らいおんはうさぎにおぼれる

トウリン

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第一部:らいおんはうさぎによりそう

ある夜のこと:これは、本能のようなもの

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『金古』
 スマホの画面に表示されたその名前に、司は眉をひそめる。この金古だけでなく花や乾とも、サークルの都合で番号を交換したものの、使わずにかれこれ三ヶ月が過ぎようとしている今日この頃だ。
 特に金古由美とはあくまでも花を介しての関わりしかない。部室で同席しても司には視線すらよこさないのが常で、たまに言葉を交わしてもケンカ腰の物言いばかりだった。
 そんな金古が二十時も回ったこの時刻に、いったい何の用なのか。
 正直、彼にはまったく思い当たるものがない。
 手の中で忙しなくブンブンと唸る筐体は小うるさい彼女そのもののようで、眉間にしわを寄せたまま、司は通話ボタンを押す。

「獅子王?」
 つながると同時に切羽詰まった口調で金古が呼びかけてきた。何だか、イヤな感じだ。
「ああ」
「あなた、この後時間ある?」
「別に用はないが」
「じゃあ、ちょっと鳥政行ってきてよ」
 いささか唐突な物言いに、司は耳から離したスマホをまじまじと見つめる。
 鳥政は駅前にある居酒屋で、値段の割に量が多く、貧乏学生には受けがいい。
 司は再びスマホを耳に戻し、彼が抱いて然るべき問いを金古に投げかける。
「何で俺がそんなところに?」
「花が行ってるから」
「はぁ?」
 心底嫌そうな声で返された答えに思わず司は声を上げ、まだそこにいた晃が目を丸くする。口パクで『何事?』と訊いてきた彼へ、司はおざなりに片手を振った。

「あいつが、あんたと別行動でそんなところに行っているのか?」
 花が居酒屋にいるということよりも、そういう場所にいるのに金古が一緒ではないということの方が驚きだ。司にこんなことを頼んでくるくらいだから、そこには乾もいないのだろう。過保護な母親のような金古が『危険地帯』に花を一人で送り込むなど、かなり珍しい事態ではなかろうか。
 と、電話の向こうからため息が聞こえてきた。
「教育学部の連中との飲み会なのよ。八時回っても帰ってきてなかったからちょっと電話してみたんだけど、出なくって……私、この時間には家を出られないし、絵梨にも頼めないし」
 もどかしげに言う金古が苛々と爪を噛むさまが、司の脳裏に浮かぶ。だが、彼女がそんなふうになる気持ちも解らないでもない。
 大学一年生は酒を飲めない者が殆どだ。しかし、店側もいちいち学生証を提示させるわけではない。以前に一度だけ司も工学部の飲み会に顔を出したことがあるが、その時も初っ端の乾杯の時から生ビールだった。最初は司の外見にビビりまくっていた連中も一時間もすればすっかり出来上がり、馴れ馴れしく肩を組んでくる体たらくだった。数少ない女子学生に対しても酔いが進むほどに遠慮がなくなり、顔をしかめる彼女らから野郎どもを引っぺがしたのも一度や二度じゃない。

 そんな酔っ払いの中に、花がいる。

 だけでなく。

(あいつが、金古の電話に出ない?)
 普通なら、まず、有り得ない。相手が金古だからではなく、誰に対してもそういうところは生真面目なのだ、花は。
 うるさくて呼び出し音に気付いていないだけなら、いい。
(酒を飲まされて酔い潰れているとか……)
 花はまだ十八だし、彼女からアルコールに手を出すことはないだろうが、たちの悪い奴もいる。ジュースだとか適当なことを言って飲まされたという事態は否定できない。
 一度そんな考えが頭をよぎってしまうと、司はどうにも落ち着かない気分になった。

「この後、回ってみる」
 司の答えに金古が小さく安堵の息を漏らしたのが伝わってくる。
「……ありがとう」
 空耳かと思うほどの微かな囁き声があってから、通話が切れる。
 と、それを待ち構えていたように。
「何なの? お前に女の子から電話とか、超珍しいじゃん。もしかして花ちゃん?」
 どうやら金古の声が漏れていたらしく、耳聡く晃が言った。その目は小鳥を前にした猫さながらに爛々と輝いている。
 百パーセント興味本位のその眼差しに、司はため息ついた。
「ちがう。じゃあな」
 晃の好奇心を一言で蹴りやり、踵を返す。
「あ、ちょっと――」
 未練がましく追いすがる晃の声を無視して、司は従業員用の通用口をくぐった。
 このガソリンスタンドから花がいるという居酒屋までは徒歩で十五分程度だ。着くのは二十一時頃か。大学生の飲み会がその時間に終わる筈もなかろうが、二次会に移動している可能性はある。
 天文サークルでも月一ペースで飲み会はあるが、所詮星オタクの集まり。酒はそっちのけで夜空の話にふけるのが常だった。何しろ、司以外の唯一の異性があの通り星にしか興味がないような男なのだ。たとえ花と二人きりで一晩いさせたとしても、彼の話で寝不足になるのが関の山だ。安全なことこの上ない。
 一方、司は自分の学部での飲み会の時のことを思い返して眉をしかめる。男所帯だったからというのもあるのだろうが、もう二度と行くものかと思うような代物だったのは確かだ。
(あそこまでひどくはないだろうが……)
 胸が騒ぎ、足が自ずと速まった。

 司は店まで十五分かかるところを五分に縮め、一度息をついてから居酒屋鳥政の暖簾をくぐる。途端に押し寄せてきた騒がしさに顔をしかめつつ、店内を見渡した。が、花が属する教育学部の面々の顔を知らないことに今さらながら気付く。店員を呼び留め、彼らが占める一画を訊ねた。
 が。
(いない?)
 花がいるはずの集団の中に、その姿は見当たらない。司は席に歩み寄り、一番端に座っている男子学生に声をかける。
「ちょっと」
「何ぃ?」
 ろれつの回らぬ舌でヘラヘラと笑いながら見上げてきた彼は、司を見た瞬間にギョッと固まった。そういう反応には慣れているので、構わず続ける。
「宇佐美花ってのがここにいるはずだろ?」
「え? 宇佐美さん? ああ、えっと、そういや、ちょっと前にもう帰るって……」
「一人でか?」
(出来上がった酔っ払いがうろつくこの中を?)
 低い声で問うた司に、男子学生は一気に酔いが醒めたような顔になる。
「や、確か青木が送ってくとか言ってた気が……」
 現状を見るに、どうせその青木とやらにも酒が入っているのだろう。
 口ごもりながらの彼の台詞を皆まで耳に収めることなく、司は踵を返した。

 大股で店を後にし、束の間通りの左右に目を走らせる。花は、少なくとも大学には、電車で通っている。だったら、家に帰ろうとしている今も――
「駅、だよな」
 独り言ちた司はそちらに足を向けた。
 司の形相か勢いか、あるいはその両方が功を奏し、彼が進む先は勝手に人がよけてくれるから人混みもそう邪魔にはならない。自分の周囲にはほとんど眼もくれず、先へ先へと視点を置いて花の姿を捜した。

 こういう時、平均から頭一つ近く飛び出ている彼の身長は役に立つ。
 さほど進まないうち、雑踏の流れを妨げている男女の姿が目に入ってきて、司は立ち止まる。男の陰に隠れて、女性の方は殆ど見えない。が、ふわりとしたくせ毛の先が垣間見え、彼女が花だと判った。
 再び一歩を踏み出したところで、司は男の手が無遠慮に花の腕を掴んでいることに気付く。そして、彼女がそれを振り解こうとしていることにも。

(あの野郎)
 その光景を目にした瞬間、まさに火に油を注いだように司の腹の中に苛立ちが湧き上がった。
 花が害されていると思うと――そういう場面を見ると、いつも司の頭に一気に血が昇る。最初の出会いがそういう状況だったせいで何かが彼の中に刷り込まれてしまったのか、殆ど条件反射のようなものだ。あるいは、小さくか弱いものを前にしたら大抵の者が抱くだろう保護本能的なものか。
 とにかく、あんなふうにあの男を花に触れさせておきたくない。
 司はアスファルトを踏みつけるようにしてそちらに向かう。すれ違う人は皆、彼を見るなりヒッと息を呑んだが、そんなことに取り合う暇はない。

 二人が立つところまであと数歩というところまで来た、その時。
「放してください。わたし、一人で帰れますから」
「いいからいいから、送ってってやるって。あ、その前に、ちょっとどこか寄ってこうよ。宇佐美さん、全然飲んでなかっただろ? 入学式ん時からさ、可愛いなって思ってたんだよ。大丈夫、奢ったげるからさ」
「要らないです」
「またまた、そんなぁ。見かけによらず、結構気が強い?」
 そんな遣り取りが聞こえてくる。男は花の二の腕を掴んでいて、司が見ている前で、笑いながら彼女を引き寄せた。小柄な花は、男の陰にすっぽりと隠されてしまう。

「青木くん、放して!」
 いつもより強い語調のその声に、また、司の中の炎が勢いを増す。
 残る距離を大股で詰め、男の背後に立った司が花を捉えるその手を捩じり上げるのと、彼女が彼に気付いて目を丸くしたのとは、ほぼ同時のことだった。
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