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真夜中に飛び込んできた小鳥
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三日後に締め切りが迫ったレポートに、聖人が精を出しているときだった。
時刻はもうじき日付も変わろうかというところ。
玄関の方から微かな物音が聞こえたような気がして、彼は耳を澄ました。
家賃四万チョイのしょぼいワンルームだから、今座っているところからでも玄関のドアが見える。彼は眉をひそめてそちらをジッと見つめたが、しんと静まり返っていた。
(気のせいか?)
作業を再開しようとキーボードに指を置いたものの、モニターに気が向かない。
何となく、胸が騒ぐ。
何もないことを確認すれば落ち着くだろうと聖人はため息をついて立ち上がり、玄関に向かった。
鍵を開け、扉を開き――そこに思いも寄らないものを見て、固まる。
「!?」
(なんで、ここに?)
一瞬聖人は、レポートをしているうちにいつの間にか眠りこけて、夢でも見ているのかと思った。夢という形で、脳が願望を満たしてくれたのかと。
そう思って瞬きをしたが、やはり、消えずに存在している。
「蛍……」
名前をつぶやいた。
自分の声が耳に入ってきて、実感する。
そう、玄関のドアの外には、蛍が立っていたのだ。彼女の手の片方は軽く握られ、もう一度ドアを叩こうかどうしようかとためらっているかのように胸の辺りに上げられている。
多分、たっぷり五秒は彼女のことを凝視していたと思う。
彼のことを見上げてくる蛍と目と目が合って。
不意に彼女がそれまで詰めていたらしい息をホ、と吐き出したことで、聖人の呪縛が解けた。
「お前、何やって――」
咎める台詞を口にしかけて、舌を止めた。
蛍が身に着けているのは、どう見てもパジャマだ。五月も終盤となるとこの時間でも寒くはないが、彼女は、パジャマだけで外をウロウロするような子ではない。まだ幼いころ舘家に泊まることがあった時も、寝る時間以外は常に普通の服で過ごしていた。聖人は彼女のパジャマ姿を今初めて見たと言っても、過言ではない。それだけでも充分妙だが、背中の真ん中を越すふわふわの癖毛は、右の半分は三つ編みになっていて、左の半分は解けている。見下ろせば、靴も履いていない。
その上。
(ボタン、どこだ?)
蛍が片手で胸元を掴んでいるから気付かなかったが、パジャマのシャツの第一ボタンがないように見える。
いったい、何が。
そう思うのと同時に聖人は蛍の腰をさらうようにして玄関の中に引き入れ、フックに掛けてあった自分の上着をひったくって彼女を包み込んだ。そのまま肩に担ぎ上げ、ユニットバスに運び込む。
身じろぎ一つしない蛍を浴槽の縁に座らせ、彼女の腰を支えながら慎重に足を持ち上げた。柔らかな肌についた土埃を払って、丹念に調べる。
聖人の手のひらの上にのってしまうほどの足に、傷らしきものはない。
少なくとも、家からここまで深夜の道をとぼとぼ歩いてきたわけではないらしいことには、多少なりともホッとする。きっと、自転車を使ったのだろう。
汚れていた足を洗って、拭いて。
蛍は、聖人にされるがままだ。こんな彼女は、見たことがない。
(何が、あったんだよ)
訳が解からなくて、何があったのかを知りたくて、イライラする。
気持ちを落ち着かせるために床に向かって一つ息を吐いてから、聖人は蛍の顔を覗き込んだ。
「歩けるか?」
蛍は声を出さずにうなずき、立ち上がろうと風呂の床に足を下ろした。が、腰を上げた瞬間、その膝がかくりと折れる。すかさず聖人が差し出した腕の中に、華奢な身体が落ちてくる。
「ご、ごめ、なさ……」
しゃくりあげるように言った蛍の小さな手が、まるで唯一無二の命綱であるかのように聖人の腕を掴む。
聖人は唇を引き結び、また彼女を抱き上げた。さっきまではなかった細かな震えが、伝わってくる。
危うく舌打ちを漏らしそうになるのを、辛うじて自制した。
怯えきっている蛍の前でそんなことをしたら、余計に震え上がらせてしまうに違いない。
聖人は奥歯を噛み締めながら居間に戻り、ベッドの上に蛍を下ろした。彼の上着に包まれた華奢な肩の震えは、もうはっきりと見て取れるほどだ。聖人は薄手のTシャツ一枚でも平気な気温であるにもかかわらず、蛍は彼の上着を手繰り寄せてギュッと身を縮めた。
思わず、聖人は蒼褪めた頬に手を伸ばしそうになる。
この手でそれを包み込み、温もりを取り戻させてやれたなら。
聖人はその考えを振り払い、その手を固く握り込んだ。うつむく蛍のつむじをジッと見つめてから、彼はキッチンに向かう。二口コンロの一つに鍋を置き、牛乳を注いだ。すぐに飲めるようにと温め程度で火を止めてカップに移し、少し多めに砂糖を入れる。
一通りを終えてから聖人はカウンターに両手を突き、もう一度ゆるゆると息を吐き出した。そうやって気持ちを切り替え、蛍の元へ戻ってホットミルクを差し出した。彼女はぼんやりした眼差しでカップと聖人の間で視線を行き来させる。
しばらく待ってみたが、蛍は動かない。聖人は自分の身体を抱き締めるようにしている蛍の手をそっと取り、開かせる。強張った手のひらを親指で撫でてから、マグカップを持たせた。
動かされたことで呪縛が解けたのか、蛍はもう一方の手でもカップを包み込む。
と、彼女が手を離したことで上着の前がはだけて、その下のパジャマがまた目に入ってきた。
刹那、聖人は、手のひらに爪が食い込むほどに拳を握り締める。
取れているのは、第一ボタンだけではなかった。第二ボタンも糸が伸び、ボタンとしての役目を果たさずぶら下がっている。
蛍はギシリと音を立てた聖人の拳に目を遣り、次いで視線を上げて彼を見上げてきた。そこに浮かんだ感情を見て取ったのか、ハッと顔色を白くし、胸元を握り締めてうつむく。
(しまった)
聖人は、激怒していた。
だが、その怒りは蛍に向いたものではない。
(くそ、落ち着けよ)
彼は何とか自分を宥めて握り締めていた手から力を抜く。そうして、テーブルを隅に押しやり彼女の前にしゃがみ込んだ。
「蛍?」
意識して低めた声で名前を呼ぶと、蛍は一瞬息を詰め、それからおずおずと目を合わせてきた。
そこに浮かぶ慄きの色は、ここに飛び込んでくることになったことのせいか、それとも、怒りをあらわにしてしまった聖人のせいなのか。
後者である可能性も否定できなくて、聖人は歯噛みする。
(俺がお前を疎んじたり傷つけたりするはずがないじゃないか)
声に出してそう告げて、思い切り抱き締めてしまいたい。
そんな衝動を押しとどめながら、聖人は言葉を継いだ。
「それ、飲んじまえよ。腹に何か入れたら落ち着くぞ?」
言われて、蛍の目がまた手にしたカップに落ちた。じっと見つめてから、彼女はぎこちない動きでそれを口元に運ぶ。
一口、二口、三口。
コクリコクリと蛍の喉が動くたび、血の気が失せていた頬に赤みが戻る。
やがて空になったカップを蛍の手から取り、それをテーブルに置いてから、聖人は低い位置から彼女の目を覗き込んだ。
「で、こんな夜中に何があったんだ?」
蛍の唇が、キュッと引き結ばれる。
沈黙。
ややして。
「桐田、さんが」
蛍がポツリと口にした名前に、聞き覚えはない。
「……きりた?」
いぶかし気に繰り返すと、蛍はうつむけた顔をいっそう深く伏せ、言う。
「お母さんが、お付き合い――してる人」
辛うじて聞き取れる囁き声に、聖人はようやく思い至った。
(賢人も言っていた奴だよな)
弟は、恵子の彼氏だというその男のことを、どう評していただろう。
確か――
『良さそうな男だけどな』だ。
そこには、微妙な疑問と否定が込められていた気がする。
(あの時、もう少しちゃんと話を訊いておけば)
まさに後悔先に立たずで呻いたが、過去のことはどうしようもない。
「で、その『きりた』とかいう奴が何なんだ?」
「……」
また、蛍の肩が震え出す。
痛ましさに胸を締め付けられながら、聖人は手が勝手に動き出さないように全身に力を籠めた。そうしないと、その震えを止めるために彼女を力いっぱい抱き締めてしまいそうだったから。
首筋が痛くなるほどに身を強張らせ、聖人は蛍が再び口を開くのを辛抱強く待った。
待った末に聞かされた事実は、彼が今まで生きてきた中で抱いたすべての怒りをかき集めても足りないほどの激憤を、引きずり出した。
時刻はもうじき日付も変わろうかというところ。
玄関の方から微かな物音が聞こえたような気がして、彼は耳を澄ました。
家賃四万チョイのしょぼいワンルームだから、今座っているところからでも玄関のドアが見える。彼は眉をひそめてそちらをジッと見つめたが、しんと静まり返っていた。
(気のせいか?)
作業を再開しようとキーボードに指を置いたものの、モニターに気が向かない。
何となく、胸が騒ぐ。
何もないことを確認すれば落ち着くだろうと聖人はため息をついて立ち上がり、玄関に向かった。
鍵を開け、扉を開き――そこに思いも寄らないものを見て、固まる。
「!?」
(なんで、ここに?)
一瞬聖人は、レポートをしているうちにいつの間にか眠りこけて、夢でも見ているのかと思った。夢という形で、脳が願望を満たしてくれたのかと。
そう思って瞬きをしたが、やはり、消えずに存在している。
「蛍……」
名前をつぶやいた。
自分の声が耳に入ってきて、実感する。
そう、玄関のドアの外には、蛍が立っていたのだ。彼女の手の片方は軽く握られ、もう一度ドアを叩こうかどうしようかとためらっているかのように胸の辺りに上げられている。
多分、たっぷり五秒は彼女のことを凝視していたと思う。
彼のことを見上げてくる蛍と目と目が合って。
不意に彼女がそれまで詰めていたらしい息をホ、と吐き出したことで、聖人の呪縛が解けた。
「お前、何やって――」
咎める台詞を口にしかけて、舌を止めた。
蛍が身に着けているのは、どう見てもパジャマだ。五月も終盤となるとこの時間でも寒くはないが、彼女は、パジャマだけで外をウロウロするような子ではない。まだ幼いころ舘家に泊まることがあった時も、寝る時間以外は常に普通の服で過ごしていた。聖人は彼女のパジャマ姿を今初めて見たと言っても、過言ではない。それだけでも充分妙だが、背中の真ん中を越すふわふわの癖毛は、右の半分は三つ編みになっていて、左の半分は解けている。見下ろせば、靴も履いていない。
その上。
(ボタン、どこだ?)
蛍が片手で胸元を掴んでいるから気付かなかったが、パジャマのシャツの第一ボタンがないように見える。
いったい、何が。
そう思うのと同時に聖人は蛍の腰をさらうようにして玄関の中に引き入れ、フックに掛けてあった自分の上着をひったくって彼女を包み込んだ。そのまま肩に担ぎ上げ、ユニットバスに運び込む。
身じろぎ一つしない蛍を浴槽の縁に座らせ、彼女の腰を支えながら慎重に足を持ち上げた。柔らかな肌についた土埃を払って、丹念に調べる。
聖人の手のひらの上にのってしまうほどの足に、傷らしきものはない。
少なくとも、家からここまで深夜の道をとぼとぼ歩いてきたわけではないらしいことには、多少なりともホッとする。きっと、自転車を使ったのだろう。
汚れていた足を洗って、拭いて。
蛍は、聖人にされるがままだ。こんな彼女は、見たことがない。
(何が、あったんだよ)
訳が解からなくて、何があったのかを知りたくて、イライラする。
気持ちを落ち着かせるために床に向かって一つ息を吐いてから、聖人は蛍の顔を覗き込んだ。
「歩けるか?」
蛍は声を出さずにうなずき、立ち上がろうと風呂の床に足を下ろした。が、腰を上げた瞬間、その膝がかくりと折れる。すかさず聖人が差し出した腕の中に、華奢な身体が落ちてくる。
「ご、ごめ、なさ……」
しゃくりあげるように言った蛍の小さな手が、まるで唯一無二の命綱であるかのように聖人の腕を掴む。
聖人は唇を引き結び、また彼女を抱き上げた。さっきまではなかった細かな震えが、伝わってくる。
危うく舌打ちを漏らしそうになるのを、辛うじて自制した。
怯えきっている蛍の前でそんなことをしたら、余計に震え上がらせてしまうに違いない。
聖人は奥歯を噛み締めながら居間に戻り、ベッドの上に蛍を下ろした。彼の上着に包まれた華奢な肩の震えは、もうはっきりと見て取れるほどだ。聖人は薄手のTシャツ一枚でも平気な気温であるにもかかわらず、蛍は彼の上着を手繰り寄せてギュッと身を縮めた。
思わず、聖人は蒼褪めた頬に手を伸ばしそうになる。
この手でそれを包み込み、温もりを取り戻させてやれたなら。
聖人はその考えを振り払い、その手を固く握り込んだ。うつむく蛍のつむじをジッと見つめてから、彼はキッチンに向かう。二口コンロの一つに鍋を置き、牛乳を注いだ。すぐに飲めるようにと温め程度で火を止めてカップに移し、少し多めに砂糖を入れる。
一通りを終えてから聖人はカウンターに両手を突き、もう一度ゆるゆると息を吐き出した。そうやって気持ちを切り替え、蛍の元へ戻ってホットミルクを差し出した。彼女はぼんやりした眼差しでカップと聖人の間で視線を行き来させる。
しばらく待ってみたが、蛍は動かない。聖人は自分の身体を抱き締めるようにしている蛍の手をそっと取り、開かせる。強張った手のひらを親指で撫でてから、マグカップを持たせた。
動かされたことで呪縛が解けたのか、蛍はもう一方の手でもカップを包み込む。
と、彼女が手を離したことで上着の前がはだけて、その下のパジャマがまた目に入ってきた。
刹那、聖人は、手のひらに爪が食い込むほどに拳を握り締める。
取れているのは、第一ボタンだけではなかった。第二ボタンも糸が伸び、ボタンとしての役目を果たさずぶら下がっている。
蛍はギシリと音を立てた聖人の拳に目を遣り、次いで視線を上げて彼を見上げてきた。そこに浮かんだ感情を見て取ったのか、ハッと顔色を白くし、胸元を握り締めてうつむく。
(しまった)
聖人は、激怒していた。
だが、その怒りは蛍に向いたものではない。
(くそ、落ち着けよ)
彼は何とか自分を宥めて握り締めていた手から力を抜く。そうして、テーブルを隅に押しやり彼女の前にしゃがみ込んだ。
「蛍?」
意識して低めた声で名前を呼ぶと、蛍は一瞬息を詰め、それからおずおずと目を合わせてきた。
そこに浮かぶ慄きの色は、ここに飛び込んでくることになったことのせいか、それとも、怒りをあらわにしてしまった聖人のせいなのか。
後者である可能性も否定できなくて、聖人は歯噛みする。
(俺がお前を疎んじたり傷つけたりするはずがないじゃないか)
声に出してそう告げて、思い切り抱き締めてしまいたい。
そんな衝動を押しとどめながら、聖人は言葉を継いだ。
「それ、飲んじまえよ。腹に何か入れたら落ち着くぞ?」
言われて、蛍の目がまた手にしたカップに落ちた。じっと見つめてから、彼女はぎこちない動きでそれを口元に運ぶ。
一口、二口、三口。
コクリコクリと蛍の喉が動くたび、血の気が失せていた頬に赤みが戻る。
やがて空になったカップを蛍の手から取り、それをテーブルに置いてから、聖人は低い位置から彼女の目を覗き込んだ。
「で、こんな夜中に何があったんだ?」
蛍の唇が、キュッと引き結ばれる。
沈黙。
ややして。
「桐田、さんが」
蛍がポツリと口にした名前に、聞き覚えはない。
「……きりた?」
いぶかし気に繰り返すと、蛍はうつむけた顔をいっそう深く伏せ、言う。
「お母さんが、お付き合い――してる人」
辛うじて聞き取れる囁き声に、聖人はようやく思い至った。
(賢人も言っていた奴だよな)
弟は、恵子の彼氏だというその男のことを、どう評していただろう。
確か――
『良さそうな男だけどな』だ。
そこには、微妙な疑問と否定が込められていた気がする。
(あの時、もう少しちゃんと話を訊いておけば)
まさに後悔先に立たずで呻いたが、過去のことはどうしようもない。
「で、その『きりた』とかいう奴が何なんだ?」
「……」
また、蛍の肩が震え出す。
痛ましさに胸を締め付けられながら、聖人は手が勝手に動き出さないように全身に力を籠めた。そうしないと、その震えを止めるために彼女を力いっぱい抱き締めてしまいそうだったから。
首筋が痛くなるほどに身を強張らせ、聖人は蛍が再び口を開くのを辛抱強く待った。
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