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9話
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「教えがいがないねえ、二人とも」
充成が千代と悠に教えているのは、書だった。文字そのものの美しさを極めていく、というものだ。
そもそも小学校の習い事以来に筆を持つ千代にはその記憶すら薄く、持ち方どころかその姿勢から直されているありさまだ。
「何か、他に役立ちそうなことがいいです」
「知識などどうせ君たちが帰ったらその時代では役に立たないだろう?でも、文字は書く」
「確かに書きますけど、筆なんて使いません!」
文句ばかり言うものの、千代は真面目に取り組んでいた。きちんとやれば菓子をもらえるからだ。分かりやすい報酬に千代はようやくこの時代で一種のやりがいを見出したのだった。
一方悠は黙々とやっているものの、興味は微塵もないままだ。それはかつて元の時代にいた日々と変わらなかった。むしろそのことを思い出したことで気分は下がるばかりだった。
こんなことをしても得るものはない――悠は世界をそういう目で見ている子供だった。
自然のことがなぜか体感として分かる、ということが自覚的になったのは小学三年の頃だったと悠は覚えている。自覚したことで両親と自分の距離感が妹のそれとは違う、ということも腑に落ちた瞬間だった。
それを悲観することもなく、しかたない、と諦めてしまうには十分すぎる程「普通」との違和感が多かった。以来悠はなるべく穏便に時を過ごし、大学進学時に家を出ることだけを目標にしていたところがあった。
成績は十分だった。あとはせめて親の負担が少ないように生活費の安そうな大学を探しているところだった。そこに突然、過去へと飛ばされ、自分の能力が思った以上に有益であるような世界は、悠にとって救いのように思えたのだ。そう思えた世界に留まろうとすることは、悪いことのように思えなかった。
「本当に、悠はそつなくこなすねえ」
さして真面目に取り組む気のない悠の文字を見て、充成は苦笑いだ。
「……今日はちょっと墨の粘りが強く感じるからゆっくり書いてるだけだ」
悠の指先から伝わる墨の様子をそのまま伝えると、千代と充成は目を点にしてしまう。
「こいつむかつきます。なんで天は何でも与えるのよ」
千代の悪態にも悠は動じることはない。
――そんな、穏やかな萌黄の頃のひととき時だった。
気配が一気に重くなったことにまず気づいたのは悠だ。悠は筆を置いて懐から形代を取り出す。それを見て充成と千代もはっとする。
「……不鬼さん、呼べますか?」
悠が充成に問う。
「僕は不鬼の居場所は知らないね。悠の形代でなんとかなりそう?」
「難しいです」
「……あ、羽多。不鬼さんに懐いてるあの小鳥」
「呼べるのか、加賀野」
「うん、文通するときから羽多とは仲良くしてる。――羽多、来て」
千代がそう呼びかけると、すぐそばにいたのか、ちち、と音がして羽多が御簾の外に止まったのが見える。
「羽多、お願い、不鬼さんを呼んできて。なんか、ヤバそう」
羽多はぱさぱさ、と飛び立つと、いっそう緊張感が高まる。この気配が何か分からない。分からないが、攻撃されたらそれから守ったり、まして反撃できるような能力がある者はここにはいない。それに、ここは充成の自宅。広大な邸宅の、それも充成以外が来ないような離れであっても、充成の家族や使用人たちが暮らしているのだ。
「僕は家族と使用人を結界のある部屋に避難させてくる。悠、千代殿を頼むよ」
「頼むって、……こんなしょぼい式を発動したところでできることはないですよ」
攻撃をかわすだけで精一杯、防御だけになることに皆が冷や汗を滲ませる。しかし、千代はこの充成の屋敷に来た時から少しずつ考えていることがった。たいしたことではないが、”時間を稼ぐ”ことはできるかもしれない、と。
「無理なら逃げるだけだよ水無瀬」
千代は上に着ていたものを肩から落とし、小袖だけになる。足回りも動きやすいようにまくり上げてしまった。
「……そうか、足は速いのか?」
悠が何か思いついたように千代を見る。
「どうだろう。でも、多少のスタミナはあるかと思う。不鬼さんが来るまでなんとかもてばいいんだし」
「未来のおなごはすごいねえ」
「充成さん、ちょっと家の外、走ります」
千代はこちらに来た時に履いていた靴下とスニーカーをいそいで履く。そして小さな庭で簡単にストレッチをすると、千代の後ろにはあの悠のぺらぺらな形代のままの式が現れた。
「俺の式はたいして役に立たないからな」
「……とりあえず、敵の視界を塞ぐようにして欲しい。そうしたらなんとかなるかも」
「敵の速さが分からないぞ。大丈夫か?」
「勝ち目がないくらい『速さ』の気配ある?そういうのは分からないの?」
悠は千代に言われ、はっとする。思わず意識を集中して、こちらに向かって来る何かを感じ取ろうとする。
(……重い感じ、スピードというか……空気が大きく揺れてる……この揺れ方……)
「……鳥じゃないかな」
「鳥?」
「結構でかい気がする。羽音が重い……」
「大きい鳥……スピードあっても、大きいなら、隙間に逃げ込める、かな」
「でも加賀野、囮みたいなマネして大丈夫なのか」
「囮かあ……。囮というより逃げる、んだけどなあ。敵の狙いは私だし、一応元陸上部だからちょっとは走れる。正直ここでじっとして不鬼さん待っているよりは自分で走る方がいいっていうのもある」
「……すげえな」
「なんとなくだけど、いつも羽多に不鬼さんを呼ぶよう頼んでから不鬼さんが来るまでって十分くらいだった気がするから、それならなんとかなるかなっていう気もする」
「十分か。それなら俺もなんとかできるかもしれない。相手の視界を塞げはいいんだな」
「うん、それでどうにか十分くらい、時間を稼ごう」
千代は大きく深呼吸する。走る、逃げる、と言ってもこちらに来てもう三か月近く経つ。その間、走ったのは二週間ほど前の大納言家別邸からの逃亡だけだ。体はきっと鈍っている。習慣としてストレッチは毎夜欠かさずしていたとは言え、足がもつれるだろう。
それに庭といっても、この邸宅はおそらく二町近くの広さがある。ざっくり言ってサッカーコート二面半ほどの広さである。その広大な邸宅の庭は非常に広く、千代は走りたくてうずうずしていたところもあった。
(グラウンドでもトラックでもない、庭……)
スピードよりも確実に逃げて時間を稼ぐことに集中した方がいい、と千代は切り替える。思い切り走って転んでしまっては失速どころの話ではない。
「来たぞ!」
悠の声に空の、その先に見えるものに千代はそれが何だか分かってしまった。ばさりばさりと羽の音がしそうな、大きく、黒い鳥。
「……烏丸だ……。ということは、錦……?」
千代が信じられないようなものを見ていると、その姿はだんだんと輪郭をはっきりさせてくる。
「錦!私の世話をしていた女房!半人の!」
まさか敵として差し向けられるとは千代は考えてなかった。確かに錦は人よりは強いだろう。だが、今は変化しかできなくなっている、と言っていた。その程度の神通力で攻撃できるのだろうか。
「おい!加賀野、さっさと走れ!」
「あ、わ、分かった」
千代は慌てて走り出す。低い庭木を飛び越え、池を避ける。あの心もとない式が低空飛行しようとする烏丸の視界を奪い、錦の行く手を阻んでいる。好機とばかりに屋敷をぐるりと一定のペースになるように駆けて行く。
うまい具合に距離をとれている。後方に烏丸から降りる錦が目に入った。屋敷の範囲であの大烏ではさすがにやりずらいのだろう。地に降り立った錦は、一目散に千代を追ってくる。
(……足が速い、なんて特技があるとは錦は言ってないから、普通の人仮定すれば私に勝ち目はある……!)
千代は呼吸を整え、少しだけペースを上げる。自分の能力など何も通用しない世界で、唯一今得意なことで敵を翻弄できるかもしれない可能性に興奮を覚える。
「え、!ちょっと、なにコレ!?」
突然、後ろから数多の葉が千代をめがけて風に乗ってきている。それこそ若葉のつむじ風が千代を襲うようなありさまだった。
さすがに風の速さに千代が勝てるはずもない。葉に追いつかれると、正面の視界を奪われてしまった。
「ちょっと水無瀬!なんとかしてぇ!!」
半泣きになりながら悠に援護を願い出る。
「あてにするなよ!」
悠は千代の後方で怒鳴りながら形代に力を込めてなんとかひらひらとした形代を動かすが、どうしても勢いがない。錦の葉のつむじ風に追いつくことはできない。
「全然あてにならないじゃない!」
仕方なく千代はさらにスピードを上げた。葉が視界を奪うなら、まっすぐ進むことを諦め、斜めやジグザグにコースを取ることにした。それでもすっきりと前が見えるわけではなく、むしろバランスを崩しそうになったりと千代も四苦八苦だ。
(これ以上、どうしよう……)
従者という悠があてにならないと思い知った千代はどうやって時間を稼ぐか思案する。あと五分。だがまだ五分もある。走り回っていることは難しくないが、この葉をよけながらとなれば、スタミナが心配になってくる。
千代がそう思っていると、突然前方の渡廊下に悠がいるのが見えた。先回りしたのだろう。何をするのか、と千代が悠を見ていると、白くてひらひらしている紙吹雪のようなものを大量に千代の前に降りそそいだ。
「え!見ないじゃん!」
「走り抜けろ!」
悠の声に後押しされ、千代は紙吹雪にかわまず前進する。振返ってみれば、紙吹雪ひとつひとつが意志があるかのように風に逆らって錦に向かって突進していた。
悠の力ではそれが精一杯だった。手のひら程度の形代を人の身長ほどの大きさにすることができることを逆手にとったのだ。大きくするのではなく、半分ほどの大きさにしてから小さく分割して動かしたのだ。
(これでどうにか……!間に合ってくれ)
悠の意志のある紙吹雪は錦の視界を奪うようにして舞う。それを錦が手で振り払っているが、とても間に合うような数ではない。
錦は苛つきながらも、先に見える千代の背を見失ってはいなかった。
――仕方ない。
錦は一枚の葉に神通力を集中させ、紙吹雪を抜けさせた。そしてその葉を千代の足元にくるように地面に刺すと、それを一気に小枝程度に成長させた。
「あ!」
千代はその小枝を避けるのは間に合わず、かろうじて保っていたバランスを一気に崩してしまい、つんのめって転んでしまった。
これには悠も予想外で、しかしもうどうにかする術を持ってはいない。
ゆっくりと千代に追いついた錦がその体に腕から伸びる蔦のようなもので千代を拘束しようとした時だった。
「よくぞ持ちこたえた、千代殿」
不鬼がやってきて錦の手を後ろ手に拘束する。錦は不鬼の存在に驚きを隠せなかった。
「なぜ?気配がなかったであろう、鬼」
「我は鬼にあって鬼にあらず。よって鬼の気配はせぬゆえ、気づかれにくいのであろうな」
あまりにあっさり錦をとらえたことに必死になっていた悠も千代もあっけにとられている。
「力の差があることはすでに分かっておるだろう。引くがよい」
不鬼の言葉に、意志をなくした葉がはらりはらりと落ちていく。そしてやってきた烏丸に飛び乗ると、錦は空へと消えて行った。
「……た、助かった……」
千代は地面にうつぶせのまま、安堵に身を震わせた。
あるかもしれない、と予想はしていたが、こうして襲われると身が縮む思いだ。ようやく体を起こすと、小袖は土まみれになっている。
「大丈夫か?派手にこけてたぞ」
「うん、ちょっと膝擦りむいたくらい……」
差し出された手を素直にとって千代は立ち上がる。息切れと土埃を多少吸ったせいかむせてしまった。
げほげほ、とむせる千代を悠が支え、どうにか濡れ縁に座る。タイミングよく、式の女童がやってきて水を差しだしてきた。それを千代はぐいっと飲むと、ようやく人心地ついた。
「……あと、四か月か……。うちら、これかわしきれるのかな……」
千代の疑問に、悠は答えられなかった。
充成が千代と悠に教えているのは、書だった。文字そのものの美しさを極めていく、というものだ。
そもそも小学校の習い事以来に筆を持つ千代にはその記憶すら薄く、持ち方どころかその姿勢から直されているありさまだ。
「何か、他に役立ちそうなことがいいです」
「知識などどうせ君たちが帰ったらその時代では役に立たないだろう?でも、文字は書く」
「確かに書きますけど、筆なんて使いません!」
文句ばかり言うものの、千代は真面目に取り組んでいた。きちんとやれば菓子をもらえるからだ。分かりやすい報酬に千代はようやくこの時代で一種のやりがいを見出したのだった。
一方悠は黙々とやっているものの、興味は微塵もないままだ。それはかつて元の時代にいた日々と変わらなかった。むしろそのことを思い出したことで気分は下がるばかりだった。
こんなことをしても得るものはない――悠は世界をそういう目で見ている子供だった。
自然のことがなぜか体感として分かる、ということが自覚的になったのは小学三年の頃だったと悠は覚えている。自覚したことで両親と自分の距離感が妹のそれとは違う、ということも腑に落ちた瞬間だった。
それを悲観することもなく、しかたない、と諦めてしまうには十分すぎる程「普通」との違和感が多かった。以来悠はなるべく穏便に時を過ごし、大学進学時に家を出ることだけを目標にしていたところがあった。
成績は十分だった。あとはせめて親の負担が少ないように生活費の安そうな大学を探しているところだった。そこに突然、過去へと飛ばされ、自分の能力が思った以上に有益であるような世界は、悠にとって救いのように思えたのだ。そう思えた世界に留まろうとすることは、悪いことのように思えなかった。
「本当に、悠はそつなくこなすねえ」
さして真面目に取り組む気のない悠の文字を見て、充成は苦笑いだ。
「……今日はちょっと墨の粘りが強く感じるからゆっくり書いてるだけだ」
悠の指先から伝わる墨の様子をそのまま伝えると、千代と充成は目を点にしてしまう。
「こいつむかつきます。なんで天は何でも与えるのよ」
千代の悪態にも悠は動じることはない。
――そんな、穏やかな萌黄の頃のひととき時だった。
気配が一気に重くなったことにまず気づいたのは悠だ。悠は筆を置いて懐から形代を取り出す。それを見て充成と千代もはっとする。
「……不鬼さん、呼べますか?」
悠が充成に問う。
「僕は不鬼の居場所は知らないね。悠の形代でなんとかなりそう?」
「難しいです」
「……あ、羽多。不鬼さんに懐いてるあの小鳥」
「呼べるのか、加賀野」
「うん、文通するときから羽多とは仲良くしてる。――羽多、来て」
千代がそう呼びかけると、すぐそばにいたのか、ちち、と音がして羽多が御簾の外に止まったのが見える。
「羽多、お願い、不鬼さんを呼んできて。なんか、ヤバそう」
羽多はぱさぱさ、と飛び立つと、いっそう緊張感が高まる。この気配が何か分からない。分からないが、攻撃されたらそれから守ったり、まして反撃できるような能力がある者はここにはいない。それに、ここは充成の自宅。広大な邸宅の、それも充成以外が来ないような離れであっても、充成の家族や使用人たちが暮らしているのだ。
「僕は家族と使用人を結界のある部屋に避難させてくる。悠、千代殿を頼むよ」
「頼むって、……こんなしょぼい式を発動したところでできることはないですよ」
攻撃をかわすだけで精一杯、防御だけになることに皆が冷や汗を滲ませる。しかし、千代はこの充成の屋敷に来た時から少しずつ考えていることがった。たいしたことではないが、”時間を稼ぐ”ことはできるかもしれない、と。
「無理なら逃げるだけだよ水無瀬」
千代は上に着ていたものを肩から落とし、小袖だけになる。足回りも動きやすいようにまくり上げてしまった。
「……そうか、足は速いのか?」
悠が何か思いついたように千代を見る。
「どうだろう。でも、多少のスタミナはあるかと思う。不鬼さんが来るまでなんとかもてばいいんだし」
「未来のおなごはすごいねえ」
「充成さん、ちょっと家の外、走ります」
千代はこちらに来た時に履いていた靴下とスニーカーをいそいで履く。そして小さな庭で簡単にストレッチをすると、千代の後ろにはあの悠のぺらぺらな形代のままの式が現れた。
「俺の式はたいして役に立たないからな」
「……とりあえず、敵の視界を塞ぐようにして欲しい。そうしたらなんとかなるかも」
「敵の速さが分からないぞ。大丈夫か?」
「勝ち目がないくらい『速さ』の気配ある?そういうのは分からないの?」
悠は千代に言われ、はっとする。思わず意識を集中して、こちらに向かって来る何かを感じ取ろうとする。
(……重い感じ、スピードというか……空気が大きく揺れてる……この揺れ方……)
「……鳥じゃないかな」
「鳥?」
「結構でかい気がする。羽音が重い……」
「大きい鳥……スピードあっても、大きいなら、隙間に逃げ込める、かな」
「でも加賀野、囮みたいなマネして大丈夫なのか」
「囮かあ……。囮というより逃げる、んだけどなあ。敵の狙いは私だし、一応元陸上部だからちょっとは走れる。正直ここでじっとして不鬼さん待っているよりは自分で走る方がいいっていうのもある」
「……すげえな」
「なんとなくだけど、いつも羽多に不鬼さんを呼ぶよう頼んでから不鬼さんが来るまでって十分くらいだった気がするから、それならなんとかなるかなっていう気もする」
「十分か。それなら俺もなんとかできるかもしれない。相手の視界を塞げはいいんだな」
「うん、それでどうにか十分くらい、時間を稼ごう」
千代は大きく深呼吸する。走る、逃げる、と言ってもこちらに来てもう三か月近く経つ。その間、走ったのは二週間ほど前の大納言家別邸からの逃亡だけだ。体はきっと鈍っている。習慣としてストレッチは毎夜欠かさずしていたとは言え、足がもつれるだろう。
それに庭といっても、この邸宅はおそらく二町近くの広さがある。ざっくり言ってサッカーコート二面半ほどの広さである。その広大な邸宅の庭は非常に広く、千代は走りたくてうずうずしていたところもあった。
(グラウンドでもトラックでもない、庭……)
スピードよりも確実に逃げて時間を稼ぐことに集中した方がいい、と千代は切り替える。思い切り走って転んでしまっては失速どころの話ではない。
「来たぞ!」
悠の声に空の、その先に見えるものに千代はそれが何だか分かってしまった。ばさりばさりと羽の音がしそうな、大きく、黒い鳥。
「……烏丸だ……。ということは、錦……?」
千代が信じられないようなものを見ていると、その姿はだんだんと輪郭をはっきりさせてくる。
「錦!私の世話をしていた女房!半人の!」
まさか敵として差し向けられるとは千代は考えてなかった。確かに錦は人よりは強いだろう。だが、今は変化しかできなくなっている、と言っていた。その程度の神通力で攻撃できるのだろうか。
「おい!加賀野、さっさと走れ!」
「あ、わ、分かった」
千代は慌てて走り出す。低い庭木を飛び越え、池を避ける。あの心もとない式が低空飛行しようとする烏丸の視界を奪い、錦の行く手を阻んでいる。好機とばかりに屋敷をぐるりと一定のペースになるように駆けて行く。
うまい具合に距離をとれている。後方に烏丸から降りる錦が目に入った。屋敷の範囲であの大烏ではさすがにやりずらいのだろう。地に降り立った錦は、一目散に千代を追ってくる。
(……足が速い、なんて特技があるとは錦は言ってないから、普通の人仮定すれば私に勝ち目はある……!)
千代は呼吸を整え、少しだけペースを上げる。自分の能力など何も通用しない世界で、唯一今得意なことで敵を翻弄できるかもしれない可能性に興奮を覚える。
「え、!ちょっと、なにコレ!?」
突然、後ろから数多の葉が千代をめがけて風に乗ってきている。それこそ若葉のつむじ風が千代を襲うようなありさまだった。
さすがに風の速さに千代が勝てるはずもない。葉に追いつかれると、正面の視界を奪われてしまった。
「ちょっと水無瀬!なんとかしてぇ!!」
半泣きになりながら悠に援護を願い出る。
「あてにするなよ!」
悠は千代の後方で怒鳴りながら形代に力を込めてなんとかひらひらとした形代を動かすが、どうしても勢いがない。錦の葉のつむじ風に追いつくことはできない。
「全然あてにならないじゃない!」
仕方なく千代はさらにスピードを上げた。葉が視界を奪うなら、まっすぐ進むことを諦め、斜めやジグザグにコースを取ることにした。それでもすっきりと前が見えるわけではなく、むしろバランスを崩しそうになったりと千代も四苦八苦だ。
(これ以上、どうしよう……)
従者という悠があてにならないと思い知った千代はどうやって時間を稼ぐか思案する。あと五分。だがまだ五分もある。走り回っていることは難しくないが、この葉をよけながらとなれば、スタミナが心配になってくる。
千代がそう思っていると、突然前方の渡廊下に悠がいるのが見えた。先回りしたのだろう。何をするのか、と千代が悠を見ていると、白くてひらひらしている紙吹雪のようなものを大量に千代の前に降りそそいだ。
「え!見ないじゃん!」
「走り抜けろ!」
悠の声に後押しされ、千代は紙吹雪にかわまず前進する。振返ってみれば、紙吹雪ひとつひとつが意志があるかのように風に逆らって錦に向かって突進していた。
悠の力ではそれが精一杯だった。手のひら程度の形代を人の身長ほどの大きさにすることができることを逆手にとったのだ。大きくするのではなく、半分ほどの大きさにしてから小さく分割して動かしたのだ。
(これでどうにか……!間に合ってくれ)
悠の意志のある紙吹雪は錦の視界を奪うようにして舞う。それを錦が手で振り払っているが、とても間に合うような数ではない。
錦は苛つきながらも、先に見える千代の背を見失ってはいなかった。
――仕方ない。
錦は一枚の葉に神通力を集中させ、紙吹雪を抜けさせた。そしてその葉を千代の足元にくるように地面に刺すと、それを一気に小枝程度に成長させた。
「あ!」
千代はその小枝を避けるのは間に合わず、かろうじて保っていたバランスを一気に崩してしまい、つんのめって転んでしまった。
これには悠も予想外で、しかしもうどうにかする術を持ってはいない。
ゆっくりと千代に追いついた錦がその体に腕から伸びる蔦のようなもので千代を拘束しようとした時だった。
「よくぞ持ちこたえた、千代殿」
不鬼がやってきて錦の手を後ろ手に拘束する。錦は不鬼の存在に驚きを隠せなかった。
「なぜ?気配がなかったであろう、鬼」
「我は鬼にあって鬼にあらず。よって鬼の気配はせぬゆえ、気づかれにくいのであろうな」
あまりにあっさり錦をとらえたことに必死になっていた悠も千代もあっけにとられている。
「力の差があることはすでに分かっておるだろう。引くがよい」
不鬼の言葉に、意志をなくした葉がはらりはらりと落ちていく。そしてやってきた烏丸に飛び乗ると、錦は空へと消えて行った。
「……た、助かった……」
千代は地面にうつぶせのまま、安堵に身を震わせた。
あるかもしれない、と予想はしていたが、こうして襲われると身が縮む思いだ。ようやく体を起こすと、小袖は土まみれになっている。
「大丈夫か?派手にこけてたぞ」
「うん、ちょっと膝擦りむいたくらい……」
差し出された手を素直にとって千代は立ち上がる。息切れと土埃を多少吸ったせいかむせてしまった。
げほげほ、とむせる千代を悠が支え、どうにか濡れ縁に座る。タイミングよく、式の女童がやってきて水を差しだしてきた。それを千代はぐいっと飲むと、ようやく人心地ついた。
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