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8話
しおりを挟む千代が充成の屋敷に来て十日ほど経った。あの春の嵐の中這う這うの体で大納言邸を逃げ出したが、今日はまるで初夏のように暖かい。
手習いすることもなく、部屋でぼんやりと受験勉強を千代はしていた。
帰還の日まであと四か月もここでぼんやり過ごすにはあまりに手持ちぶさただった。従者、ということらしい悠はすぐ近くで何やら書物を読んでいる。それがこの時代のものであることに千代は気づいていた。いくら天才と言えど、悠が受験勉強そっちのけでいることに不思議でならなかった。
「ねえ、何を読んでるの?」
「晴定さんに借りた術とかが書かれてる本。加賀野は勉強してるんだな」
「天才ではないので。戻った時にどのくらい時間経ってるのか分からないし……受験勉強しておかないと」
晴定は戻れる、と言った。もちろん千代もそのつもりでいる。実際こちらに呼び出されたのだから、戻ることはできるのだと信じたい気持ちだった。
だがしかし、目の前にいる同じ時代から来た男は千代の思う以上に馴染んでいてそれが釈然としないのだった。
「親だって、友達だって心配してるよ、きっと。はやく帰りたい」
千代は言いながら胸の奥に不安が湧き上がる。こちらに来たのだから帰れるはず、と言い聞かせているだけで、本当のところはあの晴定任せだ。
「巫女」などと言われたところで異能はなく、ただの贄という立場にも心もとなさしかない。その上大学受験の夏、というタイミングだ。もしタイミングよく夏祭りのあの瞬間に戻れたとしても、ここで半年近く勉強もせずにいたら戻った時にすんなり受験生となれる気がしなかった。そんな不安を覆うように友達と親という言葉を持ち出したのだ。
「……俺は、そうは思ってない」
「え?」
千代はどういうことか分からなかった。千代の思うこととまるで違う、ということが悠のその言葉だけで分かる。
「俺は、親とは折り合いが悪いっていうか、まあ俺が賢すぎて扱いに困ってたし、特別仲いい奴もいないからな。そういう気持ちはない」
書物から目を話すことなく、そして淀みなくそう言い切ったこの男を、千代はどこか薄気味悪ささえ感じた。
「……それ、こっちの方がいいってこと?」
「そうだなあ。晴定さんに『自然との結びつきが強い』って言われてようやく腑に落ちたんだ。ここは自然のいろんな営みの音や、色が分かる。正直自分がいるべき場所はこっちだな、と」
「……信じられない。この時代からしたらあんたも私も完全によそ者よ?なに順応しちゃってんの?信じられない!」
千代は悠に言い募る。自分と同じ時代から来たというのもあって少々だが親近感もあったのに、まさか帰る気持ちがないとは考えられなかった。
「俺も自分が馴染める場所があるとは思わなかった。これ、古来から伝わる迷信を集めた本なんだけど、いくつかは真実だし体感として知ってることがあるからすごく楽しい」
初めて手に入れたおもちゃのようにほくほくと書物に目を落とす悠に、千代は目が点になってしまった。千代があれほど読むに難儀したこの時代の文字をある程度読めてしまうらしいくらいの賢さにもはや嫉妬もない。
確かに悠の能力は不思議だと、今の段階では素晴らしいとも思う。昨日は「明日は珍しく春の雪が降る」、と言っていてその通りに今日さらさらと一時降ったし、空を見上げて星座や惑星をみながら私たちの時代とのズレがあることを話していた。
特別仲が良かったわけでもない。しかし、一緒に帰還を目指しているのだとばかり思っていたら違うというのだ。こんな近代技術がまるでない世界で満ち足りている悠は自分とはもはや相容れないと千代は感じた。
「まさか、残りたい、とか言わないよね?」
「……」
その無言は肯定に思えた。千代は信じられない思いで悠をみる。
「それは聞き捨てならないよ、悠」
「充成さん」
屋敷の主である充成がふたりが過ごす部屋に入ってきて厳しく悠に言い放った。そしていくつかの書物のようなものをどさり、と悠に渡す。それを受け取った悠がまたその書物に目を輝かせていた。
充成はそのまま座ると、しっかり悠に視線を合わせてから厳しく言う。
「いいかい、君はこの千代殿と共に必ず元の時代に戻るんだ。千代殿の言う通り、君はここではよそ者に過ぎない」
「……」
「それに、折り合いが悪かろうと君には家族がいるのだろう?その家族の気持ちは考えないのかい?」
そう、それだ、と千代は思った。
千代の母は去年手術のために一週間ほど入院したことがある。それは特に命に影響あるようなものでもなく、今後の生活のしやすさを考えたものだったので事前に手術の予約をし、父親が仕事の調整をしてあったので千代自身の生活は何も影響はなかった。
それでも、手術室から出てきて麻酔から目覚めたばかりの母は顔が青白く、力なく横たわっている姿を見たときに動揺してしまった。特別母親と仲が良かったわけでもないが、「もしかしてこのまま眠ってしまうのでは、そして目覚めないのでは」と感じた気持ちは底の見えない穴のような恐ろしさがあった。
近しい人を失うかもしれないという恐怖を千代は初めて知ったのである。母親に心配されるのは鬱陶しかったが、退院した母親にやたら気を使い、鬱陶しいと言われてしまったのだ。やっていることが母と同じである。
「少々折り合いが悪くとも近しい者を喪うということはやはりしんどいものだ。そんな思いをさせるべきではない。それに、折り合いの悪さを避けていてはきみのためにもならないだろう。それに君は親が死んでしまっても何とも思わないのだね」
「そういうわけではありません。ただ、居心地がいいのは、こっちだ……」
「僕は晴定の術式解析のためにこの屋敷の一部を貸しているんだ。君が戻らない、という決断をしたならここからは出ていってもらう。晴定の世話にでもなるんだな」
それは当然に千代も思えた。あくまで晴定含め、家族以外の人間、まして未来人となれば居候、もっと言えば厄介者に過ぎない。おそらく何かしら理由があって充成の力を使い、匿われているのだ。
「晴定の屋敷だと、アレだな~ほとんど式が世話してるんだっけか?人間の気配がほとんどないと聞くぞ。それに、僕は術式解析が終わったあと君を手助けするつもりはないから、まあ、どうやって食べていくかは考えておいた方がいい」
悠はふてくされた顔を充成に向ける。それを涼しくやり過ごす充成には当然ながら余裕がある。今この時代の蔵人頭となれば、その影響力は計り知れない。そもそも貴族ですらない悠には宮仕えと言う選択肢はなく、市井にて暮らすこととなる。それですら何かしら伝手がなければ雨露凌ぐことさえ難しいのではないか、と千代は思う。
「私も、充成さんの言葉は正しいと思う。この時代には、スマホどころか電気もないし、それこそ毎日食べるものに困るじゃない。何を仕事にするのよ?」
むすっとしたまま悠は書物に視線を落とす。
「天気予報?……天気占い、とか?」
苦し紛れに出た言葉に千代は文字通り目が点になった。
「全く、考えてなかったでしょう?」
「悪いことは言わない、悠。君の能力はちょっと鋭すぎる。預言者、なんて持ち上げられたら目も当てられない……」
預言者、という言葉に悠が一瞬反応をしたのを見て、充成はやめておけ、と釘をさした。
「さあ、今日僕がここに来たのは千代殿、君のためだよ」
「私?」
「多少手習いはしていたのだろう?」
「はあ、あの錦に文字というか、書というか……」
「うん、だから僕も君に講義しようかなと思ったんだ。中将からも教わっているだろう?」
「え?別にこうして今ここにいたらもう大丈夫ですよね?正直私は戻った時のために勉強しておきたいというか……」
そう、夜はほとんど勉強できない。灯りが心もとなくて目が疲れてしまうのだ。だから日が高いうちに少しでも受験勉強をやりたいのだ。
「まあ、そう言わずに。よく考えたら、悠も千代殿もちょっとやることがなさすぎるだろう?時間を持て余すとろくなことを考えないからね」
では始めるよ、という充成の言葉は、高貴な者特有の強制力があった。
◆
晴定は来る帰還の日に向けて少しずつ準備していた。月食の日まであと四か月。決して余裕のある期間ではなかった。祭壇を整えることは式たちに任せておけば数日でなんとかなるものの、屋敷や宮中など思い当たる場所に設置した式が反応しているのである。
「……追手がここにたどり着くまであと四、五日というところか」
千代を連れ出したことで確実に逃げ続けることが確定したのだ。ここから月食までの間、追手をかわすように逃げ、未来人二人を飢えさせないようにしなければならないし、当然出仕したりと晴定自身の公的な用事も沢山ある。それをひとりでこなすには無理があるために不鬼や充成に手伝わせているものの、こちら側に召喚した呪術師のことも調べなくてはならない。秘術をどこで知りえたのか、というのも疑問だが、他の秘術を知っている可能性も否定できない。
すると今している準備だけで足りるのかは疑問だった。当代一の実力を誇る晴定に勝る術師はいないと言っていい。だがそれは正当な方法で正当に評価した場合だ。相手がまっとうな呪術師とは限らないとなれば、慎重さは増すしかなかった。
山ほどの考えることに晴定はすでに辟易している。そのくらいやることは山積みだった。
(せめて、術の手伝いをしてくれるような者がひとりでもおれば)
しかし、秘術ということでそれは無理な話だった。
充成と不鬼、それぞれが役目を負っている。それは晴定自身もそうだった。三者三様に秘術に関することの一端を担っており、それを互いに融通することできない。充成に至っては蔵人頭という仕事もしつつ妻子もあり、貴人としての立ち振る舞いをしながらだ。
「……我が一族も、大変な役目を背負ったものですよ父上……」
大きく息を吐いた晴定は投げ出すようにしていた体を起こし、姿勢を整えると目を閉じてゆっくりと思考の海へと入っていく。
(千代殿の文によれば……名が「橘」という呪術師……)
晴定にその名は記憶にない。そもそもそれが通り名か本名かどうもわからない。その男は秘術を知ってはいるが、すべてではなかった。だが、中途半端に知るとなると、どういった方法か、と沈思する。
本来口伝で伝わってきたものだと晴定は聞いている。晴定自身も元服したその日、父からひっそり告げられたのだ。そもそも秘術なるものの存在を、一介の呪術師が知りえるだろうか。
巷では確かに怪しげな術やまじないが流布していることもある。それらのほとんどは効果のないものだが、呪術師や陰陽師と呼ばれる異能ある者が行った場合はそうとは限らない。
古からの各種族が数多の術を執り行い、術が混ざり合った結果、人の手に負えないものも生まれてしまった。そこに人の悪意が添えられてしまえば、簡単に悪用されてしまう。だからこそ術を使う者たちはしっかりとした軸を持ち、道徳的であらねばならない、というの晴定父の口癖でもあった。
(そう言えば、父の代は悪徳なまじないをするような者を取り締まったのであったな……)
晴定の父は高い理想に燃え、術師の長として悪辣な呪術師の取り締まりを非常に厳しくしたことで疎まれ、呪殺でなく剣により命を落としてしまった。三年前の夏であった。
その頃、不鬼と充成は妖が普段より死に過ぎていることに疑問を持っていた頃だった。晴定の父は何か気配を感じたのか、その日は少し山の、人けのない方へとわずかな弟子たちと向かった。夜遅くなっても戻らない父に晴定は嫌な予感が募ったのを今でも覚えている。
だが、父は優秀な術師であることは天才と呼ばれた晴定自身がひいき目なく知っていることだ。そうそう妖にやられてしまうとも、また人間の呪術師にやられてしまうとも考えられなかった。
結局、父は丸一日経った後、亡骸となって晴定の元に戻って来たのだった。心の臓を、剣で一突き。術でなく、斬られることなど想定してなかったであろうことは術師にはよくあることだった。結界という盾があれば防げることがほとんどだからだ。だが、それが発動する前だったのか、もしくは発動させたために霊力を消耗した末のことだろうと晴定は悔しさに歯を食いしばる。
帯同していた弟子たちは妖に食い荒らされたようで、体の一部しか家族の元には戻らなかったということもあり、後味の悪さだけが残る出来事だった。
術師の長は短剣で、他の弟子は妖に、という違う死に方をしていることが晴定には疑問ばかりだった。だが弔いが終わると父が亡くなったことで晴定はその仕事や抱えていたものをすべて引き継ぐことになり、とても調べに行く時間など持てるはずもなかった。
晴定の見立てでは、おそらく取り締まりを受けた悪意ある術師が父を疎んだ末のものではないか、というものだった。父の取り締まりがそれなりに厳しく、成果を上げたのは事実だ。そうして騙される貴族が減ったことで、食うにあぶれた術師がいたのもまた事実で、恨みを買っていたことは容易に想像できる。
現実逃避とも言える思考の海から顔を上げる。違う死に方をした長と弟子、というところに晴定はひっかかった。
(……妖に食い荒らされた弟子と……結界を使えずに剣で一突きされた父……)
晴定はあの父が妖に襲われるままの弟子を放置するとは思えなかった。きっと最大の霊力で結界を張ったであろう。それができなかったか、できなくなるまで消耗させられたという方が自然だ。
(妖大量死と、おそらく関係がある――)
自身の中に浮かぶ父の仇と重ならない様必死に晴定は恨みの渦を抑え込んだ。
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