らいおんはうさぎにおぼれる

トウリン

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第二部:らいおんはうさぎにこがれる

夜の海を眺めながら:これからの日々

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 花は微かに眉をひそめ、司を見つめていた。その眼差しに曇りがあるのは、彼のため息を聞きつけたからだろう。
 だが、彼女にそのため息の訳を話すわけにもいかず。

「……寒くないのか」
 どうにか捻り出した司の台詞はそれまでの話の流れからすれば唐突極まりなかったが、突っ込まれたくないという彼の気持ちを汲んでくれたのか、花は笑みと共にかぶりを振る。
「ん、大丈夫。一月にしては暖かいよね」
 そんな台詞と共に彼女が吐く息は白い。
 このまま外にいたら、風邪をひかせてしまうかもしれない――今さらながらそんなことに考えが至り、司は顔をしかめた。

「戻るか」
 腰を浮かせかけた彼を、しかし、花はキョトンと見返してくる。
「え、もう? まだもう少しいたいな……あ、でも、獅子王くん、寒い?」
 心底残念そうな声での彼女のねだりに、司の尻がストンと落ちた。
「いや、俺は別に」
 答えた司に、花はホッとしたように頬を緩める。その嬉しそうな顔に喉から変な音が出そうになって、彼は思わず咳払いをした。と、途端にまた花の顔に翳が差す。
「やっぱり、戻った方がいい?」
 眉をひそめた花に、さっきの彼女と同じ言葉を、今度は司が返す。
「大丈夫だ」
「ホント?」
「ああ」
 実際、高校の頃から深夜の外バイトをしているし、雪が降りしきる中何時間も立っていたこともある。この程度の寒さは屁でもない。
「やった」
 頷いた司に花はまた笑う。月明かりがあるとはいえ辺りは薄暗く、彼女の笑顔だけははっきり見て取れるのが、彼には不思議だった。

 花の笑顔でみぞおちの奥にカイロが入っているような心持ちになっていた司だったが、次の彼女の行動で全身を強張らせる。
「あ、もうちょっとくっついた方が暖かいかも」
 そんなことを言いながら、花は司の左側にピタリと身を寄せてきたのだ。

(ちょっと待て。警戒心なさすぎだろ!?)
 男に対してこの距離感は有り得ない。
(他の奴にこんなことしたら絶対無事じゃすまないぞ)
 その状況がよぎり司は思わず奥歯を食いしばったが、次の瞬間、ハタと気付きたくない事実に気付いた。

(俺だから、なのか)
 花の中で司は警戒対象に入っていない――つまり、『男』として認識されていないのだ。
 彼女に距離を置かれたいわけじゃない。彼女に安心を与えたいと思っているし、彼女の信頼も、我が身の力不足を痛感しながら、それに応えられる者になりたいとは思っている。
 思っているが――これは、何かが違う気がした。

 左半身で花の温もりを感じつつ複雑な心境でいる司の横で、彼女はいつもと何ら変わらない口調で話し出す。
「獅子王くんは工学部だよね。二年生になったら忙しくなるの?」
「今と大差ない」
「今も結構忙しそうだけど……二年からはコースとか選んだりするんでしょう?」
「ああ」
「獅子王くん、卒業したら何になりたいとか、もう決まってるの?」
「建築関係には多少興味がある」
「建築? お家建てたりとか?」
「もっとデカい物だな」
「ふぅん……ビルとか?」
「橋とか」
 司の答えに、花が小さな笑いを漏らした。
「何だ?」
「ん? あ、なんか似合うなって。大きなものを造る、大きな獅子王くん、みたいな」
 言いながら、彼女はクスクスと笑っている。その声が、耳に心地良い。

「……宇佐美は?」
「え?」
「あんたは教育学部だろ? 教師になるのか?」
 言った瞬間、生徒と間違えられる花の姿が司の脳裏に浮かんだが、それは口には出さずにおいた。
 司の問いに花は束の間押し黙り、ややして小さく頷く。
「うん。小学校の先生になりたいの」
「小学校?」
「そう。ほら、中学とか高校って、教科ごとに別れちゃって、先生は勉強メインって感じになるでしょ?」
「まあ、そうだな」
「わたし、そうじゃない方がいいなって。子どもたちと、一日一緒にいられる方がいいなって思って」
 そう言って、花の声が止まる。しばらくは波の音だけがあって、もしや寝てしまったのかと司が隣を見下ろそうとしたところで、ポツリと彼女が呟いた。

「時々、ニュースとかで死んじゃった子のお話が流れたりするでしょう?」
 沈んだ、小さな声だった。
 多分、その死は、事故や何かでのことではないのだろう。

「あるな」
「ああいうの、イヤだなって思うの」
 ほ、と、花が息をつく。白い息がふわりと浮かび、それが消える前に、彼女の言葉が続いた。
「わたしね、だから、子どもたちの傍にいたいと思うの。……つらい思いをしてる子がいたら、つらいからもう終わりにしたいって思っちゃってる子がいたら、生きていさえしたら、良いことや楽しいことがちゃんと待ってるんだよって教えてあげたいの。今諦めたらもったいないよって」
 語った彼女の声は小さいが、揺らぎは欠片もない。
 ふわりとした理想や夢ではなく、深く根付いた思いが、そこには感じられた。

 それは、花自身がそうだったからだろうか。
 そう思った瞬間、司は、隣にある温もりが無性に貴重なものに――愛おしいものに思えた。
 もしかしたら、この温もりが存在していなかったかもしれないのだ。
 その可能性が頭をかすめ、喉元まで込み上げてきた熱い何かを呑み下し、司は口を開く。

「あんたには、あったのか?」
「え?」
「あんたには、良いことがあったのか?」
 そうであって欲しいと願いつつ、司は問うた。隣を見下ろしながら。
 恐らくかなり鋭いものになっているであろう司の視線を受けて花は一つ目をしばたたき、そしてふわりと笑う。
 さながら、蕾が綻ぶように。

「あったよ。……獅子王くんと逢えたのも、その一つ」
「俺?」
「うん」
 こくりと頷き、花は頭を司の腕にもたれさせた。
 クルリと丸い頭に、重さはない。
 だが、司には、とても、重く感じられた。
 彼は爪が手のひらに食い込むほど、両手を硬く握り締める。そうしないと、花を腕の中に引き入れてしまいそうだった。

 自制心を総動員する司の隣で、花は続ける。
「前に言ったことは、本当だよ」
 花の行動に気を取られていた司は、彼女の台詞の意味を掴み損ねて眉をひそめた。
「前?」
「うん。高校の時、獅子王くんに憧れたって、言ったでしょう?」
「ああ……」
 てっきり社交辞令か話の流れで出てきた深い意味はない台詞だと、司は受け取っていた。だが、彼が思うより、深い意味を持つものだったらしい。
 司はそれきり返事ができずにいたが、花は気にしていないようだった。一言一言を噛み締めるように、言葉を継ぐ。

「わたしね、あの頃はまだヒトの眼が怖かったの。わたしのことなんて誰も気にしてないって判っていても、すごく気になって」
 あの頃、屈託なく笑っていた花がそんな思いを抱えていたとは、司は夢にも思っていなかった。
 息を詰めた彼には気付かぬ様子で、彼女は続ける。
「だからね、高校で獅子王くんを見て、獅子王くんみたいに堂々としていたいって思ったの。……ヒトから何を言われても堂々としていて、でも、優しい人になりたいと思ったの」
「俺は別に優しくは――」
 ない。
 そう言おうとした司の台詞を、花が止める。

「優しいよ。獅子王くんは人を助けることに躊躇しないもの。自然に、人に手を差し伸べられる人だもの。高校の時、誰かを手伝ってるの、よく見かけたよ。時々ね、わたしが先に気付くときもあったの。でも、知らない人だと声を掛けられなくて……そういう時、絶対、獅子王くんが来てた。何でもないことみたくサッと手を出して、終わるとパッと行っちゃうの。そういうの、ちょっと悔しくて、羨ましくて……憧れたの。あんなふうにできたらいいのにって、思ってた。……なろうって、思った」
 自分の行動を花に見られていたとは、知らなかった。どう答えたらいいものか判らない。
「そうか」
 ボソリとこぼした司の腕に、コクリと頷く花の頭がこすれた。仔猫にそうされた時のようなくすぐったさで、彼の腹の底が疼く。
「そうなの。だからね、たくさんの人がわたしに手を伸ばしてくれたけど、それはとても嬉しくてわたしを助けてくれたのだけど、獅子王くんは、いるだけでわたしの支えになってくれてたんだよ」
 花の囁くような声が、司の胸の奥まで滲み込んでくる。

(彼女は、そう思ってくれていたのか)
 司自身が己についてどう思っていようと、彼の存在そのものが、花にとって必要なものであるならば。
(俺は、これからも彼女の傍にいよう)
 自然と、そんな決意が胸の奥から湧いてきた。
 目を上げると、夜空と海が果てしなく広がっている。いつまでも変わることのないそれらと同じように、揺らぎなく花の傍にい続けよう。
 司は凪いだ心でそう決め、ふと眼を隣に滑らせた。と、花の頭が不自然に傾いている。それがぐらりと揺れて、彼は咄嗟に細い肩を抱き留めた。

「……宇佐美?」
 そっと呼んでみたが、反応がない。
(寝た、のか?)
 起こして宿に戻るように促した方がいい。
 それがベストだしそうすべきだとは判っていたが、何故か司の舌は動こうとしてくれなかった。
 手の中に納まる華奢な肩を放したくないという感情が、理性を上回っていたのだ。

 司はジャケットの前を開いて、花の肩と膝裏に手を回す。そうして胡坐をかいた膝の上に彼女をのせ、ジャケットの中に包み込んだ。できるだけ楽な姿勢になるように丸い頭を胸にもたれさせると、花は彼の腕の中にすっぽりと納まった。

(小せぇな)
 小さいし、軽い。
 彼女を包んでいる腕にほんの少し力を籠めれば、クシャリと潰れてしまいそうだ。
 だが、そんなことはしないし、誰にも、そうはさせない。

 その為に――

(これから先は、俺がいる)

 少しだけ。
 少しだけ、と自分に言い聞かせながら、司は懐深くに花を引き寄せる。

 多分、愛おしいというのは、この感情のことをいうのだ。

 胸が詰まる想いに駆られながら、それがどんな形になるのかは司自身にも判らないが、どんな形であれ、自分はこれから先彼女の傍にあり続けるのだと、彼は思った
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