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第二章:すれちがい
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コンコン、コン。
萌は四六五号室のドアを注意深くノックする。その部屋は一番奥にある個室で、そこに下田健人が『入院』していた。
健人は色々なことに過敏で、小さな音にもビクビクと身を縮こまらせる。だから、ノックの音も、「これから入りますよ」をギリギリ知らせることができるだけの大きさになるように、細心の注意が必要だった。
「健人君、おはよう。入りますよ?」
萌は『朗らかな声』ではなく『落ち着いた声』を心がけて、そう声をかけながら室内に足を踏み入れる。
部屋の中、健人はベッドの上で膝を抱えて座っていた。いつ訪室しても同じ場所に同じ格好でいて、もしかしたら眠る時もその恰好なのかもしれないと、萌に思わせる。
小さく縮こまって、萌の動きをジッと目で追うその様子に子どもらしさは全くなくて、彼女の心はキリリと痛んだ。
そう、子どもというよりは、よくしつけられた室内犬のようなのだ。
トイレのしつけはできていて、声も出さず、ただジッと『飼い主』の動きを見ている、そんなところが。
「健人君、体温測ろっか」
笑い掛けながら、萌はいつもの半分のスピードでゆっくり動く。
最初にケアをしようとした時、普段通りに動いた萌に、健人はビクッと大きく反応し、両腕を上げて身構えた。
ただ、体温計を脇に挟もうとしただけだったのに、まるで彼女が殴ろうとでもしたかのようだった。
それは、普段の彼の生活がどんなものであったかを如実に語っている反応で、その時、萌の胸の中は憤りと悲しさと悔しさと、そんな色々なものではちきれそうになった。
里見高校の寮に入る前、萌の周りには様々な事情を抱える子どもたちがいた。健人のような子も、いたことがある。だから、今の健人に一番必要なものは、判っている。
安全で寛げる、場所。
決して健人を傷付けることのない、大人。
痛みではなく、温もりを与えてくれる、手。
そんな、子どもだったら当然のように持っているもの。
それが、健人に必要なもの。
世界は痛みや恐怖だけではなくて、ちゃんと優しく温かいものもあるのだということを、教えてあげなければ。
「はい、お熱はなし。朝ごはんもちゃんと食べたね。えらいよ。おいしかった?」
健人からの返事はないけれど、萌は笑顔で喋り続ける。
入院してから一週間になるというのに、未だ健人は一言も声を発していない。
言葉を知らないのか、それとも、声を出したらいけないと、『しつけ』られていたのか。
もしかしたら知的な遅れもあるかもしれないけれど、今の状況ではそれを判定することは難しい。
健人が入院してから、何回か児童相談所などとの会合が開かれていた。
そこで得られた情報では、少なくとも三歳児健診まではちゃんと受けていて、それまでは予防接種もきちんと済ませてあるとのことだった。
健診で異常を指摘されていたことはなくて、それはつまり、三歳ではちゃんと喋っていたということだ。
情報が格段に減るのはそれからだった。
保育園や幼稚園には通っていないから、現在の健人の様子を知っているのは、母親と、彼らの隣人などになる。
健人の父親は、彼が三歳になった頃、よそに女性を作って家を出て行ってしまったそうだ。
児童相談所が彼と連絡を取ろうと試みてはいるが、なかなか見つからない。
しかし、もしも見つかったとしても、父親の元に送るかどうかはよくよく検討しなければならないだろう。
そして、母親の幸子の様子がおかしくなり始めたのは、夫が家から姿を消したその頃からだったようだ。
下田親子は小さなアパートに住んでいて、当然、周りに他の住民もたくさんいる。
彼らは、幸子が始終酒の臭いをさせるようになったのは夜の仕事を始めたから、健人が外で遊ぶ姿を見なくなったのは、母親が遊びに連れ出す時間が無くなったからだと、考えていたという。
時折親子の部屋から大きな物音は聞こえてきたけれど、子どもの泣く声はきこえてこず、それ故に、ただ、やんちゃ盛りの健人が家の中で遊んでいるだけだろうと思っていた、と。
児童相談所の職員の聞き込みに対して、口を揃えて「気付かなかった」と答えていると聞かされた。
膝を抱える健人を前にして、萌は、そうなのかもしれない、とも思う。
こんなふうに、健人が何も言わずにいたら、誰も気付けない。
泣いて、叫んで、助けて欲しいと訴えてくれたら、誰かが手を差し伸べてくれたかもしれないけれど。
そんな力すらも失ってしまっているのが、萌には悲しくてたまらない。
「今日はね、おふろの日だよ。三時くらいに入ろっか。そうしたら少し時間があるから、絵本を読んであげるよ?」
健人の目を覗き込みながらそう言っても、彼はうんともすんとも応えない。
嬉しいのか、嫌がっているのか、それを判断するのは難しいけれど、絵本を読んでいる間中、健人の目はそこに釘付けになるから、きっと嫌ではない筈。
萌はそう思って、一日一回は何かを読み聞かせることにしていた。そうしている間に、何か喋ってくれるかもしれないと期待して。
焦っては、いけない。一ヶ月あるのだから、その一ヶ月の間に、何かほんの少しでも変化が出てくれればいい。
萌は、何度も自分にそう言い聞かせてきた。
「じゃあね、またお昼の時に来るからね」
笑ってそう残し、萌は部屋を出る。そして扉を閉めて、ため息をついた。
ため息をつくと、視線が下がり、視線が下がると、気分も落ちる。
いけない、いけない、と萌は小さく頭を振り、グイと顔を上げた。
と、そこで、彼女の名前を呼ぶ声が耳に届く。
「小宮山さん」
そちらの方に振り向いて目に入ってきた姿に、冷えていた胸の中がポッと温かくなる。
「岩崎先生」
廊下の先、少し離れたところにいるのは一美だ。
この一週間は健人の事で会合を開いたり色々調べ物をしたりしていたから、彼との時間を取れていなかった。こうやって病棟で仕事のやり取りをするのが、唯一の逢瀬だ。
現金なもので、彼の声を聴くだけで、萌の気持ちはパッと舞い上がってしまう。
二人きりの時は『萌』と下の名前を呼んでくれるけれど、仕事中は『小宮山さん』だ。そこがちょっと寂しいけれども、一美の声には違いがない。
彼は真っ直ぐに萌の元に歩み寄ってくると、あと一歩ほどの距離を置いて立ち止まった。病院から出るまでは、触れてくるのも必要最低限なのだ。一美はそこのけじめはキッチリつける――時折、過保護になるけれど。
「何かご用ですか?」
一美を見上げて萌が尋ねると、彼は探るような眼差しで見つめてくる。
「どうかしましたか?」
重ねて問うても、すぐには答えてくれない。その目は子どもたちを診察する時のもののようで、萌は少し居心地が悪くなる。
身じろぎをした彼女に、ようやく一美は口を開いてくれた。
「君、ちゃんと生活しているか?」
「え?」
「食事は? 寝ているか?」
萌は、内心で「鋭い」と呟いてしまう。
そう言えば、付き合い始める前、亡くなってしまったあの子の担当をやっている時にも、一美には不摂生を見抜かれた。
限られた時間の中で色々しようと思うと、どうしても省いてしまうことが出てきてしまう。
(でも、別に体調も体重も変わっていないけどな)
にも拘らず、瞬時に念押しされてしまうだなんて、そんなに見た目に表れてしまっているのだろうか。
すぐにごまかせれば良かったのだけれども、とっさの事で、萌は口ごもってしまった。
「――、大丈夫ですよ。ちゃんと寝てるし食べてます」
そう、笑顔で答えたというのに、一美は萌の台詞の前のわずかな間にあったものに気付いてしまったようだ。彼は呆れたようなため息をつく。
「……本当ですよ?」
一応、念押ししてみた萌だったが、ジロリと睨み返される。
叱られてしまうだろうかと、首をすくめて身構えた彼女だったが、次の瞬間、目を大きく瞬いた。
「先生?」
手を引っ張られてよろけた自分を包み込む、優しい腕。
フワリと萌の身体に回されたそれは、力強いのに、優しいのだ。
一美が仕事中にこんなふうに彼女に触れてくることは、ない――なかった。久し振りのその温もりに酔いそうになった萌の耳に、囁く声が響く。
「萌」
名前を呼ばれて顔を上げると、見下ろしてくる眼差しと行き合った。そこには、彼女を案じる色が浮かんでいる。そうして彼は、身を屈めて萌の耳元に唇を寄せる。
「何かあるなら、俺にちゃんと言え」
短く囁き、一美はパッと萌を解放した。
「仕事中にすまないな」
そう謝罪して、彼は手を伸ばしてかすめるように萌の頬に触れると、踵を返して去って行く。
その背中を見送って、萌は、本当に一美のことが好きなのだと、心の底から思った。
涙が出そうになるほどに、彼のことが好きだ。
こんなにも温かい気持ちになれるものをくれた彼のことが、愛おしくて大事で堪らない。仮に、一美が萌に応えてくれていなかったとしても、この想いを抱けただけで、幸せだった。
そして、そんなふうに誰かを愛せる自分で良かった、とも思う。
そうなれたのは、いつも誰かが傍にいて、萌のことを想ってくれていたからだ。
誰かから愛されたことがなければ、きっとこんなふうには思えない。受け取ったものがあるから、誰かに与えることもできるのだ。
自分には、いつも誰かがいてくれた――幼い頃も、そして今も。
人には、そんな『誰か』が必要なのだ。
萌は、そう思う。
だから、健人の傍にいてあげたいのだ。せめてあの子がここにいる間だけでも、彼のことを想っている者がちゃんといることを、伝えておきたい。
そんな人間がいるということを知っているだけで、きっと彼の力になる。
そう、信じている――萌自身がそうだったから。
世界で一番大事な人に疎んじられてしまったとしても、他にも彼のことを想う者がいるのだということを、解かっていてもらいたい。
人は、自分が独りきりではないことを知るだけで、強くなれるから。
自分ごときにどれほどのことができるかは判らないけれど、精一杯のことはしようと、萌は改めて心に決めた。
萌は四六五号室のドアを注意深くノックする。その部屋は一番奥にある個室で、そこに下田健人が『入院』していた。
健人は色々なことに過敏で、小さな音にもビクビクと身を縮こまらせる。だから、ノックの音も、「これから入りますよ」をギリギリ知らせることができるだけの大きさになるように、細心の注意が必要だった。
「健人君、おはよう。入りますよ?」
萌は『朗らかな声』ではなく『落ち着いた声』を心がけて、そう声をかけながら室内に足を踏み入れる。
部屋の中、健人はベッドの上で膝を抱えて座っていた。いつ訪室しても同じ場所に同じ格好でいて、もしかしたら眠る時もその恰好なのかもしれないと、萌に思わせる。
小さく縮こまって、萌の動きをジッと目で追うその様子に子どもらしさは全くなくて、彼女の心はキリリと痛んだ。
そう、子どもというよりは、よくしつけられた室内犬のようなのだ。
トイレのしつけはできていて、声も出さず、ただジッと『飼い主』の動きを見ている、そんなところが。
「健人君、体温測ろっか」
笑い掛けながら、萌はいつもの半分のスピードでゆっくり動く。
最初にケアをしようとした時、普段通りに動いた萌に、健人はビクッと大きく反応し、両腕を上げて身構えた。
ただ、体温計を脇に挟もうとしただけだったのに、まるで彼女が殴ろうとでもしたかのようだった。
それは、普段の彼の生活がどんなものであったかを如実に語っている反応で、その時、萌の胸の中は憤りと悲しさと悔しさと、そんな色々なものではちきれそうになった。
里見高校の寮に入る前、萌の周りには様々な事情を抱える子どもたちがいた。健人のような子も、いたことがある。だから、今の健人に一番必要なものは、判っている。
安全で寛げる、場所。
決して健人を傷付けることのない、大人。
痛みではなく、温もりを与えてくれる、手。
そんな、子どもだったら当然のように持っているもの。
それが、健人に必要なもの。
世界は痛みや恐怖だけではなくて、ちゃんと優しく温かいものもあるのだということを、教えてあげなければ。
「はい、お熱はなし。朝ごはんもちゃんと食べたね。えらいよ。おいしかった?」
健人からの返事はないけれど、萌は笑顔で喋り続ける。
入院してから一週間になるというのに、未だ健人は一言も声を発していない。
言葉を知らないのか、それとも、声を出したらいけないと、『しつけ』られていたのか。
もしかしたら知的な遅れもあるかもしれないけれど、今の状況ではそれを判定することは難しい。
健人が入院してから、何回か児童相談所などとの会合が開かれていた。
そこで得られた情報では、少なくとも三歳児健診まではちゃんと受けていて、それまでは予防接種もきちんと済ませてあるとのことだった。
健診で異常を指摘されていたことはなくて、それはつまり、三歳ではちゃんと喋っていたということだ。
情報が格段に減るのはそれからだった。
保育園や幼稚園には通っていないから、現在の健人の様子を知っているのは、母親と、彼らの隣人などになる。
健人の父親は、彼が三歳になった頃、よそに女性を作って家を出て行ってしまったそうだ。
児童相談所が彼と連絡を取ろうと試みてはいるが、なかなか見つからない。
しかし、もしも見つかったとしても、父親の元に送るかどうかはよくよく検討しなければならないだろう。
そして、母親の幸子の様子がおかしくなり始めたのは、夫が家から姿を消したその頃からだったようだ。
下田親子は小さなアパートに住んでいて、当然、周りに他の住民もたくさんいる。
彼らは、幸子が始終酒の臭いをさせるようになったのは夜の仕事を始めたから、健人が外で遊ぶ姿を見なくなったのは、母親が遊びに連れ出す時間が無くなったからだと、考えていたという。
時折親子の部屋から大きな物音は聞こえてきたけれど、子どもの泣く声はきこえてこず、それ故に、ただ、やんちゃ盛りの健人が家の中で遊んでいるだけだろうと思っていた、と。
児童相談所の職員の聞き込みに対して、口を揃えて「気付かなかった」と答えていると聞かされた。
膝を抱える健人を前にして、萌は、そうなのかもしれない、とも思う。
こんなふうに、健人が何も言わずにいたら、誰も気付けない。
泣いて、叫んで、助けて欲しいと訴えてくれたら、誰かが手を差し伸べてくれたかもしれないけれど。
そんな力すらも失ってしまっているのが、萌には悲しくてたまらない。
「今日はね、おふろの日だよ。三時くらいに入ろっか。そうしたら少し時間があるから、絵本を読んであげるよ?」
健人の目を覗き込みながらそう言っても、彼はうんともすんとも応えない。
嬉しいのか、嫌がっているのか、それを判断するのは難しいけれど、絵本を読んでいる間中、健人の目はそこに釘付けになるから、きっと嫌ではない筈。
萌はそう思って、一日一回は何かを読み聞かせることにしていた。そうしている間に、何か喋ってくれるかもしれないと期待して。
焦っては、いけない。一ヶ月あるのだから、その一ヶ月の間に、何かほんの少しでも変化が出てくれればいい。
萌は、何度も自分にそう言い聞かせてきた。
「じゃあね、またお昼の時に来るからね」
笑ってそう残し、萌は部屋を出る。そして扉を閉めて、ため息をついた。
ため息をつくと、視線が下がり、視線が下がると、気分も落ちる。
いけない、いけない、と萌は小さく頭を振り、グイと顔を上げた。
と、そこで、彼女の名前を呼ぶ声が耳に届く。
「小宮山さん」
そちらの方に振り向いて目に入ってきた姿に、冷えていた胸の中がポッと温かくなる。
「岩崎先生」
廊下の先、少し離れたところにいるのは一美だ。
この一週間は健人の事で会合を開いたり色々調べ物をしたりしていたから、彼との時間を取れていなかった。こうやって病棟で仕事のやり取りをするのが、唯一の逢瀬だ。
現金なもので、彼の声を聴くだけで、萌の気持ちはパッと舞い上がってしまう。
二人きりの時は『萌』と下の名前を呼んでくれるけれど、仕事中は『小宮山さん』だ。そこがちょっと寂しいけれども、一美の声には違いがない。
彼は真っ直ぐに萌の元に歩み寄ってくると、あと一歩ほどの距離を置いて立ち止まった。病院から出るまでは、触れてくるのも必要最低限なのだ。一美はそこのけじめはキッチリつける――時折、過保護になるけれど。
「何かご用ですか?」
一美を見上げて萌が尋ねると、彼は探るような眼差しで見つめてくる。
「どうかしましたか?」
重ねて問うても、すぐには答えてくれない。その目は子どもたちを診察する時のもののようで、萌は少し居心地が悪くなる。
身じろぎをした彼女に、ようやく一美は口を開いてくれた。
「君、ちゃんと生活しているか?」
「え?」
「食事は? 寝ているか?」
萌は、内心で「鋭い」と呟いてしまう。
そう言えば、付き合い始める前、亡くなってしまったあの子の担当をやっている時にも、一美には不摂生を見抜かれた。
限られた時間の中で色々しようと思うと、どうしても省いてしまうことが出てきてしまう。
(でも、別に体調も体重も変わっていないけどな)
にも拘らず、瞬時に念押しされてしまうだなんて、そんなに見た目に表れてしまっているのだろうか。
すぐにごまかせれば良かったのだけれども、とっさの事で、萌は口ごもってしまった。
「――、大丈夫ですよ。ちゃんと寝てるし食べてます」
そう、笑顔で答えたというのに、一美は萌の台詞の前のわずかな間にあったものに気付いてしまったようだ。彼は呆れたようなため息をつく。
「……本当ですよ?」
一応、念押ししてみた萌だったが、ジロリと睨み返される。
叱られてしまうだろうかと、首をすくめて身構えた彼女だったが、次の瞬間、目を大きく瞬いた。
「先生?」
手を引っ張られてよろけた自分を包み込む、優しい腕。
フワリと萌の身体に回されたそれは、力強いのに、優しいのだ。
一美が仕事中にこんなふうに彼女に触れてくることは、ない――なかった。久し振りのその温もりに酔いそうになった萌の耳に、囁く声が響く。
「萌」
名前を呼ばれて顔を上げると、見下ろしてくる眼差しと行き合った。そこには、彼女を案じる色が浮かんでいる。そうして彼は、身を屈めて萌の耳元に唇を寄せる。
「何かあるなら、俺にちゃんと言え」
短く囁き、一美はパッと萌を解放した。
「仕事中にすまないな」
そう謝罪して、彼は手を伸ばしてかすめるように萌の頬に触れると、踵を返して去って行く。
その背中を見送って、萌は、本当に一美のことが好きなのだと、心の底から思った。
涙が出そうになるほどに、彼のことが好きだ。
こんなにも温かい気持ちになれるものをくれた彼のことが、愛おしくて大事で堪らない。仮に、一美が萌に応えてくれていなかったとしても、この想いを抱けただけで、幸せだった。
そして、そんなふうに誰かを愛せる自分で良かった、とも思う。
そうなれたのは、いつも誰かが傍にいて、萌のことを想ってくれていたからだ。
誰かから愛されたことがなければ、きっとこんなふうには思えない。受け取ったものがあるから、誰かに与えることもできるのだ。
自分には、いつも誰かがいてくれた――幼い頃も、そして今も。
人には、そんな『誰か』が必要なのだ。
萌は、そう思う。
だから、健人の傍にいてあげたいのだ。せめてあの子がここにいる間だけでも、彼のことを想っている者がちゃんといることを、伝えておきたい。
そんな人間がいるということを知っているだけで、きっと彼の力になる。
そう、信じている――萌自身がそうだったから。
世界で一番大事な人に疎んじられてしまったとしても、他にも彼のことを想う者がいるのだということを、解かっていてもらいたい。
人は、自分が独りきりではないことを知るだけで、強くなれるから。
自分ごときにどれほどのことができるかは判らないけれど、精一杯のことはしようと、萌は改めて心に決めた。
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