君がいる奇跡

トウリン

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混乱

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 なんだろう。

 ベッドの上でぼんやりとうずくまっていたひびきは、ふと思った。

 無理やり鼓膜に割り込んでくるような、音。
 霞がかかったような頭が、さながら目覚まし時計のように鳴らされ続けているのがドアチャイムなのだということを悟り始める。
 気付いてみると、結構前からその音は聞こえていたような気がするから、多分、呆けていた彼女を現実に引き戻したのは、それではない。

「響」
 低い声。
 ハッと顔を上げると、部屋の中は蛍光灯以外の光で満たされていた。いつの間にか夜が明けていたことにも、気付いていなかった。

「響? いるんだろう?」
 穏やかで気遣う響きを含んだりょうの声。いつもは彼女の胸を温かく包み込んでくれるそれが、今は冷たく突き刺さる。

 彼の呼びかけから逃れるように、彼女は立てた膝に回した腕に力を込めた。
 会いたくない――こんな気持ちでは、会えない。
 今は昼だし、部屋の灯りが見えるわけでもない。静かにしていれば、いないと思ってくれる筈だ。
 そう期待して、息をひそめて響は凌が諦めて帰ってくれるのを待つ。
 その願いが通じたかのように、不意にドアチャイムの音が止まった。

(――帰ってくれた……?)
 響はしばらく待ってから、そっと立ち上がる。足音を忍ばせて玄関まで行き、伸ばした指先がドアに触れようとした時だった。

「響、開けてくれ」

 彼女がいることを確信している、言い聞かせるような口調の凌の声がドアの向こうから忍び込んでくる。大声でも、荒らげた声でもないけれど、それは確固たる強さを持っていた。
「いるのは判っている」
 彼は、まるでドアのすぐ前に響が立っていることが判っているかのように、辛抱強くそう言う。

 凌に、逢いたかった。
 彼の身体にしがみ付いて、いつものように抱き締めて、彼の声で何度も名前を呼んで欲しかった。
 凌の存在を間近に感じて、響の胸の中にそんな想いが溢れてくる。

 しかし同時に、「けれど」と否定する囁きが彼女を責めた。

 けれど、それは本当に『凌』に対して望んでいることなのだろうか、と。
 本当は父にして欲しいことを、凌にさせようとしているだけなのかもしれない。
 凌と父との間に重なるものを見つけてからは、響の中にはその疑念がみっしりと巣食ってしまっている。記憶に無い父を慕うあまりに、似たところのある凌を求めてしまったのではないだろうかという疑念が。

「響」
 身じろぎ一つできない響の耳に、どっしりとした凌の声が再び届く。それすら父と重ねてしまっているような気がして、響は両手で耳を塞いでしまいたくなる――実際には、固く握り締められた両の拳は身体の脇に下ろされたままだったけれども。
 明日までにはまた笑って彼の前に立てるようになっておくから、今は、一人にしておいて欲しい。
 響は切実にそう願う。しかしその望みは、続いた凌の言葉で打ち砕かれた。

「……虎徹のことは、信じるな。あいつが教えたことは、真実ではない」
「何で、リョウさんが――!」
 慌てて響は自分の口を押えたけれど、もう遅い。悲鳴のような彼女の声は、ドアの向こうの凌に、確実に届いてしまった。
 聞こえてきたのは、小さな溜息。安堵と、微かな苛立ちを含んだ。
「響、あいつは俺に対する報復でお前を傷付けようとしているんだ。お前が知らされたことは、嘘なんだ。お前自身、判っているだろう? お前の父親はお前を大事にしていた。お前の父親がそんなことをした筈がない。そうだろう?」
 懇々と説く凌の台詞に、響は一瞬何のことだろうと首をかしげ、次いで小さな笑いを漏らしてしまう。彼は響が父親に虐待されていたという『事実』を知ったから、ショックを受けていると思っているのだ。

 確かに、書かれている文字は、ショックだった。
 けれど、そのことには実感が湧いてこない。
 この一晩で、響の中に断片的な記憶はいくつか浮かび上がってきている。
 まだ母がいた頃のこと、母を喪い父から引き離されて祖父母の元にやられたこと。そして、父の晋介しんすけ――あるいは晋司しんじが、普通の状態ではなくなったことも、おぼろげに思い出した。
 けれど、だからといって、父が自分に何かひどいことをしたとは、思えなかったのだ。
 ただ、残酷なノンフィクションの物語を読んだだけのような、どこか距離のある衝撃を受けただけで。

 それよりも彼女を打ちのめしたのは、別のこと。
 響は、『誰かの代わり』になることが、嫌だった。恐れていたと言ってもいい。
 それなのに、彼女自身が凌に対してそれをしていたのかもしれない。
 そんな考えが、響を打ちのめした。
 凌の声で『響』と呼ばれた時の喜び、彼の大きな身体で包み込まれた時の心地良さ。
 父に与えられなかった、あるいは与えてもらったのに忘れてしまったそれらを、凌から得ようとしたのかもしれない。
 きっと、そうだ。だから出逢ってすぐに、あんなにも離れがたく感じてしまったのだ。

 響は、そんな自分の弱さが情けなかった。空の卵の殻のような彼女の自信は、いとも簡単に粉々になる。
 そうして、そんな響の中には、しばらく心の底に追いやっていたあの考えがまたムクムクと立ち上がってくる。即ち、凌が響を大事にしてくれるのは、彼女を一人の人間としてではなく、妹と重ねて見ているからではないだろうかという考えが。

(もう、リョウさんとは逢わない方がいいのかもしれない)
 ふとそんな考えが頭をよぎる。それは胸を切り裂くような痛みを響に与えたけれど、どうしようもないほど確かな事実に思われた。

 こんなダメな自分は、いつか凌のことも壊してしまうかもしれないから。
 こんな自分に、彼の大事な妹の代わりなど、務まる筈がないから。

 そう思ってしまった響の口から、ポロリと言葉がこぼれる。

「帰ってください」
「響?」
「もう、会わない方がいいと思います」
「……何を言っている?」
 熱に浮かされたようにぼうっとしている響の頭では、彼女自身、自分が何を言っているのかよく解かっていなかった。ただ、思いつくままに言葉をこぼす。響の頭の奥が微かな疼きを訴え始め、彼女が一言こぼすたびにそれは明確な痛みに変っていく。

「誰かが誰かの代わりになるなんて、ムリなんです」
「俺は、お前を誰の代わりにもしていない」
「ウソです。リョウさんが本当に大事にしたいのは、わたしじゃないんです」
 ――そして、わたしが本当に求めているのは、きっと、彼の温もりではない。
 ズキズキと響の頭が痛む。
「リョウさんは妹さんを大事にしたくて、でも傍に行けないからわたしを大事にしてるんです」
「違う。そうじゃない」
 切羽詰まったような、凌の声。響は小さく自嘲の笑みを漏らす。

「違わない。そんなの、ズルくてヒドイんです。『ホンモノ』が手に入ったら、『身代わり』なんていらないんです。リョウさんだって、妹さんに逢えたら、わたしのことなんてどうでもよくなるんです」
 それが凌に対する非難なのか自分自身に対するものなのか、あるいは他の誰かに向けたものなのか、響にも判然としなかった。様々な人の言葉と眼差しが泡沫のように彼女の脳裏に現れては消え、過去と今が入り混じる。
 今や頭痛はドクドクと拍動するようで、込み上げてくる吐き気を響は唾を呑み込むことで何とかこらえた。

「なんでそこに妹のことが出てくるんだ? 響。頼むから、顔を見せてくれ」
 扉一枚を隔てて、凌を感じる。多分彼は、ドアに触れているだろう。その温もりを感じたくて伸ばしそうになる手を背中で組んで、響は一歩後ずさった。
「ダメです。きっとわたしじゃリョウさんを幸せにはできないんです。きっと、ひどいことになる……お父さんみたいに……」
「お前が言っていることが解からない。ドアを開けてくれ」
 凌の声音には、困惑よりも焦りが色濃くにじみ始める。

 彼の望みには何でも応えてあげたかったけれど、響には彼に会わせる顔がなかった。それに、不毛な関係は早く断ち切らなければ取り返しがつかない結果を招いてしまう――父のように。
 頭の痛みはもうこれ以上はないというほどに強まっていて、響の脳は今にもバラバラに飛び散りそうだった。もう、何も考えたくない。
 凌に見える筈もないのに、響は扉のこちらでフルフルと頭を振った。そうすると、また、痛みが強くなる。

「ダメです。わたしは、もう他の誰かにはなれない……なりたくない……」
「お前はお前だ。お前以外の誰にもならない。響、お前を独りにしておきたくないんだ」
 切実な想いを含んだ凌の声に、響の足が勝手に一歩前に出る。
 けれど、次の瞬間、暗い部屋、覆い被さる大きな身体、鉄錆に似た臭い、そしてヒタヒタ滲み込んでくる温かな液体――そんなものが次々と彼女の頭の中に閃いた。

 はっきりとは見えないのに、それはやけに鮮明なイメージで。

 もう、頭は今にも破裂してしまいそうだった。
 何も、考えられない。

 ――凌を父と同じ目に遭わせるわけにはいかない。
 響の頭の中にあるのは、とにかく、ただ、それだけだった。

「リョウさんは、まだ間に合うんです。だから、ちゃんと、本当に欲しいものを手に入れて下さい」
「俺が欲しいのはお前だ」
「違います、間違ってるんです。『ホンモノ』が手に入らないと思ってるだけなんです」
「響!」
 それまでとは打って変わって強い口調で名を呼ばれ、彼女の身体は鞭で打たれたようにビクンと跳び上がった。それをきっかけに、響はクルリと踵を返してベッドの中に駆け込む。まるで猛獣に狙われたウサギのように。

「響!」
 遠ざかる足音が聞こえたのか、凌の声が大きくなった。
 響はそれを無視して布団に包まり、外の世界を遮断する。

 それから何度か凌の声が彼女の名前を呼んでいたけれど、やがてそれも消えていった。
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