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第一部『地上に舞い降りた天使は護り手など必要としない。』
天使は人の子の心など知らない①
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めっきり短くなった陽も陰り始めた秋の夕暮れ時。
猫の目亭に向かうブライアンは、店の脇の路地の奥に銀色の輝きを認めたような気がして足を止めた。
目を凝らせば、奥の薄暗がりの中に彼の目を奪ってやまない銀髪が。
(アンジェリカ?)
道というより単なる隙間という方がふさわしいそんなところで、彼女はいったい何をしているのだろう。
首を傾げたブライアンだったが、こちらに完全に背を向けているアンジェリカの向こうに大柄な男が立っていることに気付く。暗めの髪の色に暗色系の服だから、見落としていた。
どうやら、また、何か厄介ごとに首を突っ込んでいるらしい。
こんなことだから、ほんの片時でも彼女の傍から離れるのがためらわれるようになってしまうというのに。
(まったく、ヒトの気も知らないで)
胸の内で小さく罵りそちらに駆け付けようと足を踏み出そうとして、ブライアンはふと立ち止まった。そうして、眉をひそめる。
うつむき加減のその男に、見覚えがある気がする。
顔を伏せているうえに暗がりの中だからはっきりと見て取ることはできないが、確かにあれは――
(ブラッド・デッカー)
その名を頭の中で呟いた瞬間、ブライアンの胸がズクリと疼いた。
最近、アンジェリカとあの男が一緒にいる場面をよく目にする。
元々彼もよく店に来ていて、ただ単にブライアンがそれに気付くようになっただけなのか、それとも、実際に姿を現す頻度が増えているのかは、判らない。
(けど、三日に一度はいるよな、絶対)
ほぼ毎日通っている自分のことは棚に上げて、ブライアンは眉をしかめた。
いかにもいかつい巨躯に、たおやかな肢体。
対照的な組み合わせは不思議としっくりと似合っている。
二人が一緒にいるその場面は、店の中であったり、今のように店の外であったりはするけれど、このひと月――とくにここ数週間は、かなり頻繁に見かけるようになっていた。
決して、見たいわけではなかったけれども。
ブライアンは一つ二つ瞬きをして暗さに目を慣らす。
アンジェリカは頭を反らせてブラッド・デッカーを見上げ、デッカーの方は大きな身体を心持ち屈めるようにしてアンジェリカに頭を寄せている。彼女は、彼に向かって熱心に何か語りかけているようだった。時折、ブラッド・デッカーが小さく頷いている。
二人は互いにのみ意識を注いでいて、ブライアンに気付く様子はまったくない。
その距離は、とても近かった。
そう、まるで恋人同士の密やかな睦み合いのように。
親密この上ない距離にも拘らず、二人からは甘さの欠片も伝わってはこない。
だが、物理的なその近さが二人の間柄を示しているように思われて、ブライアンの喉元に何か苦く熱いものが込み上げてきた。
彼は数歩後ずさり、通りに戻る。
このまま店には寄らずに来た道を戻ってしまおうか。
そんな迷いがブライアンの胸をよぎったが、すぐにかぶりを振った。
アンジェリカに会わないという選択肢は、彼の中にはない。
バカみたいだが、彼女に会っていないと一日を終えることができないようなモヤモヤ感が残ってしまって、寝台に入ってからも何かが足りないような気がして煩悶する羽目に陥るのだ。
ブライアンは今目にしたものは頭の奥底にしまい込んで、店のドアを押し開けた。
カラン、とベルが鳴る。
今日はまだ早めな時間のせいか、客の姿はあまりない。
「あ、ブライアン。いらっしゃい」
厨房からヒョコリと顔を出したコニーが、そう声をかけてきた。と、いぶかしげに店の中を見回して、首をかしげる。
「あれ、アンジーは?」
「外にいたよ」
「外? ああ、またブラッド?」
「……さあ」
ブライアンは肩をすくめて手近な椅子を引いて腰を下ろした。彼の下に、伝票片手にコニーがやってくる。
「アンジーってば、最近ブラッドと何かこそこそしてるんだよね。あたしには教えてくれないの。危ないことじゃないといいんだけど」
唇を尖らせてブツブツ言って、コニーは「で、注文は?」と促してきた。
が、問われても、ブライアンはなんとなく食欲が湧いてこない。
かといって、何も注文せずにここでダラダラしていることもできず。
「今日は軽いものだけでいいよ」
力のない笑みを浮かべながら答えたブライアンに、コニーの眉根が寄る。
「なんか、元気なくない?」
「いや、そんなことないよ」
気を取り直してヘラリと笑って見せると、コニーは若干納得がいかなそうな素振りを見せながらも厨房へと戻っていった。
彼女の背中を見送りつつ、ブライアンは反省する。
遥かに年下の少女にまで心配されるようでは、情けなさ極まれり、だ。
気を引き締めたブライアンの耳に、軽やかなベルの音が届いた。振り返ると、アンジェリカが入ってくるところだった。
彼女は店の中のブライアンに気付くとほんの一瞬足を止め、それから彼の方へとやってくる。
「来てたのか」
「ついさっきね。コニーに注文取ってもらったよ」
そう伝えると、アンジェリカは「わかった」というように小さく顎を引いて頷いた。
ブライアンは口をつぐんでアンジェリカを見つめる。
彼女は、手を伸ばしたら触れられるかどうかという位置に立っている。
この距離は、やっぱり、客と給仕のものだろうか。
そんなことを考えながら押し黙っていると、「じゃぁ、」と声が届いた。
ハタと我に返ってアンジェリカを見ると、もう半ば身を翻しかけている。
「また後で」
それだけ残して、彼女は離れていこうとしていた。
(あ……)
「待っ――」
何を意図したわけではない。
ただ、気付けば、ブライアンは腰を浮かし手を伸ばして、アンジェリカの細い手首を捉えていた。
彼女は自分を捕まえているブライアンの手にチラリと目を遣り、それから生真面目な顔のまま彼の顔にその菫色の目を移す。
「何か?」
ブライアンはパッと手を離し、また尻を椅子に戻した。
「あ、……いや、えっと……どこに行ってたの?」
誰かと――ブラッド・デッカーと会っていたのかなどと詰問する権利は、ブライアンには爪の先ほどもない。
モヤモヤと言葉を濁して訊ねれば、アンジェリカは小さく頭を傾けた。
「人と会っていた」
「人……」
「ブラッドだ。あなたも彼を知っていると思ったが」
「ああ……彼ね」
百も承知で頷いて見せる。
「さっきコニーも言ってたけど、最近、彼とよく会っているんだって?」
「――少し、彼と携わっている案件があって」
「僕に手伝えることはある?」
ブライアンは、軽い口調を心がけてそう水を向けてみた。
が。
「いや、ない」
即答だった。
あまりにきっぱりと首を振られて、ブライアンはみぞおちの辺りを何かにザックリと切り付けられたような心持になる。
アンジェリカは、ブラッド・デッカーとは共有しているものを、ブライアンには見せようとしないのだ。
一度は縮まったと思った距離が、また広がった気がする。いや、もしかしたら、そもそも縮まったと思ったのはブライアンの錯覚に過ぎなかったのかもしれない。
ブライアンの胸の切り口から、ジリジリと焼けつくような何かがしみ出した。
その、何かに背中を押しやられて。
「君は……君は、彼のことが好きなのかい?」
気付いた時には、愚かな問いかけが、ブライアンの口からポロリとこぼれ落ちてしまった。アンジェリカが、キョトンと彼を見返してくる。
「え、あ、いや、あなたは彼と仲がいいんだな、と、思って……えっと、彼は、いい男、だよね」
気まずげに口ごもるブライアンをアンジェリカはしげしげと見つめてから、こくりと頷いた。
「彼のことを好きか嫌いかと問われれば、もちろん好きだ」
刹那、ブライアンをめまいが襲った。
『もちろん、彼が好きだ』というアンジェリカの言葉が頭の中で木霊する。
判っていたが……こうもはっきり言われてしまうとは。
(それは、僕よりも、か?)
そんなこと『もちろん』そうに決まっている。
色々考え、色々彼女に訊きたいと切望しているのに、ブライアンの脳みそは空回りを続けてまともに働いてくれない。
彼は朦朧とした意識の中で立ち上がった。そのままフラフラ足を繰り出し、アンジェリカの横をすり抜けて店のドアへと向かう。
「ブライアン?」
いぶかしげなアンジェリカの声が追いかけてきたような気がしたけれども、今のブライアンにはその声を受け止める余裕が皆無だった。
猫の目亭に向かうブライアンは、店の脇の路地の奥に銀色の輝きを認めたような気がして足を止めた。
目を凝らせば、奥の薄暗がりの中に彼の目を奪ってやまない銀髪が。
(アンジェリカ?)
道というより単なる隙間という方がふさわしいそんなところで、彼女はいったい何をしているのだろう。
首を傾げたブライアンだったが、こちらに完全に背を向けているアンジェリカの向こうに大柄な男が立っていることに気付く。暗めの髪の色に暗色系の服だから、見落としていた。
どうやら、また、何か厄介ごとに首を突っ込んでいるらしい。
こんなことだから、ほんの片時でも彼女の傍から離れるのがためらわれるようになってしまうというのに。
(まったく、ヒトの気も知らないで)
胸の内で小さく罵りそちらに駆け付けようと足を踏み出そうとして、ブライアンはふと立ち止まった。そうして、眉をひそめる。
うつむき加減のその男に、見覚えがある気がする。
顔を伏せているうえに暗がりの中だからはっきりと見て取ることはできないが、確かにあれは――
(ブラッド・デッカー)
その名を頭の中で呟いた瞬間、ブライアンの胸がズクリと疼いた。
最近、アンジェリカとあの男が一緒にいる場面をよく目にする。
元々彼もよく店に来ていて、ただ単にブライアンがそれに気付くようになっただけなのか、それとも、実際に姿を現す頻度が増えているのかは、判らない。
(けど、三日に一度はいるよな、絶対)
ほぼ毎日通っている自分のことは棚に上げて、ブライアンは眉をしかめた。
いかにもいかつい巨躯に、たおやかな肢体。
対照的な組み合わせは不思議としっくりと似合っている。
二人が一緒にいるその場面は、店の中であったり、今のように店の外であったりはするけれど、このひと月――とくにここ数週間は、かなり頻繁に見かけるようになっていた。
決して、見たいわけではなかったけれども。
ブライアンは一つ二つ瞬きをして暗さに目を慣らす。
アンジェリカは頭を反らせてブラッド・デッカーを見上げ、デッカーの方は大きな身体を心持ち屈めるようにしてアンジェリカに頭を寄せている。彼女は、彼に向かって熱心に何か語りかけているようだった。時折、ブラッド・デッカーが小さく頷いている。
二人は互いにのみ意識を注いでいて、ブライアンに気付く様子はまったくない。
その距離は、とても近かった。
そう、まるで恋人同士の密やかな睦み合いのように。
親密この上ない距離にも拘らず、二人からは甘さの欠片も伝わってはこない。
だが、物理的なその近さが二人の間柄を示しているように思われて、ブライアンの喉元に何か苦く熱いものが込み上げてきた。
彼は数歩後ずさり、通りに戻る。
このまま店には寄らずに来た道を戻ってしまおうか。
そんな迷いがブライアンの胸をよぎったが、すぐにかぶりを振った。
アンジェリカに会わないという選択肢は、彼の中にはない。
バカみたいだが、彼女に会っていないと一日を終えることができないようなモヤモヤ感が残ってしまって、寝台に入ってからも何かが足りないような気がして煩悶する羽目に陥るのだ。
ブライアンは今目にしたものは頭の奥底にしまい込んで、店のドアを押し開けた。
カラン、とベルが鳴る。
今日はまだ早めな時間のせいか、客の姿はあまりない。
「あ、ブライアン。いらっしゃい」
厨房からヒョコリと顔を出したコニーが、そう声をかけてきた。と、いぶかしげに店の中を見回して、首をかしげる。
「あれ、アンジーは?」
「外にいたよ」
「外? ああ、またブラッド?」
「……さあ」
ブライアンは肩をすくめて手近な椅子を引いて腰を下ろした。彼の下に、伝票片手にコニーがやってくる。
「アンジーってば、最近ブラッドと何かこそこそしてるんだよね。あたしには教えてくれないの。危ないことじゃないといいんだけど」
唇を尖らせてブツブツ言って、コニーは「で、注文は?」と促してきた。
が、問われても、ブライアンはなんとなく食欲が湧いてこない。
かといって、何も注文せずにここでダラダラしていることもできず。
「今日は軽いものだけでいいよ」
力のない笑みを浮かべながら答えたブライアンに、コニーの眉根が寄る。
「なんか、元気なくない?」
「いや、そんなことないよ」
気を取り直してヘラリと笑って見せると、コニーは若干納得がいかなそうな素振りを見せながらも厨房へと戻っていった。
彼女の背中を見送りつつ、ブライアンは反省する。
遥かに年下の少女にまで心配されるようでは、情けなさ極まれり、だ。
気を引き締めたブライアンの耳に、軽やかなベルの音が届いた。振り返ると、アンジェリカが入ってくるところだった。
彼女は店の中のブライアンに気付くとほんの一瞬足を止め、それから彼の方へとやってくる。
「来てたのか」
「ついさっきね。コニーに注文取ってもらったよ」
そう伝えると、アンジェリカは「わかった」というように小さく顎を引いて頷いた。
ブライアンは口をつぐんでアンジェリカを見つめる。
彼女は、手を伸ばしたら触れられるかどうかという位置に立っている。
この距離は、やっぱり、客と給仕のものだろうか。
そんなことを考えながら押し黙っていると、「じゃぁ、」と声が届いた。
ハタと我に返ってアンジェリカを見ると、もう半ば身を翻しかけている。
「また後で」
それだけ残して、彼女は離れていこうとしていた。
(あ……)
「待っ――」
何を意図したわけではない。
ただ、気付けば、ブライアンは腰を浮かし手を伸ばして、アンジェリカの細い手首を捉えていた。
彼女は自分を捕まえているブライアンの手にチラリと目を遣り、それから生真面目な顔のまま彼の顔にその菫色の目を移す。
「何か?」
ブライアンはパッと手を離し、また尻を椅子に戻した。
「あ、……いや、えっと……どこに行ってたの?」
誰かと――ブラッド・デッカーと会っていたのかなどと詰問する権利は、ブライアンには爪の先ほどもない。
モヤモヤと言葉を濁して訊ねれば、アンジェリカは小さく頭を傾けた。
「人と会っていた」
「人……」
「ブラッドだ。あなたも彼を知っていると思ったが」
「ああ……彼ね」
百も承知で頷いて見せる。
「さっきコニーも言ってたけど、最近、彼とよく会っているんだって?」
「――少し、彼と携わっている案件があって」
「僕に手伝えることはある?」
ブライアンは、軽い口調を心がけてそう水を向けてみた。
が。
「いや、ない」
即答だった。
あまりにきっぱりと首を振られて、ブライアンはみぞおちの辺りを何かにザックリと切り付けられたような心持になる。
アンジェリカは、ブラッド・デッカーとは共有しているものを、ブライアンには見せようとしないのだ。
一度は縮まったと思った距離が、また広がった気がする。いや、もしかしたら、そもそも縮まったと思ったのはブライアンの錯覚に過ぎなかったのかもしれない。
ブライアンの胸の切り口から、ジリジリと焼けつくような何かがしみ出した。
その、何かに背中を押しやられて。
「君は……君は、彼のことが好きなのかい?」
気付いた時には、愚かな問いかけが、ブライアンの口からポロリとこぼれ落ちてしまった。アンジェリカが、キョトンと彼を見返してくる。
「え、あ、いや、あなたは彼と仲がいいんだな、と、思って……えっと、彼は、いい男、だよね」
気まずげに口ごもるブライアンをアンジェリカはしげしげと見つめてから、こくりと頷いた。
「彼のことを好きか嫌いかと問われれば、もちろん好きだ」
刹那、ブライアンをめまいが襲った。
『もちろん、彼が好きだ』というアンジェリカの言葉が頭の中で木霊する。
判っていたが……こうもはっきり言われてしまうとは。
(それは、僕よりも、か?)
そんなこと『もちろん』そうに決まっている。
色々考え、色々彼女に訊きたいと切望しているのに、ブライアンの脳みそは空回りを続けてまともに働いてくれない。
彼は朦朧とした意識の中で立ち上がった。そのままフラフラ足を繰り出し、アンジェリカの横をすり抜けて店のドアへと向かう。
「ブライアン?」
いぶかしげなアンジェリカの声が追いかけてきたような気がしたけれども、今のブライアンにはその声を受け止める余裕が皆無だった。
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