ライオンのしつけ方

トウリン

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ライオンのしつけ方

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 二階の書斎の窓から、一智は庭を歩き回る百合の姿を目で追っていた。どうやら、活けるための花を揃えているようだ。彼が咥えたタバコは、吹かされることもなく、ただ燃えていく。

 あっちに行ったり、こっちに来たり。
 彼女は一本一本丁寧に選びながら、花の間を歩いていく。
 と、百合に向かって水谷が近寄っていくのが見えた。

 何やら、二人で話している。

 ――妙に楽しそうだな。
 そう感じた途端、一智は、何故か無性にイライラしてきた。

 ――今、笑ったか?
 はっきりではないが、百合が微笑んだような気がする。思わず身を乗り出して眼を凝らした。

 そして。

 今、確かに、はっきり、笑った――百合が、声を上げて笑っている。
 その途端、一智は居ても立ってもいられなくなり、タバコをねじ消して書斎を飛び出した。そのまま、一目散に庭を目指す。

 上から見た場所に二人はいたが、一智が着く前に笑い声は止まってしまった。それでも構わず近づいていく。
 百合の背後に出る形になり、先に気付いたのは水谷の方だった。彼の視線に気付いて振り返りかけた百合の腕を掴んで、引き寄せる。肩越しに振り向いた彼女は、一智と眼が合うと同時に、いつもの生真面目な表情に戻ってしまった。

 ――そんなに、俺の前では笑えないのか?
 理不尽だとは思いながらも、そんな考えが一智の頭の中をよぎった。苛立ちは最高潮となり、彼は百合の手を引いて歩き出す。背後で水谷の呼ぶ声が聞こえたが、無視して歩き続ける。

 殆ど百合を引きずる勢いで、誰にも邪魔をされない場所――自分の寝室へと向かった。そして、放り込むようにして彼女を部屋に入れて、扉を閉める。
 一智は振り返って百合を見ると、小走りでないとついてこられなかった彼女は、肩で息をしていた。
 話せるようになるまで、しばし待つ。

「で? 何を話していたんだ?」
 最後に大きく息をついた百合に、一智はむっつりと問うた。
「え?」
「だから、笑ってただろ? 何を話していたんだよ」
「あの……一智様が専務になられた時のこと、とか……」
「それだけ!?」
「え、あと……女性とのお付き合いが減ったとか……」
「そんなことで、あんなに大笑いしていたのか?」
 どちらも自分の話だ。なのに、何故、水谷とはあんなに笑い、当の本人の前では仏頂面をしているのか。

 一智は、益々イライラが募ってくる。
 話せば話すほど不機嫌度を増してくる一智に困った様子で、百合がおずおずと切り出す。
「あの、水谷さんも、一智様のことを悪く仰っていたのではないですよ? むしろ、褒めてらっしゃいました。あ、水谷さんって、本当に熱心な方ですね。素っ気ないですけれど、心の底から一智様に尽くそうとされておられて……。気難しそうに見えるんですけど、話してみると、結構、気さくで話し易くて――」
 彼女が水谷のことをフォローしようとすればするほど、聞くのが耐え難くなってくる。

「黙れ!」
 思わず、大声で一智は百合の言葉を遮っていた。
 そうしてしまって、そんなことをした自分に、一智自身半ば唖然とする。
 彼はこれまで、百合に――いや、どんな女性に対しても、声を荒らげたことなどない。一方、初めて聞く乱暴な一智の声に、彼女はポカンと彼を見上げていた。

 彼は、百合に対して怒声を上げた自分を殴ってやりたくなる。
 だが、彼女のその唇から水谷の話題が出ると、どうしようもなく腹が立って仕方がないのだ。
 そう、口紅を塗っているわけでもないのに、綺麗なピンク色で、柔らかそうで――いつも一智を叱り飛ばしてばかりいるそれが、今は心許なげに薄っすらと開かれている。

 その時、多分、一智は何も考えていなかった。
 立ち尽くしている百合の腕を掴んで引き寄せると、片手ですっぽりと包み込めてしまえる華奢なうなじを掴んで、ほとんど噛み付くように唇を重ねる。
 百合は一瞬固まったが、次の瞬間全身でもがき始めた。それを難なく抱きすくめて、声を上げようとしたところをいっそう容赦なく攻め立てる。逃れようとする、驚くほどに柔らかなその身体を、抱き潰さんばかりに自分の胸に引き寄せた。

 カシャン、と何かが落ちる音。
 薄らと開けた目に床に転がるメガネが映ったが、構わなかった。

 初めは彼女を征服せんばかりの荒々しさを持っていた口付けを、百合の抵抗が弱まるにつれ、一智は優しく宥めるものに変えていく。
 やがて完全に百合の身体から力が抜けて、一智の腕にしなやかな重みが加わる。その感触に、彼の胸の辺りが疼いて、そうしようと思わなくても抱き締める力が増してしまう。
 百合の小さな手が、一智の上腕の辺りの両袖をギュッと握った。時折、重ね合わせた唇にほんの少し隙間が空けると、苦しげな荒い息が彼の頬をくすぐる。

 明らかに、彼女は不慣れだ。
 そう思うと、一智の中に高揚感が増す。

 ――俺の……俺だけの、ものだ。

 数少ない彼女の経験など、一掃してやりたかった。
 一智の猛襲に為す術もなく応じるしかない彼女の中を、彼は丹念に隅々まで探っていく。そこは何処もかしこも、蕩けるように甘く柔らかい――まるで麻薬のように、もっともっとと求めてしまう。
 キスは、何度もしたことがある。多分、何百回も、色々な女たちと。
 だが、これほどまでに欲しくてたまらず、これほどまでに相手を慈しみたいと思ったキスは、したことがなかった。

 溺れる者が酸素を求めるように百合を貪って、どれほどの時間が過ぎたのか。
 一智は未練を残しつつ唇を引きはがす。軽く、ついばむようなキスを残しながら。
 つま先が浮き上がるほどに抱き締めていた身体を解放すると、百合はクタクタとその場に座りこんだ。両手を床について顔を伏せたまま、肩を震わせている。
 それを目にした瞬間、正気に戻った一智の全身からサアッと血が引いた。

 ――泣いているのか……?

「……あ……百合……?」

 しばらく待って、一智は恐る恐る声を掛ける。
 その声に反応して、ピクリと彼女の肩が震えた。そして、顔を伏せたまま、ゆらりと立ち上がる。
 今にも倒れそうなその風情に、一智は思わず両手を差し伸べかけたけれども、百合から発せられた低い声に全身が硬直する。

「そんなに……」
「――え?」
「そんなに、溜まってるんですか?」
 何が? と訊き返す余地はなかった。
 顔を上げた百合の炯々たる目が、ヒタと一智に据えられる。

「明日から、五時起きです。邸の周りを、ランニング二十周――いいですね?」
「え、おい、ちょっと、待て」
 話の流れがさっぱり読めない。
 読めないながらも、一智は何かとてもまずい事態に陥っていることを理解する。
 慌てて宥めようとしたその瞬間。一智には百合から稲光が放たれたのが見えた――間違いなく。

「黙らっしゃい! たった数週間かそこら女性との付き合いがないからって私なんかにこんなことをするなんて、よっぽど溜まっている証拠です! 運動でもして、発散しなさい!」
 ぴしゃりと鶴の一声で厳命すると、床に落ちたメガネを拾って、彼女はフラフラと部屋を出て行く。無事に自室に辿り着けるのか不安になるような足取りだったが、硬直したままの一智には後を追いかけることはできなかった。

 百合が出て行くのと入れ違いで、水谷が姿を現す。あまりのタイミングの良さは、部屋の外で待機していたからだろう。

「一智様……」
「――何も言うな」
 あんなふうに我を失うことなど――女性に無理強いしたことなど、一智には今までなかったのに。
 どうして、あんなことをしてしまったのか、その理由は解らない。まさに茫然自失の態だ。
 だが、自分の仕出かしたことは、よく解っている。つまりそれは、明日から五時起き、ランニング二十周をしなければならないということだった。


   *


 這う這うの体で何とか自室に辿り着いた百合は、部屋に着いて戸を閉めた途端にその場にヘタりこんだ。

 あれは、いったいなんだったのだろう。

 震える指先で痺れている唇に触れると、そこにはまだ彼の熱が残っているようだった。
「あれ、ファーストキスだったんだ……」

 ポツリと呟く。
 まるでそれが引き金になったかのように、視界が滲み、後から後から涙が溢れてくる。

 ――いやじゃ、なかった。

 そのことに驚いている自分と――受け入れている自分とがいる。
 この涙は、キスが嫌だったからじゃない。キスに、気持ちがなかったからだ。
 一智が自分を女性として見ていないことは、よく解っている。さっきのアレは――理由はよく判らないけれど、彼が何かに腹を立てていたから、されたキスだ。

 それが、悲しい。

 何も感じていない相手なら、こんなことをされた時、押し寄せるのは悲しみよりも怒りだろう。
 でも、自分の中にあるのは、純粋な悲しみだ。

 それが、意味することは……。

「うそぉ……」

 いったい、いつからだろうか。一智のことをただの雇い主とは思えなくなったのは。
 振り返って思い当たるのは、あの夜。

 彼付きのメイドとして働き始めて、二ヶ月ほど経った夜。
 珍しくベロベロに酔って帰ってきた一智が、介抱する百合にふと漏らしたのだ。

「俺は、本当は船乗りになりたかった」、と。

 冗談なのか本気なのか戯言なのか、何とも言い難い台詞は、翌日の彼の頭からはすっぽりと抜け落ちていた。
 その言葉自体はバカげたもので、単なる思い付きに過ぎないものだったのかもしれないけれど、それを口にした時の彼の眼差しが、妙に彼女の心に残った。
 あの時、自分は、彼に対して確かに「何かをしてあげたい」と思った筈だ。

 ふと、百合は思い出す。

 母が亡くなった父のことを話す時に必ず口にするのは、「この人の支えになってあげたいと思ったのよ」という言葉。そう思った瞬間、母は恋に落ちたのだと言った。

「こういうこと、なんだ」

 つくづくと、実感する。

 ――その日、初めて百合は仕事をサボった。
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