長風歌

桂葉

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八章

焦燥


 後悔をするつもりはない。ただ、これほどまでに自分を止められなくなるとは、正直全く思っていなかった。
 酔ってはいた。しかし、その酔いに乗じて感情の赴くままに、あのようなことに、なった。
 自らの所業をいっそ忘れていればと思わないでもないが、実際はくっきりはっきり記憶に残っていて、しかもその時の気持ちまでも蘇ることが可能で、思い返すとなんとも厳しいわけである。
 あの時。触れるしかないほどに近く見つめ合って、自然に惹かれた。彼の心に。
 触れてみればあまりにも甘美で、夢のように心地よくて、自分に足りていなかったものが全て満たされた気がした。その幸福感の前には、他の何も意味をなさなくなった。
 転寝から覚めて、景舜がどこか思いつめたように問いかけてきた時に初めて、己が心の示す方向について考えた。そして、ずいぶんと早まってしまったことに気が付いた。
 では、もっと慎重であれればそれでよかったのかといえば、そんな単純な話ではない。三年という期限の見えている自分が、衝動に身を任せて彼の手を取るのはあまりにも軽率だろう。しかし、思われていることを知り、それに安堵と喜びさえ感じてしまった自分に抗うこともまた、難しかった。
 左程に自分は人のぬくもりを求めていたのか? それもそうなのだろう、しかし誰でもいいわけではなかった。 望まぬ相手からばかり想われ、人の情に触れることにも臆病になってしまった自分が、景舜を受け入れたいと思った。「君ならいい」。流れるように口から出た、これが答えだ。
 その口で、男に抱かれるつもりはないなどと言ってのけた。これも嘘のない心なのだから、伝えた方がいいのだと思った。何人もの男に抱きたいと迫られていても、自分は絶対嫌だと思ってきたから。今もそれは……意とせず抱かれたくないという意識が固定観念にまで凝り固まってしまったせいかもしれないが、それは……、まだ変わらず。
 景舜もまた、蘇汎に劣情を覚えるのであればそれはそういうことだろうと感じたから、思わず抵抗を見せてしまった。それで、こちらが落とすなどと、つまらぬ意地を張ってしまう結果になった。
無理だろうとは、思っている。景舜はそっちではない。なのに、彼の心を手に入れていたくて、ずるいやり方を取った。ため息しか出ない。
 問題はそれだけではなく、ますます言い出せなくなった件が理性とともに思い出されて、また胸に重く沈んだ。
 既婚者だと、子まで成した妻がいたと知れば、さすがに嫌われるだろうか。
 これまでは、心を開きたいと思う相手もいなかったことで、亡き妻に操を立てることができていた。しかしだ。ここに来て、自分は恋をした。疑うべくもなく、これは恋だろう。でなければ男と口づけなどしたいとは思わない。
 これでいいのかという疑念が、胸に迫る。
 母親似である梅梅の屈託ない笑みが瞼に浮かび、苦しくなった。
 彼女らへの裏切りか? しかし、世の中再婚などいくらでもある話。妾を持つ男だってたくさんいる。罪ではないはずだ。
 それでも心が痛むのはきっとそちらへの呵責ではなくて、おそらく景舜への。
 彼はこれを知って、どのような顔をするだろうか。蘇汎のすべてを受け入れてくれるだけの器が、彼にあるのか、あまりにも怖くてとても計れない。
 言うのか。言って、彼次第とするのか。
 言わずに、彼と始めることを選ばずに終えるのか、決めかねて。
 だから、咄嗟にあのような提案をしたのだろう。自分にはそういう計算高いところがある。
 やはり君を落とせなかったと、あるいは逆に、こちらも落とされるつもりはないという結論を逃げ口に、互いが傷つくことを避けられるように。
 自分が自分として生きてきた過去を、否定したくはない。だからといって、すべて受け入れてもらえることを信じられるほど、強くはないのだ。
 蘇汎よりも年若い、左程世間に揉まれてもいなさそうな、純朴さをどこかに残した青年。景舜に、自分をそのまま引き受けてくれなどと、望んでよいのかさえもわからない。


     ●


 付属する悩みは尽きぬとしても、想われていることを知った蘇汎は、飛躍的に気分が明るくなったことを自覚していた。これまで自分がどれほど暗鬱に過ごしてきたかということに、ようやく気付かされたというところだ。
 胸に一陣の風が吹き抜けた後のように、何かが一新された感覚がある。
 実は、妻と祝言を上げた頃も、こんな感じだった。自分もこれでいっぱしの大人だという自負、それから、この手で慈しみ守るものを得た自信と喜び。煩わしいものを振り払うに値する理由を得たことも大きかった。
 祝言までは何度も顔を合わすことのなかった妻も、夫婦の杯を交わして後は、この顔を美しすぎると言って笑いながら、蘇汎を慕い愛してくれた。自分の、自分だけの愛しき者に愛される喜びは、蘇汎をとても強くした。子を宿し、日に日に大きくなる腹に少し驚きながら、耳を寄せた日々。妻を抱きしめる力加減が分からぬと言っては「そんなに弱いものではありません」と返されたことも思い出す。
 しかし、娘を生むときに、妻の衰弱は著しかった。あまりに痩せて母乳が出なかった。梅梅は乳母に託されたが、妻は、その後三月回復せぬままに、軽い風邪をきっかけに冥途へ旅立った。
 娘を得た喜びと、妻を失った悲しみ。どちらをも選べぬ心が引き裂かれそうだった。それでも娘のことは大事にしてきた。その後蘇汎は官吏として認められ、出世もしたせいで梅梅のことは姉に頼るようになった。周囲の人間関係がたちまち複雑になり、気が付けば自分の身を守り誰にも心を許さぬことに必死になってきた。
 そしてあの事件だったのだ。
 あの人から逃げられればそれでいいとなりふり構わず都を出、もう何物にもとらわれずに淡々と過ごすつもりでいたのに、ここに来て、心を懸けたい相手を見つけた。また人から想われる喜びに出会えた。年甲斐もなくはしゃいでしまうくらいに。
 嬉しかったのだ。景舜から想われていると知り、馬鹿みたいに嬉しかった。理由も条件も全てが後付けで、彼の想いを素直に受け入れたい、まずはそれだけだった。
 もっとうまくやる方法などいくらでもあっただろうに。あまりにも不器用な自分に呆れながら、けれども。
 浮かれている。どうしようもなく。もう一度、彼に触れたいと常に願うほどには。
 

     ●


「何があったんでしょうねえ」
 ふと気が緩んでいたところ、粘着質な声をかけられて途端に我に返る。そうだった。今日は県尉安張瑛が来ていたのだった。さすがに日参するのはやめたようだが、忘れたくとも忘れないくらいの頻度で、彼は懲りずに蘇汎に会いに来る。
 慣れとは恐ろしいもので、最近は、この人に気を遣うのはやめてしまった蘇汎である。受け答え一つをとってもいろいろと面倒で、丁寧に扱う時間が惜しいのだ。話は遠回しで長く、色目で見てきては何かと理由をつけて自邸に招きたがる。まだ若いのに、いい歳の狸爺のような人だなと思うとどこか可笑しくて、適当に流してもいいなと思うようになった。あまり軽くばかりあしらうとバレるので、愛想がない程度で留めねばならぬ匙加減が難しいが、彼から得られる……いわゆる表に出せない地方情勢についての情報は決して無視できぬもので、何で彼の縁故が役に立つかわからないと思えば、つかず離れずというのが理想ではある。
 離れられすぎることや、立腹させることのないように、少しはいい顔もしてやらねばならないが、そこは今のところうまく行っているのではないかと思う。袖を引かれる程度ではこちらも腹が立たなくなった。
「別に。とある案件の予算にようやく折り合いがつきましてね。ほっとしただけです」
 もっともらしい誤魔化しを、流れるように平坦な声で返す。これは嘘ではなかった。何をするにも金がかかる。その采配も長官の任務なのだから、あまり財政を圧迫せず数字が出れば、一息もつきたくなるのだ。
対して安張瑛は、「そうですか」と、露骨に興味のなさそうな反応をした。蘇汎の返答が彼の思惑を外したせいだということは明らかだ。前はそれで諦めていた安張瑛だが、また面倒なことに最近はもう一歩踏み込んで来ようという態度が見えるようになっている。
彼は武人。その気になれば相手を圧倒するだけの覇気を持つ男だ。それがすっと席を立ち、蘇汎の前まで来ると、机に片手をかけてもたれ、ぐいと姿勢を下げてこちらを見下ろしてくる。圧が、すごい。
「ねえ、李秀殿」
「なんです」
 この迫力に負けてはならぬと、蘇汎は気を引き締めた。この体勢だからといって、何を言われても譲るつもりはなかった。
「夏になるまでに、一度うちに視察においでいただきたいのです」
「どんな風の吹き回しでしょうね。こちらから行くことはあっても、そちらから招かれるような……綺麗な場所でもないでしょうに」
「そうでもないんですよ? 私が赴任して一年、ずいぶんと埃を掃いました。その目でお確かめにならぬかと思いましてね」
 意図が読めて、蘇汎は安張瑛に強い視線を返す。相手はすっと目を細めた。
「そういう、演目でしょうか」
「悪い話ではないでしょう? 互いに」
「それで私から報告させるのですか、中央に」
「ただでせよとは言いません。それなりの御礼もしくはおもてなしは準備しています。私とあなたの仲です。すこし特別なものでも受け取っていただきやすいかと」
 互いに利のある話に仕立てるから、利用されてくれという話だ。こういうことも時には必要だが、ほいほいと乗ってしまえるほど、相手は簡単な人物ではない。
「特別な仲になったつもりはありませんよ。公私ともに」
「私的には、これからかと思っていますが」
「結構です」
「それは、いよいよあの警備兵を咥え込んだということですか」
「……お口が過ぎるようだ」
 キッと睨み上げた蘇汎の視線を、安張瑛は涼し気に見せかけた強い目でがっちりと受け止める。
 じりじりとした緊張が走った。どちらにもだ。
 次の一言がどちらからどう出るのか。引けば負けというような危うい均衡をどう終止させるのか。
 いよいよ歯に衣着せぬ物言いになった相手に憎らしさを隠さず、しかし決定的な態度はこの場は避けるべきかと考えあぐねていたところだった。
「失礼します。県令殿に御来客です。お取次ぎを」
 そんな声が戸口から聞こえ、すぐに有伊がこちらに声をかけてきた。
「県令。来客だそうです。いかがなさいます」
 ちょうどいい助け船だった。これに賭けようと思った。
「どなたであろうか。今どこで待たせている」
 その質問には、伝令の者が答えた。
「都より、刑部の徐孫苑(シー ソンユアン)と仰る方です。今は門番が県令の指示を待っております。高貴な方故、対応に間違いがあっては困るので……」
「!」
 ガタリと椅子が鳴った。蘇汎が急に立ち上がったせいだ。その勢いに、安張瑛もおののいたようで、机の傍を離れて蘇汎の様子を見守った。
 胸のど真ん中に重い鉛が落ちてきたような感覚だった。なのに居ても立ってもおられず、思わず執務室を飛び出した。今は安張瑛にかまっている場合ではない。
 走り出す前から、鼓動は怖いほどに速まっていた。胸の奥、闇の中で疼くようにドクドクと。
何故。何故。何故。
 なぜこんなところまであなたは!
 都に置いてきたはずの昏い思いが一瞬にして胸に蘇った。
 もう近づいてはならぬと理性が止めるのに、それでも、足は門へと真っ直ぐに向かっていた。心とは相反する自分の行動に説明の一つもつかない。
 会いたくないからここにいるのに、どうして向こうからやってくるのか。もうかき乱さないでくれ。これ以上失望させないでくれ。また、あの人は自分に傷をつけた。
「汎!」
 姿を見るなり、名で呼ぶ癖もそのままだった。何も変わらぬその人が、そこに……蘇汎の領域に、存在する。
 びくりとして、蘇汎は足を止め、その場から動けなくなった。駆けてきたせいで息が上がる。
 視界には、忘れもしない元上官の、すらりとした長身があった。何度瞬きをしても、その姿は消えてはくれない。風に乗って松香が蘇汎を迎える。
 彼は車から降り、迷いもせずに蘇汎に近づいてきた。まるで十年会っていなかった旧友と再会したような、邪念のない笑みで。
そんな顔で会える理由も蘇汎にはわからなかった。自分はこんなにも苦しいのに。あなたには、その胸を塞ぐものは何もないとでもいうのか、孫苑殿。
「先日の文があまりにそっけなかったのでね、案じてここまで来てしまった。息災にしていたか?、汎」
 目の前まで辿り着き、手を取られそうになって慌てて身をかわす。
「……その、呼び方はお控えください。私はここの責任者です。礼節を」
「ああ、それはすまなかった。蘇汎、これでよいのかな」
 軽い会釈に、蘇汎は礼を返した。とにかくは、公人としての態度を貫かねばならぬ。今すぐにここから立ち去ってくれと大声で叫びたい本心を隠してでも。
「どうして。まさか本当に私に会いにだけいらしたのですか」
「いけないかい? とても心配したのだよ。まさかこんな辺鄙な場所に自ら飛ばされてくるなんて」
「あなたにはわかりません」
「わかっているさ。私が悪かったのだからね。しかし……」
 言いかけた徐孫苑は、ふと蘇汎から視線を離して、その向こうを見る。
「これはこれは、徐殿。久方ぶりですね」
 蘇汎の後ろから声をかけてきたのは、先程振り払ってきた安張瑛であった。何のつもりだと、蘇汎は眉根を寄せる。余計な口を挟まれるのならたまったものではない。
「安殿。どうしてここに君が」
 徐孫苑の口ぶりもまた、初対面のそれではなかった。
「ご存じではなかったかね。去年より県尉を任されているのだよ」
「見知っておいでか」
 蘇汎を置いて会話を始めた二人を見比べ、つい口を挟んだ。
 ならば当然、蘇汎と徐孫苑の関係のことも、安張瑛はかなり程度詳しく知っているのだろう。実に間の悪いことだ。
 戸惑う蘇汎に説明をくれたのは安張瑛だった。
「同期でしてね。同じ年に国試を受けた者同士で、同い年なんですよ。因果ですね、このようなところで出くわすなんて。奇しくも同じ刑部の人間として。……あり得なかったはず、ですがねえ」
「そういうわけだよ。まさかこんなところで。申し訳ないね、地方のことまで把握していなかったものでね」
 安張瑛が含みのある言い方をすれば、徐孫苑が棘を隠さずに返す。どうも、蘇汎の事以前にこの二人は仲が良くないらしい。



「君は都から出ていないのだね。それでは、いろいろと煮詰まりもする。たまには外の空気を吸ったほうがよいのでは?」
「このような退屈なところで何年も耐えられそうにはないのでね」
「こんなところで喧嘩はよしてください!」
 二人の間に静かな火花が散って見えた。そもそもがこれなのでは、蘇汎が絡めば目も当てられぬことになりそうだ。ここは穏便に……どちらもを退却させたいものだが、どう運ぶべきだろうかと思い、まだ話の通じそうな安張瑛に話しかける。
「安県尉。先程のお話はまた改めて。私はこちらのお世話をします」
「それはまた。ぜひ私も話に入れてほしいものですね。まさか復縁の催促でないのなら」
 すべてを把握していることを明確にする安張瑛に、徐孫苑も気色ばんだ。
「下世話な武人もいたものだ。恥を知りなさい」
「お二方! 迷惑です」
「おっと、すまない」
 安張瑛は気にした様子もなく軽く言った後、ひらりと扇を広げて口元を隠す。
「つい、あなたを案ずるばかりに余計なことを申しました。ご容赦を」
 蘇汎に言いながら、明らかに徐孫苑を意識した一言だった。虫唾が走るが、ここで反応すれば安張瑛の思う坪に入ることになる。蘇汎はぐっと口をつぐんだ。
「あなたを置いていくのは忍びないが……、致し方あるまい。今貴殿はここの最高責任者だ。まずは大ごとにはならぬと思いますが、いつでも手を貸しますよ。不埒者を追い返すくらいは職務内なのでね」
安張瑛は言い残し、そのまま踵を返した。万一の事あらば自分がという牽制は忘れない。従者が慌てて後ろを追いかけていくその姿が遠ざかり見えなくなったところで、蘇汎の隣からそれ見よがしなため息が聞こえた。
「まさかあれに絡まれているとは。厄介でしょう。大丈夫ですか」
 と、今度はまたこちらが保護者然とした物言いである。昔は当然のように聞いていたが、今は煩わしさしか感じられない。
 安張瑛にしてもこの人にしても、蘇汎の意思を無視した所有権の主張は無意識の事なのか。この扱いからして実に気に障るのだが、気づいていても改める気はないのだろう。
「あなたが案ずる必要はありません。さあ、客間へお入りください。ご滞在は?」
「一晩が精いっぱいでしてね」
「ご無理をなさって一体なにを……」
 答えないが徐孫苑の寄越した視線が言っていた。それは愚門であると。
 当然ながら、強引に休暇を取って都を出てきたに違いないのだ。本気で、ただ蘇汎に会いに来るそれだけのために。一体何を考えているのか、計り知れない。こんなにもたやすく追いかけてこられたのでは、蘇汎がここに来た意味がなくなるではないか。
 いや、たやすいはずもなかった。これが最初で最後になるはずで、そうなってもらわねば困る。
 あの一件の後、ちゃんと話をつけたわけではなかったことは、蘇汎の胸にもいささかの引っ掛かりを残していた。この際、言葉にして決別を突き付けた方がいいようだ。この人はまだ、蘇汎がまだ怒っているだけだとでも思っているのかもしれない。
「少し仕事の手配をしてから、部屋に参ります。客間でお待ちいただけますか」
「おや、君の茶を飲むのはもう少し我慢かな」
「茶は入れさせておきます」
「つれなくなったものだね」
 また性懲りもなくそのようなことを言ったかつての上官に、蘇汎は落胆を隠せない。仕方なく客間までは自分が案内しようと思った、その視界の端に、近くで御者の受け入れをしていた門番の一人が一度こちらを見、伝達が終わったのかまた持ち場に戻る背が見えた。
 景舜だ。今日は彼が門番であったらしいことは、徐孫苑の馬車をそこにとどめていた姿を視界の端で把握していたことで知っていた。ただ、この状況で一門番にまで意識を向ける人物は一人もいなかった。蘇汎でさえ、徐孫苑の突然の来訪に気を取られ、とても景舜にまで意識を向けることができていなかった。
 去る景舜の横顔にふと目が留まり、胸が痛む。苛立ちを堪えているような、やりきれない表情だった。
 彼は、先程までの三人のやり取りを、どんな思いで見ていたのだろう。こんな、すぐ傍で。話ももちろん耳に入ったことだろう。そして、今日の客人が、蘇汎にとってこれ以上ない曰くつきの人物であることもはっきりとわかったに違いない。
 それでも、口は出せない立場。だから、あの表情だったはずだ。
 できるのならば今すぐにでも彼に駆け寄って、二人きりで話がしたい。しかし自分には途切れ間ない職務があって、その上目の前には徐孫苑がいる。先にこちらを片付けるべきなのだろう。
 目の前が塞ぎ、ジリジリと胸が焼ける。大事なものを、そのように扱えぬのはこれほどに、もどかしいことなのか。



 一度客間に徐孫苑を待たせた後、四半時後には蘇汎は彼の元に戻っていた。
 書状の類は次官に任せてきた。こういう時くらいまともに仕事をしてもらわねば困る。突如飛び込んできた都からの来客には驚いていたようだが、遣いだということにして追及は逃れた。徐孫苑が礼部を出されていてよかった。でなければ、次官にさえ蘇汎の例の上官であることが知れていただろうし、そうなるとあまり気分の良いものではない。知らずにいてほしいことは知らないままでいてほしい。
 客間にある応接用の卓は広く、向き合っても相手との距離は保てる。まだ古びてもいない記憶が、彼とは近づきすぎるなと蘇汎に警告していた。安張瑛相手とは違い力でねじ伏せられることはないにしても、このような役所の一室で騒ぎを起こすつもりはなかった。先程安張瑛が牽制してはいたが、そういったことを押してまで我を通さんとする強引さが、徐孫苑にはある。
 念のため、戸のすぐ外に有伊も立たせている。異変があれば扉を開けることに許可も出しておいた。その上での応対に、徐孫苑もやっと警戒されていることを自覚したようだ。
「君に、左程に嫌われているとは。悲しいね」
 わざと哀れを誘う物言いに、うんざりする。そういう人だ。伏せがちな目に、白すぎて透けるような肌が印象的で、少し中性的な雰囲気がある。やわらかな口調に穏やかな声色。遠回しな言葉を好み、生粋の文官的な思考をする人だ。争いを好まない。論で伏せる。
 しなやかな柳の枝のようなその在り方に、一本通る芯がある。風雅をたしなみ詠む歌は見事だった。
かつて蘇汎が憧れたひと。
 好きだった。全てが美しく見えていた。蘇汎に向ける欲、それを知ったとたん、蘇汎の目に映っていたものの何が本質であったのかが分からなくなった。
「ここに赴任したことで、私の心は伝わっていると思っていました。今更言葉が必要ですか」
 もうどこにも未練のないことを知らしめるつもりで、蘇汎はできる限りの冷たい声を作った。しかし、徐孫苑は細い眉を下げる表情をしながら、さほど堪えているようには見えない。
「淋しいことを言うね。やはり、受け入れてはくれないものかい?」
「あなたに好きにされるつもりは毛頭ありません」
「……あの時は、すまなかった。大層驚かせてしまったようだ。少し……手順を間違えたのは私だ。認めよう」
「手順? そのような単純なものでしたか」
「汎? 私の汎。何をそんなに……」
「あなたの私では、ありません。過去、一度もです」
 少し、語気が強くなった。声はできるだけ抑えているが、口調は穏やかではいられない。また胸が、嫌な痛みに焼かれ始める。
「待ちなさい。君も私を、好いてくれていたのではなかったのかい?」
「あなたの示す「好く」というものではないと申し上げています。当然、特別な縁を求められてもお応えできかねます」
「……そうか」
 ようやく徐孫苑の声に落胆が混じる。
「思い違いをなさっていた、ということですか」
「君はいつも私を熱い目で見ていたではないか。声をかければ惜しみなく笑い、どこにでもついてきた」
「憧れてはいました。あくまでも上官としてです。あなたに色目を使ったことなど一度もありませんよ。そう感じたのでしたらそれは、あなたの勝手な都合のいい解釈です。真意を確かめもせずに思い込み、あまつさえ薬まで使って手籠めにしようなんて……! 言語道断です。下の者であれば好きにして良いという傲慢です。私が最も嫌う価値観です、それは!」
 タンと、蘇汎は机を叩いた。茶器が小さく悲鳴を上げる。その向こうに、力を失った徐孫苑の白い顔があった。
 呆れてものが言えない。ここまで言葉にせねば何もわかっていなかったとは。
「明日、早々にお引き取り下さい。もう話すことはありません。お聞きするべきこともない。これ以上、失望させないでいただけますか。また、三年後には都で顔を合わせるのですよ」
「汎。そんな言い方はないだろう。私の思い上がりだったのだとしても、あの後君を案じていた心は濁りないものだ。だからこうして様子を見に来た。来てみれば安張瑛などという質の悪い男に捕まってもいる。それをみすみす見逃して帰れというのか」
「安張瑛などどうにでもなります。少なくともあなたには一切関わりのないことだ。今はあなたが。あなたがここに……いる意味はないと申し上げている。それとも、まだこの先も私を所有物扱いですか。私にはもう、あなたは必要ないんです」
「汎……。なんということだ」
「徐殿。もうとっくに終わっているんです。あなたの手で終わらせたのですよ。他人が、あなたがどう思っていようと、私は、年上の男に抱かれて懐に潜り込むような真似は、一切致しません。それさえ見抜けずに、あなたは私の何を見ておられたのですか。私は、あなたが色恋を持ち込まねばずっと、あなたを尊敬していたはずです。敬愛する師をこんな形で失った私の痛みなど、あなたには関係ないのでしょうね」
 話はこれで終わりだ。そう思い、蘇汎は固まってしまった徐孫苑を置いて、客間を出た。ここで振り返るつもりはない。憐れむ心も持ち合わせてはいなかった。
 言わせずに済ませてほしかった言葉まで口にしたせいで重苦しく詰まる胸を手で押さえながら、きつく眉間に力を入れていないと、立ち止まって膝を折りそうだった。今はすぐさま徐孫苑から遠ざかりたかった。でなければどんどんこの心を壊されてしまいそうだ。
「蘇長官……どう、なさいました。ご気分が優れぬ様子」
 すぐに追いかけてきた有伊が、肩を並べて問うてくる。本気の心配顔だ。今自分はずいぶんと酷い様子であるらしい。
「大事ない。平気だ」
 どうせもう終わった。徐孫苑との関係において残るものは何もない。決別まで言い放ち、悔恨も浮かんでこない。
「しかし、そのお顔色では……。この後の執務はお控えください。長官室で一度お休みに」
「……そのほうがいいのだろうけど」
「如何なさいました。なにか放っておけない用でも……?」
 県令としてではない蘇汎自信をいたわる有伊の心遣いが身に染みて、弱音が首をもたげた。
「わがままを聞いて、有伊」
「なんなりと。私はあなたの側近です。どのようなことでも」
「彼を呼んで。長官室。それだけでいい」
 何かに縋りたかった。それも、確実に蘇汎を支え癒してくれるものに。
 蘇汎が心から安らげる相手に。それがないなら一人で耐えた。しかし思い当たるのだからどうしようもなく、彼が欲しかった。
 あの、先程の横顔も気になっている。やはりここでちゃんと言葉を交わさねばならないはずなのだ。
「承知しました。ですが、まずはあなたを休ませてからです。あなたは横になってお待ちください。どこにいてもとっつかまえて引きずってきます」
 有伊がそう言うのなら、本当にそうするつもりなのだろう。どこまでもよく気の利く側近だ。三年の任期が終わったら、都に連れて帰りたいとさえ思う。
「今は私で我慢してくださいね」
 言って、有伊は蘇汎の肩を支えてくれた。そしてそのまま執務室に向かい、その奥の長官室へと蘇汎を運んでいく。
 寝台に座らされ、寝ているようにと強く言い渡された蘇汎は、有伊が出て行った部屋に残され、どっと疲れを感じた。言われなくとも横になりたいくらいには、重い頭痛がしていた。
 やはり、あの人は変わってはいなかったということだ。なにもわかっていない。自分勝手で、己が間違いを信じようとしない。聡明すぎて、これまで大きな失敗をせずに生きてきたのだろうか、処世術に優れていても人の心にはあまりにも疎い人。自分は受け入れられていると信じて揺るがない、その甘さが今日はやけに癇に障った。
 こんな人だったと言えばそうなのだろう。しかし、せめてもう少し潔くいてくれれば、都から離れてまで幻滅せずとも済んだはずなのに。
 それほどまでに蘇汎を求めていたのならもっと、そんな一方的な所有欲ではなくて、もっと……。いや、そうではない。人としての成熟のないひとだからこうなった。
 もう、未練も後悔の欠片もない。いっそあのような人を師と仰いでいた自分を空しくも哀れにも思うだけだ。見る目がなかった。そういうことにして、過去の過ちはこの辺で葬り去ろうじゃないか。
 ごろりと寝台に背を預けた。全身が泥のように重い気がした。一度目を瞑り、じっと息を整えた。荒んだままの心で彼に会うのはできるだけ避けたい。
 しかし、十分に心が落ち着くまでもなくギッと扉の開く音がして、中に有伊の声が入ってきた。
どうぞと言われて寝室に向かってきた人の気配。蘇汎は慌てて起き上がろうとしたが、
「そのままでいい」
 と、待ちわびていた声にとどめられた。そして、颯爽とした足音が部屋に入ってくる。
「すまない。だらしのない格好で。少し疲れてしまって」
「あいつだろ、今日の客」
 景舜が、蘇汎の隣に腰かけた。触れてもいないのに温もりが感じられて、ひどく安心する。張り詰めて切れそうになっていた精神が緩まるのがわかる。
「お察しの通り。私に手を出そうとした元上官が、彼だ」
「追っかけてきたのかよ。どうした。振ってなかったのか」
「振ったさ。左遷と引き換えにね。しかし相手は何もわかっていなかったようだ。飼い猫が少し拗ねて家出したくらいに思っていたようだね。おめでたい話だ」
 嘲笑交じりになった言葉。嘲笑いたかったのは自分自身に対してだった。
「あんたでも皮肉なんて言うんだな」
「君に言わないだけで、私はそんなに素直な人間じゃないよ」
「まあ、そうだろうな。でなきゃ高級官吏なんてやっていけないだろうさ。あの県尉のこともうまくあしらってんだろ」
 ははっと、彼らしくない乾いた笑いが挟まったのが耳に引っ掛かった。
「景舜……?」
「ごめん。ちょっと、イライラしてる」
「私のせいだな。さっきも気になっていたんだ。しかし徐孫苑を放っておくわけにもいかず、君を追いかけられなかった」
「それでいいんだよ。むしろ俺なんか構ってたらあんたの立場が悪くなる」
「……」
 やりきれなくて、蘇汎は重い身を起こした。いつかのように見つめ合えなかったのは、景舜が膝を蘇汎とは反対側に向け、身体を背けていたせいだ。
 景舜の体に腕を回し、後ろから抱きしめた。口づけを除けば、このような密な接触は初めてだ。がっしりとした肩や背の感触が伝わり、やはり武人なのだなと今更に思う。
 この逞しさに、頼りたくなるのだ。頭でひねり出す言葉で相手を気押すような小賢しさではなく、純粋な腕の力でやり合う人の裏のない明確さが好きだ。「あんたが言うなら」といって無茶も勝手も聞いてくれるおおらかさと、温かさとそれから……。
「君が好きだ」
 今必要なのはこの言葉であると信じ、口にする。たとえそれが適切でなかったとしても、他に代わるものは用意できなかった。
「知ってるよ」
 蘇汎を拒んでいない柔らかさで返された短い言葉に、ほっとする。
「君がいいんだ。この想いは君を辛くさせるのだろうか」
「言い出したのは俺の方だ。これくらいのことはわかってたさ。あんたが気にする必要はない」
「なら、どうして逃げるように?」
「おいおい、待ったかけてんの、あんただぞ。まだ俺承諾受けてねえ」
「それはそうだな。だが」
「なに弱気になってんだよ。あんたが俺を落とすんじゃなかったのか?…って、俺もかなりへたれてるからおあいこだ」
「済まなかった」
 あんな場面を見せてしまって。
 あの二人に事実を告げることもできず、体裁を保つほうを選んでしまって。そうすることに迷いを感じさえしなかった自分で済まないと。
「こんなこと、これからいくらでもあるさ。俺が強くならなきゃいけないんだよな」
 景舜が彼自身に言い聞かせるような言葉に、蘇汎は痛みこそ感じれど添える一言を持てなかった。
 自信を持てと言うことさえ礼を欠く気がする。この世で、身分制は公的には絶対だ。対等になれるのは残念ながら私的な場面での二人においてと、限られてしまう。
「なあ、景舜?」
「ごめんな、不甲斐なくて」
「景舜?」
「うん?」
「いや」
 力ない彼の言葉を聞き、ふと、悟ったことがあった。
 もしかすると、蘇汎が彼を抱いてはならないのかもしれない。目線を合わすためにも、二人が恋仲になるには、私が景舜を抱くのではなくて、抱かれてやる必要があるのかもしれない、と。
 身分や立場を脱ぎ去った素肌の二人になった時、蘇汎が景舜に抱かれる。そのことで保てる均衡が生まれるのかもしれない。まだうまくは説明できないのだが、ふいにそんな考えが頭に浮かび、途端に思考を占領してしまった。
 ならばいっそそれでもいい。同時に、不思議なほど素直にそう思えた。
 景舜が奪いに来るのなら。
 奪いに、来い。
 その心を覆そうとしたのは自分。けれども、景舜がなおもと言うなら譲ろう。ただし、こんな私でもいいと言ってくれなければ。交々の条件を乗り越えて私を欲しいともう一度言ってくれなければ。そこまでの覚悟がなければやはり、始めるべきではないのだろう。
 待とう。景舜から来るのを。
 だから、あまり待たさないでくれ。逃げないで、来てくれ。
 それでも私がいいと、抱きに来てくれないか。そうしてくれるなら、この身も君に捧げてもいい。
「蘇汎?」
 少し考えに耽った蘇汎を、景舜の柔らかな声が引き戻す。
「うん。君には甘えてばかりだ」
「嬉しいけどね、俺は」
「ふふ。ならよかった。ではもう少しここにいてほしい」
「言っておくが、寝るなよ? 寝たら襲うからな、今日こそは絶対」
「ふふ」
 それならば寝てしまおうか。などと思うが、しかし今日の景舜がそれを実行することはないとわかっている。
「また余裕で笑うのかよ。質の悪い奴だな」
「案ずるな。眠りはしないよ。今はまだその時じゃない」
「ん?」
 景舜は小さく疑問を声にしたが、それ以上追及してこなかった。もしも真意を問われても、今は明かすことはできなかったから、ちょうどいい。
 目を閉じて、景舜の匂いを胸に吸い込む。この服の下に肌に触れる日は、左程遠くない方がいいと思いながら。
 そのつもりになったからには、待たされない方がいっそ心が揺らがなくていいのだが。しかし、大口をたたいた身としては翻して誘い込むのも気が引ける。
 今眠っても、景舜が蘇汎に手を出すことはないのだ。そうして欲しいと願ったとしても。
 ―――――。
「お待ちください!」
 唐突に騒がしい気配とともに有伊の声が遠く聞こえ、二人は身を離した。どうも、執務室の向こうからの声だ。嫌な予感がして、顔を見合わせる。
「見舞うだけだ。大事ないのか、蘇汎は? 私のせいだろう。ならば……」
 そんな声が無遠慮に近づいてくる。尋常ならぬ事態だ。
「お待ちください、徐殿! 訴えますよ。この先は無断での立ち入りは罪です」
「したければそうするがいい。汎はどこだ」
 そこまでするのかと蘇汎は青ざめた。有伊ごときに構う気はないということか。自分ならば咎められやしないとでも高をくくっているに違いない。
 このまま寝室に入られてはたまらない。蘇汎は景舜とともに部屋を出、執務室への扉を開けたところで徐孫苑と遭遇した。
「何事です。許可もなく長官室に立ち入ろうとするなどと、恥知らずな」
「君の心は理解した。なれば明朝にはここを発つ。その前に君の具合が気になっただけだ」
「無用です」
「しかし、寝ていたのだろう」
 襟の紐を解きくつろげた姿から、寝ていたことは推察したらしい。ならばそっとしておいてほしいところだが、後ろから来た景舜に違和感を覚えたようだ。
「君はさっきの門番ではないか。君こそ、ここには相応しくないのではないか」
「説明には及びません」
 面倒でそう言ったせいで、徐孫苑はそれを「適切なほうに」拡大解釈してしまったようだ。明らかな非難を向けた表情で、景舜を見る。
「なぜだ、蘇汎。なぜ、そのような不釣り合いな者を。慰みならば相手を選びなさい」
「不釣り合い? 何を基準に。位が高ければ良いのですか。相応しいとはどのようなことかあなたにお分かりなのか。そういった傲りが押し付けを生むのですよ」
 慰みなどではないと、きっぱり言い放つ。
「汎…」
徐孫苑の悲しげな顔が目に焼き付いた。今度こそ失望してくれたか。ならばこれでいい。
「別れを告げに、来たのだよ。これは本当だ。だが、このような場面に出くわしては……。私の立場がない」
 憐れみを誘いたがる物言いに、いよいよ我慢がならなくなった。自分自分自分。もう、うんざりだ。
「私は、彼がいいんです。あなたではなく」
 隠す気にはならなかった。ここで景舜を不敬の罪に問うほども哀れな人間ではあるまいと。もしもそうされても、ここでは蘇汎が絶対だ。守ることはできる。
 徐孫苑が、彼にないものこそ蘇汎の求めるものだということに気が付いてくれればいい。そのせいで蘇汎の価値が彼の中でどれだけ下がっても構わない。そんなものはもう問題ではないのだ。
 二人の会話の途切れ間を待っていたように、景舜が前に進み出た。蘇汎の前に立ち、徐孫苑から庇うようにして。
「俺はあんたに比べりゃ掃いて捨てられるくらいにはつまらない男だ。はっきり言って、こいつが俺に惚れる理由もよくわからねえ。でも俺がいいって言うんだ。あんたから逃げて、ここに来て、俺に惚れたんだ。あんたの出る幕じゃない」
 少しもひるむことのない言葉だった。蘇汎からは背しか見えないが、景舜が真っ直ぐに徐孫苑を睨みつけて、剣を突き付けるように発したものだとわかる。
「笑えぬ冗談を言うものではない」
 払いのけるような徐孫苑に、しかし景舜は一歩も引かない。
「二年後俺も上京してやる。あんたの元へは返さないからそのつもりで。諦めてくれ」
 二人が睨み合った気配がしばし続く。それから、ふっと緊張の糸は断ち切られた。
 徐孫苑が踵を返し、もはや何も残さずに執務室を出て行った。カツカツと、その足音だけが静まった廊下に響き、やがてそれも聞こえなくなる。
 ふうと、思わず息をついた。残った疲労はかなりのものだったが、これでようやく終わったのだという安堵は、ずいぶんと心を軽くしてくれた。
 そして今は、隣に景舜がいる。彼もまた徐孫苑に対する様々な思いはあったのだろう、しばらくの間そこに立ったまま、息を整えるように深く呼吸を繰り返していた。
「さっきの、嬉しかった。俺がいいって」
 振り返り、笑って景舜が言った。飾り気のない彼の心がそのまま見えるような一言だ。信じろと同時に言われた気がして、蘇汎は頷いた。
「本心だからな」
 返した笑みを包むように、頬に触れられた。景舜の顔が近づくにあわせ、蘇汎はそっと目を閉じる。
 少し顎を上げるだけで、すぐに唇は触れ合った。薄く開いた唇に、熱い舌が触れる。迎える舌で絡ませる。熱い口づけになった。
 景舜は蘇汎の腰を、蘇汎は景舜の背を、きつく抱きしめて、鼓動を聞かせるように胸を合わせる。もっと触れたいと胸が焼ける。このまま彼のすべてをこの身に感じたいと強く思い、しかし言い出せぬまま、もどかしさを口づけに込めて深く交わる。
 互いの呼吸がはやり、苦しくなってやっと唇を離した。それでも固く抱き合った腕は解く気にならず、間近に見つめ合ったままで互いに笑った。君が愛しいと。
「もう一度、君の剣舞が見たい」
「いいよ。見せてやる。見せるからまた俺に惚れなよ」
「もう惚れている」
「もっとだ。俺にはあんたに勝てるもんは剣しかないから」
「君の剣舞は勇敢なだけじゃないんだ。無駄がなくて、おおらかで、しなやかで、舞踏と言って相応しい気品がある。決して派手ではない中に見える静かな力もある。本当に好きなんだ。一瞬で目を奪われた。君の作るあの舞台の中に立ちたいと思ったんだ。どんな男がこれを舞うのかと思って……近づきたくなった」
 なりふり構っていられなかったと、蘇汎は小さく言った。それが恋であることにも気が付かないほどに、魅了されたのだ。
「俺にはさ、ほんと何もなくて。あんたが惚れてくれたから、俺らは成り立つんだよ。情けねーけど、それが現状。国試だって本気出して頑張るつもりだけど、そこそこまでだろうし、それでもってあんたが言ってくれないと、行けないんだよ、俺としては」
「……そうか」
 それでもと、相手が言ってくれないと。同じことを自分も思っていた。
 どちらもが相手次第だと思っているということか。理由はそれぞれであっても、同じように踏み込めない理由を相手に置いていたということだ。
 ならば、ここは自分が一歩を踏み出すべきなのかと、蘇汎は思った。自分さえ景舜の手を取り引き寄せれば良いのなら、躊躇いは無用だろう。
「なあ、景舜。私のものになってくれないか?」
「何言ってんの。とっくにあんたしか見えてないって」
「そうでも君は、まだ引いているじゃないか。私を欲しいと言いながら、奪いには来ない。もちろんその理由が理解できない私でもないが、考えてばかりでは前に進めない。互いに全てわかっていても、惚れたんだから仕方ないんだ。伝えたのだから君だけの問題じゃない。私の意思も加わるんだとわかってくれ」
「……そう、だな。もっともだ」
「いい加減、私のものになりなさい」
 蘇汎の言葉に、景舜が破願した。
「はは。強引だな。抱かせてくれないくせに」
「抱かせればいいか?」
「え?」
「抱かせれば、君は私の手に入ってくれるか。余計な遠慮を捨て、私を求めてくれるのか?」
 景舜の目が大きく見開かれた。
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