君がいる奇跡

トウリン

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対決

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 まだ朝と昼の間の時間、遠慮なくドアを叩く音に、りょうは諦め混じりにテキストを置く。

(――またか)

 さっぱりはかどらない自動車整備士の為の勉強に、彼はため息をついた。
 ドアを開けなくても、その音を立てている者が誰なのかは容易に推測できる。
 とことん無視を決め込もうかと思ったが、多分、無駄だろう。
 渋々立ち上がった凌は、ドアを開ける。

 果たして、部屋の外に立っていたのは、凌が考えていた通りの人物だった。

「ナナ……もうここには来ないと言っていなかったか?」
「だって、リョウってばアタシにはケイタイの番号教えてくんないじゃん」
 唇を尖らせた彼女に悪びれた様子はない。そうして、いかにも当然のことのように続けた。
「ヒビキ、遊園地にいなかったよ」
「はあ? お前、そんなところにまで押しかけたのか?」
 呆れ顔でそう訊くと、ナナはケロリと答える。
「お昼ご飯一緒に食べよと思ってさ」
 どうもナナの人との距離の取り方は、どうでもいい他人になるか、とことん慕うか、そのどちらかしかないようだった。凌に対する接し方はいたって淡白になった代わりに、今やひびきにはべったりだ。彼自身懐かれていた頃があるだけに、少々響が気の毒になった。

「単に見つからなかっただけだろう?」
「ううん、着ぐるみ全部に声かけたし」
「じゃあ、急にキャンセルになって家にいるとかでは?」
「家に行ったけどいないし、ケイタイにも出ないし。だからリョウと一緒かなって思って」
「あいつがここに来たことはない」
 眉間に皺を刻んでそう答えた凌に、ナナは肩を竦めて返した。
「でしょうね。こぉんなマットしかないような部屋じゃ、ヤること一個しかないもん」
「……いないと判っているなら、何故ここに来たんだ?」
 自分の部屋のひどさはナナに言われなくとも、彼自身充分承知している。多少気分を害してそう訊いた凌に、ナナはふと表情を改めた。

「ちょっと、気になることがあってさ」
「気になること?」
「うん。三日くらい前かな、ヒビキのアパートの前でコテツの車を見たんだよね」
 ナナのその台詞は凌の胸の中に警笛を響き渡らせた。三日程前というと、ちょうど響の様子が変わった頃だ。凌は姿勢を変えてナナに向き直る。
虎徹こてつの?」
「そう……多分。なんかアイツ、ヒビキのこと調べたりしてたし」
 付け加えられたその言葉に、凌は歯噛みする。響自身に、虎徹の興味を引くようなものがあるとは思えない。凌にとっては愛らしくとも、彼女は、彼の好みとはかけ離れているのだ。
 彼が響に絡んでくるとなれば、それは凌の所為に違いなかった。凌自身には全くアプローチが無かったから、てっきり興味の対象が他に移ったものだとばかり思っていたのだが。

「クソッ」
 毒づいた凌は、ナナを押しやるようにして部屋を出る。
「リョウ?」
 らしくなく、ナナが心許なげな声を出した。部屋の鍵をかけ、彼女を見下ろし、凌は告げる。
「虎徹と話をつけてくる」
「でも、一人じゃヤバくない?」
 眉をひそめたナナの眼差しは、凌を案じる色を浮かべている。血なまぐさいストリートファイトを嬉々として眺めていた彼女とは、えらい違いだ。

 凌は少し顔を和らげる。
「大丈夫だ。お前は家に帰れ」
「え、でも……」
「響に会ったら連絡させるから」
 それでもまだナナは少し迷っているようだったが、やがて頷いた。
「わかった。絶対ね」
 そうして彼に背を向けると、ヒールの音を響かせながら駆けていく。
 凌は一瞬、先に響の家に寄っていこうかと考えたが、やはり虎徹に会って彼女に何を言ったのか確認するべきだろうと自分に言い聞かせた。

 ――虎徹はいったい響の何を調べているのだろう。

 凌は虎徹達がたむろする場を目指す道中、彼の企みを推し量る。
 虎徹が自分にこれほど執着するとは、凌は思ってもみなかった。確かに付き合った年月はそこそこの長さだが、付き合いの深さはたいしたものではない。それにそのそこそこの長さを共にしてきた中で、虎徹が誰かに思い入れるところなど、見たことが無かった。
 それが男であったにしろ、女であったにしろ、離れる時にはあっさりしたものだったのだ。
 もしかしたら、凌の方から別れを告げたからなのかもしれない。
 虎徹から放り出すのは良くても、彼が放り出されるのは我慢ならないのだろうか。

「それなら、有り得るか」
 凌はぼやく。
 虎徹は子どもじみたところがあるから、変なこだわりを抱いてしまったのかもしれない。
 そんな事を考えながら歩いているうちに、凌は溜まり場に辿り着いていた。ドアの前に立つといつもの重低音が漏れ聞こえてくる。どうやら虎徹はここにいてくれたようだ。
 ドアを開けて中に入ると、四対の目がサッと凌に向けられた。
 かつては『仲間』として注がれていた眼差しは、今は『赤の他人』に対するものになっている。ピリピリとした空気が凌の肌を刺した。

「よう、ろくでなしの巣窟に何の用だ?」
 そう声をかけてきたのは、ソファにふんぞり返った虎徹だ。へらへらと軽い笑みを浮かべているが、目は笑っていないのが見て取れた。
 凌は用件を単刀直入に告げる。
「響に手を出すなと言っただろう」
 やかましいロックが鳴り響く中でも、凌の低い声は虎徹に届いたようだ。彼は手にしていたタバコ――あるいはそれ以外の何か――をもったいぶった仕草でくわえて深々と吸い、そして紫煙を吐き出した。
「触っちゃいねぇよ?」
「なら、何をした?」
「イイモノあげただけだよ」
「イイモノ?」
 眉をひそめた凌に、虎徹は猫が鼠をいたぶるように、素知らぬふりをしている。
「何を渡したんだ?」
 重ねた問い掛けにも、虎徹は答えない。
 凌は一歩を踏み出した。と、周りの男達に緊張が走り、凌との距離を詰める。

 入った時には気付かなかったが、以前とは、少し取り巻きの顔ぶれが変わったようだ。前はいかにも少年じみた街のゴロツキばかりだったが、今ここにいるのはそれよりももう少しトウが立った男達だ。もしかしたら、父親絡みの連中なのかもしれない。いつも侍らせていた連中の数倍、腕が立ちそうだった。
 凌を取り押さえようという雰囲気をみなぎらせた男達を制したのは、虎徹だ。彼はうっとうしそうに片手を振る。

「放っておけよ、こいつは顔馴染みだ」
 そうして、凌に向けて付け加えた。
「ちょっと稼ぎがでかくなってきてな、うるせぇ奴らが粉かけてきてんだよ。どうだ? 今なら月百万は下らねぇぞ? ちまちま汗水垂らして稼ぐなんてバカみたいだろ? 戻ってくるならまた試合を手配してやるぜ?」
 身を起こし、両腕を広げて、虎徹は鷹揚にそう提案する。だが、凌はそれを無視して再び彼に同じ問いを投げた。

「響に、何を渡した?」

 顔色一つ変えない凌に、虎徹はつまらなそうにまたドサリとソファの背に寄り掛かった。
「何だよ、つれねぇな」
「虎徹、答えろ」
 詰め寄る凌に、虎徹が顔を上げる。そこから返されたのは、形ばかりの愛想の良さも消し去った、ひんやりとした眼差しだった。
 虎徹は薄い嗤いを浮かべながら、答える。

「『過去』、だよ」

「何?」
 眉をひそめた凌に、虎徹はまた手にしていたタバコを吸い、顔の周りに煙の靄を立ち込めさせる。それが薄れた頃、彼がせせら笑うように言った。
「なかなか愉快な人生だよな、彼女。親父に連れ回されて監禁されて性虐受けて。挙句の果てに二重人格? あいつの父親、お前と同じくいいガタイしてたようだからな、ガキの頃からそんなのにヤられてたら、もうガバガバじゃ――!」
 凌は口で否定するより先に、手が動いていた。
 虎徹の胸倉を掴み上げ、その頬を殴り飛ばす。一拍遅れて護衛たちが掴みかかってきたが、それまでにもう一発、腹に拳を叩き込んでいた。

 胃の中身を床にぶちまけた虎徹が、血と吐しゃ物が付いた口元を拭いながら、三人の男に取り押さえられた凌に嗤いかける。
「は……熱くなったもんだな、おい。いいから、放してやれよ」
 後半の言葉は凌を捉えている連中に向けてのものだ。彼らは少し迷った後に手を放したが、凌の傍から動こうとはしなかった。
「……あいつは、そんなことはされていない」
 響の伯母は、彼女の身体にはいかなる傷も認められなかったと言っていたのだ。
 凌はその台詞を信じているし、何より、響自身を見ていてそれが真実であるということを確信していた。低い声でそう断言した彼を、虎徹は鼻で嗤う。

「そうだな、カルテにはそう書いてあった。けどな、多分あの女はもうそうは思ってねぇぜ?」
「カルテ?」
「ああ。あいつが精神科に通ってた時のヤツだよ。ちょっといじって渡してやった」
「――!」
 再び身を乗り出しかけた凌の身体に、三方向から手がかかる。囚われた凌を、虎徹は心の底から愉しそうに見やった。

「もう、あいつは綻び始めてる頃かな。それとも、まだ甘いか? あとは何をしたら、あの女を粉々にできるだろうな?」
 そう言った虎徹の眼差しは、まるで夢見ているかのように、うっとりとしている。まるで何かに恋焦がれているようなその目に、凌は奇妙な胸騒ぎを覚えた。
「虎徹、お前――?」
 虎徹の目が、凌を捉える。それは底知れぬ深い淵のように、彼の真意を包み隠しているものだった。
 凌は奥歯を噛み締める。
 今この場で、虎徹を完膚なきまでに叩きのめすことはできる。だが、それは何の解決にもならないだろう。
 虎徹が望んでいるものは、何なのか。
 凌には、判らなかった。それが判らないうちは、彼を阻止することはできないのだろう。

「響を、これ以上傷付けるな」
 殆ど懇願する思いで、凌は虎徹にそう告げる。だが、彼は微かに目を細めただけだった。
 凌は自分を捉えている手を振り払い、虎徹に背を向ける。彼をどうすべきなのか決められぬまま、今は響の傍に行くことしか考え付かなかった。
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