夫が十歳の姿で帰ってきた

真咲

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二日目

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 翌朝。
 目が覚めると、まだ幼い少年がすやすやと寝息を立てていた。
 まるで天使のようである。起こさないよう、そうっとベッドから出ようとして、左手を固く握られていることに気づく。赤子が母親を求めるような幼い仕草である。仕方ないのでナタリオが起きるまで待つことにした。

 あまり間を開けず、ナタリオも瞼を開ける。

「ここは……ああ、そうか。おはよう、シルビア」
「おはよう」

 数瞬の間に、彼は昨日の出来事に思い至ったらしい。彼は文字を追うよりも体を動かして記憶するタイプというだけで、頭の回転の早さは大人顔負けである。

「顔を洗って、着替えていらっしゃい。朝食の準備もそろそろ済む時間よ」

 近年になり、使用人の雇用形態にも幅が出てきたが、歴史のあるブリシアド邸では使用人はあまり主人の前に顔を出さない。執事やメイド長は例外として、他の細々とした雑用をこなす使用人は夜に仕事を済ませ、主人が起きる時間になると引っ込む。伝統的な雇用形態を保っているというわけだった。
 そのため朝は人の気配を感じない、やや寂しい時間になっていた。
 今日は、彼がいるが。

「今日はご飯を食べたら庭に行きたい。シルビアもついてきてくれ」

 わくわくと強請られる。断る理由もなく、私は機嫌よく頷いた。

 ブリシアドの庭は、魔法の試し打ちができるよう、広々とした空間が確保されている。緑色の芝は瑞々しく、万が一魔法を打った拍子に転んでも怪我はしないだろう。庭の片隅には改築の際に付けられた四阿があり、読書することもできるようになっている。個室の本棚が埋まったら使うように、と四阿の側には書庫にもなる小屋が配置されていた。
 幼いナタリオのいた屋敷にはなかっただろうそれらを、彼はじっくり観察していた。

「今のナタリオも、私と魔法の話をするのが好きなの。だからなのか、本人はちっとも読まないのに、私が魔法を思う存分楽しめる環境を作ろうとしてくれているのよ」

 尊重されている。自分の魔法の知識を求めてくれている。
 そう感じる時のこそばゆさ、嬉しさは言葉に表せない。

「……きっと、俺はそれだけじゃ──いや、なんでもない。俺は大人になっても魔法ばかりな生活を送っているんだな。シルビアも巻き込んで」

 なんだかちょっと拗ねている様子だったが、彼に表情の真意を問う暇もなく、持ち出した杖を掲げる。
 ナタリオの杖からは光が飛び出し、色とりどりの花びらが舞い降りてきた。

「わあ……」

 奇麗。空から降ってくるそれらは、地面に辿り着く前に消えてしまう。きっと幻覚魔法の類なのだろう。これほどの量、規模を操るのは相当な実力が必要になる。

「すごいわ! とっても奇麗。この光景をずっと見ていたいくらい」
「昨日はシルビアに色々してもらったから、俺からの礼だよ。幻だけどね」

 まるで悪戯が成功したかのように、にっこり笑ったかと思うと、彼は更に杖を振る。
 すべての花びらが一瞬動きを止め、鮮やかな蝶に早変わりした。落下していたものが羽ばたき、太陽に向かって駆け上がる。最後は儚く光の粒となっていく様は、絶対に幻覚でないと見られない非日常的な光景だ。

「なんて、美しいのかしら」
「本当は、攻撃魔法の方が得意なんだけど。幻覚魔法は敵を錯乱させるのに有用だから、練習したことがあるんだ」

 戦のことはわからないが、不思議な気分だった。
 ナタリオはその実直な性格を鑑みて、敵に正面から切り込んでいくタイプだと思っていた。

「貴方が幻覚魔法を使うだなんて知らなかったわ」
「ちょっと前までは、嫌いだったかな。こういう魔法って、卑怯なやり方に見えるだろ? でも、今は違う。どんな魔法を使っても、無傷で帰るのが一番なんだ」

 ──それは。
 昨夜の会話がきっかけだろうか。

「ええ、そうね」
「と言うことで、今日は幻覚魔法を練習するよ。是非楽しんでいって。何か見たいもののリクエストがあれば教えてほしい」

 それからは、ナタリオの盛大なショーの開幕だった。
 私には魔法の才能がなく、実践的に習ったことはないけれど、それでも彼が同年代と比べてずば抜けて魔法が上手いのがわかる。
 甘いお菓子を降らせてもらったり、私そっくりの幻覚が動き回るのを笑って眺めたりした。

 時間はあっという間に過ぎ、魔力も底を尽きたナタリオと屋敷へ戻る。
 日は傾き、空はオレンジ色になっている。
 司書の仕事は緊急の際を除けば早く終わるため、ナタリオに直接「おかえり」と言うのは私の習慣になっていた。自然と足が玄関に向きそうになる。

 そんな私を見咎めてか、ナタリオは無言で握っていた手を少し強めた。

 と、その時。
 客人が屋敷を訪れた。
 約束通り、ナタリオの部下が彼の様子を見にやって来たのだ。

 玄関を開けて迎え入れようとしたが、彼も帰る家がある。手短に済ませたいとのことだったので、玄関で話を聞くことになった。

「随分懐いていますね、隊長……」
「魔法のことで意気投合したんです」

 私の手を握り締め、全く離れようとしない彼が意外だったのか、微妙な顔をしている。

「コホン。今日は新しい情報を持ってきました。司書長が、相当古い他国の文献から、似た魔法の使用形跡を見つけたようです。様々な偶然が重ならないと発動しないもので、今回の隊長は運が悪かったようですね」

 魔法馬鹿の男は、自分が体験できてひょっとすると幸運に思っているかもしれないことは黙っておく。ちなみに私も自分が同じ魔法にかかったら驚き、困惑すると思うがちょっと…いや、かなり嬉しい。戻れるという保証付きであるなら。

「過去を変えたいと願った天才が編み出したものらしいのですが、彼は魔法には成功しても過去を変えることには失敗したようです。どうも、入れ替わり期間は記憶の保持が困難らしく……過去に飛ばされた隊長は現在自分が何者かもよくわかっていない可能性があります。未来に飛ばされた方は……過去に戻り次第、急速に忘却が始まるようです」

 魔法も万能ではない。
 むしろ、一説には世界の法則に抗えない道具として描かれる。過去は変えられない、という法則に則り、今私の手を掴んでいる少年は私のことを忘れる。ここで行ったことも、全て。

「教えていただきありがとうございます」

 また明日来ます、という律儀な彼に礼を告げ、私とナタリオは玄関から離れた。賢い少年は、今の会話を正しく理解したのだろう。俯いていて、表情がわからなかった。
 何か声をかけたかったが、彼の握る手は今適当な慰めを求めてはいないように思える。

 沈黙のまま夕食を摂り、昨日と同じように眠りについた。
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