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最後の儀式
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シィンは窓一つ無いその部屋で、ただ時間を浪費しているだけの自分に苛立っていた。ここはキンクスの私室の奥にある部屋なのだが、果たして、その存在を知っているものはどれほどいるのだろう。儀式のとき以外自室から出ることが無かったシィンは当然として、神官たちの中でも殆どの者が知らないのではないかという気がする。
そんな秘せられた小部屋に、シィンは閉じ込められていた。隅から隅まで探り、小さな扉を腕が痺れるまで揺さぶったけれども、そこから逃れる術はみつからない。
外界の物音も気配も伝わってこない、シンと静まり返ったその中で、彼女は唇を噛む。
(わたしは、失敗した)
厳然たるその事実に、シィンは顔を伏せた。
当然だ。彼女は、キンクスの真意など、全然気付いていなかったのだから。理解していない相手を説得しようなど、土台無理な話だ。
それに、と、シィンは自嘲する。
所詮、自分はニセモノの神の子。そんなものに、誰かの心を動かせるわけが無かったのだ。
こうやって独りで何もすることなく過ごしていると、最後にキンクスが放った台詞が否応なしによみがえってくる。
『蛮族との間でできた、ただの人の子』
キンクスは、確かにそう言った。
蛮族――それは、神殿から遠く離れた村々を襲っている者たちの筈だ。
(その、子ども――?)
シィンは両腕で自分の身体を抱き締めて、身震いする。
自分は、『神の娘』などではない。それは、もう判っていた。
――でも、それならば、いったい何者だというのだろう。
グルグルと、頭の中が迷路を廻り始める。ここに入れられてから、もう何度も繰り返しているけれど、出口は見つからなかった。
「そんなこと、今は考えてる暇は無いんだから。もっと、大事なことがあるんだから」
呪文のように、シィンはそう呟く。自分自身に言い聞かせるように。
「ラス……ラスは大丈夫かな」
彼は、自分の為に捕まってしまったのだ。キンクスは、シィンが抗えばラスを傷付けると言っていたけれど、それはつまり、彼はまだ無事だということだ。
「神官長、様」
最後に彼女に向けられた、あの冷やかな眼差し。
キンクスは、いったい、何を望んでいるのだろう。
シィンには、キンクスが何をしようとしているのか――何をしたいのか、さっぱり解らなかった。
「儀式を、するのよね」
『その身を神に捧げてもらう』
キンクスがそう言っていたのが、途切れる直前の記憶に残っている。
けれど、彼女の歌を望んでいるわけではないらしい。
神殿で謳っていた頃、彼女はその身を神に捧げていたつもりだったのだ。それと、何が違うというのか。
部屋の中を行ったり来たりしていたシィンは、カチリ、と響いた小さな音に振り返った。
彼女が見守る中、部屋の扉が開かれ、そこからキンクスが現れる。その目がシィンを捉えると、彼は口元に笑みを刻んだ。
「おとなしくしていたようだな。さあ、出番だ。見事に演じれば、ラスは解放してやろう」
「本当に?」
「もちろんだとも」
疑われるのが心外だ、と言わんばかりの顔で、キンクスが頷く。かつてのシィンであれば、それをすぐに信じただろう。けれども、今の彼女には、無理だった。
「さあ」
一言と共に、キンクスが手を差し出す。
その手をジッと見つめながら、シィンは少しでも時間を稼ごうと、頭の中を精一杯に働かせる。わずかな時を作ってみても、それで何かが変わるわけではないと充分に承知していたが、即座にその手を取ることはできなかった。
「供物……供物は? 儀式なのでしょう?」
苦し紛れのシィンの台詞に、キンクスは肩をすくめる。
「あれは、もうお前には使わんよ。体調は万全に整えておいてもらわないと――新たな『神の子』の為に」
穏やかな笑みを浮かべながら彼は一歩近づき、更に手を伸ばす。
彼のことは信じられない。
さりとて、その手を取る以外に、今の彼女には道が無いのだ。
シィンはキンクスの手に自分の小さなそれを重ねる。彼女の指先が触れるや否や、キンクスの手がきつく握り締めてきた。
それがまるで全身を雁字搦めに捉えてくる鎖のように感じられて、シィンはゾクリと身を震わせる。
(もうじき、もうじきカイネたちが来てくれる。カイネは、約束してくれたもの)
歩き出しながら、シィンはそう胸の中で呟く。自分の事は、もうどうでもよかった。何者とも知れない、この身の事は。けれども、「自分には何かができる」と思い上がったシィンに付き合ってくれた挙句に囚われたラスの事は、何としてでも解放しなければならない。神殿にとって不都合なことを知り過ぎた彼を解放してくれるという約束を鵜呑みにできるほど、シィンの中にキンクスに対する信頼は残っていなかった。
無言で歩く二人が民の待つ神殿の高座に到着するには、さほどの時間は必要なかった。
次第に大きくなっていくざわめき――拓ける視界。
「シィン様!」
「我らが『神の娘』、万歳!」
シィンたちが姿を現すと同時に、沸き立つ歓声。
講堂にはいつものように人がひしめき合い、いつものように期待に満ち満ちた視線をシィンに向けてくる。その目は、アシクの里の者たちのものと、何と違っていることだろう。
『神殿』という羊飼いに飼い慣らされ、自らの手で道を切り拓く術を忘れてしまった、その目。浮かされているような熱は持っているけれども、生き生きとはしていない。
自分がそれを作り上げる一端を担っていたのだと思うと、シィンの心は締め付けられるように痛んだ。
「――……」
何か声をかけようと口を開きかけた彼女の機先を制して、キンクスの冷ややかな声が届く。
「ラスを無事に解放したければ、余計なことは言わないように」
シィンはバッと振り向き、彼を睨み付ける。
「さあ、そちらに横になれ」
精一杯の意志を込めた彼女の眼差しをものともせず、キンクスは高座の中央を手で示した。ここに着いた時からシィンも気付いていたのだが、そこには、以前にはなかった、ちょうど人一人が横たわることができる程度の大きさの台が置かれていた。
「?」
もう一度振り返って目で尋ねるシィンに、キンクスは笑顔で促す。群衆には、きっと、至上の慈愛に溢れた笑みに見えていることだろう。
「お前の為の舞台だよ――最後の、な。さあ」
拒んでも無駄なことは判っている。シィンは一度唇を噛み締めると、その台へ身を横たえた。
と、すかさず伸びたキンクスの手が、手早くシィンの四肢を台に拘束していく。
「神官長様!?」
「何、心配するな。言っただろう? 本当に傷付けはしないさ」
身を屈めてシィンに顔を近付けると、彼はそう囁いて、終いには彼女に猿轡を噛ませてしまう。そうして、高座の際まで足を進めると、群衆を見渡した。
「皆さん、随分と儀式を開くことができていませんでしたが、それも、今日、この日の為です。『神の娘』シィン様は、その身を神々に捧げてくださることを決意なさいました――我々の為に! 長らく禊に入っておられましたが、それも終わりです。夜空を照らす慈悲深き月の女神の現身であるシィン様は、その肉体を捨てて、神々の元へ還られます。そうして、神々の国から、我々を見守っていてくださるのです!」
響き渡る、大神殿の広間を揺るがす、どよめき。
身動きが取れないシィンにも、感極まる民衆の様を、目に浮かべることができた。
グルリと舐めるように眼下を一望し、満足そうな笑みを浮かべたキンクスがシィンの元へと戻ってくる。
「どうだ? あの愚か者どもの歓喜の声が、聞こえるか?」
キンクスは突き刺さらんばかりの視線を向けるシィンの耳元にそう囁くと、しずしずと高座の袖から現れた神官が差し出す短剣を受け取った。きらびやかな装飾がなされたそれに芝居がかった仕草で香料の入った水をかけ、何かを呟く。
そうして、シィンが囚われている台の傍に立った。
「さようなら、『神の娘』よ」
民衆の目にもはっきりと映るように、高く振り上げられる、短剣。
シィンは、真っ直ぐにキンクスを見つめていた。
何があっても、決して、目を逸らしはしまい。シィンは、そう、心に決めていた。
その目を受け止めて、キンクスが笑む。
シィンの中に、こうなったことへの後悔は無かった。
けれども
(――カイネ……ローグ……)
その名を胸の中で呼ばわる。
みんなに、もう一度だけ会いたいと、心底から願った。
そんな秘せられた小部屋に、シィンは閉じ込められていた。隅から隅まで探り、小さな扉を腕が痺れるまで揺さぶったけれども、そこから逃れる術はみつからない。
外界の物音も気配も伝わってこない、シンと静まり返ったその中で、彼女は唇を噛む。
(わたしは、失敗した)
厳然たるその事実に、シィンは顔を伏せた。
当然だ。彼女は、キンクスの真意など、全然気付いていなかったのだから。理解していない相手を説得しようなど、土台無理な話だ。
それに、と、シィンは自嘲する。
所詮、自分はニセモノの神の子。そんなものに、誰かの心を動かせるわけが無かったのだ。
こうやって独りで何もすることなく過ごしていると、最後にキンクスが放った台詞が否応なしによみがえってくる。
『蛮族との間でできた、ただの人の子』
キンクスは、確かにそう言った。
蛮族――それは、神殿から遠く離れた村々を襲っている者たちの筈だ。
(その、子ども――?)
シィンは両腕で自分の身体を抱き締めて、身震いする。
自分は、『神の娘』などではない。それは、もう判っていた。
――でも、それならば、いったい何者だというのだろう。
グルグルと、頭の中が迷路を廻り始める。ここに入れられてから、もう何度も繰り返しているけれど、出口は見つからなかった。
「そんなこと、今は考えてる暇は無いんだから。もっと、大事なことがあるんだから」
呪文のように、シィンはそう呟く。自分自身に言い聞かせるように。
「ラス……ラスは大丈夫かな」
彼は、自分の為に捕まってしまったのだ。キンクスは、シィンが抗えばラスを傷付けると言っていたけれど、それはつまり、彼はまだ無事だということだ。
「神官長、様」
最後に彼女に向けられた、あの冷やかな眼差し。
キンクスは、いったい、何を望んでいるのだろう。
シィンには、キンクスが何をしようとしているのか――何をしたいのか、さっぱり解らなかった。
「儀式を、するのよね」
『その身を神に捧げてもらう』
キンクスがそう言っていたのが、途切れる直前の記憶に残っている。
けれど、彼女の歌を望んでいるわけではないらしい。
神殿で謳っていた頃、彼女はその身を神に捧げていたつもりだったのだ。それと、何が違うというのか。
部屋の中を行ったり来たりしていたシィンは、カチリ、と響いた小さな音に振り返った。
彼女が見守る中、部屋の扉が開かれ、そこからキンクスが現れる。その目がシィンを捉えると、彼は口元に笑みを刻んだ。
「おとなしくしていたようだな。さあ、出番だ。見事に演じれば、ラスは解放してやろう」
「本当に?」
「もちろんだとも」
疑われるのが心外だ、と言わんばかりの顔で、キンクスが頷く。かつてのシィンであれば、それをすぐに信じただろう。けれども、今の彼女には、無理だった。
「さあ」
一言と共に、キンクスが手を差し出す。
その手をジッと見つめながら、シィンは少しでも時間を稼ごうと、頭の中を精一杯に働かせる。わずかな時を作ってみても、それで何かが変わるわけではないと充分に承知していたが、即座にその手を取ることはできなかった。
「供物……供物は? 儀式なのでしょう?」
苦し紛れのシィンの台詞に、キンクスは肩をすくめる。
「あれは、もうお前には使わんよ。体調は万全に整えておいてもらわないと――新たな『神の子』の為に」
穏やかな笑みを浮かべながら彼は一歩近づき、更に手を伸ばす。
彼のことは信じられない。
さりとて、その手を取る以外に、今の彼女には道が無いのだ。
シィンはキンクスの手に自分の小さなそれを重ねる。彼女の指先が触れるや否や、キンクスの手がきつく握り締めてきた。
それがまるで全身を雁字搦めに捉えてくる鎖のように感じられて、シィンはゾクリと身を震わせる。
(もうじき、もうじきカイネたちが来てくれる。カイネは、約束してくれたもの)
歩き出しながら、シィンはそう胸の中で呟く。自分の事は、もうどうでもよかった。何者とも知れない、この身の事は。けれども、「自分には何かができる」と思い上がったシィンに付き合ってくれた挙句に囚われたラスの事は、何としてでも解放しなければならない。神殿にとって不都合なことを知り過ぎた彼を解放してくれるという約束を鵜呑みにできるほど、シィンの中にキンクスに対する信頼は残っていなかった。
無言で歩く二人が民の待つ神殿の高座に到着するには、さほどの時間は必要なかった。
次第に大きくなっていくざわめき――拓ける視界。
「シィン様!」
「我らが『神の娘』、万歳!」
シィンたちが姿を現すと同時に、沸き立つ歓声。
講堂にはいつものように人がひしめき合い、いつものように期待に満ち満ちた視線をシィンに向けてくる。その目は、アシクの里の者たちのものと、何と違っていることだろう。
『神殿』という羊飼いに飼い慣らされ、自らの手で道を切り拓く術を忘れてしまった、その目。浮かされているような熱は持っているけれども、生き生きとはしていない。
自分がそれを作り上げる一端を担っていたのだと思うと、シィンの心は締め付けられるように痛んだ。
「――……」
何か声をかけようと口を開きかけた彼女の機先を制して、キンクスの冷ややかな声が届く。
「ラスを無事に解放したければ、余計なことは言わないように」
シィンはバッと振り向き、彼を睨み付ける。
「さあ、そちらに横になれ」
精一杯の意志を込めた彼女の眼差しをものともせず、キンクスは高座の中央を手で示した。ここに着いた時からシィンも気付いていたのだが、そこには、以前にはなかった、ちょうど人一人が横たわることができる程度の大きさの台が置かれていた。
「?」
もう一度振り返って目で尋ねるシィンに、キンクスは笑顔で促す。群衆には、きっと、至上の慈愛に溢れた笑みに見えていることだろう。
「お前の為の舞台だよ――最後の、な。さあ」
拒んでも無駄なことは判っている。シィンは一度唇を噛み締めると、その台へ身を横たえた。
と、すかさず伸びたキンクスの手が、手早くシィンの四肢を台に拘束していく。
「神官長様!?」
「何、心配するな。言っただろう? 本当に傷付けはしないさ」
身を屈めてシィンに顔を近付けると、彼はそう囁いて、終いには彼女に猿轡を噛ませてしまう。そうして、高座の際まで足を進めると、群衆を見渡した。
「皆さん、随分と儀式を開くことができていませんでしたが、それも、今日、この日の為です。『神の娘』シィン様は、その身を神々に捧げてくださることを決意なさいました――我々の為に! 長らく禊に入っておられましたが、それも終わりです。夜空を照らす慈悲深き月の女神の現身であるシィン様は、その肉体を捨てて、神々の元へ還られます。そうして、神々の国から、我々を見守っていてくださるのです!」
響き渡る、大神殿の広間を揺るがす、どよめき。
身動きが取れないシィンにも、感極まる民衆の様を、目に浮かべることができた。
グルリと舐めるように眼下を一望し、満足そうな笑みを浮かべたキンクスがシィンの元へと戻ってくる。
「どうだ? あの愚か者どもの歓喜の声が、聞こえるか?」
キンクスは突き刺さらんばかりの視線を向けるシィンの耳元にそう囁くと、しずしずと高座の袖から現れた神官が差し出す短剣を受け取った。きらびやかな装飾がなされたそれに芝居がかった仕草で香料の入った水をかけ、何かを呟く。
そうして、シィンが囚われている台の傍に立った。
「さようなら、『神の娘』よ」
民衆の目にもはっきりと映るように、高く振り上げられる、短剣。
シィンは、真っ直ぐにキンクスを見つめていた。
何があっても、決して、目を逸らしはしまい。シィンは、そう、心に決めていた。
その目を受け止めて、キンクスが笑む。
シィンの中に、こうなったことへの後悔は無かった。
けれども
(――カイネ……ローグ……)
その名を胸の中で呼ばわる。
みんなに、もう一度だけ会いたいと、心底から願った。
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