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トビ
不可解な思い
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巴を薄暗い路地に置き去りにし、カラスは行先も定めずにただ足を動かしていた。
彼女が何を言いたかったのか、さっぱり解からない。その『解からない』ということそのものに、苛立ちを覚える。
巴が何を考えているのか。
読心術ができるわけではないのだから、カラスにそれが解からなくても何の不思議もない。
では、何故、そんなことを知りたいと思うのか――理解できないことに苛つくのか。
自分の気持ちですら、解からない。
辛うじて解かっているのは、巴に対して抱く様々な気持ちは、これまで『伏せ籠』で顔を突き合わせてきた連中に対しては抱いたことがないということだ。それだけは、はっきりしている。
「クソッ」
カラスは小さく毒づいた。
生まれてこの方、これほど苛々したのは初めてだ。
「クソ……」
今度は、小さな呟きだった。
一歩踏み出すごとに、巴からは遠ざかる。このまま進み続ければ、彼女とのつながりはフツリと消え去るのだ。
いや、今この瞬間にも、もう途切れているのかもしれない。
この人混みで彼女を見失えば、もう二度と見つからないに違いないのだから。
不意に、カラスの足が止まる。止めたつもりはなく、ただ、急に動かなくなった。
「何やってんだ、気を付けろ!」
往来の真ん中で突然立ち竦んだカラスに、後ろを歩いていた男が声を上げる。危うくぶつかりそうになって男が大袈裟なほどに身体を避けたのも、全く気にも留めなかった。
傍に巴の姿がないことに、胸の奥から不快なものが込み上げる。それは、先ほどまでの火で炙られるような感覚とはまた別のものだった。
なんだか落ち着かない。
カラスの中にあるのは、やるべきことをし残しているような、不全感だ。
巴を殺すという『仕事』を達成していないからなのだろうか。巴を殺してしまえば、この感覚はなくなるのだろうか。
根拠はないが、何となくそうではない気がする。とにかく今は、巴のあのちっぽけな姿を視界に入れたくて仕方がない。そうすれば、取り敢えずは落ち着くような気がした。
カラスは裾を翻してクルリと振り返る。
足早に、来た道を戻った。
最後に巴を見た路地裏へと入り――そこに何者も見い出せず、立ち尽くす。巴も、倒れていた男たちも、誰もいなかった。
(奴らに連れ去られた?)
そんな考えが脳裏をよぎった瞬間、カラスの頭の中は真っ白になった。
綿のように軽い身体なのだ。担いで連れ去ることなんて、いとも簡単にできる。もしかしたら、殴られて意識を奪われたのかもしれない。
もしも、そんなことになっているのなら。
――殺してやる。
カラスの頭の中に、激しい殺意が湧き立った。
捜す当てもないまま路地裏を後にしようと、身を翻す。と、彼の視界に鮮やかな色彩が引っかかった。
――いた。
カラスのその目が捉えたのは、通りの向こうの巴の姿。彼女は最初にそこに居るようにと言いつけておいた茶屋の店先にポツンと腰掛け、人混みを見つめていた。
何事もなさそうなその様子に、カラスは自分でも驚くほどの安堵の念に襲われる。危うくその場にしゃがみこみそうになった。
カラスはそこに佇んだまま、多くの人の中にいるにも拘わらず、どこかその人波から浮かんでいるように見える巴の姿を見つめる。その小さな身体の何が彼の心をそれほどに掴むのだろう。
最初に巴を殺しに行った時、彼女は全く動じず「殺せ」と言った。
それが、気に入らないのだと思っていた。あるいは、「殺すな」と言わないことへの物珍しさか。
今となっては、カラス自身もよく判らない。
手を上げ、グシャリと深紅の前髪を掴む。
そうして深く息をつき、歩き出した。通りを横切り、巴に近づく。
あと三歩ほどのところまで来た時、不意に彼女がカラスの方に振り向いた。その琥珀色の目が彼を捉え、そして、微かに見開かれる。次の瞬間そこに浮かんだものに、カラスの胸は何かに突かれたような痛みを覚えた。咄嗟にそこに手をやったが、当然、何もない。
「カラス……?」
眉をひそめてちっぽけな少女を見下ろしていると、案じる色が滲んだ声で名を呼ばれた。
ただの、名前だ。
個を識別するための、単なる、呼称。
何度も呼ばれ、何度も答えた。
そこには、何も存在していなかった――今までは。
「カラス?」
まだ幼さの残る甘い声が、また、彼を呼んだ。
「それ、飲み終ったのか?」
「え……?」
カラスの問いに、彼女はパチリと大きく瞬きをした。彼は顎をしゃくって巴の手の中のカップを示す。
「あ、はい」
慌てたように彼女はそれを一気にあおった。まるで、一滴でも残っていたらその場に置いていかれるとでも思っているかのように。
そうして飲み終え、巴がカップをテーブルに置く。
「終わりました」
「行くぞ」
むっつりと彼が差し出した手に、少し遅れて巴が指先を乗せた。冷たく凍えたその手を握ると、再びカラスの中で何かが疼く。それを無視して、彼女をグイと引っ張った。
彼女が何を言いたかったのか、さっぱり解からない。その『解からない』ということそのものに、苛立ちを覚える。
巴が何を考えているのか。
読心術ができるわけではないのだから、カラスにそれが解からなくても何の不思議もない。
では、何故、そんなことを知りたいと思うのか――理解できないことに苛つくのか。
自分の気持ちですら、解からない。
辛うじて解かっているのは、巴に対して抱く様々な気持ちは、これまで『伏せ籠』で顔を突き合わせてきた連中に対しては抱いたことがないということだ。それだけは、はっきりしている。
「クソッ」
カラスは小さく毒づいた。
生まれてこの方、これほど苛々したのは初めてだ。
「クソ……」
今度は、小さな呟きだった。
一歩踏み出すごとに、巴からは遠ざかる。このまま進み続ければ、彼女とのつながりはフツリと消え去るのだ。
いや、今この瞬間にも、もう途切れているのかもしれない。
この人混みで彼女を見失えば、もう二度と見つからないに違いないのだから。
不意に、カラスの足が止まる。止めたつもりはなく、ただ、急に動かなくなった。
「何やってんだ、気を付けろ!」
往来の真ん中で突然立ち竦んだカラスに、後ろを歩いていた男が声を上げる。危うくぶつかりそうになって男が大袈裟なほどに身体を避けたのも、全く気にも留めなかった。
傍に巴の姿がないことに、胸の奥から不快なものが込み上げる。それは、先ほどまでの火で炙られるような感覚とはまた別のものだった。
なんだか落ち着かない。
カラスの中にあるのは、やるべきことをし残しているような、不全感だ。
巴を殺すという『仕事』を達成していないからなのだろうか。巴を殺してしまえば、この感覚はなくなるのだろうか。
根拠はないが、何となくそうではない気がする。とにかく今は、巴のあのちっぽけな姿を視界に入れたくて仕方がない。そうすれば、取り敢えずは落ち着くような気がした。
カラスは裾を翻してクルリと振り返る。
足早に、来た道を戻った。
最後に巴を見た路地裏へと入り――そこに何者も見い出せず、立ち尽くす。巴も、倒れていた男たちも、誰もいなかった。
(奴らに連れ去られた?)
そんな考えが脳裏をよぎった瞬間、カラスの頭の中は真っ白になった。
綿のように軽い身体なのだ。担いで連れ去ることなんて、いとも簡単にできる。もしかしたら、殴られて意識を奪われたのかもしれない。
もしも、そんなことになっているのなら。
――殺してやる。
カラスの頭の中に、激しい殺意が湧き立った。
捜す当てもないまま路地裏を後にしようと、身を翻す。と、彼の視界に鮮やかな色彩が引っかかった。
――いた。
カラスのその目が捉えたのは、通りの向こうの巴の姿。彼女は最初にそこに居るようにと言いつけておいた茶屋の店先にポツンと腰掛け、人混みを見つめていた。
何事もなさそうなその様子に、カラスは自分でも驚くほどの安堵の念に襲われる。危うくその場にしゃがみこみそうになった。
カラスはそこに佇んだまま、多くの人の中にいるにも拘わらず、どこかその人波から浮かんでいるように見える巴の姿を見つめる。その小さな身体の何が彼の心をそれほどに掴むのだろう。
最初に巴を殺しに行った時、彼女は全く動じず「殺せ」と言った。
それが、気に入らないのだと思っていた。あるいは、「殺すな」と言わないことへの物珍しさか。
今となっては、カラス自身もよく判らない。
手を上げ、グシャリと深紅の前髪を掴む。
そうして深く息をつき、歩き出した。通りを横切り、巴に近づく。
あと三歩ほどのところまで来た時、不意に彼女がカラスの方に振り向いた。その琥珀色の目が彼を捉え、そして、微かに見開かれる。次の瞬間そこに浮かんだものに、カラスの胸は何かに突かれたような痛みを覚えた。咄嗟にそこに手をやったが、当然、何もない。
「カラス……?」
眉をひそめてちっぽけな少女を見下ろしていると、案じる色が滲んだ声で名を呼ばれた。
ただの、名前だ。
個を識別するための、単なる、呼称。
何度も呼ばれ、何度も答えた。
そこには、何も存在していなかった――今までは。
「カラス?」
まだ幼さの残る甘い声が、また、彼を呼んだ。
「それ、飲み終ったのか?」
「え……?」
カラスの問いに、彼女はパチリと大きく瞬きをした。彼は顎をしゃくって巴の手の中のカップを示す。
「あ、はい」
慌てたように彼女はそれを一気にあおった。まるで、一滴でも残っていたらその場に置いていかれるとでも思っているかのように。
そうして飲み終え、巴がカップをテーブルに置く。
「終わりました」
「行くぞ」
むっつりと彼が差し出した手に、少し遅れて巴が指先を乗せた。冷たく凍えたその手を握ると、再びカラスの中で何かが疼く。それを無視して、彼女をグイと引っ張った。
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