君がいる奇跡

トウリン

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突き付けられた過去

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 りょうがナナを連れて帰ってくれてよかったと、ひびきは目の前に置いた封筒を見つめながら思った。

 表には何も書かれていない、分厚い茶封筒。

 虎徹こてつからソレを受け取って、もう三日が経っている。何度か、引っ張り出して捨てようとしては戻し、引っ張り出して読もうとしては戻しを繰り返して、結局中身には手を付けられずにいた。

「もう、どうするか決めないとね」
 自分自身に言い聞かせるように、声に出して呟く。そうして、大きく一つ深呼吸をして封筒に手を伸ばした。
 封をしているテープを切って、斜めに傾ける。
 ザッと音を立てて出てきたのは、何枚もの上質紙だ。コピーなのか、それともパソコンからプリントアウトしたものなのか。

「なんだろ」
 一枚目に書かれているのは、響の名前、凪《なぎ》の家の住所、意味の分からないいくつもの数字や文字の羅列、そして、病院の名前。
 それは、昔響が通っていた病院だった。彼女の記憶に残っている限りでは、十歳の誕生日からおよそ二年間強、中学校に入学するまでの間、毎月通っていた精神科がある病院の、名前。

 一枚、めくる。

 プリントされているのは、英語と思しき横文字と多分日本語らしい文字の入り混じった、殆ど暗号のような、とても読みにくい手書きの文字。まさに『ミミズがのたくっているような』という表現がぴったりな文字だ。
「カルテ……?」
 響は呟き、パソコンを立ち上げてネットを開くと、辛うじて拾えた単語を調べながら読み進める。
 最初の一ヶ月ほどは、全く反応を見せない響の様子が記録されていた。紙を何枚めくっても、『反応なし』の一言ばかり。
 それが変わったのは、『かなで』という文字が出てきた時だった。凪が呼びかけた『奏』という名前に、響が振り返ったとあった。

「わたし……お母さん……?」
 響はそこから先を食い入るように読む。
 『奏』として目覚めた彼女は、日常生活は営めるようになった。明確に意思表示をし、感情も見せる。ごく普通の少女になった――ただ、『藤野奏』として存在していることを除いて。

 その頃、『藤野響』は存在していなかった。
 主治医は、その『奏』という人格は響を守る為ではなく、ただ彼女を否定する為だけに存在しているような印象を受けたと記載を残していた。自分が『藤野響』であることを否定するあまりに作り出した存在のようだと。

「わたしが、わたしを否定する――ッ!」
 そう呟いた途端、響の頭を稲妻のような痛みが襲い、思わず彼女は息を詰める。

 ――わたしはわたしでありたくなかった……違う誰かに、なりたかった?

 ズキンズキンと脈打つように痛む頭に吐き気が込み上げてくる。気が遠くなりかけて、響はきつく目を閉じた。
「違う。わたしはそんなこと望まない。わたしは響、藤野響……」
 何度も何度も自分の名前を声に出して繰り返す。それは半ば呪文のようなもので、不安になった時、響はいつもそうしてきた。次第に痛みは薄らいでいき、何とかものを考えられる程度にまで落ち着いてくる。
 チカチカする目を何度かしばたたいて、響はもう一度紙の束に視線を戻した。もう読みたくないと思っているのに、目が離せない。
 生活する分には支障が無くなった響はじきに退院して、凪の家で暮らすようになった。それからはまた、代わり映えのしない記録が続く。

 楽しげに暮らしながら、『響』という名前には頑ななまでに反応しない。まるでその言葉だけが聞こえないかのように。
 響が響であることを取り戻したのは、十歳の誕生日の時。カルテにもその記載があったけれど、彼女自身、よく覚えている。
 ハッと気付いたらろうそくが十本立てられたケーキが目の前にあって、「響」と呼ばれたから「はい」と返事をしたら、凪に目を丸くされたのだ。
 そうして、その時から、今の響が始まった。

「これがわたしの過去?」
 確かに、響が知らされていなかったことが書かれている。けれど、不充分だった。
 何故彼女が『奏』になったのか。
 それは解からないままだ。
 やがてカルテのコピーは終わりに近付く。
 最後のページまで来て、響の目は一点に吸い寄せられた。そこに書かれている短い一文に、目を凝らす。

 『父親からの明らかな虐待の痕跡』

 そこには、ミミズがのたくったような文字で、しかしそうとしか読みようのない文字で、はっきりとそう書かれていた。
 カルテはそこで終わっている。
 一瞬世界が揺れたような気がして、思わず響はテーブルの端に掴まった。

「虐待――? お父さんから……?」

 ウソだ、と響は思った。
 そんな筈はない。
 けれどそう思う頭の片隅で、「本当に?」と囁く声がある。
 完全に否定できるほどの根拠を、響は持っていなかった。父親の声も顔も、何も覚えていないのだから。当然、子どもの頃に彼とどう過ごしていたのかも覚えていない。

 それに、と響は思う。
 それに、本当に何もないなら、何故凪はあれほどまでに響の父について話すことを拒むのだろう。

 一瞬脳裏に閃いた、暗い中で彼女に覆い被さってくる誰かの姿。
 重くて、苦しくて、怖くて、押しのけようとしても全然動かなかった。

(――これは、何?)
 響の中に、その前後の記憶はない。
 まさかと思いながらも、その光景がじわじわと響を侵食していった。
 一度彼女の胸に刺し込まれた疑念は、ギリギリと傷を広げていく。
 何か、他に証拠が欲しい。
 父がそんなことをしていないという証拠が。

 響はまた、紙をめくる。それは無意識の動作だった。
 次の用紙にあったのはアルファベットの羅列で、一拍置いて、響はそれがURLだと気付く。

 きっと、見ない方がいいものだ。

 虎徹がこれを寄越した意図の根底に悪意があることは、明らかだった。そのURLが響の救いになる可能性は限りなく低い。
 そう思っていても、彼女の指はその文字列を打ち込んでいた。
 出てきたのは、あまりネットを使わない響でも知っている有名な掲示板サイトで、そのタイトルを見て、響は眉をひそめる。

 『実娘拉致監禁連れ回しの件について』

 冒頭には、その『件』の内容に触れられていた。
 妻を亡くし、精神に異常をきたして親権を失った父親が娘を誘拐。就学年齢になっても学校にも入れずに転々とあちらこちらを連れ回し、挙句の果てに娘を置き去りにして自殺をしたという話だった。

「これって、まさか……」
 サイトには、更に多くの人からのコメントが続く。

『こいつ知ってる。オレが働いてるとこにも来た。名前は藤野晋司。履歴書にあった写真載せとく』

 初っ端にあったのは、その一文。そこにきめの粗いスピード写真が添付されている。そんなふうに無造作に個人の写真が載せられていることに驚きながらも、響はそれを食い入るように見つめた。
 ユラユラと、深い淵から何かが浮き上がってくる。
 確かに、響はその顔に見覚えがあった。

 ――これが、お父さん……?

 凌に似ているかもしれない――彼女は何となくそんなふうに思った。顔立ちもそうだけれど、真っ直ぐに切り込んでくるような眼差しが、彼と似ている。
 書かれている名前は、響が聞いていたものとは違っている。けれど、その事件が響と父親のことであることはまず間違いない。

「お父さんの名前――晋介、だよね?」
 このコメントが間違っているのか、それとも、凪がわざと違う名前を教えたのか。きっと、前者なのだろう。
「凪さんがそんなことするわけないもの」
 呟きながら、響は画面をスクロールする。何か、もっと情報はないかと思って。
 けれども、そこから先に続くのは、読む毎に血の気が引いていくようなものばかりだった。

 『この親父が死んだ時ウチの近所に住んでたけど、娘のこと嫁だと思ってたらしいぜ?』
 『何だよ、ガッコウ行かせず閉じ込めてヤリたい放題じゃん』
 『拉致×近親相姦×ロリ』
 『リアルAVだな』
 『父親、ガキの頃に虐待受けてて頭いかれてたらしい』
 『あれだな、虐待は連鎖するってやつだな』
 『俺もこの父見たことあるかもしんない。けど、だいぶガタイ良かったぜ? 娘八歳かそこらだろ? ヤるのは無理じゃね?』
 『いやいや、イケるって』

 どれもこれも、揶揄や中傷にまみれた言葉ばかりだった。そして時折、そこに真実味を帯びたものが混じる。

 そんなやり取りが延々続いていた。

 いっそ全ていかがわしい内容ならば読み流すことができるのに、一部の現実的なコメントが、ただの戯言だと思わせてくれなかった。

 響の頭の芯が、またズキズキと痛みを訴え始める。

 これには、いったいどれほど真実が混じっているのだろう。
 この中に実際に響の父を知っていて、その人となりまで理解していた人は何人いるのだろう。
 きっと、殆どが全く見ず知らずの人だ。ただの憶測で、好き勝手言っている。
 そう怒りたいのに、響も父のことを全然知らないのだ。

「お父さん、虐待されてたの……?」
 それも知らない。
 ぼやけた写真。虐待されていたという父の過去。大きな身体だという描写。
 それらは、真実なのだろうか。
 不意に響は、ある符合に気付いた。
 虐待を受けていた過去、大柄な身体。そして、冒頭に載せられている写真。

(何となく……何となくだけど、リョウさんに似てない……?)
 そう思った瞬間、響の鼓動はドクドクと耳鳴りがしそうなほどに高まった。

 『響』。

 そう呼ぶその声が凌のものなのか、それとも父親のものなのか、彼女には判らなくなる。

(もしかして、わたしはリョウさんとお父さんを重ねてる?)
 初めて逢った時から彼に対して慕わしい気持ちになったのは、そのせいだったのだろうか。

「あんなに妹さんに重ねられるのがイヤだったのに、わたしの方が、そうしてたの?」
 いや、もしかしたら、響自身が凌を父親と重ねていたから、彼の気持ちを疑ってしまったのかもしれない。
「わたし、ズルい……」
 呟きが、自分自身に突き刺さる。と、不意に、目の前が暗くなった。まるでカーテンが下ろされていくような感じで、響は慌てて頭を振る。何かが彼女を覆い隠そうとしているかのようだった。

 響はバタンと音を立ててパソコンを閉じる。
 それと共に、全て見なかったことにできたらいいのにと願いながら。
 けれどもそれは不可能なことで、彼女の頭の中にはいくつもの場面が断片的に浮かび上がってくる。つながりはなく、ただ、パッパッと現れては消えていくだけだ。

 響のことを『奏』と呼ぶ父。
 時折、何かを堪えきれなくなったように、手にしている物を壁に投げ付ける父。
 そして、暗い中で響に覆い被さってくる父。

 それが実際の記憶なのか、今目にしたものから惹起された想像なのか、響には判らない。けれどみんなやけにリアルで、彼女は押し潰されるような息苦しさを覚える。
 響はその場に亀のように丸まって、何度も自分の名前を呟いた――そうしなければ、『響』という存在が消え失せてしまいそうな気がして。

 夜が明けて日が高くなって、玄関のドアチャイムが何度も鳴らされるまで、響はそうしていた。
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