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三日目
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次の日。最後の日。
今日の日付が変わる頃、きっとナタリオは入れ替わる。
目覚めてすぐ見るものが固く握られた左手と天使の寝顔なのも昨日があったので随分落ち着いて対処できた。
昨日の落ち込み具合が嘘のように、ナタリオは目覚めるとてきぱき朝の支度を始める。
「おはようシルビア」
「おはよう?」
吹っ切れたのだろうか。たった二日、今日も入れると三日の出来事だ。
これから数々の思い出を作るナタリオにとって、きっと大したことではない。すくすく育ち、未来で私と出会ってほしい。
安心して彼を見守るモードに入ったのだが、次の言葉で絶句した。
「俺は今から過去に戻るのに、もう一人連れていけないか、新しい魔法を作ってみようと思う」
もう一人。
流石に魔法以外のことはてんで察しが悪いと司書長に嘆かれる私であっても、今のが私を指していることくらいはわかった。というか、他にナタリオが接した相手は彼の未来の部下と数人の使用人だけだ。
「ちょ、ちょっと待って」
聞き捨てならない。
子供のお遊びだと笑っていられないことは、昨日でわかった。彼は天才だ。幻覚魔法以外の腕前がどのようなものかは知らないが、それでも危機感は抱く。
魔法と言うのは不思議なもので、道を究めた魔法研究者が必死に理論を組み立て作った魔法も勿論あるが、子供──歴史書には神童と載るような人物が、想像力と底知れない野心、無知ゆえの突飛な試行錯誤で生み出したものも数多く残っている。
「シルビア、悪いが貴女の制止は聞けない」
「……へ」
「たとえどんな代償を払わなくてはいけないとしても、俺は試すよ。だって、俺は貴女を必要としている。この時代の俺よりも、ずっと」
心臓がおかしな音を立てた。
「今の俺と、夫婦として上手くいっている訳じゃないんだろう」
なんで。どうして。いつから。
彼に誤魔化していた真実に気づいていたというのか。
私とナタリオの実態は、良く見積もって親友止まりだろう。それを不満に思ったことはなかった。私も彼も、魔法に打ち込んでいたから。好きな物の話ができて、お互いを尊重し合っている。子供のナタリオには良く映らなくても、私は満足していた。
それとも。
子供の彼が不満であるならば、大人のナタリオも不満があるのだろうか。
彼らは時代が違えど、同じ魂を宿す同一人物であるのだから。
どくり、どくりと嫌な跳ね方をする心臓を抑えるのでいっぱいいっぱいだ。
「俺なら、シルビアを置いて過去に飛ぶような間抜けにはならない。貴女の信頼に甘えることしかできない馬鹿にも」
目も眩むような嫉妬。
ナタリオの感情の奔流が翡翠の瞳を通じて伝わってくる。
唾を飲み込み、何も言えないでいる私を放置し、彼は寝室から出て行ってしまった。
「っ、は、はあ」
硬直していた体を解すよう、浅い息を整える。
子供だからと舐めていた。彼の観察眼はずっと鋭くて、私の薄っぺらい言葉では誤魔化されてくれなかったし、予想していた以上に私のことを気に入ったらしい。
気に入った、なんて生易しい言葉で表現できるような眼差しではなかったかもしれないが──。
「あの子を止めなくちゃ」
制止は聞けないと宣言された。だからって、私もナタリオの言うがままに過去に飛ぶことはできない。
──どうして?
どうして、自分はこんなに焦っているのだろう。子供のナタリオのお願いを聞けないと、迷いなく決断しているのだろう。
それは、それは。
脳裏に浮かぶのは、一人の男。
癖のあるブロンドに、翡翠の瞳。二十歳にして魔法士団隊長。
魔法馬鹿な私の夫。
「ナタリオ」
廊下に飛び出す。呼び止めた小柄な少年は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「私は、この時代のナタリオを待っていたいの。おかえりって出迎えて、いつもみたいに仕事であった話や最近研究されている魔法の話をする時間が楽しいから」
目線を合わせるよう、軽くしゃがんで向き合う。
「私は、私の夫であるナタリオのことを愛しているのよ」
本人が不在の時に自覚するなんて。
頭の中で司書長が「これだから魔法のこと以外察しの悪いお前は」とため息をついた。我ながら、当たり前の日常を享受しすぎて、自分の心に目を向けていなかったことには呆れる。
「俺のために、この時代の俺を捨ててはくれないんだな」
「貴方の気持ちに報いることができなくて、ごめんなさい」
手を握られる。
暖かい、子供の手だ。
固くて骨ばった、成人した男の手とは違うそれを傷つけないよう握り返す。
「でもきっと、貴方の世界にも私はいるわ。私は魔法書のことしか興味がなくて、どん臭いし、察しも悪いけれど、それでも良かったら、声をかけて頂戴」
記憶は消えていく。
ナタリオにも私にも、この会話が意味をなさないことは知れていた。けれど、それと同時にこんな話をしなくとも、未来で共に在れることも証明されている。
「……ああ、勿論。絶対に逃がさない」
随分熱意が籠っている。
逃がさない宣言をされたらしい過去の私へ、こっそりエールを送っておく。
部下の話によれば、ナタリオは消える前に三日間だと告げたらしい。つまりは、殆ど記憶を保持することができなくても、何かの拍子に思い出す可能性もゼロではない。
「ふ、はは」
「どうしたの?」
緊張の糸が切れたのか、ナタリオは笑みを零した。
「いや、愛の宣言を一番に聞くのが俺なのは、こっちの世界の俺にとって大層不本意なことだろうと思って。良い気味だ」
この世界の自分に、当たりが強い。
「そうなのかしら」
「これは確信していることなんだが、こっちの世界の俺も相当シルビアに入れ込んでる。初め俺は魔法に理解がある人を伴侶にするだろうと予想を立てたが、魔法の話をしたいからという理由だけで家を簡単に改築しない。この家は、俺と、もういない俺の両親の思い出が詰まってる。そこにシルビアを迎え入れたくて堪らないっていうのが恥ずかしいくらい伝わってきた」
ナタリオがため息をつく。
「どうやらここの俺は、シルビアが恋心を自覚するまでペースを合わせて慎重に慎重に立ち回っていたようだが、入れ替わり魔法で台無しになったんだな。幻覚魔法同様、自分の性質に外れたことを慣れないままにやっているから良くないんだ」
私のペースに合わせてくれていた。
気づくことができなかったナタリオの優しさに、心が温かくなる。
「これで、ヤツへの当てつけは終わり。シルビア、今日は、二人でゆっくり過ごしたい」
自分が子供であることを存分に活かした甘え方。
ついさっき自覚したばかりの恋を捧げた男の幼少期。そんなナタリオの願いを叶えない選択はなかった。
食事する時間さえ惜しみ、私たちは本を広げたり魔法を使っったり、昨日や一昨日と変わらぬ、私たちらしい一日を過ごした。
記憶のことも、今日彼が消えることも、まるで知らないように。
夕方やって来たナタリオの部下も、昨日とは違う上機嫌さに驚いていた。
何も言わなかったが、ちょっとだけ遅い時間に寝室に入り、最後の時を過ごす。勿論、私を過去に連れていく魔法なんて作らなかったし、正真正銘のお別れになる。
「なあ、シルビアは、初めに何て声をかけられたら嬉しい?」
今のナタリオは、自分の世界に戻って私を口説く時の勝率を上げたくて堪らないようだ。ここでどうせ覚えていられないんだから、なんて言うほど私は野暮ではない。
「そうね。白馬に乗って来てくれると良いかも」
「おい」
本当なのに。昔の私は、割と夢見がちだったんだから。
「私も、一つ聞いてもいい? どうして、私を好きになってくれたの?」
自分で言ってて、照れくさくなってしまうけど。
そっと目を向ければ、ナタリオは微笑んだ。
「それに、俺が答えても良いのか?」
──。
「私が迂闊だったわ。私の夫に直接聞いてみる」
「ああ」
今日の就寝の合図は、「おやすみ」ではない。
「じゃあ、また会おう、シルビア」
「ええ。そっちの世界の私によろしくね」
少し不思議な、別れの挨拶。
甘い睡魔に落ちていきながら、私たちは将来を約束した。
翌朝。
目が覚めると、一回りも二回りも大きくなったナタリオが隣で眠っていた。
寝顔はまるで天使のようで。
私の左手は、変わらず彼に握られている。
「おかえり、ナタリオ」
今日の日付が変わる頃、きっとナタリオは入れ替わる。
目覚めてすぐ見るものが固く握られた左手と天使の寝顔なのも昨日があったので随分落ち着いて対処できた。
昨日の落ち込み具合が嘘のように、ナタリオは目覚めるとてきぱき朝の支度を始める。
「おはようシルビア」
「おはよう?」
吹っ切れたのだろうか。たった二日、今日も入れると三日の出来事だ。
これから数々の思い出を作るナタリオにとって、きっと大したことではない。すくすく育ち、未来で私と出会ってほしい。
安心して彼を見守るモードに入ったのだが、次の言葉で絶句した。
「俺は今から過去に戻るのに、もう一人連れていけないか、新しい魔法を作ってみようと思う」
もう一人。
流石に魔法以外のことはてんで察しが悪いと司書長に嘆かれる私であっても、今のが私を指していることくらいはわかった。というか、他にナタリオが接した相手は彼の未来の部下と数人の使用人だけだ。
「ちょ、ちょっと待って」
聞き捨てならない。
子供のお遊びだと笑っていられないことは、昨日でわかった。彼は天才だ。幻覚魔法以外の腕前がどのようなものかは知らないが、それでも危機感は抱く。
魔法と言うのは不思議なもので、道を究めた魔法研究者が必死に理論を組み立て作った魔法も勿論あるが、子供──歴史書には神童と載るような人物が、想像力と底知れない野心、無知ゆえの突飛な試行錯誤で生み出したものも数多く残っている。
「シルビア、悪いが貴女の制止は聞けない」
「……へ」
「たとえどんな代償を払わなくてはいけないとしても、俺は試すよ。だって、俺は貴女を必要としている。この時代の俺よりも、ずっと」
心臓がおかしな音を立てた。
「今の俺と、夫婦として上手くいっている訳じゃないんだろう」
なんで。どうして。いつから。
彼に誤魔化していた真実に気づいていたというのか。
私とナタリオの実態は、良く見積もって親友止まりだろう。それを不満に思ったことはなかった。私も彼も、魔法に打ち込んでいたから。好きな物の話ができて、お互いを尊重し合っている。子供のナタリオには良く映らなくても、私は満足していた。
それとも。
子供の彼が不満であるならば、大人のナタリオも不満があるのだろうか。
彼らは時代が違えど、同じ魂を宿す同一人物であるのだから。
どくり、どくりと嫌な跳ね方をする心臓を抑えるのでいっぱいいっぱいだ。
「俺なら、シルビアを置いて過去に飛ぶような間抜けにはならない。貴女の信頼に甘えることしかできない馬鹿にも」
目も眩むような嫉妬。
ナタリオの感情の奔流が翡翠の瞳を通じて伝わってくる。
唾を飲み込み、何も言えないでいる私を放置し、彼は寝室から出て行ってしまった。
「っ、は、はあ」
硬直していた体を解すよう、浅い息を整える。
子供だからと舐めていた。彼の観察眼はずっと鋭くて、私の薄っぺらい言葉では誤魔化されてくれなかったし、予想していた以上に私のことを気に入ったらしい。
気に入った、なんて生易しい言葉で表現できるような眼差しではなかったかもしれないが──。
「あの子を止めなくちゃ」
制止は聞けないと宣言された。だからって、私もナタリオの言うがままに過去に飛ぶことはできない。
──どうして?
どうして、自分はこんなに焦っているのだろう。子供のナタリオのお願いを聞けないと、迷いなく決断しているのだろう。
それは、それは。
脳裏に浮かぶのは、一人の男。
癖のあるブロンドに、翡翠の瞳。二十歳にして魔法士団隊長。
魔法馬鹿な私の夫。
「ナタリオ」
廊下に飛び出す。呼び止めた小柄な少年は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「私は、この時代のナタリオを待っていたいの。おかえりって出迎えて、いつもみたいに仕事であった話や最近研究されている魔法の話をする時間が楽しいから」
目線を合わせるよう、軽くしゃがんで向き合う。
「私は、私の夫であるナタリオのことを愛しているのよ」
本人が不在の時に自覚するなんて。
頭の中で司書長が「これだから魔法のこと以外察しの悪いお前は」とため息をついた。我ながら、当たり前の日常を享受しすぎて、自分の心に目を向けていなかったことには呆れる。
「俺のために、この時代の俺を捨ててはくれないんだな」
「貴方の気持ちに報いることができなくて、ごめんなさい」
手を握られる。
暖かい、子供の手だ。
固くて骨ばった、成人した男の手とは違うそれを傷つけないよう握り返す。
「でもきっと、貴方の世界にも私はいるわ。私は魔法書のことしか興味がなくて、どん臭いし、察しも悪いけれど、それでも良かったら、声をかけて頂戴」
記憶は消えていく。
ナタリオにも私にも、この会話が意味をなさないことは知れていた。けれど、それと同時にこんな話をしなくとも、未来で共に在れることも証明されている。
「……ああ、勿論。絶対に逃がさない」
随分熱意が籠っている。
逃がさない宣言をされたらしい過去の私へ、こっそりエールを送っておく。
部下の話によれば、ナタリオは消える前に三日間だと告げたらしい。つまりは、殆ど記憶を保持することができなくても、何かの拍子に思い出す可能性もゼロではない。
「ふ、はは」
「どうしたの?」
緊張の糸が切れたのか、ナタリオは笑みを零した。
「いや、愛の宣言を一番に聞くのが俺なのは、こっちの世界の俺にとって大層不本意なことだろうと思って。良い気味だ」
この世界の自分に、当たりが強い。
「そうなのかしら」
「これは確信していることなんだが、こっちの世界の俺も相当シルビアに入れ込んでる。初め俺は魔法に理解がある人を伴侶にするだろうと予想を立てたが、魔法の話をしたいからという理由だけで家を簡単に改築しない。この家は、俺と、もういない俺の両親の思い出が詰まってる。そこにシルビアを迎え入れたくて堪らないっていうのが恥ずかしいくらい伝わってきた」
ナタリオがため息をつく。
「どうやらここの俺は、シルビアが恋心を自覚するまでペースを合わせて慎重に慎重に立ち回っていたようだが、入れ替わり魔法で台無しになったんだな。幻覚魔法同様、自分の性質に外れたことを慣れないままにやっているから良くないんだ」
私のペースに合わせてくれていた。
気づくことができなかったナタリオの優しさに、心が温かくなる。
「これで、ヤツへの当てつけは終わり。シルビア、今日は、二人でゆっくり過ごしたい」
自分が子供であることを存分に活かした甘え方。
ついさっき自覚したばかりの恋を捧げた男の幼少期。そんなナタリオの願いを叶えない選択はなかった。
食事する時間さえ惜しみ、私たちは本を広げたり魔法を使っったり、昨日や一昨日と変わらぬ、私たちらしい一日を過ごした。
記憶のことも、今日彼が消えることも、まるで知らないように。
夕方やって来たナタリオの部下も、昨日とは違う上機嫌さに驚いていた。
何も言わなかったが、ちょっとだけ遅い時間に寝室に入り、最後の時を過ごす。勿論、私を過去に連れていく魔法なんて作らなかったし、正真正銘のお別れになる。
「なあ、シルビアは、初めに何て声をかけられたら嬉しい?」
今のナタリオは、自分の世界に戻って私を口説く時の勝率を上げたくて堪らないようだ。ここでどうせ覚えていられないんだから、なんて言うほど私は野暮ではない。
「そうね。白馬に乗って来てくれると良いかも」
「おい」
本当なのに。昔の私は、割と夢見がちだったんだから。
「私も、一つ聞いてもいい? どうして、私を好きになってくれたの?」
自分で言ってて、照れくさくなってしまうけど。
そっと目を向ければ、ナタリオは微笑んだ。
「それに、俺が答えても良いのか?」
──。
「私が迂闊だったわ。私の夫に直接聞いてみる」
「ああ」
今日の就寝の合図は、「おやすみ」ではない。
「じゃあ、また会おう、シルビア」
「ええ。そっちの世界の私によろしくね」
少し不思議な、別れの挨拶。
甘い睡魔に落ちていきながら、私たちは将来を約束した。
翌朝。
目が覚めると、一回りも二回りも大きくなったナタリオが隣で眠っていた。
寝顔はまるで天使のようで。
私の左手は、変わらず彼に握られている。
「おかえり、ナタリオ」
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