凍える夜、優しい温もり

トウリン

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<鼓動と混乱>

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 閉店後、BGMが静かに流れる店の中。
 時折、カチャンと食器や何かが小さな音を立てる。
 取り留めのない、綾音あやねのおしゃべり。
 彼女はその日あった小さなことを話し、颯斗はやとはどうだったのかと訊いてくる。

 ――颯斗は、一日の中でこの時間が一番好きだった。

 この時間になるとたいてい利音りねはもういなくて、何かとちょっかいをかけてくる彼女にも客に邪魔されることもなく、綾音と過ごせる。
 独占できる、と言ったら言い過ぎだけれども、それでも、颯斗にとっては彼女と二人きりでいられる貴重な時間だった。

 颯斗はチラリと隣に目を走らせる。
 綾音は洗い終わったカップを乾いた布で磨いている。
 先日の木下桃子きのした とうこの一件以来、綾音の様子は『普通』だ――良くも悪くも、変わらない。

(まあ、悪くなられたら困るんだけどさ)

 綾音が磨き終わったカップを棚にしまいながら、颯斗は内心でため息をついた。
 あの直後は何となく意識されているような気がしていたけれど、どうやら気の所為だったようだ。三日もしたらすっかり以前の綾音に戻ってしまって、彼女が嫉妬した――かもしれない――ことなんて、颯斗の妄想に過ぎなかったのではないかと思ってしまう。
 意識されて避けられるのはたまらないが、かと言って、このままでもいたくない。

(どうしたもんかな)

 まるでびっくり箱の周りをウロウロする猫のような自分に、苦笑する。
 と、不意に、カランカランと戸口のカウベルが音を立てた。颯斗が帰るまで鍵は閉めないから、客が入ってきてしまったらしい。『CLOSED』の札はかけておいたはずだが、目に入らなかったのだろうか。

「あ、すみません、もう閉店なんです」

 申し訳なさそうに綾音がそう言うのを、颯斗はドアに背を向けたままで聞き流した。が、続いて耳に入ってきた彼女に答える声に、思わずカップを落としそうになる。

「客じゃないのよ」

 投げるような言い方。
 颯斗は小さく息を呑み込んでから、カップを棚に置いた。そうして、振り返る。
 店の入り口に立っているのは、三十半ばかそこらの女だ。
 彼は警戒する眼差しを彼女に向ける。

「何しに来たんだ?」
「ちょっと話があって」

 互いに愛想も素っ気もない声音で、短くそう遣り取りをした。
 和やかとは程遠い雰囲気を漂わせる二人の間を、綾音の視線が行ったり来たりする。

「えっと、あの、颯斗くん?」
 彼女の目が、物問いたげに颯斗で止まった。何を訊きたいのかは判っているから、端的に答える。

「俺の母親」

 一瞬間が空いて、綾音はそっと尋ねてくる。
「わたし、奥にいようか?」
「いや、いい。多分すぐ帰るから――何も出さなくていいよ」

 せっかく洗ったパーコレーターに手を伸ばした綾音にそう言い置いて、彼はカウンターを回った。
 母親の前を通って店の奥の席に向かうと、彼女も黙ってついてくる。
 テーブルを間に挟み相向かいで椅子に腰を下ろしても、母親は何も言おうとしない。

 そもそも、物心ついてから、彼女と『会話』をかわしたことがあっただろうか。
 ふと、颯斗はそんなふうに考えた。

 子どもの頃は家しか居場所がなかったからヒステリックな母の言葉を浴びせかけられていたけれど、店に入り浸るようになってからは彼も母親も『家』に帰るのは寝る為くらいで、最近ではお互いの声を聞くどころか姿を見ることすら稀なほどになっている。別に聞きたいことも話したいこともないから、相手が何も言わなければそれきりだ。
 そんな間柄だというのに、この突然の訪問は何なのだろう。
 颯斗が覚えるのは、警戒心だけだ。
 どうやって話を始めたら良いのかがわからなかったので颯斗は口をつぐんでいたが、いつまで経っても母親が黙ったままなので、埒が明かない。

「……俺がここにいること知ってたのか?」
 そう切り出した颯斗に、彼女は肩をすくめた。
「アタシの店はこの先の路地なのよ。店に行く途中でたまにアンタのこと見かけてた」
「ふうん」

 確かに、駅裏通りに入れば居酒屋やらスナックやらが並んでいる。それのどこで彼女が働いているのかは知らないが、そのうちの一軒がそうなのだろう。
 頷いて、颯斗は口を閉じた。
 が、話のきっかけを作ってやったのに、母親はまた黙ってしまう。目は、テーブルの上で組まれた両手に落ちていた。
 カウンターの方に目を走らせると、綾音は背伸びをしてカップを高いところにしまっていた。彼女を手伝ってやりたいのに母親に掴まっていて、イライラする。

「で、用は?」
 むっつりした声でそう促すと、たっぷり五秒はしてから、母親が目を上げた。

「再婚しようと思って」
「は?」

 思わず、ポカンと口を開けてしまう。
 一度始めてしまうと、気が緩んだようだ。
 母親は、真っ直ぐに颯斗の目を見て、続ける。

「プロポーズされたの。で、相手の人がアンタに会いたいって」
「誰に?」

 振り返ってみると、ここ半年ほど、彼女が男を家に連れ込んだ記憶がない。そう言えば、化粧や服装も以前よりも地味というか、落ち着いた雰囲気になっている。

「一年くらい前から店に来るようになった人なんだけど」
 また、視線が下がる。
「店で、ヴァレンタインにお客にチョコを配ったのよね。そうしたら、彼がホワイトデーにお返しくれて……結婚前提で付き合って欲しいって」
「へえ」

 今まで母親が付き合ってきた男たちは、彼女に貢がせるばかりだった。たとえ『お返し』だとしても、これまでの奴らとは大きな違いだろう。

「どんな奴?」
「年は四十二歳。結婚してたけど五年前に奥さん亡くなったって。アンタよりも二つ年下の女の子がいる」
「……なんか、普通っぽいな」

 他に何と言っていいのか判らず、そう呟くと、母親は小さく笑った。

「うん、すごく普通。普通のオッサン。地味で、最初にうちの店に来たのも接待の付き合いで、普段はそういうとこ全然行かないんだってさ。通うのは、アタシんとこだけだって」
 彼女の頬は、心なしか紅い。
「……彼の娘さんにも、もう何回か会ってるんだ」
「そう」

 また、沈黙。
 彼女の組んだ手にギュッと力が入る。その目は忙しなく動く親指を見つめていた。
 しばらくそうしていてから、母親はまた話し出した。ポツリポツリと、言葉を選ぶのに苦労しているように。

「あのさ、アンタを妊娠した時、アタシは十六で、友達は皆まだ学校行ってて、好きなように遊んでて……ホント、なんでアタシがって思ったんだ」

 十六。
 今の颯斗と同じ年だ。
 当時の彼女の状況など、颯斗はこれまで考えてみたことが無かったけれど。
 彼は、早く綾音を支えられるような、彼女に頼られるような大人になりたいと思っているが、裏を返せば、自分はまだ子どもだと思っているということだ。
 そんな自分が、親になる。

(それって、どうなんだろう)

 想像もできない。
 黙りこくったままの颯斗が自分の言葉をどう受け止めたと思っているのか、母親は続ける。一段と、声を低くして。

「産めない、中絶するってアンタの父親に言ったら、結婚するから産んでくれって言われたわ。アタシの親には、子どもを産むなら家を出て行けって言われてさ」
 そこで彼女は小さく笑った。いや、多分、笑ったのだと思う。それは、自嘲の響きを含んでいた。
「迷ってたらさ、いつの間にかもう選べる時期を越しちゃってたんだよね。でさ、最初は、ううん、実際にアンタが生まれるまでは、全然親になる自覚なんてなかった。結局どうしようもなくなってアイツと結婚してアンタを産んでさ」

 つまりそれは、徹頭徹尾、颯斗のことなど欲しいと思っていなかったということだ。
 改めて母親からその事実を突き付けられたわけだけれども、今更だからだろうか、不思議と、何も感じなかった。
 他人事のように話を聞き流す颯斗から目を逸らしたまま、母親が続ける。

「アイツは二十歳越えてたからさ、二人でアパート借りて暮らすようになって……でも、アイツはだんだん家から離れていってさ。今思うと、アタシも悪かったんだなって。アイツのこと責めてばっかだったから。妊娠したこと恨んで、顔合わせれば子育てとか家のこととか何もかもに文句言って。アンタが生まれてからはアタシも働くようになって、気付いたら、アイツは全然帰ってこなくなってた。いつの間にかアタシの方が稼ぐようになってたから、逆に、アタシの方がアイツに金渡すようになってたりしてね」
 はは、と、母親が作り物めいた笑い声を漏らす。

「今も恨んでんの?」
「今は……判らない」

 颯斗の問いに、彼女はポツリとこぼすように答えた。そうして、グッと顔を上げて彼と視線をしっかりと絡ませる。

「ただ、アンタに悪いことしてたってことは、判るようになった。アンタへの態度のことを周りがどう思ってたか判ってたんだ。水商売で、ろくに子どもの世話もしないで男連れ込んで……って。だけど、白い目で見られれば見られるほど、アタシも意固地になってた。知るもんかって。聞こえてくるのは悪口ばっかで、あんな奴らに何を言われてもどう思われても全然いいし、って思ってさ。……割食ったのは、アンタなんだよね」

 それは、颯斗に対する謝罪ではなかった。強いて言うなら、告白、だろうか。
 だから母親がこぼしたその台詞を颯斗も受け止め損ねて、二人の間で漂った。

「あのさ」

 母親が、それまでになくおずおずとした声を発した。
 いつの間にかまたテーブルの上をさまよっていた視線を上げて、颯斗は彼女を見る。

「あの人、アタシに『大変だったね』って言ってくれたんだ。アンタができて親にも愛想尽かされて、アイツがいなくなってアンタを独りで育てることになって……ぽつぽつそういう話をあの人にしてたら、『大変だったね』って」

 まあ、そう言われてみれば、そうだ。
 二十歳そこそこで働いて子ども育てて……となれば、それは大変なことに違いない。
 颯斗はほとんど共感に近い感情を抱いたけれど、マジマジと見つめてくる彼の眼差しに何を見て取ったのか、母親は苦笑混じりでかぶりを振った。

「アンタからしたら何甘えたこと言ってんだって感じだろうけど、その時、『ああ、アタシ、大変だったんだな』って、思ったのよ」

 組まれていた母親の手が解かれる。それがほんの少しだけ動いた――颯斗の方に。
 けれど、結局それが近付くことはなくて、彼女は浅く微笑んだ。

「正直言って、今だってアンタのこと愛してるとは言えない。アンタのことどう思ってるのか、アタシにも判らないのよ。だけど、やっぱり、アンタはアタシの子どもだから、あの人とのこと、アンタにも認めて欲しいの」

 颯斗は母親を見つめた。
 いつの間にかその眼差しからは彼の記憶にあるヒステリックな色は消えていて、三十三歳という年齢相応の落ち着きと取って代わっていた。

(変わったな)

 颯斗の頭の中に浮かんだのは、それだけだ。
 そのことに対して何か感じるには、もう母との距離が開き過ぎてしまったのかもしれない。

「会うよ。いつ?」

 一瞬、母親が固まった。

「今週の金曜……九月十日」
「急だな」
「ムリなら――」
「行ける」
「……ありがと。じゃあ、場所とか決まったらまた言うから」

 颯斗が頷くと、即座に彼女は席を立った。そうして、何の余韻も残さず店を出て行く。
 鼓膜から完全にカウベルの音が消え失せるまで、颯斗は座ったままだった。

 綺麗に拭かれたテーブルの上を見つめて、どれほどの時間が過ぎた頃か。

 不意に、コトンと小さな音と共にマグカップが視界に入り込んでくる。
 中身は――ココアだ。指先で触れてみると、温かい。
 のろのろと視線を上げると、テーブルの脇に綾音が立っていた。

「お母さん、綺麗な人だね」
「そうか?」

 そうかもしれない。
 だから、今では店でもトップのホステスになれているのだろうし、次から次へと男ができるのだろう。
 これまで母親が付き合ってきた男は、彼女と同じように見てくればかりの飾り物のような連中ばかりだった。そもそも母親とろくに言葉を交わしたことがないのだが、それでも、相手の男を颯斗に紹介したいだとか、彼がどんなふうに言っていただとか、聞いたことがなかった。

 久し振りにまともに顔を合わせた母親はあまりにも颯斗の頭の中にいる彼女とは違っていて。

「……何か、変な感じ」
 呟いて、そして小さく笑う。
 母親は変わったけれど、彼女が颯斗に対して抱いているものは、変わらないらしい。

「別に、いいけどさ、今さらだし」
 無意識のうちに、頭の中の台詞が口からこぼれていることに、颯斗は気付いていなかった。

 だから。

「わたしは、颯斗くんのことが好きだよ」

 唐突に綾音がそんなことを言い出したことに、ポカンとしてしまう。

「は?」
「わたしは颯斗くんのことが好き。お姉ちゃんも颯斗くんのことが好き。今井くんも、ほら、あの、木下さんも。……ね?」
 そう言って、綾音は小さく首をかしげてニコリと笑った。

 颯斗の頭は突然綾音が放った『好き』という一言に一瞬舞い上がり、そしてずらずらと並んで出てくる名前にちょっとばかりがっかりする。
 はは、と、小さな笑いが颯斗の口から漏れた。

 胸が、苦しい。
 母親の言葉だとか、綾音の『告白』だとか、色々混じってしまっていて、それがつらい苦しさなのか甘い苦しさなのか、彼自身にもよく判らない。
 とにかく、喉の辺りに何かがこみ上げてきて、呼吸もままならないような感じがした。
 見上げて目が合えば、綾音が微笑み返してくれる。

 彼女は、いつもそうだった。
 いつも、欲しい言葉と眼差しと微笑みと温もりをくれる。
 それらはどれも、彼が欲しているとは夢にも思っていなかった、けれどもいざ与えられるとどれほど欲していたのかを実感する――そんなものばかりだった。
 それらをくれるひとだから、彼女を求めてしまうのだろうか。
 颯斗は、衝動に駆られて手を伸ばした。

「ひゃ!?」

 間の抜けた綾音の悲鳴に構わず、彼女の腰に腕をまわして引っ張った。華奢なそれを両腕で囲むようにして引き寄せてしがみ付き、彼女のみぞおちの辺りに顔を押し付ける。

「は、はやとくん?」
 裏返った彼女の声で名前を呼ばれても無視して、いっそう力を込める。

 服の布地を通してじんわりと彼女の体温が伝わってきて、額には、トットットッと、仔猫のように速い鼓動が感じられた。
 こんなふうに脈が速まるなら、少しは彼のことを男として意識しているということなのだろうか。
 そんな考えが颯斗の頭の中をチラリとよぎる。
 と思ったら、宙に浮いていた綾音の手がそっと彼の頭に置かれて、細い指先が髪の中に潜り込んできた。

 優しい手つきで撫でてくるそれに、颯斗は心地良さと同時に微かな落胆を覚える。
 相変らず、伝わってくる鼓動はまるで全力疾走しているかのように速いものだけれど。

(男として見てたら、抱き付いて来た奴の頭をこんなふうに撫でたりしないよな)

 少なくとも、荘一郎そういちろうに対しては、しないだろう。
 颯斗は、苦笑混じりに胸の中でそう自嘲する。
 そうして彼は腕の力を緩め、首を反らせて綾音を見上げた。力は緩めても、まだ顎から下は離れていない――颯斗は、もう少しの間、彼女の温もりに浸っていたかった。
 間近で見つめた綾音の目には、何となく、戸惑いとか困惑に似た光が混じっているような気がする。頬が微かに赤いのは、さすがに彼を小学生の時と同じようには思えないからだろうか。

(まあ、これだけ図体が変われば、当然だよな)

 普段、男性との接触など皆無な綾音だ。多分、颯斗を意識して、というよりも、単純にガタイのいい男にしがみ付かれているから、だろう。
 多少は男と認識してくれて入るけれど、颯斗だから、幼い子ども立った頃から知っている彼だから、振り解かない――振り解けない。

 慈愛、同情、庇護欲。

 こんな時に綾音の中にある想いは、颯斗が彼女に望んでいるものとは、違う。
 そんなふうに想って欲しいわけじゃない。
 そう思ったけれど、颯斗は綾音を放さない。
 普通なら多大なダメージを与えるだろう母親の台詞が少しも響いていないのは、多分、この温もりがあるからだ。

「五年前なら、死にたくなってたかもな」

 小さく笑いながらそう言うと、触れていた綾音の指が一瞬ピクリと跳ねて、また動き出した。
 その優しい感触に、颯斗は瞼を閉じる。
 吐いたセリフは、半分冗談、半分真実だ。
 五年前は、綾音と出逢う前は、全てがどうでも良かったから。
 あの頃、颯斗はただ存在しているというだけだった。母が産んだから存在しているだけの、ただそれだけのもの。
 この世界との唯一のつながりだったろう母親が彼のことを要らないのだと言えば、なんのためらいもなく消え失せることができていたはずだ。

 けれど、今は違う。
 今の颯斗には、手放したくないものがあり過ぎる。
 一番は、今、腕の中にあるもので。
 颯斗はもっとがむしゃらにそれを抱き締めたくなるのをこらえて、綾音の目を見つめながらさっきの彼女の台詞に応える。
 重い言葉は、まだ綾音は受け止めきれないから、軽い口調で、けれど、心の底からの想いを込めて。

「俺は、綾音のこと愛してるよ」

 瞬間、彼女の鼓動がタタッと乱れた。同時に、ほんのり紅いという程度だった頬が、一瞬にして完熟リンゴ並みになる。

(え?)

 予想外の反応に、思わず颯斗の腕が解けた。
 その隙を突いて、二、三歩綾音が後ずさる。

「もう! わたしは真面目に言ったのに!」

 彼女は、怒っている。
 いや、怒っているのとは、少し違うか。
 彼女は、混乱している。
 けれど、何がそんなに綾音を困らせているのかが、判らない。

「別に、からかったわけじゃ――」

 颯斗は眉をひそめてそう答えつつ腰を浮かせたが、綾音はワタワタと更に挙動不審な動きになる。まるで、近付こうとする彼から逃げようとするかのように。

「知らない! 颯斗くんのバカ!」
「あ、ちょっと、綾音――」
「わたし、違うよ。そうじゃないもの」
「は? 綾音?」
「わたしの気も、知らないで……」

 そんな台詞と共に、彼女は店の奥――自宅の中へと駆けこんでいってしまった。

 なんで、こうなったのか。
 まったく、訳が解からない。
 自分が支離滅裂でさっぱり意味不明な事を言っているということに、彼女は気付いているのだろうか。
 颯斗としては、いつものように笑顔で「わあ、うれしい。わたしも大好き」くらいの反応があるだろうと思っていたのだが――どこからどう見ても今の綾音は取り乱していた。

 そもそも。

「『わたしの気も知らないで』って、そりゃ、俺の台詞だろう」

 綾音にそんなふうに言われる理由がさっぱり思い浮かばない。
 なすすべもなく彼がポカンとしていると、綾音と入れ替わりで利音が姿を見せた。

「あんた、いったい何したの? アヤ、すごい勢いで自分の部屋に駆け込んでいったんだけど」
 呆れたような声で彼女にそう言われても、颯斗にも答えられない。

「何って、何も……」

 抱き付いた――けど、それではない筈だ。
 その時点では、ある意味『普通』だった。
 状況を反芻する颯斗の脳裏に浮かぶのは、短い会話の後の、綾音の顔だ。
 真っ赤で、怒っているようでいて泣きそうにも見えて――

(ヤバ。可愛い)

 そんな場合ではないことが判っているけれど、つい、頬が緩んだ。
 多分、よほど締まらない顔をしていたのだろう。
 カウンターの向こうから、盛大なため息が聞こえる。

「……何だか知らないけど、ちゃんとしなさいよ?」

 利音のそんな台詞は、颯斗の右耳から左耳へと素通りしていった。
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