長風歌

桂葉

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六章

身の程

 やっちまったか。まずいな。これはたぶんかなりまずい。
 一人の部屋に戻り、景舜は大きく二回深呼吸をした。それでも、意ともせぬ心のざわめきはなかなか収まることをしてくれない。
「まずいだろう、これは……」
 呟いた自分の声の情けなさにげんなりして、もう一度息をつく。そうやって小出しに何度も吐き出さねば、つい胸に込み上げるものが行き場をなくしてしまうのだ。
 あいつが可愛かった。……この感覚は、正常なのか?
 大見栄切ってあんなこと言って、どういうつもりだよ俺?
 あの時は、今こそ彼が自分を望んでいる気がして、彼を安心させたかった。ふだん人に取り巻かれもてはやされ頼られているはずの彼が、景舜には自分から関わってきた、その理由は単純に寂しさなのかもしれないと思ったら、すぐにでも手を貸したくなってしまった。
 国試など簡単な努力だけでどうにかできるものではないから確約はできなかったが、彼が望むなら叶えてみるのもいいかと思った。このぱっとしない人生にそこそこ満足していた自分が、彼の一言でそんな大それた挑戦をしようだなんて。
 理由など、あまりにも簡単すぎて、そこがまずいのだ。まんまと乗せられている自分にまんざらでもないなんて思えるほどには。
 吸い寄せられるみたいに、惹かれる。関わるごとに自覚され、とうとう目を背けてはいられなくなってしまった。
 思えば初めからそうだったのかもしれない。彼の望みを叶えたい心の裏には、求められたかった思いの開放があったのだろう。まさに、合致してしまったというところか。もちろん、それが必ずしも恋情に行きつくわけではなくて、やはり、彼であったからこそと言うしかない。
 たぶん、向こうだって……。
 心の隅では思っている。が、勘違いだったら自惚れもたいしたものだ。しかしそうでもないのだろうと思える根拠はあるのだ。別にそれが意識されたものとは限らないし、今景舜が彼に感じているのと同じ種類の感情ではないとしても。
 あれだけあの手この手で好きだと伝えられて、情が湧かないはずがない。
 美辞麗句ではない、心のある誉め言葉。笑いかける自然な表情。「君がいい」とまで言わせる何が自分にあるのかはわからないけれど、自分の何かが彼を支え、喜ばせることができるなら、応えてやりたいと素直に思うのだ。求められるからという前に、なにより自分がそうしたいと思う。仕方がないだろう、こういうのを惚れるというのだろうから。
 更にまずいのは、止めるつもりにはならないことだ。
 まあ、いいかと思えてしまう。積極的に叶えたいと願うほど希望があるはずもないが、ただ成り行きに任せて行けるところまで惚れていたいと、妙に楽観的な自分に戸惑う。
 彼が俺に価値を見出してくれたから。それを抱えて彼に目線を少しでも合わせたい。
 そのうち伝わってしまっても拒まれはしないのではないかと、能天気なことを思うから、このまま行こう。彼が好きだ。
 よりによって、あんな雲の上の男に惚れただなんて、笑ってしまう。でも、それだけだ。例え本当に国試を受けて中央官吏への道が開けたとしても、立場はとうに雲泥の差。彼には彼にふさわしい場所と人間関係がある。この距離だから彼は自分を選んだのだとすれば、対等など目指さない方がいいのだし所詮彼の隣に並び立つだけの力はさすがに景舜にはない。
 恐らく彼は疲れているのだろう。具体的に何があったのやら、都ではよからぬものを抱え込んでいた様子、しかし慣れてもいたであろうこれまでの環境から離れた彼に、ここで自分ができることは、気の置けない相手として解してやることだろうと思う。
 彼の望むままに。町で嬉しそうに顔を輝かせていた、素のままの姿を彼が忘れないでいられるように、自分が何度でも思い出させてやりたい。自分にできることならどんなことでも叶えてやりたい。彼にそれらを与えてやれるのが自分しかいないのならば、これほどの冥利もないだろう。
 好きだから、形にはしない。好きだと思う心が生む彼への真心で、それとは違うものとして差し出していられればいい。と、その時はそう思っていたのだ。
 取り急ぎその日から、景舜は国試対策の猛勉強を始めることになった。


     ●


 日常というものは実に容赦がない。前日にどれほど特別なことがあっても、一晩明ければまたいつもの毎日が当然のように流れていて、なかなか抗えるものではない。
 ただ、その日の景舜は機嫌が悪かった。といっても、ぶすっと口をへの字にしているのではなく、かき乱された心を収めることができなくて、苛立ちを覚えているという状態だ。
「なんてこった……」
 朝目が覚めて、事態はのんびりと楽観してもいられないようだと自覚した。この先自分がどうなっていくのか、考えるのが少し怖くなった。
 昨日の自覚が、完全に景舜の心を「あちら」へと振り切ってしまったらしいのだ。蘇汎を、夢に見た。
 いや、まだ大丈夫。そう見苦しい言い訳をするが、何の意味もないことはわかっている。
 まだ。まだ、交わってはいない……いなかった。まだ。しかし、夢の中で自分はそのつもりだった。彼を抱き寄せ、強く唇を重ねた。襟の結び紐を解き、中に手を滑り込ませようとして、鶏鳴の太鼓に起こされたのだ。
 目覚めたときに、現実の体はしっかりとその気になっていて、参った。宥めようにも夢の中の彼があまりに艶めかしく記憶に残っていて、かなり手こずった。
 そんな朝の出勤なのである。もう、平常心が惨憺たる状態だった。
 朝番の面々を集めた朝礼でも気はそぞろで、頭に入ってきた情報は極めて少なかった。それよりも、やっぱり自分が蘇汎を抱くほうだったとか、同じなら髪は降ろしたのが見たかったとか、そんなことばかり思い描かれて、さすがにあんまりなので見回りの前に冷たい水で顔を洗った。周囲には変な目で見られたが、体裁に構っている余裕はない。
 しかも間の悪いことに、これでもかという疚しさを抱えた今日に限って、蘇汎と二度も遭遇したのだ。勘弁してほしい。一度は他の官と話をしているのを見かけただけなのでそのまま通り過ぎたが、二度目は向こうから手を振られて焦った。飾り窓の向こうからひょこりと顔を出して、ひらっと。
 振り返しながら、景舜は内心苦笑である。あー、くそ。蘇汎が美しい。
 あんたも俺の事探して生活してんの? 見つけたら気にしてくれんの? 人目もはばからずに手を振るって、俺との仲を隠す気はないってこと?
 矢継ぎ早に浮かぶ蘇汎への問いに、自分で都合のいいように答えを用意して、それが現実であればと願う。この目出度い頭をなんとしよう?
「おいおい、ちょっと説明しろよ!」
 相方の貞が、がっと景舜の首を抱えて引き寄せた。不意打ちと衝撃で首がもげそうになる。
「よせ。勤務中だ」
「よく言うもんだね。手なんか振り合っちゃってよ」
 この野郎生意気だと言って、貞は拳で景舜の横っ腹を小突いた。油断していたわけでなくとも、これはけっこう、来る。
「愛想だ。愛想。それくらいは許されるだろ」
「それが、気に食わねえんだよ! なんだよ人の心配全無視で、よろしくやってんのか」
 身も蓋もない言い方だが、貞に心配をかけておいて結局こういうことになってしまった点には、少し申し訳なさがあった。
「阿呆。何もよろしくねえっつの」
「怪しいって。普通、いい歳の男同士、手を振ったりしねえの。わかる? あの時点で誰から見てもお前らデキてんの」
「いや、それはかなり特殊な偏見だと思う」
「ほんとかよ? ちゃんと説明しろよ、いいか? 昼飯の時だぞ」
「……了解」
 めんどくさい。そう思いながら、やはり貞の目ざとさには敵いっこないのだと、抵抗を諦めることにした。



 さすがに食堂では誰の耳に入るか分かったものではなく、昼休憩の残りの時間に景舜の部屋まで移動し、貞に話をすることになった。貞はこの時を今か今かと待ちわびていた様子で、昼飯もろくに咀嚼せずに口にぶっこみ、景舜を執拗に急かした。
「んで、どうなのよ、蘇長官と、デキたの?」
 ドカリと椅子に腰かけいきなり前のめりになったかと思えば、これである。気持ちはともかく、県令と一警備兵がそうやすやすと懇ろになるはずがないのだが、冗談で言っているようにも聞こえないのが怖いところである。
 えーっと、何から話すべきか。景舜は一度頭の中を整理すべく、深呼吸をした。
「まず、長官っつの、やめようか。疚しさが倍増する」
「あらやだ、やましいの!?」
 妙な裏声で返され、げんなりした。この興奮状態は何なのだろうか。いちいち反応が激しくて、その都度こちらは精神疲労がたまる。
「話を聞け」
 こほんと、変な咳ばらいを一つ。こういったことに経験のあまりない景舜は、うまく説明する自信はなかった。しかも貞はこの手の話が大好きで、一言を五倍くらいには大きくして解釈するので困る。
「これ大事な大前提。デキてねえし、今後デキもしねえから」
「そうか? 残念。でも、向こうから手ぇ振ってなかった?」
「まあな。あの人、そういうの遠慮しないらしいな」
 だからうっかり相手をその気にさせてしまうのでは?と、かつて蘇汎が抱えた問題の根本を疑ったところだ。こんど機会があれば自覚させた方がいいのかもしれないが、今はその話じゃない。
「んで、あの人呼び……」
 と、こっちはこっちでまた変なところで立ち止まったらしい。目の付け所が細かすぎる。
「いちいちウゼエよ。ただの、友人。わかる? まあ恥ずかしい言い方すりゃ、親友的な?」
「知己的な?」
「その言い方も含みがないか?」
「でもそういうやつに見えたよ、今日の雰囲気。これまでと違うな、一線超えたなって感じでさ。二人の空気っての? 知己ならいいんじゃないの? 抱くの抱かれるのじゃないんならさ」
「お前な……」
 あまりにも直接的な表現に、圧倒された。自分がそれを望んでいないわけではないことが余計に、衝撃を強くした。とっさに是とも非とも返せない景舜を置いて、貞の言葉は続く。
「だってさ、俺らも言ってみりゃ親友的なやつじゃん? 俺の認識ではそうだ。でもさ、お前らそういうのと違うのよ。違うから、俺別にお前にも蘇李秀にもヤキモチ妬かんのよ」
「……ヤキモチ……?」
「だからさ、お前に俺より信用できるダチができたんなら、なんか変な感じだけど、お前に例えば……例えばだぞ、女とか嫁さんができても、俺の立場は変わらんから平気。そういう違い。そのへん、お前としてはどうなのかなって思う」
「……」
 なるほど、うまい説明をされたと思ったが、その微妙で決定的な違いの分岐に「あちら」を選んでしまったらしいことを自覚したばかりで、改めて他者から言葉にされ、気分は何とも複雑だ。そういうことなのだなと、他人事のように納得する自分を見ている、という感覚。
「前も言ったじゃん。お前が惚れていい相手じゃないだろ? そういうのが心配なんだわ、まだ。どうしてもそれでもいいってんなら、もう止めないし、三年後に朝まで一緒にヤケ酒飲んでやるけど、でもさ。なんかさ、やっぱり気になるわけよ」
 貞の言いたいことはよくわかる。当然ながら景舜が考えないはずもまたない。
 蘇汎が立場を利用して景舜の心を弄ぶようならば、貞は全力で反対するだろう。しかしそうではないように貞にも見えていて、恋仲であろうとなかろうと景舜が蘇汎と親しくなるほどに、その後に見えている距離のせいだけでない別離を案ずるから、こういった反応になる。
 惚れていい相手じゃない。本当に、これ以上に適切な表現はないのだろうと思う。
「感謝する」
「はい?」
「心配してくれんの、ありがと」
「うん」
「別にさ、釣り合わねえのはわかってるし。あの人が三年後には都に帰ることももちろん知ってる。だから別に、どうこうしたいとかじゃない」
 それこそ、蘇汎にも重々わかっていることだ。同じ理由で、景舜がなかなか心を開けなかったのも、見抜かれている。だから、まだ、今後の展開など……わからないはずなのだ。
 景舜の言葉を聞いた貞は、少し神妙な顔になって、深く頷いた。
「……ふん。向こうはどうなの。お前に惚れてない?、あれ」
 と、また違う角度からの指摘。貞の目からはそう見えているのだろうか。それこそ、蘇汎の自覚するところではないのだろうけれども。
「そう思うか?」
 問い返す景舜は慎重だ。そう見えるなら嬉しいなどと短絡的には考えられなかった。
「わかんねえけど。少なくとも、お前に媚び売ってる感じじゃ全然ないんだよな。おまえを可愛がってるのに近いのかな。こう、たまには地味な花もいいなみたいもんかも」
「いや……。目線は、同じだ。っていうか、対等を向こうが求めてくる感じ。引っ張り上げてくる」
「知己か」
「かもな」
 本当に彼が自分に心を懸けてくれるなら、いっそ恋などではなくそうであってほしい。けれども、知己というものは時に妻よりも絆が濃くなるものだ。そう考えればかえって厄介ともいえるかもしれない。
「あのさ」
「うん?」
「こんな話だからついでに言うんだけど、俺、次の国試受けるわ。二年後」
 これを言ってしまうのは多少勇気が要ったが、いずれバレるだろうと思い、流れで口にしてみると、貞は見事に口を開けて唖然とした。
「うわー。お前それってそういうこと? めちゃめちゃ本気じゃん。なんなのなんなのそれ!」
 我に返った貞は、窓に響くほどに大きな声を上げた。驚いた外の鳥が羽ばたく。
「や、そうじゃなくて。あの人が俺を待つって言うから、とにかく受けてみようかなって。高級官吏なんかもちろん目指さねえ。うちの家系じゃ無理だし、んな賢くねえし。でも、なんつうの。わかるだろ?」
「惚れたのね~」
「そうじゃねえ!……とは言えないか。はは」
 ここまで来て、否定するのもひどく馬鹿げている気がした。空笑いが出たときに、心は少しだけ軽くなった。
「認めるのか~。そっか~、そこまで惚れたか。ならもういい。俺が応援してやる。当たって砕けて泣くまで見届ける、それが親友ってもんだ。そうだろう兄弟?」
 椅子から身を乗り出して、貞は景舜の肩を強く掴んだ。涙を拭う仕草をしたが、それは演技だろう。
「兄弟の契りは結んでねえ」
「ノリ。そこはノリだから」
「なあ。やっぱ俺、あの人に惚れたんかな」
 往生際悪く、まだ貞に聞く。自分の言葉と声にしてみて、やはりそれはかなり重い感情であることを確認した。しかし、どうしようもない。今更止めることなんてできない。
「もうずぶずぶに惚れてるよ、それ。で、ちなみにお前、抱かれたいの?」
「阿呆。俺が抱きてえの。くそっ! あんな魔性抱けるわけねえ」
「だから、どうこうしたくないわけね。了解したよ。もう揶揄わねえから安心しろ」
 そうできる望みがあるのなら、まだ楽だ。どれだけ強く望んでも手を出せる相手ではないことの切なさは、貞も十分に察してくれたようだ。
「お前、いい奴だったんだな」
「こんど、龍陽本買ってやるからな」
「要らねえ」
「そっか、もう本なんかじゃヌけないか。だよね~」
 実に馬鹿馬鹿しいが、返す言葉はなかった。


     ●


 初夏らしい風が、県府の庭を吹き抜けていた。
 この辺りは四季の移り変わりもはっきりしていて、気候は温暖で穏やか。一年の中でも今は過ごしやすい時期で、この季節が景舜は好きだ。山の緑が生き生きと勢いを増し、静かな活気を感じる。春を過ぎて県府を出入りする人の足も緩まってくるので、余計に周囲に目が行くのかもしれなかった。
 毎日、県府は平和だ。細かいことを言えばきりがないとはいえ、豊かな土地ではもめごとも少なく、人が穏やかに過ごしているせいだろう。だから、こういうところの役人は基本的に、余裕がある。警備兵などその最たるものだ。
 今日も朝から起こったことといえば、何かの許可を取りにでも来た商人の連れていた細君が貧血を起こして倒れ、医務室へ運んだ。それだけだ。不審な人物も見かけなかったし、施設に特に変わったところもなかった。
 夕刻近くになり、さてあともう少しと思いながら巡回をしていた景舜は、会所脇の柱の陰で険しい口調の声を聞き取った。本日二件目の事件かと思い、たちまち駆けつけてみる。
 朱塗りの柱の向こうにもう一人いるようで、こちらから見えている黒服の人物が、それに向かってなにやら懸命に話しかけている様子だ。特に殴り合いになるような雰囲気ではないので近づき過ぎないように様子を見ようかと思っていたら、どうもその黒服が刑部の官服であることに気が付いた。
 胸に紋を刺繍された官服を着るのは、長官だけだ。それがこんなところでなにをもめているのかと思うが、不敬に当たるといけないので、やはり遠巻きだ。柱の向こうを相手だけ確認しようと回り込んでみると、なんと蘇汎だった。
「それではお役は務まりませんよ。もう少し柔軟に振舞いなさい」
 黒服の男は大ぶりの扇で空いた方の手を叩きながら、苛立ちを隠せない様子だ。顔を見ればやはり見覚えがある。県尉だろう。蘇汎が就任してからよく門をくぐる人物だ。なにか景舜らには関わり合いのないところで問題でも起こっているのかと思い、そのままやり取りを見ていた。注意深く耳を澄ませていると、話の内容もいくらか理解できてくる。
「あなたの御心配には及びません。私は私の裁量でやります。その責も誰にも押し付けやしませんよ」
「頭が固いことだ。よくそんなんで礼部にいましたね。どなたかに守れられてでもいたんですか」
「何をお聞きになったのかは存じませんが、勝手な想像はお控えください。不愉快です」
「なんと……!」
 立ち聞きは褒められたことではないが、不穏な空気に気を配るのは警備兵の仕事だ。この手の会話がもっと身分の低い者で交わされているならば軽く声をかけるところ、自分たちよりもはるか上の人物同士であるため口を挟むべきではない。が、この場合は例外だと景舜は断定し、わざと足音を立てながら近づいた。
「あー、口論ですか。たとえ高官の方々でも困ります。ここ、公共の場所なんで」
 憮然と言い放つ。蘇汎にではなく、県尉だけを見て。
「大事な話聞かれちまいますよ?」
「そうです。このような場所では、相応しくありません」
 蘇汎も景舜に次いでそう言い放ち、県尉はやっと引き下がる態度を見せた。
 恨めし気に蘇汎を見、それからクイと顎を上げ、景舜を見下ろす。どちらも左程身の丈に差がないためか、県尉はそうやって優位を示したようだ。
「ほう。君か」
 一度上から見て、その視線を下へと一通り流し、しっかりと品定めだ。明らかに大したことのない相手にわざわざそれをするのは、嫌味でしかない。
「俺そんな有名ですかね。刑部の方はこんな末端の兵までご存じとはさすが」
「李秀殿の周辺には目を光らせているのでね」
「それ、監視じゃないですか? 長官がそれはどうなんでしょう」
「別になにもしていないさ。職務にかこつけての監視は、さすがにまずいだろうけどね」
 あからさまに、景舜を批判しているのは感じた。しかし、こちらもひるむつもりはない。蘇汎にとって県尉より景舜の方が親しいのだと認識されているのならば、身分だけで立ち位置を低くする必要はないと思った。
「ああ、そういうのは俺が引っ立てますんで。付きまといとかもです」
「一介の警備兵が、無礼な!」
「二人とも、よしなさい」
 県尉がまた言葉を荒げたときに、蘇汎がそれを制した。
「そうだったね。取るに足りない者と喧嘩など、するもんじゃない」
 ねちっこく陰湿そうな雰囲気を醸している男に見えていたが、武芸にも長けた刑部長官だけあって血は熱いほうなのか、県尉は景舜にあっさりと煽られたようだ。
「そういう意味ではありませんよ。では私はこれで。今後も私のああいった催しに対する姿勢は変わりませんので、前任者との違いをご理解いただきたい。私は県尉を監視する立場にもあります。あまり無茶をなさると、大目に見ることができなくなりますよ。心しておかれるように」
「ふふ。つれないお方だ。わかりました。また考えましょう」
 景舜と蘇汎の間に肩を割り込ませ、景舜に背を向けるかたちで蘇汎に言った県尉は、大袈裟に服の袖を掃って立ち去った。その後に、沈香がふわりと香る。
 県尉が供の者を従えて門を出るのを、景舜と蘇汎は黙ったままで見届けた。その姿が見えなくなり、ふうと互いに息をつく。
「あんた、あんなんにも絡まれてんの」
 どう見ても、職務上の口論には聞こえなかった。蘇汎はそのつもりでも、向こうがよからぬ熱を入れてきているといったところだろう。
「目下あんなんだけだよ。どこへ行ってもいるんだな、ああいったのは」
 チラと見やれば、蘇汎は疲れた顔で首を横に振っていた。
「県令殿の美しさには、まともな人間も惑わされるんじゃないですか?」
「あれは元々まともじゃないよ。……男色家で通っているそうだ」
「それ、大丈夫なのか?」
 つい、景舜が声を上げた。なんとなく感じていた県尉への嫌悪感には、根拠があったのだ。当然、今は自分のことは棚に上げておく。
「まあね。そういうのとうまく付き合うのも大事な仕事だから。心配?」
「じゃないとは言えないな」
「同じ轍は踏まない。安心して」
「あんた……」
 さらりと出たような蘇汎の言葉が耳に残る。同じ轍とは、そういうことか。
 気遣って次の言葉を躊躇った景舜に、しかし蘇汎はあっさりとしたものだった。
「おっと、余計なことを言ったかな。まあでも、もうだいぶ察してるだろう?」
 まるで興味を擽るような投げかけに、これまでとは違う何かを感じる。敢えて触れろとでも言いたそうだ。それでいいのか?
「それにどう答えろって言うんだよ」
「あはははは。素面では言えないなあ。やっぱり今度飲もう」
 軽く言って笑う。もう景舜に隠すつもりはなくて、いっそ全て聞けと言うならば、もちろん受け止めるつもりだ。



 その時にどんな思いがあったのか、それによって蘇汎が何を失い何を信じるようになったのか、知ることを許されるならば知った上で、彼を想いたい。知るに値する相手だと蘇汎が景舜を認めてくれたのだと思うことが胸の奥を熱くする。
「飲むのは大歓迎だ。それはいいんだけど、ほんとに油断すんなよ。いいか? あんたはそのへん歩いてるだけで色気振りまいてんだから」
「そうかな。美醜と色気はまた別では?」
「男の目から見れば、一緒! いいか? 万人に狙われてんの自覚して!」
「大袈裟だなあ。わかったわかった」
 忠告していいものならば、いくらでも言いたい。今見せている笑みだって、かなり罪作りなものなのだ。景舜相手となると随分肩の力を抜いてくれるのは嬉しいが、それは惚れ惚れするほどの笑みなのだが、それを見て胸貫かれる男はきっと景舜以外にわんさかいるはずだ。
 さすがに、先程の県尉にこの顔を見せてはいないだろうことには安堵できるのだが、向こうもそう簡単な相手であるようには見えない。例えば蘇汎が頑なであるほどに執着するような傾向だと、厄介だ。
「冗談抜きで、さっきのは本気で危険そうだから、注意しなよ」
「うん。実はこの間、彼主催の宴に招待されてね。まあ、いろいろあるやつだ。私があまりに早く退席したのを根に持っているんだよ。いれば面倒なことになるのは目に見えてわかったから、そうしたんだけど」
「面倒って……?」
「主には、表に出せない人間関係的なものだね。県令はそういうのを利用するものだと決めてかかられているところがあって。匙加減がむずかしい」
「そうか。当然あるよな」
「あまり手を汚したくないとは思っているよ」
 また、この壁だと景舜は思った。蘇汎には蘇汎の周囲にしかない危険があって、それを躱す手助けは景舜にできるものではない。それでも。
「それもそうだけど。刑部の長官なんて、あんたの腕じゃ敵わないだろ。護衛くらいするから、言ってくれよ。県令の命なら当番くらいどうにでもなる」
「大丈夫。こっちには政治的手腕がある。心配しないでいいよ。護衛には有伊をつけていてね。彼もああ見えて強い。片時も傍を離れないようにしてる」
 何でもないように告げられたが、やはり相応の警戒を要する相手なのだ。既に対策を取っているくらいには。
 景舜では、何の手出しもできない。だから、知らなかった。
「そうだよな。俺が心配することねえか」
「気持ちはありがたくいただく」
「俺、あんたの役に立たねえな」
 本音は、呆れるほど簡単に、口から零れ落ちた。自分で聞いても、稚拙で情けないものだった。これくらいどうして堪えられなかったのかと、即座に後悔が押し寄せてさすがに自己嫌悪が激しかった。
「……景舜? 本当にそう思う?」
「……」
 うつむいて逸らしてしまっていた視線を蘇汎に戻せば、そこには真剣に、そして僅かに景舜を咎める目が待ち受けていた。
「むしろ聞こう。私が君にできることはないか。いっそ職権を駆使すればできることもかなりあるが、それを君が望まないと思ってやっていないんだぞ」
 つまり、護衛としての景舜を蘇汎個人に付けることも簡単にできる。そういうことか。
 だとしても、蘇汎からはそれを強いはしない。必要がないのではなく、景舜の心が、景舜自身の力でなく蘇汎の県令という立場を使って成すことに抵抗を覚えることを懸念している。確かに、そういう引っ掛かりがないとは、嘘でも言えない。
「私の我儘を本気で通すつもりなら、できないことはないんだ。悲しいけど、できてしまうんだよ?」
「悲しい、か」
 確かに、蘇汎の気持ちは言われてみればわかる気がした。恐らく景舜が同じ立場でも、同じようなやるせなさを感じるのだろうと。
「できなくてしないほうが心は穏やかだ。これでも結構私は強欲なのでね。やりたいと思うことは全て実現させるつもりでいるんだけど。……人の心には手を出せない」
 君にそれをしてはいけないと弁えているからねと、蘇汎は言った。
 そういう奴だよと、景舜は思った。だから……、だ。
「俺、あんたのそういうとこが好きだよ」
「好き……か」
「気に入ってる。ほんと」
 そこに、惚れている。そう言いたい心はそっと隠して、ただ言い換えただけで少しは受け取られやすいだろう方を伝える。
「嬉しいね」
 小さく言った蘇汎がそんな表情をしていたかは、彼がすっとうつむいたのでわからなかった。しかしその声には嬉し気な響きが確かに聞き取れた気がして、景舜の心はほんのりと熱くなった。
「それは、なにより」
「うん」
 何かに背を押されて、二人を取り巻く空気が、どこかこれまでとは別の方向へと流れ出した気がした。

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