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十章
中秋
夕風がぐっと冷たくなる頃、休暇を取る役人たちがいそいそと支度を始めた。中秋節だ。この前後は役所も休日となり、役人であろうと家族の待つ家へ帰る。田舎から出てきている者は特に、町で土産を手配したり荷づくりをしたりと俄かに慌ただしくなり、どこか皆の表情も明るくなるものだ。
一方、彼らを迎える家の方では、もっとその準備に勤しんでいることだろう。餅菓子や伝統の料理、家の飾りつけから、服の新調などもあるかもしれない。
蘇汎も都にいる頃は家に帰って、梅梅の歓迎を受け、姉夫婦によって整えられた祝いの席で寛いだものだった。それも今年はどうなることやらと思ってたが、県府も落ち着いたことでもあり、これを機に梅梅を長官舎に呼ぶことが叶う運びとなった。県の官舎には家族を住まわすことができない原則だが、都から赴任する長官だけは特例だ。赴任と同時に家族で引っ越してくる者もいるらしい。
蘇汎は、やはり慣れない環境であり遠方にもなるため、ここまでは単身でいた。しかし、ようやくたった一人の家族と住まうことができるようになることに、嬉しさをひとしおに感じているところだ。ただでさえ仕事に追われてなかなか構ってやれずにいて、更に半年の別離。それを経てやっとまた娘と共に暮らせるのだから、うんと可愛がってやろうと思う。
まずは、何よりも先に梅梅のための部屋を用意した。ころりと丸い卓と、それに合わせた朱塗りの椅子、寝台。帳の類は淡い桃色で統一した。たった二年少々住むだけとはいえ、毎日寝起きする部屋は彼女の好む雰囲気を作りたかった。どういうものがいいのかは、姉との文で把握しているつもりだ。
隣の小部屋は続きになっていて、そこは乳母の部屋になる。梅梅の生まれた時からずっと世話をしてきた者で、梅梅が最も信頼を置く相手だから、すぐ傍にいたほうがいい。あとは二人ほど侍女が付くことになっているが、彼女らにも相応の部屋がある。
ひと月掛けてそれらを準備してきた。ぬかりはないはずだった。そして今日の午後、いよいよ彼女らの乗った馬車がここに到着する手はずになっており、女子供だけの旅は危険なので、義兄がつけてくれた従者に送られてくる。
県府は今日の午後には門を閉めることになっていた。残務をこなしてから帰省する者への配慮だ。しかし、今蘇汎の傍らで書類の整理を手伝っている有伊には、帰省の予定はないという。蘇汎にとっては助かるが、それについては彼自身の事情によるものなので気にしないでほしいと言われている。
彼には身寄りがないのだ。親戚が養父となって成人まで育ったが、官職に就き住む場所を得てからは、帰るほどの家はないそうだ。だから、県令に張り付きのような生活も負担ではないらしい。
そういうわけだから、長官舎もこんな時は手薄にはなるので、いくぶんの雑務も有伊に頼ることにした。
「ご息女には嫌われないようにせねばなりませんが、なにせ私には小さい子供の扱いはとんとわからず……」
彼は数日前から急にそんなことを言いだし、なにかと落ち着かない様子だ。ふだんは飄々としているだけに、その姿はなかなかにほほえましい。
「梅梅は人見知りのない子だ。案ずるなと言っているだろう。君は私にもいろいろと細やかで分をわきまえている。人当たりも悪くない。顔も怖くないし。小さい娘にはわりと好まれる方だと思うぞ」
「そうでしょうか。男は臭いとか言われませんかね。私はあまり強い香は好まぬのですが」
本気でそんなことを言って、自分の袖を嗅いだりするのだから、笑ってしまう。有伊にそんなところがあるとは、意外だ。
「問題ない。まだそこまでの歳でもないだろう。ふつうに笑いかけて、菓子でもやってくれれば懐くよ」
「そうでしょうか」
「ああ。君には早急に、梅梅の教育係を探してほしいのだが、どうだろうね」
「それについては、いくつかあてがあります。ご息女がここに落ち着く頃合いを見て、何人か会わせてみてはいかがでしょう」
「ああ、そうしよう。座学と、作法と、二人は欲しいね。私がまず面談しよう。話を進めてくれ」
「承りました」
どうでもいいところまで気を遣うが、押さえるところはしっかり押さえてくれるので助かる。いっそ本当に都までつれて行きたい側近だが、それはまた機会を改めて話をしよう。今は愛娘の受け入れが大事だ。
そして当然もう一人蘇汎の周囲で重要人物がいるのだが、彼は今日も閉門まで警備だと聞いている。三日の閉門 中もその仕事はあるので、警備兵たちは交代で帰省することになる。そして景舜は今日の午後から帰省だという。家で一泊しかできないのは気の毒だと言ったのだが、彼もまた家にそれほど長居するつもりがないのだそうだ。蘇汎と同じように、兄夫婦が迎えてくれるのだが、自分には家族はおらず、少し時間を持て余すらしい。だから長く帰省したい者に代わって、明日の朝には県府に戻ってくる。その時には梅梅もいるのだから、どういう流れで引き合わせるべきか、実はまだ決めかねているところだ。
心が様々に揺れる。しかし全ては楽しみなものばかりだ。
特筆するとすれば、相変わらず県尉が面倒ではあるのだが、こういうわけで家族を迎えることになったと言えば、少し距離を置くようになった。彼もまた勝手に蘇汎を独身者だと思い込んでいたようだが、生来の男色家だからか案外分をわきまえているのか、子の存在を知ってからはここまでと感じたようだ。その点、どこぞの誰かよりもずっと常識のある人間だったと認識することになった。
実際に会わせてみた時の景舜の感触については、ずっと気にはなっている。しかし、そこは信じるしかない。人と人には相性というものもあり、引き合わせてみなければわからない。ただもう、景舜の方に梅梅を遠ざけるつもりがないことに救われる思いだ。別に、梅梅に景舜との間柄を理解されなくてもいい。蘇汎にとってかけがえのない存在だとわかり、また梅梅にとっても年の離れた兄か叔父のようであってくれれば十分だ。
自分にとって本当に大事だと思えるものはごく少なくて、だからこそ手の中に入ったならば、両手で抱え込んで二度と離すものかと思う。少なくとも、自分が理由で手放すことだけはないように。心を尽くしてもっと、もっと、慈しみ縁を結んでいたいと心から願う。
午後一番、馬車が到着したという伝令の知らせを受け、蘇汎は門で彼女らを出迎えた。
馬車から初めに出てきたのは、姉の耀(ヤオ)だった。沙羅の上衣を軽くはためかせ、降り立った姿は少し見ぬうちにまた落ち着いた雰囲気を重ねた気がした。前に蘇汎が贈った帯を締めてくれている。そういう心遣いのできる姉だ。
そして次にまろび出てきたのが、梅梅だった。狭い馬車の階段も、小柄な彼女ならばむしろ難なく降りてこられる。待ちきれずに自ら帳をめくり、蘇汎の姿を見つけた途端、中から放たれる乳母の注意も聴かずに降りて駆けてきた。
「お父様!」
踏まぬように裳裾を両手でからげ、膝を見せて走ってくる。礼も慎みもあったものではないが、それだけに感じる嬉しさというものがある。
蘇汎はそれを、窘めることなく抱きとめる。脇に手を添え、ぐいと持ち上げて抱き上げた。顔を近づけると、甘いにおいがした。
「よう来たな、梅梅。また重くなった」
「お父様、若い娘に重いとは失礼です!」
一体どこからそんなことを覚えてくるのか、小生意気な成長もまた愛しく、確かにこれはいつまで抱かせてくれるのだろうなどと思う。
「それは悪かったね。ならば言い直そう。また美しくなった。見違えるかと思ったよ」
「ふふ。お父様には敵いません」
「おやおや、私など超えてくれなければ」
冗談を言い、声を上げて笑う。その隣に、耀が楚々と近づいてきた。蘇汎は一度梅梅を降ろし、遠路娘を連れてきてくれた姉に礼を取った。
「姉さん、此度はご足労を掛けました。感謝します」
「確かに遠かったわ。明け方に出たのだけど、やっぱりこの時間ね。まだ早かった方かしら」
「ええ。もう少しかかるかと思っていました。お疲れでしょう、中でお休みください」
「ありがとう。話したいことがたくさんあるわ。あなた、お仕事は?」
「こんな日に仕事をしているような無能ではありませんよ」
強気に返しながら、先程やっと書類箱が空になったばかりだ。間に合わなかったとしても、当然そこまでで放り投げておくつもりではいたが、きりをつけられたのは手腕だと自負している。
「ならよかった。では遠慮なく休ませてもらうわね」
「ええ。家族を引き離してしまって申し訳ないので、せめてすこしでも楽しんでいってください」
「ありがとう」
蘇汎は有伊を二人に紹介し、乳母と侍女も伴って長官舎へ皆を案内した。
まずは応接室に姉と梅梅を通し、他の者も別室でもてなし、旅の疲れを癒してもらった。梅梅は初めて見る「他所の家」に興味を示したようで、疲れどころか長時間馬車に閉じこもっていた反動のように、あちこちへ足を向け外を眺めしていた。その様子を見守りながら、蘇汎は姉と近況やこれからの生活について話した。
その後は、実際に梅梅に与えることになった部屋を紹介し、合格をもらってから、ついでに蘇汎の生活領域も見せて回り、最後に「無駄に広い」という苦言をいただいた次第である。しばらくは梅梅が迷子にならないように注意が必要であるようだ。
有伊にも、引き合わせた。彼は姉を前にがちがちに固まっていたが、梅梅にはすぐに気に入られたらしく、それにはほっと胸をなでおろしていた。気に入られたということは遊び相手に認定されたのだとは、気の毒なのでまだ言わないことにした。有伊よりも更に適任な人物との邂逅が、まだ果たされていないからだ。
時はあっという間に流れ、日が傾いた。夜は、こちらの郷土料理を駆使した祝宴である。
使用人もさほど多いとは言えないうえ、主がほとんど居付かないため、いつもは静かな長官舎も今日ばかりは人が何度も回廊ですれ違う。二人増えた侍女もさっそく働き始めたようだが、まだ勝手がわからぬせいであたふたとしているらしい。乳母は料理方から梅梅の好き嫌いなどを尋ねられ、こちらもまた落ち着かない。
そんな人々の横をすり抜け、つかつかと速足で広間に向かう有伊の姿があった。
「失礼します」
「どうした? 足りぬものでもあるか?」
「いえ、その……」
蘇汎のすぐ向かいに座る耀を憚るような視線を見せた有伊の元へ自分から向かうと、耳にそっと囁かれたのはこうであった。
「景殿を門で捕まえております。いかがなさいますか」
状況が分からず、蘇汎は黙る。
もうとっくに帰省しているはずの景舜がなぜ県府にいて、しかも長官舎の門で捕まっているのか。
「有伊。もう少し詳しく状況を」
「ああ、失礼しました。その、彼はもう帰省して戻ってきたというのです。で、手土産を届けにこちらへ。来客は承知ですので、手土産だけ預けたいと申しましたが、返す前に主のお耳に入れた方がよいかと思い、引き留めております」
「ようやく理解したよ。なるほど、……私が行こう」
「そうおっしゃると思いましたので」
「君、本当に優秀だ」
今宵は姉もいることで、基本的に酒席に迎えることはできない。けれども、来たからには当然一目会いたかった。
「姉さん、少し席を外します」
振り返って耀に言うと、梅梅が椅子からぴょこんと飛び降りた。
「梅梅も行きます!」
「これ、梅梅、お父様は大事な御用……」
「いいぞ、梅梅。おいで。面白い人に会わせてやろう」
止める耀をふりきって、蘇汎は梅梅の小さく温かな手を取った。彼女の好奇心いっぱいの目が輝く。
「すぐに戻ります。失礼」
少しの速足にも、闊達な娘は走ってついてくる。行儀作法はまたこんどだ。今日、今、会わせたいと思った。
すっかり日暮れ色に覆われた庭を脇に見ながら、回廊を駆け抜ける。料理を運び始めている侍女たちとぶつからぬように気を付けねばならない。
確かに無駄に長い廊下を抜けるとやがて門が見え、番人と話す景舜の姿が目に飛び込んできた。
「景舜!」
「蘇汎。なんで出て来んだよ」
呼ばれて驚いて振り返った景舜、やや咎める口調ではあるが、目は非難してはいなかった。柔らかに解けるような微笑は当然のように蘇汎を歓迎してくれる。
「なんではこちらのほうだぞ。どうして家に泊まらなかった」
「いやさ、帰ったんだけど、兄さんのガキが風邪ひいて寝ててさ。いつまでも居づらくって戻ってきた。これ、母さんの作った月餅。こんなんしかないけどこれ美味いから……」
「景舜! 頼みがある」
差し出された包みを受け取るその手で、蘇汎はガシリと景舜の両肩を掴んだ。
たった今思い浮かんだ名案を、すぐに口に出したくて相槌も打つのが惜しかった。
「おいおい、話聞けよ」
「聞いた。君がここにいる理由は理解した。月餅もありがたく頂戴する。どうか後生だ。今一度君の剣舞を見せてくれないか」
思い立ったことだけの要領を得ない言葉に、景舜の呆れ顔は深くなった。
「は? あんた酔ってる?」
「まだ一滴も飲んでいない」
その場に押し倒しそうな勢いの蘇汎の、袖の端を強く引っ張りクイととどめたものがあった。
「お父様?」
これほどに興奮する父を見るのは恐らく初めてな愛娘が、面白いものを見つけた目で問いかけてくる。「これ、誰?」と。
「おわっ!」
親子の姿を見、変な声を上げたのは景舜である。
「ほうっておいて済まない、梅梅。こちらのお兄さんは景舜。このお役所の警備兵をしていて、私ととても親しい人だよ」
さすがに初対面の人間に愛想を振りまく余裕のない梅梅の目を見て、景舜を紹介する。
「……おい、蘇汎……」
今日梅梅を迎えることくらい知っている景舜がこの状況を理解できないはずはないが、やはり彼は驚いたような顔で彼女を見下ろした。
「ほら、ご挨拶」
促すと、
「はじめまして。梅梅ともうします」
すました顔で、ぴょこりと礼をする。こういう時に臆さないとは、自分のいない間になかなかいい教育をされているな、などと思う。
「お、おう。えと、俺は景舜。字は沐辰。まあ、今の説明のとおり、君の父様の……特別なお友達だ。よろしくな」
腰の高さまで屈んで、景舜は梅梅に正式な礼をする。その表情はにこやかだ。彼は子供の相手もいくらか心得ているのかもしれない。
「なあ景舜。今姉も来ていてね。君のことも明日には紹介しようと思っていたんだが……。もし嫌でなければ姉と娘に剣舞を見せてくれないか。その、招いていいなら席を用意したい」
「よせって。俺が宴席に混じるのはおかしい。でも、まあ……」
梅梅から蘇汎に視線を移し、少し言い淀んでから、ひとつ頷いて見せる。
「舞ってくれるか?」
承諾を得られるかは正直五分五分だと思っていただけに、蘇汎の声も弾む。
「約束、したしな。ただし、友情出演ってことにしろよ。変な紹介はすんな」
「わかった。余計なことは言わない。私の知己がたまたま訪れたので、自慢の剣舞を私が依頼した。それ以上は言わない。だから頼む」
「わーった」
少し照れくさそうではあるが、景舜は快く答えてくれた。そもそもあまり目立つことをしない彼が、こうしてハレの席に花を添えてくれるのは本当に嬉しい。もちろん、再び彼の舞を見られるのだから、なおさらだ。
「梅梅、よかったな。彼の剣舞は最高だ。この私が一目惚れしたのだよ。見せてくれることになった」
「ありがとうございます!」
梅梅の声もまたコロコロと弾む。彼女も都で何度か蘇汎とともに剣舞を見ているうちに、好むようになっていた。どちらかと言えば、男性による勇猛な舞よりは女性の見せる華やかな舞の方が好きなようだが、景舜のはそのどちらもの要素を持つ。きっと気に入るに違いない。
「梅梅……小梅(シャオメイ)も剣舞は好きか?」
「はい」
早くも満悦の蘇汎を置いて、梅梅と景舜がやり取りを始めた。
「ならよかった。お近づきのしるしに、ご披露するよ。惚れんなよ?」
「景舜!」
「妬くなって」
「お父様、何を焼くんですか?」
胸が躍る。もう、子供のように跳ねまわりたいほどだ。
さっそく蘇汎はこの件を耀に伝え、彼の紹介に代えて舞ってもらうこととした。実際、貴婦人とのやり取りが得意な方ではないと思われる景舜を知ってもらうには丁度いい方法かもしれないと、後から思う。
演目も音楽さえもない彼の剣舞には、人としての彼そのものの姿が伺える。それを見て感じてほしいと思った。そして、願わくは彼を蘇汎の伴侶として相応しい男であると、いつか認めてもらえるといい。
有伊に言って、春に使った一対の湾刀を用意した。服は今日着てきたそのままだ。彼は舞台の演者としてそこに立つだけで見栄えがする。華美な舞ではないからそれでいい。
広間の真ん中、一礼の後背を伸ばした景舜は、その場の人々の視線を一瞬で奪った。
そこから目を離さぬまま、隣の梅梅に耳打ちをする。
「さあ、見ておいで。彼の舞う姿は格別に美しい」
舞が終わると、蘇汎は耀にも景舜を紹介した。立場の差はあれど、互いに信頼を置き親しくしていると話すと、耀は頭を下げて蘇汎をよろしくと言った。
「汎はこうだから、なかなか気を許す友もできず、誰かを紹介されるのも初めてなのですよ。どうか末永く良き友であってください。都に来たときはぜひうちにも遊びにいらしてね」
と、なんだか母親のようになってしまった姉に、景舜はすこしぎこちなく笑いながら、「できる限り力になります。お任せください。俺が、こいつと居て楽しくてならないんですよ」と返していた。
事情は半分伏せたままでのやり取りだったからこそなのだとしても、姉が景舜を認めてくれたことには胸が熱くなった。自分の大事なものが、自分の大事な者からもまた大事に思われることの喜びは、いっそ救いのようなものだと思えた。
梅梅が眠ったと乳母からの報告を受けた後、蘇汎は改めて耀のいる客室を訪ねた。甘い果実酒と、少しの木の実を用意して。
「明日には出立ですが、大丈夫ですか。もう一日ゆっくりしてくださったほうが」
卓の上に持ち込んできたものを並べると、窓辺にいた耀は椅子に腰かけに来た。
「いいえ。うちの人と子らを放っておいては可哀そうですからね。御者がいいからそれほど疲れなかったし」
そうは言ったが、ふだん乗り物に慣れていない者が長旅をすると、思いの外疲労するものだ。それを気遣ったつもりだが、姉はやはり中秋には家で過ごしたいのだろうと思われ、蘇汎も強くは言わなかった。
「なら良いのですが。すみません、私の休みがとれず、こんな日になってしまって。数日ずらしたかったのですが」
「仕方ないわ。長官が暇では困ります。それに、私たちはふだんから一緒に暮らしているのですもの」
「そうですか」
「梅梅がここに慣れるまで、気をかけてやるのですよ。女の子はなにかと繊細です。病になどかからぬように」
「ええ。それは重々に。乳母がついていますから当面は頼ることにします。梅梅さえこちらにいてくれれば、私も毎日官舎に帰りますし、休みには遊んでやれます。この辺りの名所にもつれて行ってやりたいのですよ」
「……そうね……」
少し、姉の声が微妙な愁いを帯びた気がした。
「どうしました? ご心配はわかりますが、やはり私の娘ですから、私ができることはしたいと思っているのですが」
「ええ、それはわかっています」
「姉さん?」
言いにくそうに何度か口をつぐんでから、姉は小さく言った。
「汎、もしも嫌でないのなら、今からでも後添をもらってはどうです?」
なるほど、それを言われても仕方のない状況ではある。もちろん、母親はいた方がいいに決まっているし、これからの梅梅の成長を思うと、男親だけで事足りると言い切れるような能天気な蘇汎でもない。しかし。
「もう、五年ですよ。あなたの気持ちはわかるつもりだし、彼女だって自分がいなくなってからもずっとあなたに想われて幸せなのかもしれないけれど……、ずっとこのままでは、ね」
妻を亡くした時の蘇汎の悲嘆を知っている姉は、やはりどこか心苦しそうに言った。
実際、そのまま蘇汎は心を病んでしまうのではないかと周囲が案ずるほどに、気落ちした時間も長かった。しかし。それはもう、蘇汎の中ではしっかり過去の事として飲み込まれているのだ。
今は、しかも、一人ではない。
「姉さん、別に私は、瑞(ルイ)のことだけを思って後添を取らないわけではないのですよ」
「そうなの? ではなぜ? まさか仕事が伴侶なんて馬鹿な事を言うんじゃないでしょうね」
途端に険しくなった姉を、蘇汎は苦笑でなだめる。
「はは。それは寂しい人生ですね。違いますよ。今は、私を支えてくれる者があります。ちゃんと生身の人間です」
「そうなの? その方と縁組はできないもの?」
当然と言えば当然な方向に話を振られ、言い淀む。
「……えっと、ですね。どう説明すればいいかな。ちょっと簡単ではないんです。そのうちちゃんと話しますが、今日は結論の出ぬもので」
「なんなの、それ。まさか人妻とかではないと思うけれど。同じ後家さん? あんまりな相手だと難しいかしらね。いっそその方は置いておいて、縁故を探さない? うちの人からならいくらでも話はあると思うわ。身内贔屓ではないけれど、あなただったらいい人ははたくさん見つかるはずよ」
「待ってください、姉さん。落ち着いて」
「ああ、ごめんなさい。しっかり梅梅を任せられる人でないとね」
「それもそうですがご安心を。彼は必ず梅梅を愛しんでくれます」
「そう……。え……、彼?」
ぎょっとして問いかけられ、つい口が滑ったことに気が付く。迂闊だった。
しかし、言ってしまったものを繕うのは、この場合あまり得策ではないような気がした。今半端なことをしては、正式に彼を紹介した時に与える印象に穿った影響が出る懸念がある。
「……ええ。まあ」
「呆れた。どういう……。ああ、もう、これだからあなたは! あの上官で懲りたのでしょう? まさか自分からそちらを好むようになるとは、どうなの?」
この感覚は、女として生まれ育ち結婚し女としての務めをまっすぐに果たしてきた姉には理解しがたいものなのだろうとは思っていた。むしろ、妻となる女にとって、男がその役割に代わる可能性については、受け入れがたいものであるようだ。
「姉さんの仰りたいことはよくよくわかります。ですから、別に彼を家族として迎えるというものでなくて良いのです。ただ、私にとってものすごく大事な人物です。ここに来て見つけた、心から信頼できる者です。梅梅には乳母もいて、姉さんも支えてくれます。都に帰れば一級の教育も受けさせます。そういうのとは別の役割を、担ってくれる者です」
「……」
「……いけませんか」
ひと時、重い空気が流れた。実に複雑そうな、姉の視線が痛かった。
しかし姉はある時長いため息をついて、その後肩を落として言った。
「いいわ、あなたは昔から言い出したら聞かないんだから。好きになさい。でも、一度この私が品定めします。いいですね。梅梅に何か少しでもよからぬことをしたら私が成敗に来ますと言っておかねば」
「あの、彼は私の……」
伴侶であって梅梅の親代わりになると言っていい存在だ。だが、まあ、姉にしてみればその危険性もすぐに思い浮かぶのだろう。
「いちいち言わなくてもいいの! ああ、もう。とにかく会わせなさい。つまらない馬の骨なら私がへし折ってやるのだから!」
「姉さん……。彼は剣士です。姉さんでは敵いません。私にも無理です」
「へ?」
「先程の、彼ですよ」
耀は、額に手を当てて盛大に考え込んだ。
●
翌早朝の、まだ明けて間もない時間、予定通り耀は都へ向けて出立だ。蘇汎があらかじめ買い求めておいたたくさんの土産を積み込んだ馬車が、長官舎の門の前で待機している。
御者と耀を二人きりにするわけにはいかず、道中には共が必要だ。それを、景舜が買って出たのには驚いた。昨晩のうちに景舜との関係は姉に伝わってしまったと言うとさすがに天を仰いだが、それでも自分がと言ったので、そうなった。
耀のほうもまだ複雑そうな顔をしていたが、剣舞の後自分の口で蘇汎をよろしくなどと言った手前、無下に取り下げることはできなかったらしく、それを承諾した。馬車に乗り込む時、
「……道中は長いです。じっくりいきさつをお聞きしましょう」
などと景舜に言っていたが、その後どうなったかは彼の戻り次第聞くことにする。
なにせ、今日が月の満ちる日だ。天気も悪くないようで、折り返した景舜が返った後でも夜の更けるのを十分に楽しむことができそうだ。
空が暗くなる頃、馬を駆けて景舜が戻った。都からは馬車よりもその方が早いからということだった。
「ただいま」
「速かったな。ありがとう。助かった」
「うん。ちゃんと送り届けてきたよ。休んでいけってあんたの義兄さんには言われたんだけど、断ってきた」
礼の文を懐から出して、蘇汎に手渡す。そこには、景舜の共に対する礼と、父親として頑張れと言う激励が短く記されていた。
「無理をさせてすまなかった」
「今日はあんたと過ごしたかったからね」
お陰で、節季の宴も二人で楽しめそうである。
……ではなかった。梅梅も途中まではそこに混ざることになる。どのような席になるかはわからないが、きっとにぎやかなものになるに違いない。
「あとはゆっくりしてくれ。うちの中秋節の料理を再現させてみたんだ」
「その前に」
景舜が蘇汎の腰に手を回し、少しだけ引き寄せて口づけをした。
「梅梅の前ではできねえからな」
「続きは宴の後でしよう」
語らう夜長を期待しながらひと時甘く見つめ合い、二人は明かりの灯る広間へと肩を並べて歩いていく。
煌々と輝く大きな月が空に上りかけていた。
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