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世界で一番美しいもの
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その後も、順調な道のりとは程遠かった。
何故僕がこんな目に遭わなくちゃいけないんだというやり場のない怒りに駆られることはしょっちゅうだったし、いつ訪れるのか判らないタイムリミットへの恐れに打ちのめされそうになることも、何度もあった。
手を差し伸べてくれる人たちに、僕は数えきれないほど「放っておいてくれ」と怒鳴り散らした。労わってくれる人に罵声を浴びせ、三歳児のように駄々をこね、そんなことをしてしまった自分に、また、落ち込んで。
そんな時に僕の横っ面をひっぱたいて現実に引き戻すのは、いつも彼女だった。
きっとうんざりするようなこともあっただろうに、彼女は決して離れようとはしなかった。
そうやって、僕は少しずつ前に進んだ。
彼女とともに。
時に彼女に支えられ、時に彼女に引きずり起こされながら、やがて来る日の為に、学校の勉強とは違うことを、たくさん学んだ。僕が一人で生きていく為に必要なことを。
支えてくれるのが父さんや母さんだけだったら、多分、僕は頑張れなかった。甘えることを、良しとしてしまっただろうから。
でも、僕の隣には彼女がいた。
可能な限り、彼女と一緒に歩いて行こうと思ったから、僕は諦めずに前を見ていられたのだと思う。決して楽な道ではないけれど、それでも彼女と歩いていきたいと思ったから、僕は立ち止まらなかった。
いつしか、諦めとも違う穏やかな何かが、僕の中にある焦りや不安と取って代わり始めていた、春のある日。
僕と彼女は縁側に並んで座って、庭を眺めていた。
都会とは違ってそこそこの広さがある庭は、母さんの趣味のガーデニングのいい餌食だ。この時期は、いろんな花が咲き乱れる。
「君って、結構眼鏡が似合うよね。賢そう」
何故かすこし膨れ面で、不意に彼女が言う。
この病気のことが判ってから、僕は眼鏡をかけるようになった。視力を上げる為ではなくて、目に負担をかけないようにする、遮光の為だ。初めの頃はうっとうしいことこの上なかったけれど、それも、もう慣れた。
彼女がへそを曲げている理由が判らないまま、僕は応じる。
「こんな小物一つでごまかされんなよ」
「でも、『眼鏡男子』っていうのは、一つのブランドだよ。フェチには受けるんだから」
「なんだそれ」
「眼鏡かけたら五割増しって子、結構いるんだから。でも、そんなのはあくまでも眼鏡効果なんだからね」
フラフラ傾いたりしないでよ、とかなんとかこぼすと、彼女は不意に立ち上がって庭に下りていった。
彼女の置き台詞に、僕はハタと思い当たる。
もしかして、この前、駅で何人かの女の子に話しかけられたことを言っているのか?
先日二人で街に出かけ、電車の切符を買いに行った彼女を待っていた時のことだった。一人でぼんやりと立っていた僕に、数人の女の子のグループが声をかけてきたんだ。ただ、道を訊かれただけだったんだけど、そう言えば、あの時も彼女の様子は少し変だった。
なんとなく、口元が緩んでしまう。
彼女は僕がニヤついていることなんて知らない振りをして庭を歩くと、ついと手を伸ばして薄紅色のつつじを一輪、摘み取った。しばらくそれを指先でクルクルと回していたかと思ったら、手を上げて、耳元に挿す。
そして、彼女が首を巡らせ、僕を見た。穏やかな春の風が、彼女の柔らかな髪をおよがせる。
その真っ直ぐな眼差しが、僕を貫いた。
甘い、痛みにも似た何かが、胸を締め付ける。
――彼女は、綺麗だった。
この病気になって良かったと思ったことが、一つだけある。
それは、今まで気付けずにいた大事なことに、気付くことができたということだ。
ちゃんといつでも目の前にあったのに、今まで見過ごしてきたこと――世界はとても美しいのだ、ということに。
いずれ見えなくなるのだと知らされて、僕は世界をちゃんと見るようになった。
美しいものを、美しいと感じるようになった。
空――
柔らかな、ふわりと包まれるような春の淡い青。
真夏の深い青に浮かぶクリームのような入道雲。
秋の空はどこまでも高く突き抜けるような、透き通った青。
キンと張り詰め、指先で弾いたらガラスのような音がしそうな青は、冬の空。
同じ空のはずなのに、日が沈む間際は全く違う顔を見せる。
燃えるような赤から鮮やかなオレンジへ。
そしてどんな花でも敵わない薔薇色を経て群青、そして濃紺へと変わる。
毎日見ていたその営みに、十年以上も気付かずにいた。
木々や花々――
雨上がりの瑞々しい葉の輝き。
日の光に透けて見える精緻な葉脈の文様。
庭に咲き誇る色とりどりの花々だって、母さんの道楽としか見ていなかった。
通り雨が過ぎ去った後に現れる、七色の光。
遠出ができる休日には、彼女と一緒に電車であちらこちらに足を延ばした。
空と海の交わるところ――水平線。その優しい曲線に、何時間も見入った。
山にも登った。学校の行事で登山をさせられた時にはあれほど嫌々だったのに、頂上から見下ろしたその雄大な眺めに言葉を失った。
終わりが、いつ、どんなふうに訪れるのかは、誰にも判らないんだ。
ジワジワと忍び寄り、僕も気付かないうちに起きることなのか。
それとも、舞台の幕が下りるように、ある日突然、ストンと失うのか。
でも、どんな形で終わるにしろ、その瞬間まで、できる限り多くの美しいものを見続けようと、僕は思った。脳に刻んだ記憶は、いずれ失われてしまうだろう。でも、美しいと感じた気持ちは、きっと深く心に刻まれる。
その美しさに震えた、僕の心に。
そして、願わくば。
もしも叶うことであるならば、最後の瞬間には、世界で一番美しいものを、目にしていたい。
世界で一番綺麗な、君の笑顔を。
何故僕がこんな目に遭わなくちゃいけないんだというやり場のない怒りに駆られることはしょっちゅうだったし、いつ訪れるのか判らないタイムリミットへの恐れに打ちのめされそうになることも、何度もあった。
手を差し伸べてくれる人たちに、僕は数えきれないほど「放っておいてくれ」と怒鳴り散らした。労わってくれる人に罵声を浴びせ、三歳児のように駄々をこね、そんなことをしてしまった自分に、また、落ち込んで。
そんな時に僕の横っ面をひっぱたいて現実に引き戻すのは、いつも彼女だった。
きっとうんざりするようなこともあっただろうに、彼女は決して離れようとはしなかった。
そうやって、僕は少しずつ前に進んだ。
彼女とともに。
時に彼女に支えられ、時に彼女に引きずり起こされながら、やがて来る日の為に、学校の勉強とは違うことを、たくさん学んだ。僕が一人で生きていく為に必要なことを。
支えてくれるのが父さんや母さんだけだったら、多分、僕は頑張れなかった。甘えることを、良しとしてしまっただろうから。
でも、僕の隣には彼女がいた。
可能な限り、彼女と一緒に歩いて行こうと思ったから、僕は諦めずに前を見ていられたのだと思う。決して楽な道ではないけれど、それでも彼女と歩いていきたいと思ったから、僕は立ち止まらなかった。
いつしか、諦めとも違う穏やかな何かが、僕の中にある焦りや不安と取って代わり始めていた、春のある日。
僕と彼女は縁側に並んで座って、庭を眺めていた。
都会とは違ってそこそこの広さがある庭は、母さんの趣味のガーデニングのいい餌食だ。この時期は、いろんな花が咲き乱れる。
「君って、結構眼鏡が似合うよね。賢そう」
何故かすこし膨れ面で、不意に彼女が言う。
この病気のことが判ってから、僕は眼鏡をかけるようになった。視力を上げる為ではなくて、目に負担をかけないようにする、遮光の為だ。初めの頃はうっとうしいことこの上なかったけれど、それも、もう慣れた。
彼女がへそを曲げている理由が判らないまま、僕は応じる。
「こんな小物一つでごまかされんなよ」
「でも、『眼鏡男子』っていうのは、一つのブランドだよ。フェチには受けるんだから」
「なんだそれ」
「眼鏡かけたら五割増しって子、結構いるんだから。でも、そんなのはあくまでも眼鏡効果なんだからね」
フラフラ傾いたりしないでよ、とかなんとかこぼすと、彼女は不意に立ち上がって庭に下りていった。
彼女の置き台詞に、僕はハタと思い当たる。
もしかして、この前、駅で何人かの女の子に話しかけられたことを言っているのか?
先日二人で街に出かけ、電車の切符を買いに行った彼女を待っていた時のことだった。一人でぼんやりと立っていた僕に、数人の女の子のグループが声をかけてきたんだ。ただ、道を訊かれただけだったんだけど、そう言えば、あの時も彼女の様子は少し変だった。
なんとなく、口元が緩んでしまう。
彼女は僕がニヤついていることなんて知らない振りをして庭を歩くと、ついと手を伸ばして薄紅色のつつじを一輪、摘み取った。しばらくそれを指先でクルクルと回していたかと思ったら、手を上げて、耳元に挿す。
そして、彼女が首を巡らせ、僕を見た。穏やかな春の風が、彼女の柔らかな髪をおよがせる。
その真っ直ぐな眼差しが、僕を貫いた。
甘い、痛みにも似た何かが、胸を締め付ける。
――彼女は、綺麗だった。
この病気になって良かったと思ったことが、一つだけある。
それは、今まで気付けずにいた大事なことに、気付くことができたということだ。
ちゃんといつでも目の前にあったのに、今まで見過ごしてきたこと――世界はとても美しいのだ、ということに。
いずれ見えなくなるのだと知らされて、僕は世界をちゃんと見るようになった。
美しいものを、美しいと感じるようになった。
空――
柔らかな、ふわりと包まれるような春の淡い青。
真夏の深い青に浮かぶクリームのような入道雲。
秋の空はどこまでも高く突き抜けるような、透き通った青。
キンと張り詰め、指先で弾いたらガラスのような音がしそうな青は、冬の空。
同じ空のはずなのに、日が沈む間際は全く違う顔を見せる。
燃えるような赤から鮮やかなオレンジへ。
そしてどんな花でも敵わない薔薇色を経て群青、そして濃紺へと変わる。
毎日見ていたその営みに、十年以上も気付かずにいた。
木々や花々――
雨上がりの瑞々しい葉の輝き。
日の光に透けて見える精緻な葉脈の文様。
庭に咲き誇る色とりどりの花々だって、母さんの道楽としか見ていなかった。
通り雨が過ぎ去った後に現れる、七色の光。
遠出ができる休日には、彼女と一緒に電車であちらこちらに足を延ばした。
空と海の交わるところ――水平線。その優しい曲線に、何時間も見入った。
山にも登った。学校の行事で登山をさせられた時にはあれほど嫌々だったのに、頂上から見下ろしたその雄大な眺めに言葉を失った。
終わりが、いつ、どんなふうに訪れるのかは、誰にも判らないんだ。
ジワジワと忍び寄り、僕も気付かないうちに起きることなのか。
それとも、舞台の幕が下りるように、ある日突然、ストンと失うのか。
でも、どんな形で終わるにしろ、その瞬間まで、できる限り多くの美しいものを見続けようと、僕は思った。脳に刻んだ記憶は、いずれ失われてしまうだろう。でも、美しいと感じた気持ちは、きっと深く心に刻まれる。
その美しさに震えた、僕の心に。
そして、願わくば。
もしも叶うことであるならば、最後の瞬間には、世界で一番美しいものを、目にしていたい。
世界で一番綺麗な、君の笑顔を。
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