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Ⅲ:捨てられ王子の綺羅星
二つの場所で:衝撃の光景
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その日もアレッサンドロは夜明けと共に動き出し、朝食もそこそこに執務室に腰を据えていた。
リナルドが次々差し出してくる書類の数々を、いつものように彼の目と手と頭は黙々と処理していく。が、いつものように十割の力を政務に注ぎ込むことはできていない。
常にアレッサンドロの思考の底にわだかまり、ふと手を止めた拍子にふわりと浮上してくるのは、もちろん、ステラのことだ。
(くそ、情けない)
アレッサンドロは、自分は理性と自制心を充分に備えた人間だと思っていた。
ディアスタ村に王宮からの迎えが来た時はステラと離れたくないという自分の感情よりも彼女の言葉に従ったし、八年間、ステラに逢いたいという想いよりも彼女の為に国を立て直すのだという使命感を優先させてきた。
長年、それができていたというのに、たった三ヶ月でこのざまだ。
結局、『本物』相手ではどう足掻いても負けるのだ。アレッサンドロの中にあった記憶や想像のステラなど、実際の彼女の足元にも及ばないということなのだろう。
これまで数多の女性に対峙してもピクリとも動かなかった心が、彼女に対してはたった三ヶ月で情けないほどにもろくなる。
極力接触を避けていたというのにこの体たらく。自分に対して腹が立って仕方がない。
(早く手を打たないと)
苛々と、アレッサンドロの爪の先が卓上を叩く。字を目で追い、情報を分析し、問題を解決しながらその仕草が出てしまうようになったのは、ここ二、三ヶ月のことだ。そうでもしていないと、こうやって椅子に座っていることが耐え難くなる。
本気で、ふと気付いたら彼女を離宮にでも閉じ込めていたという事態にもなりかねない。
やはり、速やかにステラを自分から遠ざけなければ。
だが、アレサンドロに拒まれたと思えば彼女は傷つくだろう。そう思わせずにここを去らせるには、どうしたら良いものか。
書類処理と同時進行でそんなことを考えていたアレッサンドロの耳に、その時、小さな呟き声が届く。「おや」とか何とか、驚きの響きが混じった一言だ。
「何か言ったか?」
職務中は必要最低限の言葉しか発しないリナルドの、思わず、といった風情のその声に、アレッサンドロは眉をひそめる。
「ああ、いえ、お気になさらず」
そう言って、リナルドは目を伏せたが、曖昧な応えが明らかに胡散臭い。これは何か企んでいるに違いない、乗ったら負けだと理解しつつ、アレッサンドロは老宰相を睨み付けた。
「何なんだ」
リナルドはチラリとアレッサンドロを見てから、窓の外へと目を向ける。
「いや、庭にですね、最近、ジーノ様とステラ殿がお揃いのところをお見かけするな、と」
「……」
あごひげをしごきながら首をかしげたリナルドはさも今気が付いたと言わんばかりだが、そんなはずがない。二人の姿が並ぶようになってから、少なくとももう五日は経っているのだから。この抜け目のない狸が気付いていなかったはずがないのだ。
アレッサンドロは奥歯を食いしばり、罵りを喉の奥に押し込める。
ステラのことには言及したくなく、さりとて、完全にこの話を無視すればまた勘繰られるに違いない。当たり障りのない、揚げ足を取られることもない台詞を、アレッサンドロはどうにか捻り出す。
「――ここのところ、兄上は体調がよろしいようだな」
八年前に再会した時は、広間で顔を合わせた後、ジーノは十日間寝込んだ。その後も寝台から出ることができず、その何年も前から、政務も寝室で執り行われていたのだという。
アレッサンドロが政を代行できるようになると多少は負担が減ったのか部屋の中を歩き回るくらいのことはできるようになったが、それでも、城の外で姿を見ることはもう何年もなかったのだ。
窓の外では、ステラとジーノが笑顔を交わしている。
その光景に、アレッサンドロの胸がチクリと痛んだ。
今目の前の二人に対して感じた痛みなのか、それとも、胸の奥に沈めたはずの温かな記憶を刺激されたせいなのか。
ギュッと眉間に力を込めたアレッサンドロの前を横切り、リナルドが窓際に寄る。
「さようでございますね。昨年医学院に招いた東方からの医師のお陰かと。我々が見たこともないような薬草の知識を山ほどお持ちだとか」
しみじみとした口調での宰相の言葉には、珍しく感情がこもっていた。アレッサンドロよりも長い間兄の傍にいた彼にとって、あんなふうに庭で笑う姿を目にすることができるとは夢にも思っていなかったに違いない。そもそも、アレッサンドロが呼び戻されたのも、いよいよ兄の先行きが怪しくなってきたからだったのだから。
依然として王としての役割を果たすことは難しいだろうが、今のジーノであれば、明日をも知れない身とは言い難い。治療と環境によっては、この先十年、二十年も考えることができるだろう。
そう思いが至ったところで、アレッサンドロは一つの手を思いつく。
「兄上にはもっと静かなところで療養してもらったらどうだろう」
例えば、ディアスタ村とか。
ジーノの世話を頼むという形なら自然にステラを村に帰せるし、眼下の二人の様子を見るに、きっと、彼女も喜んで引き受けるだろう――そう考えたアレッサンドロの胸が、また疼いた。先ほどよりも、強く。
今度の痛みの理由は明白だったから、アレッサンドロはそれを呑み下した。
「ステラも、あの人と気が合うようだしな」
努めて何気ない口調でそう付け足したアレッサンドロに、リナルドが微かに目を細める。
「よろしいのですか?」
「何が」
アレッサンドロは問いに問いを返したが、リナルドは答えが判っていてそう訊いてきたのだろう。何も言わずにアレッサンドロを見返してきただけだった。
アレッサンドロはひたと注がれるリナルドの視線から眼を逸らす。
もちろん、良くはない。欠片も良くない。
自分以外の誰かと時を紡いでいくステラの姿を想像するだけで、胸の奥が煮えるようだ。
だが、八年間離れていられたのだから、距離さえおけば、きっとまた大丈夫になれるはず。いずれまた、離れたところから穏やかな気持ちで彼女を見守っていけるようになるはずだ。
アレッサンドロは再び窓に目を向けた。
ステラと、ジーノ。
彼女といくつか言葉を交わし、兄の顔が満面の笑みで輝いた。
かつては、ステラの傍であの笑顔を浮かべていたのはアレッサンドロだった。
(多分、俺は、もう二度とあんなふうに笑えることはないのだろう)
つらいのに眼を逸らすことができずにいるアレッサンドロが見守る中で、ジーノに呼ばれたようにステラが数歩彼に歩み寄った。手の届く距離まで近づいた彼女に、彼が手を伸ばす。
そのひとに、触れるな。
思わず胸の内で叫んだその声が届いたかのように、ステラの肩越しに、兄と目が合った気がする。と思った次の瞬間、アレッサンドロは重厚な椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「どうされました?」
訝しげな眼差しで問いかけてきたリナルドに、アレッサンドロは気もそぞろに返す。
「なんでもない」
答えたアレッサンドロの頭に溢れていたのは、たった今目にした光景だった。
離れているから、はっきりとそうだとは言えない。
だが、座るジーノがステラに手を伸ばし、それに応えて身を屈めた彼女のあの所作は――
(口づけ、た?)
バクバクと、心臓が痛いほどに胸郭を打っていた。
いや、口づけを交わしてはいなくても、礼儀作法を絵に描いたようなジーノは、余程親しい間柄でなければ女性に触れたりはしないだろう。ステラだって、相手が子どもならともかく、ジーノのようないい年をした男に気軽に頬を触らせたりはしない筈。
つまり、彼らは、アレッサンドロが気付かぬ間にそれを許す間柄になっていたということで。
アレッサンドロはきつく拳を握り込む。
(それなら、好都合じゃないか)
それほどの間柄になっているのなら、二人揃ってディアスタ村に行かせるのはとても自然な事になるではないか。
アレッサンドロは胸の内でそう自分自身に言い聞かせようとしたが、少しも好都合だとは思えない。
「くそ」
肯定の代わりに口からこぼれ出した罵りの一言に、リナルドが軽く眉を上げた。
「今、何と?」
「何でもない。他に書類は?」
宰相の問いにはかぶりを振って、アレッサンドロは椅子に尻を戻す。
今は、もう、余計なことを考えたくはなかった。何なら、三日間不眠不休で政務をこなしてもいい。むしろ、そうしたい。
半ばやけになった主をリナルドはしげしげと見つめてから、頷いた。
「……では、こちらを」
微かな間に含みを感じてアレッサンドロは老宰相を目だけで見上げたが、彼はいつも通りに淡々と書類を差し出しただけだった。
リナルドが次々差し出してくる書類の数々を、いつものように彼の目と手と頭は黙々と処理していく。が、いつものように十割の力を政務に注ぎ込むことはできていない。
常にアレッサンドロの思考の底にわだかまり、ふと手を止めた拍子にふわりと浮上してくるのは、もちろん、ステラのことだ。
(くそ、情けない)
アレッサンドロは、自分は理性と自制心を充分に備えた人間だと思っていた。
ディアスタ村に王宮からの迎えが来た時はステラと離れたくないという自分の感情よりも彼女の言葉に従ったし、八年間、ステラに逢いたいという想いよりも彼女の為に国を立て直すのだという使命感を優先させてきた。
長年、それができていたというのに、たった三ヶ月でこのざまだ。
結局、『本物』相手ではどう足掻いても負けるのだ。アレッサンドロの中にあった記憶や想像のステラなど、実際の彼女の足元にも及ばないということなのだろう。
これまで数多の女性に対峙してもピクリとも動かなかった心が、彼女に対してはたった三ヶ月で情けないほどにもろくなる。
極力接触を避けていたというのにこの体たらく。自分に対して腹が立って仕方がない。
(早く手を打たないと)
苛々と、アレッサンドロの爪の先が卓上を叩く。字を目で追い、情報を分析し、問題を解決しながらその仕草が出てしまうようになったのは、ここ二、三ヶ月のことだ。そうでもしていないと、こうやって椅子に座っていることが耐え難くなる。
本気で、ふと気付いたら彼女を離宮にでも閉じ込めていたという事態にもなりかねない。
やはり、速やかにステラを自分から遠ざけなければ。
だが、アレサンドロに拒まれたと思えば彼女は傷つくだろう。そう思わせずにここを去らせるには、どうしたら良いものか。
書類処理と同時進行でそんなことを考えていたアレッサンドロの耳に、その時、小さな呟き声が届く。「おや」とか何とか、驚きの響きが混じった一言だ。
「何か言ったか?」
職務中は必要最低限の言葉しか発しないリナルドの、思わず、といった風情のその声に、アレッサンドロは眉をひそめる。
「ああ、いえ、お気になさらず」
そう言って、リナルドは目を伏せたが、曖昧な応えが明らかに胡散臭い。これは何か企んでいるに違いない、乗ったら負けだと理解しつつ、アレッサンドロは老宰相を睨み付けた。
「何なんだ」
リナルドはチラリとアレッサンドロを見てから、窓の外へと目を向ける。
「いや、庭にですね、最近、ジーノ様とステラ殿がお揃いのところをお見かけするな、と」
「……」
あごひげをしごきながら首をかしげたリナルドはさも今気が付いたと言わんばかりだが、そんなはずがない。二人の姿が並ぶようになってから、少なくとももう五日は経っているのだから。この抜け目のない狸が気付いていなかったはずがないのだ。
アレッサンドロは奥歯を食いしばり、罵りを喉の奥に押し込める。
ステラのことには言及したくなく、さりとて、完全にこの話を無視すればまた勘繰られるに違いない。当たり障りのない、揚げ足を取られることもない台詞を、アレッサンドロはどうにか捻り出す。
「――ここのところ、兄上は体調がよろしいようだな」
八年前に再会した時は、広間で顔を合わせた後、ジーノは十日間寝込んだ。その後も寝台から出ることができず、その何年も前から、政務も寝室で執り行われていたのだという。
アレッサンドロが政を代行できるようになると多少は負担が減ったのか部屋の中を歩き回るくらいのことはできるようになったが、それでも、城の外で姿を見ることはもう何年もなかったのだ。
窓の外では、ステラとジーノが笑顔を交わしている。
その光景に、アレッサンドロの胸がチクリと痛んだ。
今目の前の二人に対して感じた痛みなのか、それとも、胸の奥に沈めたはずの温かな記憶を刺激されたせいなのか。
ギュッと眉間に力を込めたアレッサンドロの前を横切り、リナルドが窓際に寄る。
「さようでございますね。昨年医学院に招いた東方からの医師のお陰かと。我々が見たこともないような薬草の知識を山ほどお持ちだとか」
しみじみとした口調での宰相の言葉には、珍しく感情がこもっていた。アレッサンドロよりも長い間兄の傍にいた彼にとって、あんなふうに庭で笑う姿を目にすることができるとは夢にも思っていなかったに違いない。そもそも、アレッサンドロが呼び戻されたのも、いよいよ兄の先行きが怪しくなってきたからだったのだから。
依然として王としての役割を果たすことは難しいだろうが、今のジーノであれば、明日をも知れない身とは言い難い。治療と環境によっては、この先十年、二十年も考えることができるだろう。
そう思いが至ったところで、アレッサンドロは一つの手を思いつく。
「兄上にはもっと静かなところで療養してもらったらどうだろう」
例えば、ディアスタ村とか。
ジーノの世話を頼むという形なら自然にステラを村に帰せるし、眼下の二人の様子を見るに、きっと、彼女も喜んで引き受けるだろう――そう考えたアレッサンドロの胸が、また疼いた。先ほどよりも、強く。
今度の痛みの理由は明白だったから、アレッサンドロはそれを呑み下した。
「ステラも、あの人と気が合うようだしな」
努めて何気ない口調でそう付け足したアレッサンドロに、リナルドが微かに目を細める。
「よろしいのですか?」
「何が」
アレッサンドロは問いに問いを返したが、リナルドは答えが判っていてそう訊いてきたのだろう。何も言わずにアレッサンドロを見返してきただけだった。
アレッサンドロはひたと注がれるリナルドの視線から眼を逸らす。
もちろん、良くはない。欠片も良くない。
自分以外の誰かと時を紡いでいくステラの姿を想像するだけで、胸の奥が煮えるようだ。
だが、八年間離れていられたのだから、距離さえおけば、きっとまた大丈夫になれるはず。いずれまた、離れたところから穏やかな気持ちで彼女を見守っていけるようになるはずだ。
アレッサンドロは再び窓に目を向けた。
ステラと、ジーノ。
彼女といくつか言葉を交わし、兄の顔が満面の笑みで輝いた。
かつては、ステラの傍であの笑顔を浮かべていたのはアレッサンドロだった。
(多分、俺は、もう二度とあんなふうに笑えることはないのだろう)
つらいのに眼を逸らすことができずにいるアレッサンドロが見守る中で、ジーノに呼ばれたようにステラが数歩彼に歩み寄った。手の届く距離まで近づいた彼女に、彼が手を伸ばす。
そのひとに、触れるな。
思わず胸の内で叫んだその声が届いたかのように、ステラの肩越しに、兄と目が合った気がする。と思った次の瞬間、アレッサンドロは重厚な椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「どうされました?」
訝しげな眼差しで問いかけてきたリナルドに、アレッサンドロは気もそぞろに返す。
「なんでもない」
答えたアレッサンドロの頭に溢れていたのは、たった今目にした光景だった。
離れているから、はっきりとそうだとは言えない。
だが、座るジーノがステラに手を伸ばし、それに応えて身を屈めた彼女のあの所作は――
(口づけ、た?)
バクバクと、心臓が痛いほどに胸郭を打っていた。
いや、口づけを交わしてはいなくても、礼儀作法を絵に描いたようなジーノは、余程親しい間柄でなければ女性に触れたりはしないだろう。ステラだって、相手が子どもならともかく、ジーノのようないい年をした男に気軽に頬を触らせたりはしない筈。
つまり、彼らは、アレッサンドロが気付かぬ間にそれを許す間柄になっていたということで。
アレッサンドロはきつく拳を握り込む。
(それなら、好都合じゃないか)
それほどの間柄になっているのなら、二人揃ってディアスタ村に行かせるのはとても自然な事になるではないか。
アレッサンドロは胸の内でそう自分自身に言い聞かせようとしたが、少しも好都合だとは思えない。
「くそ」
肯定の代わりに口からこぼれ出した罵りの一言に、リナルドが軽く眉を上げた。
「今、何と?」
「何でもない。他に書類は?」
宰相の問いにはかぶりを振って、アレッサンドロは椅子に尻を戻す。
今は、もう、余計なことを考えたくはなかった。何なら、三日間不眠不休で政務をこなしてもいい。むしろ、そうしたい。
半ばやけになった主をリナルドはしげしげと見つめてから、頷いた。
「……では、こちらを」
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