君がいる奇跡

トウリン

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寂しさを癒す温もり

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 深夜も二時を回って、さすがに少し客足も鈍り始めた頃だった。
「なんか、調子良さそうだね」
 並んでレジに立っている小暮こぐれからそう言われ、ひびきは一瞬何と答えたらいいのか判らず、言葉に詰まる。
「そう、ですか?」
「うん、この間よりも顔色がいいよ」
 彼にさっくり頷かれ、そんなに顔に出てしまっていたのかと響は肩を小さくする。
「すみません……何だか、心配おかけしてしまって……」

 実際、体調は良い。
 りょうに色々話してつかえが少し取れたのか、最近は記憶が跳ぶようなこともない。朝目覚めた時も、前とは打って変わってすっきりとしていた。
 時折記憶が跳んでいるというあの話を聞いて、凌はいったいどんなふうに思ったのだろうと、あれから響は度々考えている。
 話し終った後に彼の顔を見てみたけれど、あまり表情の変わらないそこからは気持ちを読み取ることはできなかった。

(少なくとも、嫌われてはないよね……?)
 響は胸の中で自問し、頷いた。
 最近の彼は以前よりも少し素っ気ない感じがする。でも、それだけは、不思議と確信できた。

(話して、良かったのかな)
 その問いには、今も答えが出ていない。
 本当は、自分に起きていることを凌に打ち明けるつもりはなかったのだ。それなのに、気が緩んでつい口からこぼれてしまった。

 話す気がなかったのは、別に、凌のことを信用していないからではない。
 ただ、これは自分の中で起きていることなのだから、自分自身で対処するべきだと思っていたのだ。もう、なぎに護られるだけだった子どもではないのだから、と。
 それに、また変な心配を増やして凌を過保護にさせてしまうのも嫌だった。彼にまさにおんぶに抱っこで甘やかされていると楽だし心地良いけれど、何だか自分がなくなってしまうような気がする。
 話してしまってから、響は自分の弱さに落ち込んだ。結局、凌を過保護にさせるのは彼女自身の弱さの所為なのだ、と。

 今回も、真綿で包むような扱いをされてしまうのだろうと思った。

 でも、違った。

 確かに話してしばらくの間は、彼は響を抱き締めていてくれたけれど、ずっと抱え込むようなことはしなかった。多分、そうされていたら、響は話したことを悔やんでいただろう。
 以前だったら「泊まり込む」と言い出し兼ねなかったのに、多分喉元まで出かかっているその申し出を凌は腹の中にとどめておいてくれた。

(リョウさんは、変わった)
 数日前から何となく前と違うと思っていたけれど、その時、響ははっきりと彼の変化を感じた。
 それに、変わったな、と思うのは、それだけではない。
 バイトの送迎も、出勤は相変わらず迎えに来るけれど、帰る時には響一人だった。夜は寝てくれという彼女の嘆願を、ようやく彼が聴き入れてくれたのだ――その代わりに彼は携帯電話を購入し、家に帰ったら必ず電話をするようにと響に言い含めてきたのだが。

 いったい、どんな心境の変化があったのだろう。
 思い返してみると、凪の家に行った少し後くらいから、何となく凌の様子は変わってきていたような気がする。

(そう言えば、最近はあんまりくっついてもこないな……)
 以前は抱き枕か何かのように、一緒にいる間はずっと彼女を離さなかったのに、今はたいてい人半分ほどの距離を保っている。
 時折ふっと背中が寂しくなる時があるけれど、そんな時は彼に目をやると必ず見返してきてくれるのだ。それだけで、響の胸はホッと温かくなる。

(家に来たとき、凪さんに釘でも刺されたのかな)
 あの伯母ならやりかねないな、と響が苦笑した時だった。
「藤野さんの彼氏、カッコいいもんねぇ」
 しみじみとした口調の小暮に、響は目が醒めたようにパチリと大きく瞬きをして彼を見返す。凌のことを考えていて、知らぬうちに何か口に出してしまったのだろうかと、微かに頬が熱くなる。
「え?」
 間が抜けた返事をしてしまった響に、小暮が小さく首をかしげた。
「そっち絡みで揉めてたんでしょ? ほら、例の彼女」
「あ……」
 したり顔で腕を組みつつ頷く小暮は、凌を巡るナナの横恋慕が響の抱えていた問題だと思っているらしい。
「いえ――」
 否定しようとしてとどまった。
 ナナのことはきっかけの一つに過ぎなくて、根本的な問題は彼女よりも響自身にあるのだけれども、小暮が考えているように解釈してもらえれば、話は単純だ。

「はい、前にリョウさんがお付き合いされていた方で」
「美人だけど、キツそうだよね。何かわがままそうだし、アレを彼女にしたら苦労するよ、きっと」
 しみじみと言った小暮に、響は曖昧に頷いた。
 確かに一見したところはそうなのだけれど、響の脳裏には先日の打ちひしがれたナナの姿が焼き付いている。そして、抱き締めた時の身体の細さも。
「見た目ほど、強くないんじゃないかな……」
 思わずこぼれた響の呟きは殆ど囁きのようなものだった。小さなその声は、自動ドアが開く音でかき消される。

「いらっしゃ――あ」
 愛想よくあげられた小暮の声が、途中で止まった。どうしたのかとそちらを見れば、彼は入口の方を見つめて『あ』の形に口を丸くしていた。
「どうしました?」
 問いながら、響は小暮の目が向けられている方へと首を巡らせる。そこに立つ人物に、彼女の口も『あ』の形になった。
「噂をすれば、だねぇ」
 小暮がこっそりと呟くのを、響は耳から耳へと聞き流す。

 二人分の視線を受けた話題の人――ナナは、いつものように綺麗だった。最後に見た時は腫れていた頬も、今はすっかり滑らかな白さを取り戻している。
 あれから二週間以上経っているのに、その間、ナナのことは響の頭から離れなかった。頬の傷のこともそうだけれど、それ以上に、打ちひしがれた色を浮かべていた眼差しが深く心に突き刺さっていたから。
 今目の前にいる彼女は、何だかすっきりした顔をしている。この間は言うまでもなく、その前に会った時よりも、格段に落ち着いた目の色をしていた。

 ナナは高いヒールでカツカツと床を鳴らしながら、店員二人が並んでいるカウンターに直進してくる。
「あれは、買い物に来たんじゃなさそうだよね……」
 陳列されている数々の品には目もくれずに近寄ってくるナナに、小暮が呟く。彼の推測通り、彼女はカウンターの前に立つと響をジッと見つめつつ、言った。

「ちょっといい?」
「あの……今は仕事中なので……」
「じゃあ、待ってる」
 その口調はやけに素直で、まるで母親に言いつけられた子どものようだ。
「あ……藤野さん、今日はまだ休憩してなかっただろ? 今空いてるし、いいよ、行ってきて」
 笑顔でそう言った小暮の目の中には、さっさと話を聞いて、さっさと帰してしまえという含みがはっきりと見て取れた。

 今日のナナはトラブルを起こしそうには見えなかったけれど、シフトが終わるまではまだ三時間はある。この間の男性のこともあるので、それまで彼女を待たせるのも良くないかと、響は小暮の提案を受け入れた。
「なら、三十分だけ、失礼します」
 彼にそう残し、響はカウンターを出るとナナをバックヤードへと促す。
 前にそうしたようにナナを椅子に座らせて、響ももう一つの椅子を彼女の前に引っ張ってきてそこに腰を下ろした。
 そうやって向かい合っても、ナナはしげしげと響を見つめるばかりで何も言わない。その眼差しの中に敵意は全く見えないけれど、あまり凝視されると居心地が悪い。

「あの、それで、ご用は?」
 たっぷり三分間はナナの視線を受け止めた後、やっぱり何も言おうとしない彼女の代わりに響は切り出した。
「ギュッてして」
「……は?」
 一瞬、響にはナナの口から出た言葉が理解できなかった。キョトンと彼女を見返した響に、ナナは表情も変えずにもう一度繰り返す。
「こないだ、アタシのことをギュッてしたでしょ? あれ、もう一回やってよ」
 そう言われても、あれは半ば衝動に駆られてしてしまったことだ。相手が親しい凪ならともかく、冷静な時についこの間まで敵意剥き出しだった相手にやれと要求されて「はいそうですか」とできるものでもない。

「えぇっと、どういうことでしょう?」
 取り敢えず時間稼ぎに問い返してみた響に、ナナは唇を尖らせて答える。その仕草はやけに幼く見えて、響よりもいくつか年上の筈なのに、可愛らしいなと思ってしまう。
「なんか、男と寝るよりあんたにギュッてされたいって思ったんだもん。この二週間、誰ともシてないんだよ? 何か、全然その気になれなくって」
「そう、なんですか……」
 未だ経験のない響には、それがどれだけすごいことなのか見当もつかない。けれど、ナナの口振りからは、彼女にとってはかなりたいしたことのようだ。

 戸惑う響に、ナナは更に訴える。
「アタシにも何でか解からないんだけど。だから、もう一回してみせてよ。そしたら帰るから」
 そう言いながら、彼女は目でも早くしろと促してくる。

 いったい、どこからつながる『だから』なのだろう。
 響は首をかしげそうになったけれど、ナナの期待に満ち満ちた眼差しはクリスマスプレゼントでも開けようとしている子どもの様で、そんなツッコミを入れる隙間はなさそうだった。
 何故、こんなにナナの態度が変わったのだろうと、正直言って戸惑う。響がナナと言葉を交わしたのはこれで三回目だ。そのうち二回は敵意丸出しだったのに。

(――子どもみたい)
 ナナを見つめていた響の頭に、ふとその一言が思い浮かぶ。

 そう、幼い子どもだ。

 その瞬間、彼女の中でストンと何かがはまったような感じがした。
 最初の二回の印象でナナのことをエキセントリックな女性だと思っていたけれど、ただ幼いだけなのだと思えば腑に落ちた。
 そう思うと、響が昔相手をしたことのある子どもたちの事が脳裏をよぎる。
 響が通っていた高校には幼等部が附属していて、彼女は時々そこで子どもたちの相手をしていた。両親の迎えが遅くなる子たちを延長して預かるシステムの、ボランティア要員として。
 殆どの子は昼の保育の延長で皆と楽しく過ごしていたけれど、中には何人か対応にてこずる子たちもいた。普段から自宅で寂しい思いをしているのか、がむしゃらに響たちの関心を買おうとするのだ。

 あの子たちに、ナナは似ている気がする。

 その子どもたちは欲しい物は欲しいと声高に主張し、自分の物となったらしっかり抱え込んで他の子と分かち合おうとはしなかった。
 単なる我がままと言ってしまえば、そうなのかもしれない。
 けれど響には、その子たちのそんな行動は、満たされない気持ちの裏返しのように思えて仕方がなかった。本当に欲しいものが手に入らないから、手に入れられたものにしがみ付いて慰めを求めているように。

 それに、と響は思う。

 それに、寂しい時に誰かにしがみ付きたくなる気持ちも、解かるのだ。

 彼女自身、夜にふと目が醒めて、何もない場所にポンと投げ出されたような気持ちになることが、よくあった。自分自身が何者なのかも判らず、今この場所に本当に自分が存在しているのだろうかと不安になって。
 どうしようもなく心細くなって押し潰されそうになった時、響には凪がいてくれた。彼女はいち早く響の気持ちを察して、いつでも抱き締めてくれた。何度も名前を呼びながら。
 凌は、ナナは何人もの男性と付き合っていたと言っていた。ナナ自身も、それを認めている。
 けれど、温もりが欲しくなって、誰かにしがみ付きたくなった時、彼女の周りでそれを与えてくれたのが、たまたま男性だったというだけなのではないだろうか。

 響は立ち上がり、ナナに向けて手を伸ばす。身体を屈めて自然な動きで彼女の頭を包み込む。
 抱き締められたナナは微かに背筋を強張らせ、一瞬遅れておずおずと響の背中に手を回してきた。
 いつもの響は抱き締められる側だ。けれど、今の響はナナを抱き締めている。
 そう思って、何だか胸がキュッとした。誰かを自分の腕の中に包み込むということは、不思議な満足感を伴う心地良さを引き起こさせた。

(リョウさんも、同じように感じていたのかな)
 不意に、響はそんなふうに思う。
 これまで、凌が響を抱き締めるのは、彼女の為だと思っていた。響を安心させる為にそうしているのだと。でも、もしも今響が感じているような気持ちを凌も覚えたのだとしたら、彼自身の為にもそうしていたのかもしれない。

 しばらくそうしていて、やがて響の胸元でナナが呟く。
「アタシ、もしかしてレズなのかな」
 くぐもった声は聞き取りにくく、響は身体を離してナナを見下ろした。彼女の目はたっぷりのミルクをもらった仔猫のように、満ち足りた色を浮かべている。
「男とセックスするより、あんたとこうしてる方が気持ちいいんだもん」
 そう言って腕を解いたナナに、響の口から問いが突いて出た。
「ナナさんの欲しいモノって、何なんでしょう?」
 唐突なその質問に、ナナは一瞬目を丸くする。そうして、苦笑を口元に刻んだ。

「判んない……ずっと判ってると思ってたけど、判んなくなった。二週間、いろいろ考えたんだけど、何か余計色々判んなくなっちゃった」
 『判らない』という言葉を連発しているというのに、ナナの表情は良い。膝に置いた自分の両手に目を落としてうつむく彼女のその顔を、響は半ば見惚れつつ見つめる。

 ややして、不意にナナが顔を上げた。首をかしげて響をしげしげと見ていたかと思うと、唐突に爆弾を落とす。
「あんた、リョウとシた?」
「……え?」
 ポカンと目と口を丸くした響に、ナナは言葉を変えて繰り返す。
「セックスよ、シた?」
「え、それは、その――」
 響の顔は、火を噴いているかのように熱い。慌てふためく彼女に、ナナは更に問いを重ねてきた。
「シてないんだ。じゃあさ、何でリョウがあんたのことをアイしてるって思えるわけ?」
「え?」
「抱いてくれたらアイしてるってことでしょ? 抱いてくれないなら、確かめようがないじゃない」
 ナナは、本気でそう思っているようだった。とは言え、響もはっきりとは答えられない。

「それは、その……わかりません……」
 しどろもどろな響にナナはしばらく納得がいかなそうな顔をしていたけれど、また別の質問を口にした。
「じゃあさ、好きとかアイしてるとか言ってくれるの?」
 訊かれて、更に響は返事に詰まった。そう言われると、彼からそういう言葉を言われた記憶がないかもしれない。沈黙が何よりも雄弁な答えになったらしい。

「ふうん……何も言わないんだ……」
 思わず口を噤んでしまったことを取り繕うように、響は慌てて補った。
「あ、でも、名前を呼んでくれるんです」
「名前?」
「はい。名前を呼ばれると、わたしが嬉しく思うのを知ってるから」
 ナナが思案深げに首をかしげて呟いた。
「セックスもなし。好きとも言わない。でもリョウは、あんたといる時はあんな顔になるんだ……」
「あんな顔?」
 今度は響が首をかしげる番だったけれど、ナナは問い返されたことに気付いていないようだった。自分の中に閉じこもったように、顔を伏せる

「アタシ、リョウのあんな顔、見たことなかったんだよね……」
「ナナさん、あの――」
 響の台詞の何かが、ナナを落ち込ませてしまったのだろうか。彼女に向けて手を伸ばしかけたところで、ナナがパッと唐突に立ち上がる。
「ナナさん?」
「アタシ帰る。またね」
 ナナはさらっとそう言うと、艶やかな笑顔を浮かべる。そうして店内へと続くドアを押し開けて、振り返りもせずに行ってしまった。

 完全にドアが閉まった後に、ナナが残していった一言が響の鼓膜から脳へと到達する。
「……『またね』?」
(そってつまり、また会いに来る、ということ……?)
「……え――?」
 まるで、ついこの間手ひどく引っかかれたノラ猫に喉を鳴らしてすり寄られたような感じだ。何となく嬉しいと思いつつ、「何で?」と思ってしまう。
 まあ、取り敢えず、今回は怒りも泣きもせずにここを出て行ったのだから、良しとするべきなのだろう。

「なんか……やっぱりよく解からないヒト」
 呟き、何気なく時計に目をやった。長針はもう半分と少しばかり回転している。
「あ、行かないと」
 慌ててドアを開けて店内に出たけれど、ナナの姿はもうそこにはなかった。
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