も言えなくなる。
 こんな状況でも相変わらず蘇李秀は美しくて、とても目を合わせられなかった。あまりにも俗で性懲りなくて恥知らずな自分が、この人の目の前にいることさえも躊躇われた。暗がりが自分の顔を隠してくれていることを切に願う。
「ここからは、俺がなんとかしますから、あなたは……」
「官舎は遠いよ。長官室の隣に控え室があるから、そこにいったん寝かそう。ここからは一番近いはずだ」
「それは……!」
 とんでもないことだ。こんな事態が上官にでも知れたら、減俸もしくは謹慎くらいはさせられるかもしれない。
 抵抗を見せた景舜に、しかし蘇李秀は「いいからいいから」と言って、貞を持ち上げ始めた。このことは周囲には内密にするつもりであるらしい。
「遠路の移動でまた吐かれたら、泣きたくなるだろう? 私の側近は信用できる。今は彼しかいないので気を使わなくていい」
 言いながら、立ち上がろうとして体制を崩した。脱力した武官の体など、見るからに純粋培養の文官が一人で支えられるものではないのだ。
 そうこうしているうちに、貞が苦しそうにうめき声を上げた。この事態、本人が知ったらどんなことになるだろう。朝になって記憶がなかったら、いっそ意地悪く教えてやろうと思う。
 仕方なく蘇李秀の指示通り、二度目になる長官室訪問となった。出迎えた、蘇李秀の側近らしき青年が、盛大に苦くそして呆れた顔を見せた。
「なんです、これ」
「まあまあ、人助けだ。その辺で野垂れ死にさせるわけにはいくまい?」
 蘇李秀が言うが、青年は素直には頷かない。
「真冬でもあるまいに、放っておけばいいと思いますけどねえ」
 大迷惑と派手に書いてあるような渋顔をして、孟有伊と名乗った青年は、冷たすぎる目で貞を見下ろした。この人物、主人よりもある意味まともな感覚の持ち主のようだ。
そして貞から目を離した有伊、こんどはしばし景舜を見て、なにか言いたげな目をした。
「見ない」
 蘇李秀がそれを窘めて、視線は外された。
「はいはい。水を用意してきますね。あと、手拭いと……洗面器も必要でしょうか」
 有伊が足早に部屋を出て行った。貞は完全に眠ってしまったようで、いびきまで聞かせている。通されたのは長官室の隣の控室で、その長椅子に貞は寝かされていた。
「あの、俺がついてて、目が覚めたら連れていきます。こいつ、こんなとこじゃびっくりすると思うんで」
 景舜がこうなったとしたら、驚きどころか青ざめると思う。大胆に見えて案外繊細なところのある貞なら、卒倒しかねない。
「優しいね。良き友のようだ」
 蘇汎が、戸口から中を覗きながら言った。
「こんなに酔ったの、俺のせいみたいで」
「ほう。事情があるようだ。好きにするといいよ。私は隣にいる。困ったり、出ていく時は声をかけて」
 じゃあねと部屋を出ていきそうな蘇汎を、景舜は咄嗟の言葉で引き留めた。
「忙しいんすか。こんな時間まで」
「まあね。私が暇じゃ、困るだろ?」
 この人おそらく、赴任後一度も休んでいないのではないだろうか。生活の中に仕事があるというよりは、仕事の中に生活を組み込んでいるというような毎日らしいということは、なんとなく聞き知っている。
 そんな上官を前に、遊んで飲んだくれてきた自分たちのことがとても恥じられた。
 しかし、本人は嫌味の一つでも言うわけでなく、
「町で遊んできたのだね? どんなところへ? 私はまだ町に出ていなくてね」
 と、世間話のような口ぶりで問いかけてきた。
「メシ食って、芸とか見て、酒のんで……。なんか、あなたの前で言うのは申し訳ないですね」
「休みは楽しむものだ。ここは川辺だから魚が美味いだろう? おすすめの店はないかい?」
「俺らが行く店は、あなたには……」
 とても相応しくないと返す途中で、貞の足元に置いていた鞄が蹴られてドサリと床に落ちた。荷物が中から出てしまい、貞の買った春画本三冊も、二人の前に晒された。焦ったが、そこまではまだよかった。たまたま蘇李秀の近くに滑っていったため、拾い上げられて、見た彼が目を丸くした。蘇李秀の涼し気な目が、見事まん丸である。
「あっちゃー」
 もう、ここまで恥を晒せば頭を抱えるしかない。
「なるほど。そういうのもあるね」
「すすすみません。これ、貞のなんで! 俺じゃない!」
 焦ったせいで嘘臭くなったが、これは正しい。とはいえ、みっともない言い訳をしている自覚はあった。
「いいよ、我ら男同士なんだから。珍しくもない。どうせ君だって見てるくせに」
 取り返して鞄にぶち込んだ景舜に、蘇李秀は平然とした顔だ。ごく自然にそういうことを言える人だとは意外だった。
「……あなたはこんなん見ないんでしょうね」
「ハハハ。若い頃は無縁ではなかったかな」
「まさか! 似合わねー」
 つい、声が高くなった。春画と蘇李秀。これほど不釣り合いな組み合わせはなかなかないと思う。
「そうかい? まあ、一応、嗜みとして知っていて損はないと思うけど」
 大人の余裕。そんな言葉がよく似合う言い方だった。艶事の話題もさらりと流してしまうだけの余裕だ。それがまた妙に手練れめいていて、ドキリとした。
「……んなこと、上品に言わないでください」
こんな綺麗な顔で色めいた話など、心臓に悪いことを平気で言わないでほしい。
「上品も下品も、行為は変わらないだろうよ」
「行為……」
 ああ、もうだめだ。今この人と結び付けてはいけないはずのソレを、自ら語るなんてどれだけ危険なことか。
 何が危険? そんなもの、決まっている。この景舜が想像してしまうではないか。本屋で、そうであったように。もう思い描くにも難しくはないのだ。目の前に本人だっている。
「未経験?」
「……ではないです」
 返しながら、全速力で逃げたいと本気で思った。
「じゃ、わかるだろ? そういうことで。私もただの男だよ」
「……」
 この人煽ってないのなら何なんだ?と、思うことはもはやただの言いがかりだ。
 蘇李秀にとっては恥じらう必要を感じない話。想像を駆り立てられてあたふたしているのは景舜だけ。
「なんで赤くなる? 変な想像したかい?」
「ス、蘇長官!」
「おお、寂しいね、名は教えたはずだろう?」
「蘇、李秀さん」
「あはははは。それはまた珍妙な! 嫌かい? 呼ぶのは」
「いえ、その……」
 もう、あれやこれやと乱された情緒が忙しすぎる。
 先日聞かされた彼の名は、もう何度も呼ぼうとして心で繰り返してきた。なのにいざ本人を前にしては、なかなか声になってくれない。
「じゃあ、今呼んでみておこうか。練習。一度呼べば次もいけるだろう?」
「……あのですね」
「心を受けてくれるって言葉は嘘かい? 景舜」
「ああ、もう、わがままなんだから! はいはい、蘇汎。これでいいっすか!」
「うん。いいね。合格」
 蘇李秀は満面の笑みだ。品の良すぎる微笑ではなくて、生きた感情がそうさせる、めいっぱいの笑顔。勇気を出した褒美は思った以上に嬉しいものだった。
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 一つ息をして、肩を下ろす。今自分は、ずいぶんと子供っぽい赤面を晒しているのだろう。
「……なんでそんなに、親しくしてくれるんすか」
 本人に問うには無粋だとわかりながら、しかし問わずにはいられなかった。
 この間にしても、今日にしても。ただ少し接しやすい上官という程度の親しさを超えたこの距離を、まだ景舜はどうとらえてよいものなのかが分からないのだ。
「敬語もあまり好きじゃないなあ。もう少し砕けていい」
「あの、質問。答えてくださいよ」
 この曖昧な輪郭をもう少し明確にしてくれなければ、こちらから近づくことのできる一線を見誤りそうで落ち着かないのだ。
 そこまでのことは言えなかった。しかし、少しだけ考える間を見せた蘇李秀は、景舜の顔を見ながら自分の心を探り、形作っていくように話した。
「……なんでかな。黄翁のよしみ。というだけじゃ説明不足だろうし。まあ、打算的な理由を言えば身軽な情報源が欲しかったのもあるし、君の剣舞には敬意を覚えるし、主には単純に気に入ったんだと思うけど」
「……」
 気に入った。言われてみれば景舜だってそうだ。
 好意を肯定するにふさわしい理由をいくつか挙げろと言われればできないことはもちろんないが、それんなものなくてもいいんじゃないか、くらいには自然に気に入ったのだ。それが互いに感じることだと知って、また単純に嬉しさを感じた。
 飾らない心が、相手を認めた。男同士の縁なんて、そんなもんでいいと景舜は思う。
「君もある程度知っているかも知れない。知らなくても想像に難くないだろう。まあ、こういう立場でこの顔だとね、いろいろあるわけだけど、君ならそういうどろどろしたものの外にいるだろうから、安心して接することができる。気楽ってわりと貴重なことなんだよ」
 先程よりは少し具体的に語られた言葉には、景舜とはまた違う理由が確実に存在することが説明されていた。
 気に入ったのはきっかけ。それを育てるには必然の要素があったのだと。
 確かに、景舜の景舜たる立場や置かれた環境は、蘇李秀のように込み入った人間にとっては近づきやすさを左右する重要なものであるわけだ。なににも阻まれず人を気に入るという機会自体が、通常、ないのだろう。
「なにか聞いてる? ……その、噂とか」
 蘇李秀の声が少し、小さくなった。
「人間関係で何かあったんだろう程度です」
「うん。まあ、間違いじゃない」
「違うんすか」
 蘇汎は自分に何かを伝えようとしているのだろうと予感し、遠慮はしなかった。予想される内容に、興味がなかったわけじゃない。
「いろいろ耳にするかもしれないね、今後。上官を寝取っただとか、尚書と侍郎で二股掛けてたとか、ひどいのになると宰相の色小姓をしてたとか」
「……まさか」
 自分が男相手の艶事を蘇李秀に想像したくせに、しかし、今本人が例に出したようなものとはまた何かが違うような気がしていた。
 人の噂は面白おかしく膨らむもの。それに少なからず傷つけられたのだと、言っているようにも聞こえた。しかし例が例だけにやはりそういった方面の何かがあって、蘇李秀はいくらかでも本気で心をそこに注いだのだろう。
「どれにしても、噂を否定するだけの証拠がここにはないから、何を信じるかはその人次第だけど。上官と一悶着あったのは本当だ。逃げたくてわざと問題起こして流されてきた」
「そう……だったんですか」
「君を利用しているんだろうね、君ならそういうことにはならないだろうと高をくくっているということだ。そういうのを友とは呼んではいけないね。強要してすまなかったよ」
「そんなことは!」
「下に見られて腹が立たないかい? そういうものと思われてる?」
 少しずつ、景舜に向かって発する言葉で蘇李秀が自身を追い詰めていることに気が付いた。
「違うでしょ、それもあるだろうけどそれだけじゃないんでしょ? わかるよ俺でも」
「じゃあ、どうして打ち解けてくれない?」
「え……」
 惹かれ合ったのに、と、付け加えられたような気がした。そこに、彼の心を見た。
 胸がぐっと痛みを覚えた。
「ごめん。無茶を言った」
 同じように、語気が落ちた蘇李秀も何かの切なさを感じたようだった。
「無茶じゃない。そうじゃない。たぶん俺が悪い」
「お互いかなと思うけど」
「ああ。たぶんそうなんだ。たぶんね、どうしても拘っちまうところがあるんだろうな」
 立場。あまりにも重く高い壁。社会において当然で絶対であることが、無意識にでも互いに遠慮を生んでしまうのだろう。
「でもさ、ほんとにいいの? 俺なんかで」
 敢えて、拘ったそこを強調するように言って、景舜は蘇李秀の心を確かめる。
「それはこちらの言い分だね。しかも私などに係ると、必ずよくない噂が立つよ。それに甘んじてくれとは、なかなか言えないじゃないか」
「別にいいよ、それくらい」
「……」
「そんくらい我慢してやるよ。あんたみたいなんの相手だと思われるんなら、けっこう男冥利だ」
 冗談のつもりもなく言うと、予想外にきょとんとされた。追って、苦笑い。
「いや、そこどうなんだろうね。君と私なら君が舎弟ではないのかな」
「え、そうなの?」
 なぜだ? だいたい、貞にしてもそうだ。なんでこっちが相手をされる方になるんだ? こんな美形相手にだ。
「だろうよ。歳にしても何にしても」
「やー、それはどうかなあ。あんたのほうが綺麗じゃん。誰が見ても」
 また、蘇李秀が固まった。溶けたらうーんと額に手をあてて考え、しばし。
「……ま、そこはあまり深く考えないでおこうか。勝手に言わせておけばいい。人の目なんて気にしていては心が病むだけだ」
「まあ、いいんだけどさ。なんかなあ……」
 正直、納得がいかない。いかないが、実体のないものに肯定も否定も仕様がないということを蘇李秀は言うのだろうから、あまりしつこく拘ると意識のし過ぎを露呈してしまいそうで、引き下がることにした。
「そんなことより、今くらいの接し方でお願いするよ。あんたなんて呼ばれたのは初めてで、新鮮だ」
「あ……」
 つい、いつもの調子が出てしまったようだ。そもそもあまり堅苦しいことを得手としない景舜としては、許されるのならありがたいことではあるが。
「ほんとに……」
 いいのかと今一度確かめたくて出た言葉が、貞の身じろぎに邪魔されてしまった。気楽なことで、うーんと間の抜けた呻き声をあげる。しかし、貞が寝落ちてくれていたおかげで大事な話ができたことには感謝してやってもいい。
「さあ、お目覚めが近いようだ。よく世話をしてやるといい」
「あ、ちゃんと、礼はさせるから」
「うん。待っていよう」
 出て行き様、蘇李秀……、いや蘇汎は足を止めた。そして、どこか名残を惜しむようにゆっくりと振り返る。
「損ばかりはさせない。それは誓わせてくれ。たった三年だが、私と関わったことを後悔はさせない」
 誓いとはまた仰々しく来たものだが、蘇汎らしいとも思えた。
 気構えが強い性格なのだ。ゆえに成し得ることがある。そうやって様々な問題や厄介ごとを切り抜けてきた経験を重ねたということだろう。
 それはそれとして、嬉しい。けれども景舜はそこを、少しだけ崩したいと思った。
 何事にも理由や節目をつけていくのもいい。しかし、他にも方法があってもいいと思う。
 だから、笑ってこう返した。
「了解。ま、損得勘定は俺は苦手だけどね」
 蘇汎が見せた笑みは、ずいぶんと気の抜けたものだった。

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長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

将軍の宝玉

なか
BL
国内外に怖れられる将軍が、いよいよ結婚するらしい。 強面の不器用将軍と箱入り息子の結婚生活のはじまり。 一部修正再アップになります

竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜

レイ
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「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」 魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。 彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。

伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい

マンスーン
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ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。 最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡) 世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。