お嬢様の12ヶ月

トウリン

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12月の奇跡

12月-3

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「武藤……?」
 名前を呼ばれ、恭介は読んでいた本から顔を上げる。声の方に目を向ければ、静香がソファの上で身体を起こしていた。

「起きましたか」
「起こしてくださらなかったのね」

 少し不服そうなのは、プライドの問題だろうか。
 ――寝過ごしてしまって油断した、とか。

 本を閉じて、恭介は少し慎重に答える。
「良く寝てましたから」
「そう……」
「すみません、起こさずにいて」
「いえ……構わなくてよ」
 言いながら、静香は壁に目をやり時計をチラリと見た。
「まだ十時を過ぎたところですよ」
 もしかして、早く帰ってきたのは何かしたいことがあったからなのだろうか。もしもそうなら、起こさなかった恭介の『気遣い』は『余計な世話』だったかもしれない。
 そう思うと、彼の声には、何となく言い訳がましい響きが入ってしまう。
 そんな恭介の懸念に気付いたのか、静香が苦笑した。
「本当に、何でもないの。お気になさらないで」
「そうですか?」
 何故か、恭介は気まずさを覚える。
 やはり静香が何かを気にしているふうに見えるからかもしれないし――彼の腕に、まだ彼女の温もりが残っているような気がするからかもしれない。

 彼は小さく咳払いをすると、パッと頭の中に思い浮かんだことを口にした。
「あぁ、その、そう言えば、最後に踊っていたヤツ、何だかしつこかったですね」
「伊集院様?」
「そう、それ」
 頷いた恭介に、静香は微かに首をかしげて、言った。
「ああ……一度、縁談の打診がございましたから」
「そう、えん――ええ? 俺は聞いてないですよ?」
 恭介にとっては、寝耳に水の話だった。
 思わず立ち上がりそうになるのを、椅子の肘掛を握ってこらえる。一方で、静香は立ち上がり、彼の方に歩いてきながら言った。
「あくまでも、打診でしたの。すぐにそのお話はなくなりましたわ。ですから、特にお伝えする必要はないかと……」
「そうですか」
 まあ、当然と言えば当然だと、恭介は胸を撫で下ろす。
 わずかな間しか顔を合わせていないが、それでも、あれが元のお眼鏡に適う男だとは、とうてい思えない。
 静香は椅子に腰かけたままの恭介の隣に立ち、彼とは逆の方を向いたまま、立ち止まった。
 その方向――恭介の背後には、やたらと大きなクリスマスツリーが飾ってある。みっしりとオーナメントがぶら下げられているそれを、彼女はジッと見上げていた。

 恭介がその横顔を見るともなしに見ていると、不意に静香が彼の方を向いた。いつものように真っ直ぐ注がれるその眼差しに、恭介はわずかに顎を引く。
 彼女は、唐突に彼に問いかけてきた。

「あの方をどう思って?」
「あの方?」

 一瞬、誰のことを指しているのか判らず、恭介は眉根を寄せる。
「伊集院様です。あの方がこの家の当主に――わたくしの夫になるとしたら、どう思って?」
 静香の台詞で、静香と、彼女の隣に並んだにやけた男の姿が彼の脳裏にパッと閃く。
 その瞬間、彼の口は勝手に動いていた。
「論外です。あんなのにやるくらいなら――」
 言いかけて、直後、恭介は我に返る。危うく口が滑りかけた。
 中途半端な形で台詞を中断した恭介を、静香がいぶかしげに見つめる。彼は言い繕おうとしたが、頭がうまく回らない。
「武藤?」
 ここはとぼけるに限ると、彼は心に決めた。
「いかにも坊ちゃんの典型って感じでしたよね。見た目はいいですが、彼が貴女の旦那にってことになったら、元様にとことんいびり倒されそうですよ。三日ともたないんじゃないですか?」
 つらつらと冗談めかして言う恭介に、静香も小さな笑い声を漏らした。
「ふふ、きっと、そうね」
「でしょう?」
 静香の笑みに、恭介はうまくごまかせたかと安堵する。胸中で、こっそりと息をついた。
「ねえ、武藤?」
「何です?」
 すっかり気を緩ませた恭介は、静香に名を呼ばれて返事をする。彼女は柔らかく微笑んで、言った。
「少しだけ、目を閉じていてくださる?」
「え?」
 唐突な彼女の申し出の理由が解からず、恭介は眉をひそめる。
「何なんですか?」
「お願いですの」
 静香は真っ直ぐに彼を見下ろして繰り返した。
 彼女の『お願い』は滅多にない。
 そして、恭介がそれを断ることは、更に稀だった。彼女の望むところが解からぬまま、恭介は言われたとおりに目蓋を下ろす。

「閉じましたよ」
 そう告げた彼の耳に、衣擦れの音が届く。

 次の瞬間。

「――ッ?」

 思わず見開いた恭介の目に映ったのは、ふわりとなびいて遠ざかる黒髪。
 頬の、ほとんど唇と言っていいほどの場所に微かに残るのは、柔らかく温かな感触。
 今、何をした? などと、恭介は口が裂けても訊けなかった。

 一歩後ろに下がった静香は、彼に心の中を読ませない微笑みを浮かべて、言う。
「ご存じ?」
「え?」
 彼女は呆然としている恭介の後ろを指さした。
 つられて振り返った彼の目に入るのは、天井に届かんばかりのクリスマスツリーだ。
 やたらと大きいが、ただのツリーに過ぎない。
 天使やらキラキラした丸いものやら何かの小枝やら、とにかく色々な物がぶら下げられている、ツリーだ。
 緑の葉が茂る枝が、恭介の頭上にまで張り出している。
 ――これが、なんなんだ?
 益々眉間のしわを深くした彼の耳に、小さな忍び笑いが届く。
 振り向けば、静香はいつもの澄ましたものではない、何かを隠し持っているかのような笑みを浮かべていた。

「ヤドリギの下では、キスをするものでしてよ」
 そうしてクルリと身を翻すと、静香はドアへと向かう。戸を開け、出ていきかけて、もう一度彼女は振り返った。
「宿題、です」
「は?」
「お父様からのばかりではなくて、たまにはわたくしからの宿題も、解いてくださいな」
「――は?」
「おやすみなさい」
 彼女は口元だけの笑みを彼に投げると、状況をさっぱり理解できていない恭介を残してスルリと扉から姿を消してしまった。
 恭介は、静香が出て行った扉に目を据えたまま、微動だにしない――できない。

 ――宿題?

 課題は、いったい何なのか。たいして考えなくても、疑問は一つしかない。
 恭介は手を上げて、未だ微かな温もりを残している頬に指先で触れた。
 何故、静香はキスをしたのか、だ。
 そう思い、恭介は「いや、待てよ」と頭を振った。
 果たして、あれはキスの内に入るのか――ただ、頬に一瞬触れただけの、あれが。
 だが、あれを『そう』だとカウントしてもいいのだとしたら、彼女は何を思ってあんなことをしたのだろうか。
 気まぐれなのか、悪戯なのか。確かに、去り際の彼女の笑顔は、何か悪戯を企んでいる者のそれだった。
 しかし、静香は使用人に悪ふざけを仕掛けるような少女ではない。
 もしも――もしも、悪戯ではないとして、どんな気持ちであれば、あんな行動を取るのだろう。
 少なくとも、恭介への嫌悪感はない筈だ。
 欧米ならば、兄や父に対してもするだろう。

 ――あるいは、異性として、好意を抱いていれば……?
 ちらりとそんな考えが頭の中をよぎり、恭介は慌ててそれを打ち消した。

 それは、ない。
 ない筈だ。

 今までの静香の態度を振り返ってみれば、恋愛対象として見られているとは思えなかった。
 やはり、兄とか、そういった相手に対するものと、同じような感情からくるものなのだろう。年齢もそうだし、何より、『異性』として見るには、彼は静香に近過ぎた。

「ああ、くそ」
 恭介は、誰にともなく毒づく。
 彼の頭の中では、グルグルと様々な思考や感情が浮かんでは消えて行った。大部分は諦め、そしてわずかな苛立ちと、見え隠れする微かな期待。
 それらはいずれも相容れず、恭介の心をかき乱した。
 椅子の背もたれに頭を任せて、ため息混じりに天井を見上げる。その視界に、オーナメントの数々が入ってきた。
 ぼんやりとそれらを眺めた恭介は、そのうちの一つに目を留める。

 ――ヤドリギ。

 彼女は、確かに言った。ヤドリギの下ではキスをするものだ、と。
 やはり、あれは『そう』なのだ。

 恭介はガシガシと頭を掻く。

 結局、その日は一睡もできなかった彼だった。
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