長風歌

桂葉

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七章

朧月


 言ってみれば寮でしかないものに、これだけ贅を尽くす必要があるのだろうか。
 この辺では私邸でもあまり見かけないほどの、立派過ぎる門構え。それを囲む塀の果ては、日の暮れかけてきた今くらいの時間にはもう、闇の中に溶けていって目視ができない。塀の向こうに見える屋敷の屋根は幾重にも連なっており、何棟になるのか、これもまた数えきれない。役所の建物も大きいが、そこにくっついているこの屋敷もかなりのものだ。都の官吏たちはこんな豪邸で当たり前に暮らしているということなのだろうが、景舜の目には無駄の塊に見えてしまう。これだけの規模の家に、一体何人が住んでいるのかと思えばなおさらだ。
 それはさておき、とうとうこんなことになったかと、その門に見下ろされて立ち止まった景舜は重く息をついた。
 これまで外から塀を見るしかなかった、立派すぎる屋敷だ。その地位に就く人間と、それが許した一部の人間しか立ち入ることのできない場所であるため、周囲を警備することがあっても中に入ることはまずできないはずだった。が、その門扉は今、景舜のために開かれている。
 ここにも当然のように門番がいるわけだが、彼らは屋敷の主直轄であるため、景舜らとは仕事を同じくしない。顔は見知っているが、挨拶もしないような関係だ。名を名乗ると話が通っていたようで、すぐに通された。突然の賓客扱いが、どうにも落ち着かない。
 中に入るとすぐに有伊が出迎えに来て、にこやかな笑みを見せた。彼はここでも蘇汎の世話をしているようだ。あの顔を一日中見ていて平気なあたり、この人の美的感覚はいっそ狂っているのではないかと疑ってしまう。
「どうぞ、主がお待ちです」
 県府でのこの人は、もちろん景舜よりも位が高く、何度か出くわしてもこちらが道を譲り頭を下げることになるわけだが、今日は違う。当然のように使われた敬語も、景舜をこの屋敷の客とみなし、敬意を払っていることの証だった。その絶妙な切り替えは、景舜に負担を感じさせないほどに自然で、この人の気遣いと聡明さを思わせた。
「有伊さん、あのさ」
「はい?」
 ついてきなさいと向けられた背に呼びかけると、足を止め、身体ごと振り返って有伊は景舜の言葉を待つ。
「俺なんかがこんなとこ来て良かったのかな。あんただって変だと思ってんでしょ?」
 有伊が一瞬苦笑して、それからあっさりと言った。
「何を今更。主がお認めになったことが全てでよいのでは? 私の目から見て、彼の方の人を見る目は確かですよ。なので、君がここに招かれることも、お止めしていません」
 さあ中へと促され、まだどこか座りの悪い思い半分、今の言葉で半分は気が軽くなり、景舜もついて行った。
 通されたのは、庭に面した一室だ。造園の知識など皆無の景舜にも、そこが庭を楽しむために設えられた、ごく私的な空間だということが分かった。いわゆる客間は、この部屋の反対側に見える間取りの広い部屋だろう。庭も、各部屋から見る角度を変えて楽しめるように作られている。示し合わせた満月の宵、これから更けてゆく夜の庭の姿がとても楽しみだ。
「やあ。来たね」
 広い大床の上にくつろいだ様子で座っていた蘇汎が振り返り、流れるような所作で自分の隣を示した。
「さすがの場違い感に、三回帰ろうと思ったぞ」
「つまらぬことを言うな。今日は楽しんでほしいんだ。君の好みを聞きそびれたから、私の采配で用意させたが、口に合うだろうか」
「合うさ。あんたが選んだんなら絶品だろう」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
 そんな会話を交わしながら、景舜は靴を脱いで大床に上がった。景舜が勧められた場所に腰を下ろすと、床を囲む帳が下女によって半分降ろされ、開け放たれた部屋でも夜風を遮る配慮がなされた。高貴な人間は、こういうふうに月見酒を楽しむようだ。
 改めて見れば、蘇汎はわりと軽装だった。中衣の上に、薄手の上衣を肩から羽織って袖を通していない。普段よく見る官服は赤だが、今日の私服は白が基調で、薄い青みのさす上衣に流水の刺繍が控えめに施されている装飾は、蘇汎の上品な美貌をより引き立てているようだった。今日も後ろ髪を下ろした姿で、まったく、もう少し警戒してくれてもいいのではないかというほどに色気がある。公務外の蘇汎を見るのはこれが二度目になるが、素に近いのであろうもの柔らかな表情や態度は、これを見て惚れずにいられようかという美しさに加えて親しみもあり、腹が立つほど男泣かせである。
 さっそく酒と膳が運ばれてきて、一つの卓に二人分が並べられた。生ものも乾きものも風雅に盛り付けられていてつい目を引き、見惚れている目の前に青磁の杯が差し出された。
「ようこそ」
 機嫌よく目を細めた蘇汎にもしっかり目を奪われながら、景舜は杯を受け取った。
 互いに注ぎあって、乾杯を交わす。鼻腔をくすぐる甘い香りを楽しんでから、舌に流した美酒は実に芳醇であった。
「どうだ? 少し甘すぎたか?」
 まだ自分は杯に口を付けず、蘇汎が問うてくる。もてなしに抜かりはないのだろうが、それでも景舜の反応が良いことを確認せねば気が済まないらしい。
「いや。いい酒だ。香りが甘いけど、後に引かなくていい」
 ぐいと干した景舜の評価を聞き、蘇汎もやっと杯を傾けた。
「これは都から持ち込んだものでな。私が今のところ一番好きな酒だ。この辺りにも銘酒はあるが、君は飲み慣れているかと思って」
「俺はいい酒は飲まねえって。でも、さすが都には酒もいろんなのがあるんだろうな」
「そうだな。求めれば何でも手に入る、というところだ。故に飽きるということもあるぞ」
「そうか?」
「そうだ。なんでもありすぎて、かえってどれにも飽きるんだ。贅沢な悩みだが、都人なんてそんなものだ。私にはここくらいの辺境のほうが向いてる」
 ちら、と景舜を見る蘇汎の目元は、これもまた上機嫌であるせいか酒気のせいか、いつもよりも解れているように見えた。
「ほんっと贅沢だな。あんたみたいなんがこんな田舎で満足するはずねえだろ」
「そうでもないさ。あまり派手な性格ではないのだよ、こう見えて」
「……」
「なぜ黙る。異論が?」
「いや、わりとそうなかって思った。仕事してる時と、そうじゃない時の差が激しいんだよな。私生活わりと地味だろ」
 この間町に出たときの様子も、遊び慣れている雰囲気ではなかった。こんな広い屋敷には思った以上に使用人が少なく、飾り立てる装飾も控えめだ。ふだん彼が一人でどう過ごしているのかはわからないが、一人で詩でも作っている程度なのではないかと思う。
「そうだよ。変わったことなんかしてない。だからこうして、一人酒が寂しくなると人を呼びたくなるんだが、誰でもいいというわけではなくて、だから結局一人で飲んで……みたいなつまらなさだ。今日は相手がいて嬉しい。だから見なさい。進むのが速い」
 言って、蘇汎は白い指に杯を掲げて見せた。透かしの入った繊細な文様の杯が、燭台の細い明りを反射して煌めく。
「速い? これで?」
 注ぎ足されるまま三杯空けた景舜に対し、蘇汎はまだ一杯目が半分残っている。何度も口を付けているくせに、舐める程度しか飲んでいないようだ。
「あんた、酒弱い?」
「あまり強くないのでな。醜態をさらさぬように、少し加減して飲んでいるつもりなんだが、それでも今日は速い方だ」
「あはははは。なんだそれ」
「そういうつまらぬ男だよ、私など。だから、この間の県尉の宴を早めに退席したのも、半分はそういう理由があるんだ。変に深酒してしまったら、本当に何をされていたかと思う」
 考えるだけでゾッとすると、肩をすくめて蘇汎は言った。
「……やっぱそういうことなのか?」
「恐らくね。困ったものだよ。私はね、この見てくれで長年生きてきているが、男にどうこうされるつもりはないんだ。都にいた時もそうだ。どいつもこいつも人を寵童にしたがって、汗に濡れた手でべたべたと。この歳でいいのかと言って拒んでも、相手がもっと上だから構いやしないのさ。色ボケジジイどもめ」
 ぐいと、あおるように飲む。苦々しい横顔は、景舜の目には珍しい。
「ああ、ほんと、私生活は普通なのな。口まで悪くなって」
 などと言いながら、少しだけ心の痛んだことに気づかずにはいられなかった。これが、景舜への牽制でないことは明らかだとしても、である。
「若い頃は、大丈夫だったのか?」
「まあ、苦労はしたけれどね。もともと家柄が家柄だし、親も兄もそれなりの官人だから、下っ端はあまり手を出そうとしてこなかったな。まあ、惚れたのなんのはしょっちゅうだし、手を握るくらいはされたけど。私の官位が上がってからの方が厄介だった。父よりも上職の人間がしつこくって」
「……」
 つまり、その代表が、ここに赴任するきっかけになった人物ということか。言われてみればもっともな話。蘇汎は若くして頭角を現したがゆえに、周囲が皆自分より年上という環境に身を置くことになったわけだ。役職や官位の上下に加え、年齢までが蘇汎を弱い立場に追い込んでいた。相手の理性次第という危機にも、幾度となく見舞われたことだろう。
「すまないね、あまり気分のいい話ではなくて」
「いや。その……いいんだ。そういうことって、気になっても聞けるもんじゃないし、あんたが俺に話していいって思うなら、聞かせて。もし嫌じゃなかったら、前の上官ってやつのことも」
 興味を持つのは無粋に過ぎることだ。だが、今蘇汎に想いを寄せる身としては気にせずにいられるものではない。何があったか……、その時に蘇汎がどういった感情を持ったのか。せめてそれをなぞるようなことはしたくないものだから。
 それでも深追いはすまいと蘇汎の様子を伺ったが、少しの苦笑の後、彼はゆっくりと口を開いた。
「ああ、気になってるだろうね。前の上官、礼部の侍郎だった。今は罰を受けて別のところにいるけど」
「罰?」
「そう。私を手籠めにした罰」
「!」
「ではなくって。不正の責任をとらされた。ただ、その不正を表に出したのは私。彼に本気で迫られていて、それから逃れたくて、騒ぎを起こした。関わった部署の官吏は全員降格処分で、そのうちの一つがここ。地方勤務を敢えて買って出た。皆、都からは出たがらないからね、私には願ったり叶ったりだったというわけだ」
「……そういうことだったのか」
 自ら都を出るくらいに、蘇汎もまた本気だったのだ。しかも罪の告発によって被ったものは、他にも少なくはなかっただろう。
「まあね。あのまま礼部にいたら、彼のものになるしかなかったのだと思うよ。彼は私の尊敬する上官だったんだが、色恋を持ち込まれて全てが破綻した。彼は官吏としてとても優秀で潔白な人だったんだけど……。残念。もう尊敬の対象ではなくなったよ」
 相手を軽蔑すらしたような扱いに未練のようなものは聞き取れず、景舜は内心安堵した。しかし。
「……やっぱ、嫌だよな。男に迫られるなんて」
「まあ、ふつうは嫌じゃないかな。出世のために縁故を作りたくて、容姿を武器にいろんな人と関係を持つ者もいるんだけど、私はそういうのにはなりたくなくて。っていうか、尊敬とそういうのとは別のものだろう? 私は彼には恋をできなかったってことさ。惚れてもいない相手に抱かれたいと私は思わない。そういう話」
「……そう、だな」
「呆れた?」
「いや。そうじゃない」
 やはり、蘇汎にそのつもりはないのだろう。これだけ親し気にしていても、蘇汎の景舜に向ける情に恋はない。こんな話を聞かせるのだから、そういうことだろう。それがどうしても、切なかった。別に、何かを望んでいたわけでなくてもだ。
「では、幻滅?」
「なんでだよ。違うよ」
「じゃあ、なんで何も言ってくれない。って、別に意見を聞きたくて話したんじゃないんだけどね。君には、私がこういったことにどういうつもりでいるのかを知っていてほしかったんだ。人の噂じゃなくて、私の言葉で理解してほしかった。私は、他人が言うほど器用に生きているわけじゃない」
「ああ。それはわかってるよ」
「ほんとうに?」
 身を乗り出した蘇汎の顔が近くなった。
「そうだから、苦労すんだなって思った。でもさ、あんたの容姿は本当に美しくて、それ込みであんただから。その苦労ごと。だから、……」
 そんなあんたが好きなんだ。と、今言うわけにもいくまいが、結論はそうだ。
 男に抱かれたくない宣言をされた直後に伝えるほど馬鹿じゃないが、伝えたい思いは強くて、それに代わる言葉がなかなか見つからない。
「ちょっと失礼するよ」
 言葉を手繰り寄せきる前に、蘇汎が卓を後ろへよけた。
 そして何をするかと思えば、よいしょと景舜の肩にもたれかかってきた。急に感じた蘇汎の体温に、胸が甘く疼く。
「重い?」
「そりゃ、そうでしょ。でも、そのままでいいよ」
「ありがたい」
 時に視線を外したいこともある。それで通じる何かを感じ取るように。先程の言葉の続きも、この温もりから伝わることを願う。美辞麗句なら聞き飽きているであろう蘇汎が心から欲する言葉を用意できるほど、景舜は口達者ではなかった。
「月が上がってきた」
 行き詰った会話の逃げ場所を雅に託すように、蘇汎が言った。
「ああ。綺麗だ」
「ずっとこうしていたいな」
「ん?」
「戯言だ」
 誤魔化されてしまったが、そこに蘇汎の本心は確かに在ったのだろう。
 少なくとも、上官とのことで蘇汎の心は大きく傷ついた。この人はとても情が深くて、また相手の情にも恐らく敏い人だ。きっと相手の想いもできるだけ大事にしたかった、でもできずに互いを傷つける結末を自分が導いた。そのことにまだ未練とは全く別の痛みを抱えたままここに来て。それで今、別の何かで安らぎを感じているのは確かなのだろうと思う。
 景舜としては、それでいい。蘇汎が望むだけこうして……、心を休めていればいいと思う。けれども、それだけでもない。
 とことん甘やかしてやりたい思いと同時に、弱さの向こうにあるものこそ蘇汎の美しさを引き立てるのだと思うから。
「あんたは、こんなとこでくすぶってる人間じゃない。今はいいんだけど、どうせすぐに物足りなくなるに決まってるって。戻りたいなら三年も待たずにそうすればいいんだろ?」
 この蘇汎が三年も足を止めているとは思えない。だからそう言った。だが、返されたのはまだ強がりには程遠い言葉だった。
「君と一緒ならば都に帰ってもいい」
 笑ってしまうほど甘ったれたその心は、彼の素直な一面だった。隠しもせずに伝えられ、景舜はさすがに参った。蘇汎が女なら立場云々などかなぐりすててこのまま抱き寄せていた。しかし、彼はそれを求めないし、そんなことでは癒されないのだ。
「それはまあ、頑張るから。二年は待っててよ」
「本気だよ? 君とは離れがたい」
「あんた、淋しいのか?」
「そうだね。そうとも言うのかな」
 他にはどう言うのか。それは蘇汎の口からは明らかにされなかった。けれども、「淋しい」という表現が間違いではないのならば、放ってもおけまい。
 これだけ求められて、自分には何ができるのか、わからなくなってきた。この恋心を抱えたままで、蘇汎の期待に、甘えに、真意に、応えることは可能なのだろうか。
「なあ、蘇汎」
「うん?」
「今からあんたが嫌がること言う」
 ここで拒まれても仕方がないと思った。この先は、恋を度外視ではとても均衡がとれなくなる。形にしなくていい、ただ、そうあっての好意であることだけは、蘇汎が知っていてくれなければなるまいと、覚悟を決めて。
「なんだそれは」
「うん。さっきの話も聞いちまったし、黙ってるのも騙してるみたいだから、言うわ。俺、あんたが好きだよ。惚れたってやつ。ごめんな」
「おや。そうなのか」
 意外にも軽い反応だった。蘇汎の顔は、自分の肩に邪魔されて見えない。
「嫌だったら、あまり深入りしない方がいい。ただし、俺はあんたの前の上官みたいには……」
「君ならいいよ」
「え」
「君なら」
 蘇汎が顔を上げたことによって、間近に見つめ合うことができてしまった。
 景舜の言葉を遮ってまで伝えられた言葉はあまりにも端的で、そこに込められた心をとても読み取る事が叶わない。だから目を見た。視線は絡むほどにしっかりと重なり、言葉よりもずっと生々しく、想いを伝えあった気がした。



 口づけを乞うていたのは、自分。そう言い聞かせて景舜は、そのままそっと、触れるギリギリ手前まで唇を寄せた。
 ふっと、蘇汎がわらった。その隙に、重ねた。柔く、仄かに温もりのある唇から、甘く酒気が香った。
 一瞬の触れ合いに、通ったのは一種の熱と、それから何なのであったか。
 とてもそのまま触れ合わせていることができなくて、逃げるように離してしまった。
「わり。堪えられなくて」
「ふふ。そうだね。たいへんだ。口づけなどしてしまった」
「蘇汎?」
「大変、たいへん……」
とろりとした声で言ってから、蘇汎はかっくりとうつむいて、景舜の背に完全にもたれかかった。まさかこれは、寝落ちか。
「おい、蘇汎。ずるいぞ、汎! 寝るな!」
 背を揺らしてみたが、反応がない。嘘だろうと内心呟いてから、急に鼓動が速くなった。
 今のは。
 いや、何が起こったかは理解できている。だからこうも焦るのだ。思いがけないものが返ってきて、用意していたすべてが役に立たなくなった。しかも今相手は心地よく転寝を始めた。この乱れる心を持て余すのはこちらだけ。
 なんだ、ちゃんと説明してから寝やがれこんにゃろう!
 ほとんどが照れくささではありながら、なんとも無責任な丸投げを涼しくやってのけた蘇汎が憎ったらしくて、それを可愛く思う自分に呆れて、そして……、そんな諸々はどうでもよくなるほどに心地よかったあの一瞬が愛しくて、とても頭を冷やすことなどできようはずがない。
「ずいぶんと召されたようですね」
 いつから様子を見ていたのか、ややして有伊が姿を現した。まあ、口づけを交わした場面は帳に隠れて見えなかったことだろう。
「つったって、三杯だけでこれっすよ。この人こんな弱いの?」
 そもそも、この席が始まって、酔いしれるほどの時間は経っていないはずだ。ろくに料理も進んでいないこの段階で潰れるのは何なのだ?
「好きでも強くはないようですね。ですが、こんな酔い方は初めて見ました」
「そうなの?」
「ええ。いつもはこう、ほんとうにちびちびと、庭や月を見ながら時間をゆったり味わうようにお召しになるんですよ。ほろ酔いを楽しみたいんでしょうね。それが、ぐいぐい行きましたね。君がいるだけでこうなるとは。実に面白い」
「俺のせい?」
「そこでとぼける必要はないでしょうに。何を考えてるんでしょうね、この方。案外奔放なのかな」
 呆れるように言いながら、もの言いたげな視線を投げられ、景舜は苦笑するしかない。
 何を考えているのか、聞きたいのはこちらの方だ。
「にしても、ずいぶんと、まあ……」
 蘇汎の手から落ちて転がった杯を拾い、有伊はふふふと笑った。
「あなたがたは……」
 そっと言いかけた有伊の問を、景舜は慌てて強引に遮った。
「あー、そういうのじゃない!」
「そうなんですか? もう、これ、どう見ても……」
 改めて二人の様子を眺めると、やはり感じるところがあったのだろう、有伊は言ったが、今度は彼が言葉を途切れさせた。
「そういうんじゃないよ。俺がそうしない」
「あなただけの問題でもないでしょうに」
「だとしても、だ」
 意地を張るようになってしまったが、仕方がない。蘇汎にどこまでのつもりがあるのかもわからないし、もしもまかり間違って同じ想いを抱えていたとしても、成就させるべきかについては十分に検討が必要なはずなのだ。
 だた伝えるだけだから、景舜はそうした。しかし、応えてくれとは言えなかった。
 あの口付けがその代わりに交わしたものであったとしても、酔った蘇汎がやったことに、真実を求めていいものかはわからないだろう。そのつもりのなかったことを、酔いが、させてしまったのかもしれない。せめて素面の蘇汎から想いを伝えられなければ。考えるのはその後だ。
「……わかりました。そういうことにしておきましょう。運ぶの、手伝ってくれます?」
 有伊が蘇汎の腕をそっと持ち上げたところで、景舜は彼の体を自分の方に引き寄せた。
「ああ、俺が運ぶよ」
「ほら、やっぱり。いいんですよ、ここに泊って行かれる支度はできています」
「ちょっと。よしてよ、なんか生々しいんだけど」
「ふふ。別室も用意していますと言っているんですが?」
「……勘弁して」
「わざとです。御安心なさい。私はこの方の側近。今後お二人がどうなろうと秘密は厳守しますので」
「あー。もう。手は出さないって。ほんと、誓う」
 言いながら、顔が赤くなる自分には気が付いていた。もうそういう想像には難くない自分ではあるが、周囲に焚きつけられるのはさすがに身の置き所がないし、蘇汎がまさに無防備極まりない状態でいることも、不埒な欲を掻き立てられそうで困る。
「ふふ。ではとにかく運んでしまいましょう。ここで寝られても困ります」
「だよな」
 有伊の手を借りて蘇汎を背におぶい、酔いつぶれを自室に運んだ。
 あまり物のない、広い部屋だった。県令という立場ならもうすこし華美に装飾があってもいいと思うのだが、あるのは大きな飾り棚と、そこに鎮座する小ぶりな香炉だけだ。あとは文机と応接用の椅子がひと揃え。そういえば、この人が赴任してきたときに運び込まれた荷物はあまり多くはなかったことを思い出す。
望まずとも、奥の寝室に入ることになった。そこは衝立で仕切られた空間で、天蓋付きの大きな寝台が真ん中に置かれていて、飾り窓の造形が美しい。
 その、かるく二人が寝ても余るほどの寝台にそっと蘇汎を寝かせ、靴も脱がせ、詰めていた襟を少しだけ緩めてやった。もともと軽装だったので、これで十分だろう。
「後で軽食を運ばせますね。この左の部屋はご自由にお使いください。私は向かいの棟の部屋で休みます」
さて自分の役目は終わりとばかり寝室を出て行こうとする有為を、景舜は咄嗟に引き留める。
「待って、これどうすんの? 俺帰らなきゃ……」
 このままここにいては、あまりにもあんまりな状況。寝室から出て居間で待つというのも、何のために?と首をかしげるところだ。
「この方の世話をお願いします」
「え」
「私より、君の方がこの方も喜びます。そのうち起きますから、顔を見てから、帰るかどうか決めて差し上げてください」
 ね?と、妙な圧で言われ、逆らえない景舜である。
「……わかった」
「では、よろしく頼みます」
 有伊は言って、ささやかな笑みを残して部屋を出て行った。彼の静かな足音が完全に去ってしまうと、急に取り残された感が襲ってきた。
 このまま自分もそっと出て行っても、それほど問題はないのだと思う。しかし、目を覚ました蘇汎が寂しがることも、有伊に言われずとも予想ができた。
 それに、今夜中にどうしても確かめたいことがある。なんなら今叩き起こして問いただしたいくらいには、気が急いてもいる。
「なあ、あんたどういうつもりだよ? 俺ならいいってどういう意味?」
 寝台の端に腰を下ろし、相も変わらず美しい顔を晒して目を瞑る蘇汎に、景舜は声に出して迫った。どうせ目を覚まさないだろうと思っていたが、
「……私はなにか言った?」
 急に正気な声とともに蘇汎が覚醒したことに、心底驚いた。
「おわっ! 起きたのかよ」
 驚き過ぎて、軽く尻が飛び跳ねたのではないかと思った。
「君の背は気持ちがよかった。ありがとう。もう大丈夫だ。酔うのも覚めるのも早くてね」
「なら、飲み直す?」
「君は飲んでいいが私はよしておこう。でもまだ腹は減っているな。運ばせて、残った料理を楽しもうかな」
 よっこらしょと、妙に年寄りくさく上半身をおこし、崩れかけていた髪の元結を解く。
 豊かな黒髪がさらりと背に落ちて肩にかかり、自然に任せると頬を覆うのを白い指が耳にかき上げる。腹が立つほどの艶である。男でこれはないだろうと、色めくよりも呆れてしまうほどだ。
「私の部屋だし、このままでいい?」
「いいけど」
「けど?」
「襲われる気かよって話」
「ないなあ、それは」
 あっけらかんと言われ、肩を落とす。どうせそんなことだろうと思った。
 まさか本当に、あの口付けと、その前に景舜が言ったことを覚えていないのか、忘れたつもりなのか。このままうやむやにするのを蘇汎が望んでいるとしても、景舜の方はそうはいかない。
 寝台から立ち上がり、足袋のまま居間に向かおうとする蘇汎の腕を、景舜は掴んだ。
 そして再び寝台に座らせ、向かい合う。
「なあ。答えて。俺ならいいってどういうこと? 覚えてんだろ、俺があんたに言ったこと」
 見つめると、蘇汎も視線を逸らさなかった。
「……うん」
「それに対して、俺ならいいって口づけ許したのは、そうだと解釈していいのか?」
「……」
 蘇汎の表情が硬くなったことで、あれを肯定的に受け止めてはいけないことを察する。
 じゃあ、どうしろというのか。
 気が焦り、言い迫りそうになる自分をぐっと抑え、唇を強くつぐんだ蘇汎を見つめ続けた。
「黙るんだ? いいよ、別に困らせたいわけじゃないし。もしはっきりしてるなら、聞いておきたいだけ」
「待って、くれないか」
 焦れたことに気づいたか、今度は蘇汎が急くように言った。
「いま、すぐじゃなくてもいいけどさ」
「待て。そうじゃない。聞いてくれ」
「うん」
 およそ甘い空気ではなかった。二人、手を伸ばせば楽に抱き寄せられる距離で向き合い、交わすのは張り詰めた空気。それと、どこかままならない己が言葉を何とかして伝えようとする声。
「君になら想われてもいい、という気持ちが確実にある。まずはそういう意味だ」
「……そっか。そうなんだ? 嫌じゃないんだな。俺からもそういう目で見られるの」
「ただ、……君の想いに応えるのかどうかという点においては、まだ、すぐに決めかねている」
「うん。それはそうだと思うよ。いろいろ、あるだろうから」
 それでも、こうして迷い悩む姿を見られたことは決して悲観するべきではないはずだ。一刀両断、全面拒否されることも十分あり得るところ、今の状況はまだ、前向きに捉えることができる。
「でもさ、口づけしちゃっていいくらいの気持ちはあるわけ? そう思っていい?」
「……迂闊だった」
 掠れるように呟いた蘇汎の頬が真っ赤だ。可愛い。これは後悔しているというのではなくて、照れているのだろう。
 理性が止めるまでに事を成してしまったのだとすれば、なかなか期待はできそうじゃないか。男らしい衝動的な欲はまた同じものを持つ景舜の欲とはぶつかるのだとしても、そのような情熱を自分に対して向けられたことそのものは、素直に嬉しい。皆無だと思っていた可能性に希望も持てるというものだろう。
「君のことを悪しからず思っていることは認めるし、それを今更なかったことにはしないよ。でも、男に抱かれる気がないというのも、本心としてあるんだ。この意味は分かるか?」
「……そっち? 立場とか三年後どうするとかじゃなくて?」
「三年後よりも今だろう。例えば今ここで君に応えるというのが、抱かれるということなら、そういうつもりにはなれないんだ」
「……そう、なんだ?」
 三年後よりも今。その感覚は、景舜にはないものだった。
「前にも冗談で言っただろう。君は私を抱けるのだろうが、私は君には抱かれないよ」
「逆ならあるってこと?」
「可能ではないかと思う」
「わ……。そうなんだ? 喜んでいいのかよくわかんねえな」
「君を落としてもいいか」
「は?」
 ぐいと、蘇汎が身を乗り出した。肩を少しだけ強く掴まれ、引き寄せられた。
 蘇汎の綺麗すぎる顔が寄せられ、瞬きの間に唇に触れられた。さっき交わしたそよぐような口づけではなく、押し当てるような。けれどもそれ以上は求めずに、スッと離されてしまう。
「どうだ、流されてみないか」
「待て待て、冗談きつい」
「気持ちよくなかったか?」
「そういう問題じゃねえの。あんたが俺に抱かれないように、俺も抱かれるのはちょっとな、無理かと思う」
「それを落とす。どうだ? その気にさせた方が勝ちだ」
「……勝ち負けかよ」
「そうだ。だが、無理強いはなしで。三年ある。その間に、この関係がどう変わるかなどわからないだろう」
 まるで遊戯の掛けを始めるような勢いで言われ、さすがに戸惑った。あまりに意外な急展開に、頭も心も瞬く間に置いて行かれる。
「なんでそんな急にやる気なの。そういうんじゃなかったんじゃないの?」
「それは、君にその気がないと思っていたからさ。自分でもそうだ。可能性を排除していただけで。しかし君がその気なら、話は全く別だ。この際だから言うが、初めから私は君が好きだ。おそらく剣舞で一目惚れしたのだろうね」
 得意げに言う笑みがあまりにも勝気で参る。
 そうだとしても、たった一度の口づけでこれまでの蘇汎自身の心を恋と認識し、しかも自分から景舜を落としに来るなどとは。けれども、この蘇汎に関して言えば、彼の言葉が勘違いやその場の勢いだとは思えない。
「……ついてけねえ」
「なら、おとなしくここで流されるかい?」
 それもいいけどと、にっこり微笑む。妙に迫力のある笑みだ。
「つーか、お綺麗なあんたはともかく、平平凡凡を絵に描いたような俺のどこにその気になるんだよ、あんた」
「……言った方がいい? 本人が気付いていない君の魅力というものはけっこうある」
 今度は真顔。この顔で口説かれるのも何かが違う。抱くの抱かれるのの話をしているのに、どんどん艶めいた雰囲気から遠ざかる気がするのはどういうことか。
「いや、聞くと完全に流されると思う。俺あんたには弱いんだ。言うこと聞いてやりたくなる」
「いい傾向だね。その調子で今後もよろしく頼むよ」
「嘘だろ、なんなんだこの展開」
「何なのだろうね。私も驚いている。君が告白などするからこうなったのではないか?」
「俺のせい?」
「可能性は否めない。言い出さなければきっと、こうはならなかったよ。しかし、悪くない展開だ。実に楽しい」
「……」
 強い風に煽られたような、自分を持っていかれそうな感覚。
 身を任せてしまえばさぞ気持ちよかろうと思う期待を、まだなんとか押し留めていたい。そんな心の揺れを、蘇汎の方はおそらく知る由もないのだろう。
 しかし、彼がこの状況を否定するでなく、むしろ楽しむことにしたらしいことは、悪くないと思えた。どちらが落とされるか。それはつまり、彼が落とされる可能性もまだ排除していないということで、うまく持っていけば案外、という期待をこちらも持ち続けることができる。
 いい歳の男二人、惚れたのなんのの話がこれほどに色気のないものになるのも笑えるが、事は思いがけぬ方向へと転がりながら、少なくとも景舜にもまた、先の見えない恋を楽しませてくれそうである。



 翌朝、景舜が蘇汎の寝室からちょうど出てきたところ、様子を見に来た有伊とがっちり出くわした。
「ほら、やっぱりこうなった」
 彼の揶揄う顔も露骨だ。知らぬふりをするのも馬鹿馬鹿しいとでも思われたようだ。
「って、なんもねえから! ほんとだ」
 景舜は、全身全霊で叫ぶ。嘘ではない。
ただ、寝室の長椅子で寝た。それだけ。二人で寝られる広さだからと蘇汎からは寝台を進められたが、そこで乗ればまんまと抱かれるか抱きたくなりかねない気がして、とても頷けなかった。
 それでも、夜中目が覚めないようにと必死に祈りながら掛布を引きかぶって眠った。寝ぼけた状態でうっかり蘇汎の寝顔を見るとか寝息を聞いてしまうと、理性の保証はできなくなる。ただこちらが迫る方向ならともかく、向こうもこちらを狙っているという話だから、下手に手出しをすると返り討ちに遭う危険性があるから注意が必要だ。……あの文官を景舜の力でねじ伏せることはおそらく簡単だが、それは絶対にしたくないし、すればそこで二人の関係も終わるのだろうから、あくまでもこの先の行為は互いの合意が不可欠だと思っている。彼もまたそのように言っていたことだ。
 遅れて衝立の向こうから姿を現した蘇汎が、ふわあと欠伸をした。その油断だらけの寝起き姿はやはり目に毒だ。目覚めは悪い方なのか、どこか活舌の悪いくぐもった声で蘇汎は言った。
「残念ながら、景舜の言うとおりだ。そういうことにはもう少し時間が必要でね」
 高位の人間は、艶事に関しても下の者には隠さないのだろう。慎みがないぞと思ったが、ここで照れると蘇汎にいいように解釈されそうで、景舜は黙る。
「時が解決すればそうなるのですか」
 と、すかさず有伊。この人は完全に、状況を楽しんでいる。
「どうだろうね。楽しみだ」
 なあ、景舜? と話を振られ、頭を抱えた。このあけすけなのだけは、どうにもこうにも耐えがたい。
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