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四月一四日 マーガレット・バクスター
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翌日、坂本良行は一人星海大學へと足を向けた。
今日はイライアス・ホーク・マーヴィンが知人と会う事になっている為、アナフィラキシーについて調べるのは一旦横において、竜華国の伝奇物が無いか探してみようと思い立ったのだ。
元々、怪奇事件絡みで故国を出た事もあり、昨晩ホーク・葉和偉から聞かされた科挙に纏わる幽霊譚が気になったのだ。
何か試験でもあるのか、妙に人が多い図書館に首を捻りつつ、華国語の本は無いかと良行は書架の間を彷徨っていた。と、その時だった。
不意に、良行の眼前に蛍のような明かりが過ぎった。
あっと思って顔を上げれば、何時ぞやの貴婦人が扇子で目元を隠して立っていた。
ニコニコと笑っている彼女は、こう言って寄越した。曰く。
『少し痛いでしょうけど、我慢なさいね?』
「は?
何が……がハッ!?」
ゴンっと後頭部に衝撃が走り、良行の意識は急速に奈落に沈んだ。
遠い所で、物凄い女性声での罵詈雑言が聞こえた気がしたが、それを確かめる事は出来なかった。
土佐先生。
土佐先生。
筆名で呼ばれているのだと、気付いて飛び起きる。
坂本良行をその名で呼ぶのは、寄稿していた出版社の編集者と同じく寄稿していた作家連中くらいで、少なくとも今居住する星海と言う街に居る筈がない。
起き上がれば、そこは暗いような明るいような、微妙な明度の何処かの座敷のようだった。
例えるなら、夜明けの直前の所謂無明の頃。そんな見渡すには見通しの悪い部屋に、良行は倒れていたようだ。
ああ、やっと気が付いた。お久し振りです、土佐先生。
声の方を振り向けば、うっそりと闇。いや、黒一色の衣服を纏った人物が、猫背気味に正座してこちらを見ていた。
その人物を、良行は覚えていた。顔色こそ紙のように白いが、憔悴し切っていた以前と比べるべくも無く穏やかに笑っているのは、数年前にこの世を去った作家仲間であった。
「……刑部君かね?」
あの時は、ご迷惑をお掛けしまして。
此度は、土佐先生にお伝えしたい事がありまして、夜の精ながらも昼の領域に罷り越した次第。
「え?」
相手の言葉に、良行は慌てて居住まいを正した。
刑部恭介と言う人物は、良行と同じ『冗談社』と言う雑誌社に寄稿していた挿絵画家であった。
ただ、当初怪奇絵をメインにしていた刑部と、探偵小説書きである良行は殆ど関わりが無かった。
二人が関わるようになったのは、刑部恭介の身の上に起きた異変故である。
先祖返りで夜の精へと変貌を始めた刑部を、異端の教義を掲げる邪宗門が生贄にしようと襲い掛かった。刑部は周囲を巻き込まぬよう、彼らから身を隠すべく失踪したのだ。
良行は、刑部を探す編集者達に巻き込まれ、最終的に彼が夜の精の住まう異郷へ旅立つのを見届けた一人となったのだ。
この話は何れと言う事で、良行は久し振りに会った知己の、次の言葉に引き攣った。
此度先生が関わっておるのは、半身壊魔に堕ちた者。
それの悪気に惑わされ、悪道に堕ちようとしている幼子が居ります。
土佐先生、どうかその者がそれ以上堕ちぬよう、止めてやって下さい。
問い返そうとしてはっとなる。
気が付けば、先程の無明の座敷とは似ても似つかね、白いカーテンと消毒液の匂いに眉を顰める。自身が寝かされていたのは軋む簡易ベッドで、後頭部を冷やす為に俯せに寝かされ、じんわり疼くそこには氷嚢が載せられていた。
そう言えば、後頭部にショックが走って気を失ったんだよなあと思いつつ、起き上がろうとしたその時だった。ガチャッと扉が開く音がした。
「ああ、良かった、あなた気が付いたのね!? ごめんなさいね、まさか無関係な人間巻き込むなんて思っても見なくて、あ、気分は? 吐き気は無い? 何処か可笑しいと思ったらすぐに言って頂戴、父に診察はして貰ったけど、やっぱり本人から」
「お、お嬢様、落ち着いて下さい、そちら様もどう言えば良いか困っておられますから」
物凄い勢いでそう捲くし立てながら近付いて来る十六、七と思しい西域女性と、そのお付きらしい彼女よりは年上らしい女性を見ながら、何が起こったのかと良行は改めて首を傾げた。
目の前の亜麻色の巻き毛に青い瞳の女性の名前は、マーガレット・バクスター嬢。傍にいる赤毛を引っ詰めヘッドギアを着けた女性は、彼女のお付きだと言うリズ・スミス嬢と言う事だった。
話を聞けば、図書館で本を探していて他の学生――彼女に言わせると試験前に悪足掻きしている駄目学生らしい――に横から取られそうになって、小競り合いからの辞書ぶん投げになったらしい。そしてすっぽ抜けたそれは、明後日の方向に飛んだ挙句、書架の間で立ち止まって考え込んでいた坂本良行の後頭部に突き当たったのだそうだ。
……尤も、あの時立ち止まった状況を鑑みるに、貴婦人殿に停まるように誘導された気がしないでもない良行だったが。
「本当に、お嬢様がとんだ粗相を」
「いえ、大した事はありませんでしたから」
お仕着せの正統派猊国ブリテン式エプロンドレス姿の女性に深々と頭を下げられ、三文文士を自称する男は慌てて否を告げた。
差し障りのない話題を必死に探す、良行に向かってMissバクスターがこう切り出した。
東方暮らしが長いからか、東方人でも年長者として敬意を払って、彼女は丁寧な物言いで話して来る。
「そう言えばMr.、普段医学雑誌を調べておられたと司書の者から聴いておりましたけど、何故神話伝承の書架に?」
「ええ、ちょっと華国ロンファの伝承について調べてみたくなりまして、こちらの図書館なら何かあるかと思いまして」
目の前の、西域人からすればぱっとしない面持ちの三十路手前の男に、二十歳前であろう女性は頬に指を当てつつこう切り返した。
「まあMr.、ではもうスチュワート・ウィルソンの事は調べませんの?」
「え!?」
思わぬ言葉に驚いた良行に、ニコッと笑って彼女は種を明かす。
「今日はご一緒じゃないようですけど、ロード・イライアスと色々調べておられていたのは存じております。……彼が、Mr.ウィルソンについて調べていた事も」
そう言われては隠す事もあるまいと、島国から来た物書きはそこはかとなく開き直った。
「そうですか。
……Missバクスター、Mr.ウィルソンがアナフィラキシーショックで亡くなった事はご存知で?」
良行の言葉に、闊達な女性は柳眉を顰めつつ頷いた。
「ええ。医学部長を務める父の元に、星海警察から検体が届いた際に私も居合わせましたし、報告書の清書は私が行いましたから」
なるほどと思いつつ、良行は友人である警官から聞いた話を多少ぼかしつつ話した。
「実は、風の噂で、Mr.ウィルソンの降霊会を東方アッシア風に行った際に、霊媒の人間が彼のレポート用紙に、何足も女性の靴の絵が描いたそうなんです。
友人の星海人によると、華国には学生の身で女性に暴行殺人を行った人間が、試験場で狂死した際に試験用紙に女物の靴の絵を書いていたと言う怪奇譚があったそうなので、そう言う話が他にもあるか、気になったので調べに来たのですよ」
「まあ……」
言葉もない様子の女性に、側に控えていた女中がさっとお茶を用意する。
それを一息で飲み干し顔を上げたMissバクスターは、だが良行の予想とは違う事を口にした。
「そうですか。では、Mr.ウィルソンは叔母君への恨みつらみを、立場の弱い女性に対する暴力で吐き出していたんですね」
「Miss?」
「私、Mr.ウィルソンとは父が通っていたクラブで、何度か会っていたんですよ。彼は覚えていなかったけれど」
そう言った令嬢の面差しは、惹き込まれそうなほど淋しげだった。
マーガレット・バクスター嬢によると、スチュワート・ウィルソンの父であった前ハウプトン伯爵は、貴族であると同時に在野の歴史学者で、学士の間でも敬された紳士であったそうだ。
領地経営は管財人に手伝って貰い、何とか体面を維持する程度に経営出来ていたそうだ。
己の研究に力を入れる夫を、実家の地位こそ低いが相思相愛だった妻は良く助け、だから質素な暮らしではあったがスチュアート少年は幸せに育っていたのだ。
だが、その幸せを十二年前に西域エレビアを蹂躙した流行風邪が奪った。
資料を求めて足繁く出歩いていた父は、それまでの無理と雨に濡れた事で発症し、父を必死に看病していた母も程なく発症し、二人は相次いで亡くなってしまったのだ。
一人取り残された少年が泣き疲れた頃に、流行りのドレスと華美な装飾品まみれの女性がやって来て、後見人になると宣言して管財人と神父の許から浚って行ったのだと言う。それが、あのMrs.アンナ・サザーランドだったそうだ。
彼女は父の妹だったが、金持ちと結婚した後一切実家を顧みる事無くその癖兄の研究を己の手柄のように語るのを、周囲の人間から失笑と共に聞き流されている事に気付かない女性だった。
「Mrs.サザーランドの話は聞いているかしら?」
「まあ、風の噂程度ですが、地位と権力、財力を持たせるには少し問題があるかなあっと」
良行の言葉に、目の前の女性は溜息と共にこう答えた。
「そう。あの人はお兄さんの事を自慢しても、お兄さんの研究は一切判らなかったから支援すらしなかったし、義理のお姉さんの事を平民上りと呼んで、実家のお墓に入れる事を拒んだそうよ。
挙句、二年間連れ回して遊び倒させた甥を寄宿学校に押込む為だけに、Mr.サザーランドにハウプトン伯爵の領地と号を買い取らせたの」
一応予想していたものの、その予想の斜め上を行くサザーランド夫人の行動に、良行は顎が落ちるかと思った。
如何に『事実は小説より奇なり』とは言え、あんまりだと思ったのだ。
「え? 猊国の寄宿学校って、勉学の厳しさで相当有名だった気が」
「ええ。丸二年、小学校も途中で辞めさせられて、家庭教師もいなくて、叔母のペットかお人形のように着飾らされて毎晩パーティに連れ回された子供に、付いて行ける場所じゃないわ。
学校の方も、事態が判っているからなかなか受け入れてくれなかったと聞いてるわ。
結局入った学校は、昔は名門だったけどってところだったそうだし」
話を聞いているうちに、良行の中でスチュアート・ウィルソンと言う男が何となく形を成してきた。
最愛の両親の葬儀に、喪章もなく押し掛けて来た叔母と名乗る女。
父の事を見当違いな事で自慢し、母親を自身の前で見下し、知らない場所に連れ回すいかれた女とその夫だと言う男。
終いには、父の領地まで自分から奪い、厄介払いのように訳の解らない言語が飛び交う場所――初等教育すら満足に受けさせて貰えなかった彼には、数学や物理、ラテン語などはただの呪文でしかなかっただろう――に押し込められ、彼の感情は行き場を失っていったに違いない。
彼の生い立ちは、周囲の子供から様々なの反応が返っただろう。同情、好奇、軽蔑、追従。勉強が出来ない事をあからさまに見下す者、親が死んで金持ちになったと嗤う者もいただろう。
そして、仕事で顔を合わせる回数が圧倒的に少なかったろう叔父はともかく、自分の人生を振り回した叔母へ向かう筈だった憎悪が、もっと手近にいた『若い娘』に向かったのだろう。
金と、地位と、権力、これによって自分に逆らえない、若い娘に。
良行の思考を断ち切るように、終業の鐘が鳴り響いた。
父親と待ち合せていると言うバクスター嬢とそのお供に別れを告げると、坂本良行は心持ち重い足を引き摺り、城市の下宿屋へと帰った。
今日はイライアス・ホーク・マーヴィンが知人と会う事になっている為、アナフィラキシーについて調べるのは一旦横において、竜華国の伝奇物が無いか探してみようと思い立ったのだ。
元々、怪奇事件絡みで故国を出た事もあり、昨晩ホーク・葉和偉から聞かされた科挙に纏わる幽霊譚が気になったのだ。
何か試験でもあるのか、妙に人が多い図書館に首を捻りつつ、華国語の本は無いかと良行は書架の間を彷徨っていた。と、その時だった。
不意に、良行の眼前に蛍のような明かりが過ぎった。
あっと思って顔を上げれば、何時ぞやの貴婦人が扇子で目元を隠して立っていた。
ニコニコと笑っている彼女は、こう言って寄越した。曰く。
『少し痛いでしょうけど、我慢なさいね?』
「は?
何が……がハッ!?」
ゴンっと後頭部に衝撃が走り、良行の意識は急速に奈落に沈んだ。
遠い所で、物凄い女性声での罵詈雑言が聞こえた気がしたが、それを確かめる事は出来なかった。
土佐先生。
土佐先生。
筆名で呼ばれているのだと、気付いて飛び起きる。
坂本良行をその名で呼ぶのは、寄稿していた出版社の編集者と同じく寄稿していた作家連中くらいで、少なくとも今居住する星海と言う街に居る筈がない。
起き上がれば、そこは暗いような明るいような、微妙な明度の何処かの座敷のようだった。
例えるなら、夜明けの直前の所謂無明の頃。そんな見渡すには見通しの悪い部屋に、良行は倒れていたようだ。
ああ、やっと気が付いた。お久し振りです、土佐先生。
声の方を振り向けば、うっそりと闇。いや、黒一色の衣服を纏った人物が、猫背気味に正座してこちらを見ていた。
その人物を、良行は覚えていた。顔色こそ紙のように白いが、憔悴し切っていた以前と比べるべくも無く穏やかに笑っているのは、数年前にこの世を去った作家仲間であった。
「……刑部君かね?」
あの時は、ご迷惑をお掛けしまして。
此度は、土佐先生にお伝えしたい事がありまして、夜の精ながらも昼の領域に罷り越した次第。
「え?」
相手の言葉に、良行は慌てて居住まいを正した。
刑部恭介と言う人物は、良行と同じ『冗談社』と言う雑誌社に寄稿していた挿絵画家であった。
ただ、当初怪奇絵をメインにしていた刑部と、探偵小説書きである良行は殆ど関わりが無かった。
二人が関わるようになったのは、刑部恭介の身の上に起きた異変故である。
先祖返りで夜の精へと変貌を始めた刑部を、異端の教義を掲げる邪宗門が生贄にしようと襲い掛かった。刑部は周囲を巻き込まぬよう、彼らから身を隠すべく失踪したのだ。
良行は、刑部を探す編集者達に巻き込まれ、最終的に彼が夜の精の住まう異郷へ旅立つのを見届けた一人となったのだ。
この話は何れと言う事で、良行は久し振りに会った知己の、次の言葉に引き攣った。
此度先生が関わっておるのは、半身壊魔に堕ちた者。
それの悪気に惑わされ、悪道に堕ちようとしている幼子が居ります。
土佐先生、どうかその者がそれ以上堕ちぬよう、止めてやって下さい。
問い返そうとしてはっとなる。
気が付けば、先程の無明の座敷とは似ても似つかね、白いカーテンと消毒液の匂いに眉を顰める。自身が寝かされていたのは軋む簡易ベッドで、後頭部を冷やす為に俯せに寝かされ、じんわり疼くそこには氷嚢が載せられていた。
そう言えば、後頭部にショックが走って気を失ったんだよなあと思いつつ、起き上がろうとしたその時だった。ガチャッと扉が開く音がした。
「ああ、良かった、あなた気が付いたのね!? ごめんなさいね、まさか無関係な人間巻き込むなんて思っても見なくて、あ、気分は? 吐き気は無い? 何処か可笑しいと思ったらすぐに言って頂戴、父に診察はして貰ったけど、やっぱり本人から」
「お、お嬢様、落ち着いて下さい、そちら様もどう言えば良いか困っておられますから」
物凄い勢いでそう捲くし立てながら近付いて来る十六、七と思しい西域女性と、そのお付きらしい彼女よりは年上らしい女性を見ながら、何が起こったのかと良行は改めて首を傾げた。
目の前の亜麻色の巻き毛に青い瞳の女性の名前は、マーガレット・バクスター嬢。傍にいる赤毛を引っ詰めヘッドギアを着けた女性は、彼女のお付きだと言うリズ・スミス嬢と言う事だった。
話を聞けば、図書館で本を探していて他の学生――彼女に言わせると試験前に悪足掻きしている駄目学生らしい――に横から取られそうになって、小競り合いからの辞書ぶん投げになったらしい。そしてすっぽ抜けたそれは、明後日の方向に飛んだ挙句、書架の間で立ち止まって考え込んでいた坂本良行の後頭部に突き当たったのだそうだ。
……尤も、あの時立ち止まった状況を鑑みるに、貴婦人殿に停まるように誘導された気がしないでもない良行だったが。
「本当に、お嬢様がとんだ粗相を」
「いえ、大した事はありませんでしたから」
お仕着せの正統派猊国ブリテン式エプロンドレス姿の女性に深々と頭を下げられ、三文文士を自称する男は慌てて否を告げた。
差し障りのない話題を必死に探す、良行に向かってMissバクスターがこう切り出した。
東方暮らしが長いからか、東方人でも年長者として敬意を払って、彼女は丁寧な物言いで話して来る。
「そう言えばMr.、普段医学雑誌を調べておられたと司書の者から聴いておりましたけど、何故神話伝承の書架に?」
「ええ、ちょっと華国ロンファの伝承について調べてみたくなりまして、こちらの図書館なら何かあるかと思いまして」
目の前の、西域人からすればぱっとしない面持ちの三十路手前の男に、二十歳前であろう女性は頬に指を当てつつこう切り返した。
「まあMr.、ではもうスチュワート・ウィルソンの事は調べませんの?」
「え!?」
思わぬ言葉に驚いた良行に、ニコッと笑って彼女は種を明かす。
「今日はご一緒じゃないようですけど、ロード・イライアスと色々調べておられていたのは存じております。……彼が、Mr.ウィルソンについて調べていた事も」
そう言われては隠す事もあるまいと、島国から来た物書きはそこはかとなく開き直った。
「そうですか。
……Missバクスター、Mr.ウィルソンがアナフィラキシーショックで亡くなった事はご存知で?」
良行の言葉に、闊達な女性は柳眉を顰めつつ頷いた。
「ええ。医学部長を務める父の元に、星海警察から検体が届いた際に私も居合わせましたし、報告書の清書は私が行いましたから」
なるほどと思いつつ、良行は友人である警官から聞いた話を多少ぼかしつつ話した。
「実は、風の噂で、Mr.ウィルソンの降霊会を東方アッシア風に行った際に、霊媒の人間が彼のレポート用紙に、何足も女性の靴の絵が描いたそうなんです。
友人の星海人によると、華国には学生の身で女性に暴行殺人を行った人間が、試験場で狂死した際に試験用紙に女物の靴の絵を書いていたと言う怪奇譚があったそうなので、そう言う話が他にもあるか、気になったので調べに来たのですよ」
「まあ……」
言葉もない様子の女性に、側に控えていた女中がさっとお茶を用意する。
それを一息で飲み干し顔を上げたMissバクスターは、だが良行の予想とは違う事を口にした。
「そうですか。では、Mr.ウィルソンは叔母君への恨みつらみを、立場の弱い女性に対する暴力で吐き出していたんですね」
「Miss?」
「私、Mr.ウィルソンとは父が通っていたクラブで、何度か会っていたんですよ。彼は覚えていなかったけれど」
そう言った令嬢の面差しは、惹き込まれそうなほど淋しげだった。
マーガレット・バクスター嬢によると、スチュワート・ウィルソンの父であった前ハウプトン伯爵は、貴族であると同時に在野の歴史学者で、学士の間でも敬された紳士であったそうだ。
領地経営は管財人に手伝って貰い、何とか体面を維持する程度に経営出来ていたそうだ。
己の研究に力を入れる夫を、実家の地位こそ低いが相思相愛だった妻は良く助け、だから質素な暮らしではあったがスチュアート少年は幸せに育っていたのだ。
だが、その幸せを十二年前に西域エレビアを蹂躙した流行風邪が奪った。
資料を求めて足繁く出歩いていた父は、それまでの無理と雨に濡れた事で発症し、父を必死に看病していた母も程なく発症し、二人は相次いで亡くなってしまったのだ。
一人取り残された少年が泣き疲れた頃に、流行りのドレスと華美な装飾品まみれの女性がやって来て、後見人になると宣言して管財人と神父の許から浚って行ったのだと言う。それが、あのMrs.アンナ・サザーランドだったそうだ。
彼女は父の妹だったが、金持ちと結婚した後一切実家を顧みる事無くその癖兄の研究を己の手柄のように語るのを、周囲の人間から失笑と共に聞き流されている事に気付かない女性だった。
「Mrs.サザーランドの話は聞いているかしら?」
「まあ、風の噂程度ですが、地位と権力、財力を持たせるには少し問題があるかなあっと」
良行の言葉に、目の前の女性は溜息と共にこう答えた。
「そう。あの人はお兄さんの事を自慢しても、お兄さんの研究は一切判らなかったから支援すらしなかったし、義理のお姉さんの事を平民上りと呼んで、実家のお墓に入れる事を拒んだそうよ。
挙句、二年間連れ回して遊び倒させた甥を寄宿学校に押込む為だけに、Mr.サザーランドにハウプトン伯爵の領地と号を買い取らせたの」
一応予想していたものの、その予想の斜め上を行くサザーランド夫人の行動に、良行は顎が落ちるかと思った。
如何に『事実は小説より奇なり』とは言え、あんまりだと思ったのだ。
「え? 猊国の寄宿学校って、勉学の厳しさで相当有名だった気が」
「ええ。丸二年、小学校も途中で辞めさせられて、家庭教師もいなくて、叔母のペットかお人形のように着飾らされて毎晩パーティに連れ回された子供に、付いて行ける場所じゃないわ。
学校の方も、事態が判っているからなかなか受け入れてくれなかったと聞いてるわ。
結局入った学校は、昔は名門だったけどってところだったそうだし」
話を聞いているうちに、良行の中でスチュアート・ウィルソンと言う男が何となく形を成してきた。
最愛の両親の葬儀に、喪章もなく押し掛けて来た叔母と名乗る女。
父の事を見当違いな事で自慢し、母親を自身の前で見下し、知らない場所に連れ回すいかれた女とその夫だと言う男。
終いには、父の領地まで自分から奪い、厄介払いのように訳の解らない言語が飛び交う場所――初等教育すら満足に受けさせて貰えなかった彼には、数学や物理、ラテン語などはただの呪文でしかなかっただろう――に押し込められ、彼の感情は行き場を失っていったに違いない。
彼の生い立ちは、周囲の子供から様々なの反応が返っただろう。同情、好奇、軽蔑、追従。勉強が出来ない事をあからさまに見下す者、親が死んで金持ちになったと嗤う者もいただろう。
そして、仕事で顔を合わせる回数が圧倒的に少なかったろう叔父はともかく、自分の人生を振り回した叔母へ向かう筈だった憎悪が、もっと手近にいた『若い娘』に向かったのだろう。
金と、地位と、権力、これによって自分に逆らえない、若い娘に。
良行の思考を断ち切るように、終業の鐘が鳴り響いた。
父親と待ち合せていると言うバクスター嬢とそのお供に別れを告げると、坂本良行は心持ち重い足を引き摺り、城市の下宿屋へと帰った。
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