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1話
しおりを挟む終業式のあと、部活だという後輩たちにちょっとした差し入れをしてから千代は学校を後にした。
明日から夏休みだが、受験生である千代にはあまり関係のないことである。
今日もこれから駅近くの予備校へと行くのだ。
駅に着くと、週に三回は寄っているファストフード店に行き、腹ごしらえをした。一人用の窓際の席に座り、千代はぼんやりと模試の結果を見つめていた。そしてその結果を見て千代はがっくりと肩を落とした。
ずっと部活が中心の生活だった。それは強豪校だからとか高い目標があったとはでない。弱小で、廃部寸前のギリギリの人数しかなかった陸上部は個人がそれぞれ立てた目標に向かって練習していくスタイルだった。
その中で千代は部長という立場で、少ない後輩たちの面倒をよく見ていた。タイム、距離、練習メニューやスケジュールの相談を受け、顧問に報告し、大会のエントリーや部費の管理などもやっていた。
部の作業の七割を千代ひとりで請け負っていたと言っていい。それでも千代は苦にならなかった。
走ることは楽しい。それ以上でもそれ以下でもない。タイムが伸びない事や持って生まれた身体能力に差があるのはどうしようもないことで、だからこそ、過去の自分を少しでも超えた、ということが実感できる陸上部は居心地のいい場所だった。
そうして部活に熱中していたら勉強の方が片手間になってしまい、あわてて今勉強しているところだった。
(……この世になんで受験なんてあるの……)
ここ一年、千代の志望校判定はずっと変わらない。
千代なりに努力してはいるが、勉強が多少遅れてしまうことは分かっていたはずだった。それでも対策はしてきたつもりだったし、勉強時間を確保してきた。それが結果に繋がってきていない。努力が実を結ばない状態が続いており、今千代の心は少しばかり折れそうになっている。
これが陸上なら対策が思いつくのだが、勉強となると自信がない。そのために三年の春から予備校にも通い始めたが、効果があったかと言えばまだない状態だった。
(個性が、とかこれからの時代に、とか言うくらいなら受験ももっと多様になればいいのに)
もちろん多様になったところで今の千代に勝算があるわけではなかった。それでもこの高校三年の受験はこれからの千代の人生に大きな違いをもたらすことは理解している。
イヤホンからは無機質な英語の音声。試験対策にと流しているが、きちんと聞いているわけでもなかった。
冷めたポテトフライを口に運び、じっと手帳を眺める。
夏季講習と模試の予定しか書かれていない。ついこの前部活を引退するまでは部活の予定やトレーニングメニューも書いてあったのだが、空白が多くなった。その空白が千代の迷いと焦りとして迫ってくるようなそんな感じがした。
「千代ー。お疲れー。これから予備校?」
「そうだよ」
「私も。もう模試の結果が悪くて悪くて。本当は今日暇だったけど、自習室行くことにした」
中学高校と同じ学校に通う友人が窓際の座席にいた千代を見つけ、店に入って来た。彼女とは予備校も同じだ。志望は全く違うため、授業の方はさっぱり一緒にはならない。こうして講義が始まる前や終わった後になんとなく一緒にいることが多い。陸上部にいた千代は体の線がしなやかだが、彼女は丸めで、甘い物が大好きだ。今もワッフルを買ってたようである。
「分かってはいたけど、ほんと受験生って勉強しかしてないよね。たぶん人生で一番勉強してる」
「確かに」
腹ごしらえを終え、ふたりで話しながら予備校に向かうと、そこで学校で会ういつもとさほど変わらないメンバーがいた。そして予備校の掲示板には模試の順位が張り出されているのが見え、千代の学校にいる天才はいつものように全国一桁位、今回は七位をとっていた。
この全国七位という順位をたたき出した男子生徒は、予備校ではまあまあ態度よく勉強しているが、学校ではちっとも勉強している様子もない。
(世の中、すべからく不平等である)
千代は日に焼けた肌にあたる冷房の風を受けながら不平等な世間を少しばかり恨んだ。
この天才が受験するであろうトップ校からは数段レベルが落ちる大学が千代の第一志望だ。これだけの差があればもはや嫉妬すらない。生きる世界が違うのだとつくづく実感するのだった。
「すごいねー全国七位」
「別にすごくはねーよ。上にまだいるし」
何の感動も悔しさもなく、淡々と水無瀬悠は言った。
この水無瀬悠という男子は、とにかく成績が良かった。しかし学校で勉強しているのかと言えば授業中に漫画を読んでいたりすることもあり、授業態度は決していいとは言えない。
ならば自宅で勉強しているのか、というと夜中までゲームをしていることも多々あるようで、本人曰く「勉強はしてない」ことは本当らしい。じゃあなぜ成績がいいのか、というと「なんだか知っている気がする」という全く理解できない感覚で、もはや誰も悠のことは普通ではないと理解していた。
それだけ成績がいいのにこうして夏期講習に来ている理由は「暇だから」というのだから必死になっている千代からすれば苛立たしさえ感じてしまう。
「ねぇ、こあとのみんなで夏祭り行こうよ。予備校終わってから」
くるりと巻いた毛先を遊びながら千代と共に予備校に来た友人が言う。
「ちょっと遅くない?講義の後だとお祭り終盤だよ」
千代はスケジュール帳を見てそう言うと、
「でも灰色の受験に少しくらい色が欲しい」
「賛成」
友人の言葉に賛同したのはやはり同じ学校同じ予備校に通っている男子だ。
「うーんどうしよう」
「何か予定あった?」
実は今日、宵も深い丑三つ時よりもあと、それこそ夜明け前に皆既月食が見られる日なのだ。朝から雲一つない快晴だった今日、おそらく皆既月食はよく見えるだろうと千代は思っている。千代はその珍しい天体ショーを未だ見たことがなく、ずっと楽しみにしていたのだ。皆既月食まで仮眠をとってみるべきか、いっそ徹夜するつもりでずっと起きていようか未だ迷っていた。
「悠は?」
男子生徒のひとりが”天才”水無瀬悠に声をかける。
「俺は今日皆既月食あるから帰ろうかと」
「え?水無瀬も皆既月食見るの?」
千代は悠と皆既月食が全く繋がらず、意外だと思った。
”天才”と言われる水無瀬悠は、基本的に学校生活に興味がないようで、同じクラス、同じ講座を受けていてもやる気のある素振りを千代は見たことがない。そんな悠に興味があるものがあることはかなり驚きなのだ。
「実は見たことないんだ。チャンスは何度かあったけど、曇りだったり、旅行で観測できない土地にいたりして」
「私も、見たことないから今日、見たいと思ってた!」
千代がそう言うと、悠は空を見上げた。
「今日はきっと綺麗に見える。月食のはじまりが三時過ぎで最大は……そうだな……西の空のあの辺だ、って言っても分かりにくいよな。加賀野の部屋は二階にあるか?」
「うん、二階。二階の南側に窓とベランダのある部屋。うちはちょっと田舎なところにあるから、周りに高い建物ないし、遠くに山があるのがちょっと心配」
「まあ、それなら見えるだろうな。そう言えばどこだっけ、家」
「うちは駅から自転車で三十分だよ。あの中央通りの先の坂を上がったところ」
「あー!あの、古い神社とかある、あの地域か!」
「そうそう」
「神社のすぐ近くにすごい豪邸があるよな。門構えから立派で、庭もすごい広そうな」
「あるね。庭に池もあるし、母屋と離れと蔵があるよ」
「……え?あれ加賀野の家?」
「ううん、違う。うちの本家。父の実家なの。今は曾祖母と祖母がふたりで暮らしてる」
「あの大豪邸に?」
「そう。だからいろいろと大変みたいで。私も手伝いには行ってるんだけど」
「そうなのか。時々通ると庭の雰囲気がすごく良さそうで結構好きなんだよな、通るだけなのに」
「水無瀬の家は?」
「うちはそこ」
「え?」
そこには駅直結とも言えるマンションがある。
タワーマンションとはいかないが、それでもなかなかの大きなマンションだ。
「うちはここの十五階。俺の部屋がちょうど西側に窓があるから、今日は部屋でゆっくり見られる」
「暇だから予備校って、本当に暇なんだね……こんな近いの」
「まあそうだな。正直家にいてもやることねぇし」
ふたりが皆既月食や住んでいる場所について話していると、どうやら夏祭りに行くことが決定したらしい。
またあとで、と声をかけあってそれぞれの教室や自習室へと入っていく。そして悠は千代と同じ教室へと入って行く。
「前から疑問だったんだけど、このクラス標準なのになんで受講してるの?全国七位なら難関国立クラスじゃない?」
「あっちはピリピリしてるから」
それはあんたがいるからでしょうね、という言葉を千代は飲み込んだ。
体を強く打ち付けられた。
落ちるような感覚と言うよりは、下から引っ張られたような感覚だった。
視界が歪んで何も見えなくなったと意識した時に湧き上がった恐怖は打ち付けられた衝撃で吹っ飛んでしまった。
千代は経験したことのない痛みに声すら出せない。
聞き慣れない声が聞こえる。同時にひどく寒さを感じる。それは今体を打ち付けられたせいなのか、それとも恐怖なのか分からない。だんだんと、衝撃が体を抜けていく。
息ができる。指も動くことが分かる。わずかではあっても、体が自分の意志の通りに動くことに千代ほっと安堵した。
何が起きたのか、そう思えるくらいに回りが静かであることも分かった。
密やかな話声が聞こえてはいるが、どうやらどこか部屋の中らしい。板張りの床に体が横たわっているのが分かるし、壁も板のようなものが見えたからだ。
――おかしい。
記憶が確かなら、夏祭りだった。
今日は引退した陸上部の後輩たちにちょっとした差し入れを持って行き、そのあと予備校の夏期講習へと行った。予備校で学校とさほど変わらないメンバーと合流すれば、予備校の掲示板にはこの前受けた模試の結果が張り出されていて、うちの学校にいる天才はいつものように全国七位をとっていた。
なんてことのない夏休みの一日だったのだ。
いつもと違ったのは、予備校の夏期講習のあと近くのお祭りに行ったことだった。
予備校のある駅の改札を出るとお祭りということもあってかなり混み合っていた。待ち合わせの人々、普段通り帰宅する人々、駅前によくいるビラ配り、そして彼女たちのような祭りにやってきた人々だ。千代は悠と皆既月食の話をしつつ、千代の本家の様子を話していたのを覚えている。
千代は差し出されたビラやポケットティッシュを受け取って鞄に突っ込む。その鞄は、受験生ということもあってテキストやノートがぎっしり詰まっていてなかなかに重い。人ごみと鞄の重さで自由に食べ歩けないことに不平不満を言いながら受験勉強の合間の楽しいひと時のはずだった。
痛む体をようやく起こし、うっすらと瞼を上げてみる。そこにいたのは二人の男だった。
(あれ?なんであんな平安時代みたいな服……)
千代は疑問に思ったが、声が出せないほど体が軋んで、うまく身動きが取れない。
受験勉強でよく見たその様子は日本史だったか、古典だったか。どちらにしても確かに現代ではない衣服を着た二人の男に千代は見下ろされていた。
ひとりは自分の父よりも年上そうな、少し皺が多めで細い男だった。
千代をさんざんねめつけるように見ると不快そうに眉を顰めて言う。
「この女子、奇妙なものを着ておるな」
「術が本物であれば、これは未来のものになります」
皺の多い男の言葉に答えたのは、それよりもずいぶん若いが、それ以上の特徴がない。灯りというには随分と心もとない小さな火がゆらめいているだけで、千代には表情の何も読み取れなかった。
「まあ、歳の頃はちょうどよさそうだから、このおなごで構わないだろう。錦」
細い中年の男がそう言うと、部屋には女が入って来た。
長い髪を流すようにして大きくふたりの男の間に入ってきた女を見て千代はもう一度驚く。
女もまた、平安時代の資料でよく見るような女房装束をしており、黒髪がうっすらと赤みを帯びてから金になっていく様子は美しい。が、髪の赤から金へのグラデーションが揺らめくことがどうにも人間とは思えない。
この暗がりの中でさえその姿は神々しさを含み、部屋が明るくなったかと錯覚してしまう。
「この者に一通りのことを教えてやれ」
「……私では役不足かと」
「それでもこの『未来』の者よりはこの時代をよく知っておろう。三月ほどでなんとかするように」
「……かしこまりました」
突然、じり、と右腕が焼けるような感じがして腕を見る。
するとそこはうっすらと日焼けしただけの肌に赤黒く何か模様が突然浮きたってきた。
「あっつい!!!」
まさに腕が焼けているかのような焦げ付くような熱さに思わず声を出すと、悲鳴のような千代の声が響いた。
一瞬熱く焼かれたと思うと、すでにその痛みはすうっと引いてしまった。
おそるおそる痛んだ場所を見ると、そこには中途半端に模様が出ている。
「……なにこれ」
右腕の内側親指側をひらく半円の枠があり、中に意味不明な模様。それは点がいくつかあり、そのいくつかは線で結ばれているが、見覚えはなかった。
「……何かの、呪術の……印、でしょうか」
刻印されたものを見て、不思議な女が印、と言う。こちらに来た時も意味は分からなかったが、突然こんな風に肌が焼け付くことも意味が分からず、千代は怯えてしまう。
「印?それにしては中途半端な」
細い中年の男が気味悪そうに横たわったままの千代の腕を見る。
「何か、この半円は元は円なのではないでしょうか」
「さあ?術の失敗でしょうか」
若い男があっさりと術の失敗、と言い、千代はさらに恐怖におびえる。呪いなら解く方法もあるかもしれないが、失敗となればむしろこれはどうしたらいいのか見当もつかないということである。
「失敗していれば影響はないはずですよ。それに忌むべき気配も感じられません」
「まったく、奇妙な術を使う者は得体が知れぬ」
中年の男はそれだけ言うとさっさと退室してしまった。
千代は訳が分からないまま痛む体をかばうようにして事の次第を眺めていたが、どうにもこれは普通ではないのではないか、ということに気づく。
千代は生唾を飲み込んでその女からも距離をとろうとした。
人間には見える。けれど、そうは思えない――
なのに体の軋みとは別の何かが千代を襲う。ふっと意識が遠くなるような感覚に力が抜けていく。嗅いだ事のない香り、見慣れない人、そして聞き慣れない言葉。不安と恐怖が体の感覚を鈍らせているのだ。
「俺が運ぼう。錦、大納言様の機嫌を損ねるなよ」
千代は体の痛みと恐怖でがちがちになっているからだを動かすこともできず、若い男に抱えられてしまった。
運ばれている最中、肌寒く感じたのは恐怖のせかいかもしれなかった。
固まる体は彼らに抵抗する術を知らない。
見知らぬ男たちと人ではないであろう女を目の前にしてできることはない、と千代は直感した。
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