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眠り姫の起こし方
九
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「ただいま」
その声に、居間でゴロゴロしながらテレビを観ていた睦月は、そのまま肘を突いてずりずり這って廊下を覗き込んだ。
「おかえり」
かまちで靴を脱いでいる姉に、そう声をかける。
「あれ? 早いね」
顔を上げた弥生はきょとんと彼を見返してきた。
睦月にはクラブユースからの誘いもあったけれど、それを蹴って、家から通える距離にあるサッカー部の有名な高校へ推薦入学したのだ。部活の練習はかなり厳しく、いつも帰宅は夜遅くになる。弥生より先に彼が家にいることなど、ない。
まだ明るいうちに彼が家にいるのを見て、弥生が目を丸くするのも当然だ。
そう言えば伝えていなかったか、と睦月は胸の中でポンと拳を手のひらに打ち付ける。
「ああ、今日と明日は試験だから」
廊下をやってくる弥生に合わせて、睦月はよいせとばかりに腹筋を使って起き上がった。
と、居間の様子が目に入ってきて、彼はしまった、と眉をしかめる。
試験だからと言った睦月の前には、食卓の上にポテトチップス、テレビでやっているのはワイドショーと、どこをどう見ても試験中の学生ではない。すわ、お説教か、と睦月は身構えた。
しかし。
「寝転がってお菓子食べてたらダメだよ」
母親代わりを自認している筈の姉は、ぐうたらな弟の姿を前にして、心ここに有らずの様子で居間を出て行ってしまう。
おかしいな、と睦月が首を傾げたその時、派手な効果音とともに新しいワイドショーが始まった。その冒頭で司会が口にした内容と画面いっぱいに広がる写真に、目を丸くする。
「あいつに、女……? ウソだろ」
どのようにでも取れるスクープ写真と、明らかに誇張されている解説内容は信憑性が乏しかったが、こんな内容を暴露させてしまうなど、一輝らしくない。そこまで考えて、睦月は弥生の様子が変だった原因に気付く。
一気に事態を呑み込めた。
胡坐になって、ガリガリと頭を掻く。
「まったくなぁ」
一輝も、慎重にコトを進めたいのはわかるが、もう少し押してもいいのではないかと、睦月は思うのだ。彼が弥生にはっきりと意思表示していれば、こんな下らないネタなど彼女だって笑い話にできるだろう。
もっとも、傍から見ていたらもろバレな一輝の気持ちに気付かない弥生の方がどうかしているのかもしれないが。
ため息を一つ吐くと、睦月は立ち上がって姉の部屋へ向かう。
戸をノックすると、少し間が空いてから返事があった。
「なあに?」
十五歳らしからぬ大柄な身体でのっそりと部屋に入る睦月を、制服のままベッドに腰掛けた弥生が首を傾げて見上げる。こんなふうにぼんやりしているのも、彼女らしくない。
「あのさ、アイツのこと……」
一瞬、弥生の目が揺らぐ。
やっぱりそれか、と、睦月は内心ため息をついた。
「気にしてんの?」
「え、何が?」
とぼけようとした弥生の前に、胡坐をかいて座る。椅子だと彼女を見下ろす形になってしまうので、今は敢えて床にした。
「一輝と女のコト、なんかで見たんだろ?」
「……」
弥生は無言で目を逸らした。その『らしくなさ』に本人は気付いているのかどうなのか。
「アイツに訊いたらいいじゃんか。喜んで教えてくれるぜ」
睦月も、森口と同じことを口にする。弥生は硬い顔でプイ、とそっぽを向いた。
「別に、訊く必要なんか、ないよ」
「でも、気になってるんだろ?」
「なってないよ。一輝君は弟みたいなものだもの」
言い張る弥生に、睦月は呆れた眼差しを向ける。
「ホントにそう思ってんの? だったら、アイツ泣いちまうぜ? 少なくとも、俺がアイツの立場だったら、泣くわ」
本当に、心からの言葉である。惚れている女から受ける扱いで『弟』『兄』『父』『友達』のうち、どれが一番きついかと言われたら『弟』だろう。男として身も蓋もないではないか。『兄』『父』だったら頼りがいがあると取れないこともないし、『友達』だったら少なくとも他人だ。だが、『弟』ではどちらも否定される。
「俺だったら、ぜっったい、イヤだね」
大好きな弟に力いっぱい否定され、弥生は俯いた。
「睦月は、わたしの弟じゃない方がいいの?」
「俺はいいんだよ。でも、アイツはイヤがるって言ってるの」
「でも……」
口ごもる弥生に、何がこんなにも姉を躊躇わせるのだろうかと睦月は疑問に思う。
弥生が、時々、いやしょっちゅう、一輝と出かけているのは知っている。
そして、彼と過ごした後に浮かべている姉の表情には、一輝に対する彼女の気持ちが透けて見えていた。
元々、弥生はきちんと考えることはするけれども、うだうだ悩む方ではない。割と即断即決の方だ。そんな姉のこの煮え切らなさは、いったい何なのだろう。
一輝が弥生を諦めるとも思えない。他の男が手を出そうとしても、彼は徹底的に妨害するだろう。そうなれば、大事な姉は下手をするといき遅れになってしまう。
まあ、睦月としてはそれでも構わないといえば構わないのだが。
「まあさ、これを機会に、ちょっとじっくりアイツと話しをしたら? あのネタのことを知ったら、多分、すぐやってくるぜ?」
正直なところ、まだ姿を現していないことの方が睦月にとっては不思議なくらいだ。
そんなことを思ったとき、タイミングよく玄関の呼び鈴が鳴る。
「噂をすれば影、かな」
よっこらせ、と立ち上がり、睦月は部屋を出て行った。
*
残された弥生は、ジッと自分の手のひらだけを見つめていた。
――何故、皆、変えようとするのか。何故、今のままではいけないのか。
「『弟』でいいじゃない。『弟』の方が――」
――ずっと、一緒にいられるんだから。
その呟きは、声には出せない。そんなふうに考えてしまう自分を、浅ましいと弥生は思った。彼の隣に立つ勇気はないくせに、傍にいることは望む自分を。
やがて、足音が階段を上ってくる。
弥生は、部屋の戸が叩かれないことを願った。
その声に、居間でゴロゴロしながらテレビを観ていた睦月は、そのまま肘を突いてずりずり這って廊下を覗き込んだ。
「おかえり」
かまちで靴を脱いでいる姉に、そう声をかける。
「あれ? 早いね」
顔を上げた弥生はきょとんと彼を見返してきた。
睦月にはクラブユースからの誘いもあったけれど、それを蹴って、家から通える距離にあるサッカー部の有名な高校へ推薦入学したのだ。部活の練習はかなり厳しく、いつも帰宅は夜遅くになる。弥生より先に彼が家にいることなど、ない。
まだ明るいうちに彼が家にいるのを見て、弥生が目を丸くするのも当然だ。
そう言えば伝えていなかったか、と睦月は胸の中でポンと拳を手のひらに打ち付ける。
「ああ、今日と明日は試験だから」
廊下をやってくる弥生に合わせて、睦月はよいせとばかりに腹筋を使って起き上がった。
と、居間の様子が目に入ってきて、彼はしまった、と眉をしかめる。
試験だからと言った睦月の前には、食卓の上にポテトチップス、テレビでやっているのはワイドショーと、どこをどう見ても試験中の学生ではない。すわ、お説教か、と睦月は身構えた。
しかし。
「寝転がってお菓子食べてたらダメだよ」
母親代わりを自認している筈の姉は、ぐうたらな弟の姿を前にして、心ここに有らずの様子で居間を出て行ってしまう。
おかしいな、と睦月が首を傾げたその時、派手な効果音とともに新しいワイドショーが始まった。その冒頭で司会が口にした内容と画面いっぱいに広がる写真に、目を丸くする。
「あいつに、女……? ウソだろ」
どのようにでも取れるスクープ写真と、明らかに誇張されている解説内容は信憑性が乏しかったが、こんな内容を暴露させてしまうなど、一輝らしくない。そこまで考えて、睦月は弥生の様子が変だった原因に気付く。
一気に事態を呑み込めた。
胡坐になって、ガリガリと頭を掻く。
「まったくなぁ」
一輝も、慎重にコトを進めたいのはわかるが、もう少し押してもいいのではないかと、睦月は思うのだ。彼が弥生にはっきりと意思表示していれば、こんな下らないネタなど彼女だって笑い話にできるだろう。
もっとも、傍から見ていたらもろバレな一輝の気持ちに気付かない弥生の方がどうかしているのかもしれないが。
ため息を一つ吐くと、睦月は立ち上がって姉の部屋へ向かう。
戸をノックすると、少し間が空いてから返事があった。
「なあに?」
十五歳らしからぬ大柄な身体でのっそりと部屋に入る睦月を、制服のままベッドに腰掛けた弥生が首を傾げて見上げる。こんなふうにぼんやりしているのも、彼女らしくない。
「あのさ、アイツのこと……」
一瞬、弥生の目が揺らぐ。
やっぱりそれか、と、睦月は内心ため息をついた。
「気にしてんの?」
「え、何が?」
とぼけようとした弥生の前に、胡坐をかいて座る。椅子だと彼女を見下ろす形になってしまうので、今は敢えて床にした。
「一輝と女のコト、なんかで見たんだろ?」
「……」
弥生は無言で目を逸らした。その『らしくなさ』に本人は気付いているのかどうなのか。
「アイツに訊いたらいいじゃんか。喜んで教えてくれるぜ」
睦月も、森口と同じことを口にする。弥生は硬い顔でプイ、とそっぽを向いた。
「別に、訊く必要なんか、ないよ」
「でも、気になってるんだろ?」
「なってないよ。一輝君は弟みたいなものだもの」
言い張る弥生に、睦月は呆れた眼差しを向ける。
「ホントにそう思ってんの? だったら、アイツ泣いちまうぜ? 少なくとも、俺がアイツの立場だったら、泣くわ」
本当に、心からの言葉である。惚れている女から受ける扱いで『弟』『兄』『父』『友達』のうち、どれが一番きついかと言われたら『弟』だろう。男として身も蓋もないではないか。『兄』『父』だったら頼りがいがあると取れないこともないし、『友達』だったら少なくとも他人だ。だが、『弟』ではどちらも否定される。
「俺だったら、ぜっったい、イヤだね」
大好きな弟に力いっぱい否定され、弥生は俯いた。
「睦月は、わたしの弟じゃない方がいいの?」
「俺はいいんだよ。でも、アイツはイヤがるって言ってるの」
「でも……」
口ごもる弥生に、何がこんなにも姉を躊躇わせるのだろうかと睦月は疑問に思う。
弥生が、時々、いやしょっちゅう、一輝と出かけているのは知っている。
そして、彼と過ごした後に浮かべている姉の表情には、一輝に対する彼女の気持ちが透けて見えていた。
元々、弥生はきちんと考えることはするけれども、うだうだ悩む方ではない。割と即断即決の方だ。そんな姉のこの煮え切らなさは、いったい何なのだろう。
一輝が弥生を諦めるとも思えない。他の男が手を出そうとしても、彼は徹底的に妨害するだろう。そうなれば、大事な姉は下手をするといき遅れになってしまう。
まあ、睦月としてはそれでも構わないといえば構わないのだが。
「まあさ、これを機会に、ちょっとじっくりアイツと話しをしたら? あのネタのことを知ったら、多分、すぐやってくるぜ?」
正直なところ、まだ姿を現していないことの方が睦月にとっては不思議なくらいだ。
そんなことを思ったとき、タイミングよく玄関の呼び鈴が鳴る。
「噂をすれば影、かな」
よっこらせ、と立ち上がり、睦月は部屋を出て行った。
*
残された弥生は、ジッと自分の手のひらだけを見つめていた。
――何故、皆、変えようとするのか。何故、今のままではいけないのか。
「『弟』でいいじゃない。『弟』の方が――」
――ずっと、一緒にいられるんだから。
その呟きは、声には出せない。そんなふうに考えてしまう自分を、浅ましいと弥生は思った。彼の隣に立つ勇気はないくせに、傍にいることは望む自分を。
やがて、足音が階段を上ってくる。
弥生は、部屋の戸が叩かれないことを願った。
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