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眠り姫の起こし方
十八
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「君たち、その人から離れてもらえるかな」
その押し殺した声に、部屋の中の者が皆一斉に振り返る。
「お、まえ、誰だ!?」
殆ど反射のように殴りかかってきた男を、一輝は右腕で受け流し、左拳を彼の鳩尾に叩き込む。反吐を吐きかけられる前に、放り投げた。それを見た、もう一人の立ち竦んでいた男が一輝に向かってくるが、脇を擦り抜けた橘がカウンターで蹴り飛ばす。男は二メートルほど吹っ飛んで壁に叩きつけられた。
「……すみません、力加減をし損ねました」
申し訳なさを微塵も感じさせない口調で、橘は謝った。そのまま、ベッドの上で弥生に被さったまま呆然としている最後の男の襟首を掴み、引っぺがすと、腹に膝蹴りを食らわせる。うずくまったところに項めがけて肘を叩き込んだ。
一連の流れが過ぎ去るのに、五分とかからなかった。昏倒した男たちは、呻き声すらあげていない。
静寂の戻った部屋の中、ベッドの上では、弥生がぺたりと座りこんでいる。髪が乱れているせいもあってか、いつもより、更に幼く見えた。
その姿に、一輝の胸は鋭い刃物でザクザクと切り裂かれているような激痛を覚える。
一輝はゆっくりと弥生に近寄ると、彼女の腕を取り、幼い子どもにするように抱き上げた。
背中をさすりながら揺らしてやると、その身体が震え出す。
「……ふっ……う……」
耳元で小さな嗚咽が聞こえ、一輝は腕に力を込める。
――この間は、同じ身体を自分本位な激情から抱き締めた。
今はただ、この小さな身体を、包み込んでやりたいとだけ思う。
「大丈夫ですよ。もう、大丈夫……」
一輝の囁きで箍が外れたのか、弥生がようやく声を出す。
「ふ……う……こわ、かった――こわかった、よ……」
「すみません。僕のせいでもあるんです」
一輝が苦い口調で言うと、フルフルと弥生の頭が振られた。
それが『謝るな』という意味だったのか、あるいは『一輝の所為ではない』という意味だったのか、一輝には判らない。
ただ、『弥生に拒まれていない』ということだけは解った。
「僕が、護りますから……何があっても、絶対に」
――だから、離れていかないで。
声に出さなかった祈りを聞き届けたかのように、弥生が何度も頷く。
お互いの肩に顔を埋め、温もりを確かめ合った。
弥生の身体の震えはだんだん鎮まって、やがて時折しゃくり上げる程度になる。
は、と小さく吐き出された息が温かく一輝の首筋をくすぐった。
彼に全てを委ねてくるような重みが、愛おしくてならない。
自然と、腕に力がこもってしまう。
それに応じるように、乱れたままの柔らかなクセ毛が頬にすり寄せられた。
いつまでもこうしていられたら、これに勝る幸せはないのに、と一輝は思う。
だが、その穏やかな時間を、憎々しげな女の声が打ち破った。
「ちょっと、何なのよ、あんた!」
振り返ると、猿轡を外されて、二人を爛々とした目で睨む薫子の姿があった。
下ろして欲しそうに弥生が身じろぎしたが、一輝は抱き上げる腕により力を込める。
「何なのよ! その、だらけた顔!」
もう一度、薫子が叫ぶ。彼女の目の前にあるのは、相手を魅せようと微笑むのではなく、相手に魅せられて微笑む一輝の顔だ。自分には決して見せなかった表情に、薫子は羨望の混じった怒りをぶつける。
「あんた、おかしいんじゃないの!? そんなガキ臭いチビの小娘のどこがいいのよ!」
口汚い言葉で罵る薫子に、普段の優美さは微塵もない。その言葉を受けて、一輝の腕の中の弥生がビクリと身を震わす。だが、対する一輝は、これ以上はないというほど甘い微笑を浮かべた。
「いいんですよ、弥生さんはこれで。こんなふうに腕の中にすっぽり入ってしまう方が、全部僕のもの、という感じがするじゃないですか」
罵りに対して惚気を返され、薫子は唇を噛み締める。だが、彼女には、まだ手札があった。
「おじい様には、なんて言うつもり!? あの方は、『新藤商事の総帥に相応しい妻』としてあたくしを選んだのよ!?」
だが、それに対しても、一輝は鼻で嗤うだけだ。
「祖父の考えは、僕には関係ないことですね。元々、僕が新藤商事を背負おうと本心から決意したのは、彼女を幸せにするための武器にしようと思ったからですし、新藤商事を支える人々を守るべき理由を教えてくれたのも弥生さんですから。弥生さんは新藤商事から感謝されこそすれ、新藤商事の事で何かを背負う必要は、全くありません。このひとは、僕のことだけ考えていてくださればそれでいいんですよ」
言葉を失う薫子に、更に追い討ちをかけたのは橘だった。
「それに……大変、申し上げにくいことなのですが……一智様は、『新藤商事の総帥に相応しい妻』なんて、これっぽっちも考えていないと思います」
「どういう意味!?」
「実は……一智様の奥様――今は亡き一輝様のおばあ様は、新藤家のメイドだったのですよ。その彼女を一智様が見初めて、ひたすら追いかけ回し、数年かけてようやく求婚に応じてくださったとか……」
丸っきりの当て馬だったと思い知らされて、薫子は失神寸前である。これまで、多くの男を手玉に取ってきた筈の自分が、当て馬にされたとは、到底容認し難い事実だった。
黙りこんだ薫子に、一輝が駄目押しを食らわす。
「あなたを、拉致、暴行教唆の罪で訴えたいところなんですよね。ちょっと鼻薬を嗅がせたら、もう少し何か付け加えられるかもしれません。やりようによっては、十年から二十年ぐらい、『別荘』に入っていてもらうことも可能かな。ああ、園城寺建設の財力に任せて弁護士をそろえようとしても無駄ですよ?」
「あ、あなた――」
強気だった薫子が一気に蒼白になる。一輝の台詞を聞いて彼女を振り返った弥生は、その打ちひしがれた様子に、持ち前の同情心が湧き上がってきたようだ。
「ちょっと、一輝君……何も、そこまでしなくたって……。結局、何もなかったのよ?」
「あなたにほんのわずかでも『何か』があったら、今頃、皆殺しですよ? 死体の五体や十体処分するのなんて、簡単ですから」
冷ややかに薫子を見据えながらにこやかにそう答えると、弥生が悲しそうに眉を下げた。
「……一輝君……ともかく、もう、いいじゃない。もうお終い、ね?」
涙も乾ききっていない顔で言われ、一輝は溜息をつく。あまり強硬に事を推し進めたら、むしろ怒られそうだった。
「仕方ないですね。弥生さんがそう仰るなら……。いいですか、園城寺さん? 今後、僕たちの前には姿を見せないように。とりあえず、そちらの男たちから言質は取っておきますから、もしもまた姿を見かけたら、何らかの手段は取らせていただきます。ご自身が平和に生きたかったら、僕たちには近づかないことをお勧めしますよ」
ニッコリと、今となっては何のありがたみもない笑顔でそう言われても、薫子はそれ以上抗う気力は持ち合わせていなかった。
拘束を解かれて大人しく出て行く薫子を見送り、ついで、三人の男たちの意識を戻して引っ立てていく橘ともう一人の護衛を見送った。
部屋に残ったのは一輝と弥生だけである。
一輝はソファに腰を下ろすと、そのまま膝の上に弥生を乗せる。
「一輝、君……?」
「何でしょう?」
彼女が言わんとしていることは充分察しがついたが、一輝は平然と笑顔を返した。
「あの、下ろしてもらえる、かな……?」
「イヤです」
「何で!?」
殆ど悲鳴のような声を上げる弥生を、一輝は楽しそうに見つめる。
「だって、この方が目線が同じになるし。このままでお話をうかがいたいですね。元々、僕に会いに来られる筈だったんでしょう?」
「う……でも、顔が、近いよ……」
「そうですね」
笑顔で頷くと、弥生はグッと何かを呑み込んだような顔になった。
その何かを追いやろうとするかのように、彼女は小さく咳払いをする。
「あの、ね……一輝君にとって、何が幸せなのか、教えて欲しいの」
決死の覚悟と言わんばかりの眼差しでそう言った弥生を、一輝は思わずまじまじと見つめてしまう。
「僕の、幸せ……?」
「そう」
彼の顔には、『何を今更』とデカデカと書かれているに違いない。
一輝は一瞬、弥生の息が止まるほどにキスをしようか、それとも潰さんばかりに抱き締めようか、迷った。
迷ったけれど、結局、ちゃんと言葉で伝えることにする。
「そんなの、あなたが隣にいてくれることですよ? 前にも言ったでしょう、『弟としてではなく傍にいたい』と。僕の隣にいて、あなたが幸せだと思ってくれるなら、それに勝る喜びはないですよ」
「……それだけ? そんなことでいいの?」
眉根を寄せていぶかしげにそう言った弥生からは、一輝にとって彼女がどれだけ『重い』存在なのか、さっぱり理解していないことがありありと伝わってくる。
「僕にとっては『そんなこと』ではないです。何しろ四年――いや、もう五年以上になりますから」
「五年以上? でも、初めて会ったのって、一輝君が十二歳の時だよね?」
きょとんとそう言われ、一輝は苦笑する。
「実は、僕が十歳の時、一度弥生さんにお逢いしているんです。あなたは覚えていなくて当然ですよ。雨の日に傘を貸すなんて、いくらでもしてそうですから」
「わたし、一輝君に傘を貸したの?」
「そう。そして、その時僕にとって必要だったものをくださいました。僕はあの日、恋に落ちたんです」
そう言うと、目を丸くしている弥生についつい我慢が効かなくなって、一輝は彼女の頬に、首筋に、ついばむようなキスを落とした。
うひゃ、とか何とか、彼女の口から漏れた色気の欠片もない声が可愛らしくて思わず笑みを浮かべてしまう。
「それから、あなたが元気で過ごしているか、見ていました――一歩間違えばストーカーですけどね。あの債務の事がなければ、僕は一生、こうしてあなたに触れることはなかったでしょう」
ある意味、僕にとっては幸運でした、と、今度は手を取り、指先に唇を触れる。
「一緒に過ごしているうちにどんどん気持ちが膨らんで、ただ見ているだけだなんて、できなくなって。――あの、あなたが僕の腕の中で泣いた時、僕はあなたを愛していると気付いたんです。あの時、あなたを護りたいと――幸せにしたいと、願いました。そして、本当に新藤商事を背負う覚悟ができたんです」
真っ直ぐに見つめてそう告げると、涙で汚れた弥生の顔が、ぱぁっと陽が射すようにほころんでいく。
「わたしが幸せなら、一輝君は幸せになれるの?」
「あなたが幸せで、変わらず笑っていてくださることが、僕にとって何にも勝る、何ものにも代えられない幸せです」
じゃあ、と弥生は心からの笑みを浮かべる。
「わたしは、一輝君を幸せにできるのね!」
笑いながら一輝の首にしがみ付いてきた。
そんな彼女を抱き締め返しながら、彼は弥生の耳元で囁く。
「あなたしか、僕を幸せにできる人はいません。それに、あなたを幸せにするのは、僕でありたいんです」
「わたしも、一輝君を幸せにしたいと思ってたの。多分、ずっと前から」
一輝は、長く望んできた温もりをようやく手に入れることができたことが、信じられなかった。だが、弥生は柔らかだけれども確かな力で、彼を抱き締めてくれている――その温もりは夢ではない。一輝は彼女の身体に回した腕に力を込めた。
弥生が、自信に溢れた声で宣言する。
「わたし、一輝君を幸せにするわ、絶対」
――もう充分、幸せです。
そう答える代りに、一輝は弥生の頬にそっと手を添える。
そうして、二度目に交わした口付けは、優しく甘いものだった。
その押し殺した声に、部屋の中の者が皆一斉に振り返る。
「お、まえ、誰だ!?」
殆ど反射のように殴りかかってきた男を、一輝は右腕で受け流し、左拳を彼の鳩尾に叩き込む。反吐を吐きかけられる前に、放り投げた。それを見た、もう一人の立ち竦んでいた男が一輝に向かってくるが、脇を擦り抜けた橘がカウンターで蹴り飛ばす。男は二メートルほど吹っ飛んで壁に叩きつけられた。
「……すみません、力加減をし損ねました」
申し訳なさを微塵も感じさせない口調で、橘は謝った。そのまま、ベッドの上で弥生に被さったまま呆然としている最後の男の襟首を掴み、引っぺがすと、腹に膝蹴りを食らわせる。うずくまったところに項めがけて肘を叩き込んだ。
一連の流れが過ぎ去るのに、五分とかからなかった。昏倒した男たちは、呻き声すらあげていない。
静寂の戻った部屋の中、ベッドの上では、弥生がぺたりと座りこんでいる。髪が乱れているせいもあってか、いつもより、更に幼く見えた。
その姿に、一輝の胸は鋭い刃物でザクザクと切り裂かれているような激痛を覚える。
一輝はゆっくりと弥生に近寄ると、彼女の腕を取り、幼い子どもにするように抱き上げた。
背中をさすりながら揺らしてやると、その身体が震え出す。
「……ふっ……う……」
耳元で小さな嗚咽が聞こえ、一輝は腕に力を込める。
――この間は、同じ身体を自分本位な激情から抱き締めた。
今はただ、この小さな身体を、包み込んでやりたいとだけ思う。
「大丈夫ですよ。もう、大丈夫……」
一輝の囁きで箍が外れたのか、弥生がようやく声を出す。
「ふ……う……こわ、かった――こわかった、よ……」
「すみません。僕のせいでもあるんです」
一輝が苦い口調で言うと、フルフルと弥生の頭が振られた。
それが『謝るな』という意味だったのか、あるいは『一輝の所為ではない』という意味だったのか、一輝には判らない。
ただ、『弥生に拒まれていない』ということだけは解った。
「僕が、護りますから……何があっても、絶対に」
――だから、離れていかないで。
声に出さなかった祈りを聞き届けたかのように、弥生が何度も頷く。
お互いの肩に顔を埋め、温もりを確かめ合った。
弥生の身体の震えはだんだん鎮まって、やがて時折しゃくり上げる程度になる。
は、と小さく吐き出された息が温かく一輝の首筋をくすぐった。
彼に全てを委ねてくるような重みが、愛おしくてならない。
自然と、腕に力がこもってしまう。
それに応じるように、乱れたままの柔らかなクセ毛が頬にすり寄せられた。
いつまでもこうしていられたら、これに勝る幸せはないのに、と一輝は思う。
だが、その穏やかな時間を、憎々しげな女の声が打ち破った。
「ちょっと、何なのよ、あんた!」
振り返ると、猿轡を外されて、二人を爛々とした目で睨む薫子の姿があった。
下ろして欲しそうに弥生が身じろぎしたが、一輝は抱き上げる腕により力を込める。
「何なのよ! その、だらけた顔!」
もう一度、薫子が叫ぶ。彼女の目の前にあるのは、相手を魅せようと微笑むのではなく、相手に魅せられて微笑む一輝の顔だ。自分には決して見せなかった表情に、薫子は羨望の混じった怒りをぶつける。
「あんた、おかしいんじゃないの!? そんなガキ臭いチビの小娘のどこがいいのよ!」
口汚い言葉で罵る薫子に、普段の優美さは微塵もない。その言葉を受けて、一輝の腕の中の弥生がビクリと身を震わす。だが、対する一輝は、これ以上はないというほど甘い微笑を浮かべた。
「いいんですよ、弥生さんはこれで。こんなふうに腕の中にすっぽり入ってしまう方が、全部僕のもの、という感じがするじゃないですか」
罵りに対して惚気を返され、薫子は唇を噛み締める。だが、彼女には、まだ手札があった。
「おじい様には、なんて言うつもり!? あの方は、『新藤商事の総帥に相応しい妻』としてあたくしを選んだのよ!?」
だが、それに対しても、一輝は鼻で嗤うだけだ。
「祖父の考えは、僕には関係ないことですね。元々、僕が新藤商事を背負おうと本心から決意したのは、彼女を幸せにするための武器にしようと思ったからですし、新藤商事を支える人々を守るべき理由を教えてくれたのも弥生さんですから。弥生さんは新藤商事から感謝されこそすれ、新藤商事の事で何かを背負う必要は、全くありません。このひとは、僕のことだけ考えていてくださればそれでいいんですよ」
言葉を失う薫子に、更に追い討ちをかけたのは橘だった。
「それに……大変、申し上げにくいことなのですが……一智様は、『新藤商事の総帥に相応しい妻』なんて、これっぽっちも考えていないと思います」
「どういう意味!?」
「実は……一智様の奥様――今は亡き一輝様のおばあ様は、新藤家のメイドだったのですよ。その彼女を一智様が見初めて、ひたすら追いかけ回し、数年かけてようやく求婚に応じてくださったとか……」
丸っきりの当て馬だったと思い知らされて、薫子は失神寸前である。これまで、多くの男を手玉に取ってきた筈の自分が、当て馬にされたとは、到底容認し難い事実だった。
黙りこんだ薫子に、一輝が駄目押しを食らわす。
「あなたを、拉致、暴行教唆の罪で訴えたいところなんですよね。ちょっと鼻薬を嗅がせたら、もう少し何か付け加えられるかもしれません。やりようによっては、十年から二十年ぐらい、『別荘』に入っていてもらうことも可能かな。ああ、園城寺建設の財力に任せて弁護士をそろえようとしても無駄ですよ?」
「あ、あなた――」
強気だった薫子が一気に蒼白になる。一輝の台詞を聞いて彼女を振り返った弥生は、その打ちひしがれた様子に、持ち前の同情心が湧き上がってきたようだ。
「ちょっと、一輝君……何も、そこまでしなくたって……。結局、何もなかったのよ?」
「あなたにほんのわずかでも『何か』があったら、今頃、皆殺しですよ? 死体の五体や十体処分するのなんて、簡単ですから」
冷ややかに薫子を見据えながらにこやかにそう答えると、弥生が悲しそうに眉を下げた。
「……一輝君……ともかく、もう、いいじゃない。もうお終い、ね?」
涙も乾ききっていない顔で言われ、一輝は溜息をつく。あまり強硬に事を推し進めたら、むしろ怒られそうだった。
「仕方ないですね。弥生さんがそう仰るなら……。いいですか、園城寺さん? 今後、僕たちの前には姿を見せないように。とりあえず、そちらの男たちから言質は取っておきますから、もしもまた姿を見かけたら、何らかの手段は取らせていただきます。ご自身が平和に生きたかったら、僕たちには近づかないことをお勧めしますよ」
ニッコリと、今となっては何のありがたみもない笑顔でそう言われても、薫子はそれ以上抗う気力は持ち合わせていなかった。
拘束を解かれて大人しく出て行く薫子を見送り、ついで、三人の男たちの意識を戻して引っ立てていく橘ともう一人の護衛を見送った。
部屋に残ったのは一輝と弥生だけである。
一輝はソファに腰を下ろすと、そのまま膝の上に弥生を乗せる。
「一輝、君……?」
「何でしょう?」
彼女が言わんとしていることは充分察しがついたが、一輝は平然と笑顔を返した。
「あの、下ろしてもらえる、かな……?」
「イヤです」
「何で!?」
殆ど悲鳴のような声を上げる弥生を、一輝は楽しそうに見つめる。
「だって、この方が目線が同じになるし。このままでお話をうかがいたいですね。元々、僕に会いに来られる筈だったんでしょう?」
「う……でも、顔が、近いよ……」
「そうですね」
笑顔で頷くと、弥生はグッと何かを呑み込んだような顔になった。
その何かを追いやろうとするかのように、彼女は小さく咳払いをする。
「あの、ね……一輝君にとって、何が幸せなのか、教えて欲しいの」
決死の覚悟と言わんばかりの眼差しでそう言った弥生を、一輝は思わずまじまじと見つめてしまう。
「僕の、幸せ……?」
「そう」
彼の顔には、『何を今更』とデカデカと書かれているに違いない。
一輝は一瞬、弥生の息が止まるほどにキスをしようか、それとも潰さんばかりに抱き締めようか、迷った。
迷ったけれど、結局、ちゃんと言葉で伝えることにする。
「そんなの、あなたが隣にいてくれることですよ? 前にも言ったでしょう、『弟としてではなく傍にいたい』と。僕の隣にいて、あなたが幸せだと思ってくれるなら、それに勝る喜びはないですよ」
「……それだけ? そんなことでいいの?」
眉根を寄せていぶかしげにそう言った弥生からは、一輝にとって彼女がどれだけ『重い』存在なのか、さっぱり理解していないことがありありと伝わってくる。
「僕にとっては『そんなこと』ではないです。何しろ四年――いや、もう五年以上になりますから」
「五年以上? でも、初めて会ったのって、一輝君が十二歳の時だよね?」
きょとんとそう言われ、一輝は苦笑する。
「実は、僕が十歳の時、一度弥生さんにお逢いしているんです。あなたは覚えていなくて当然ですよ。雨の日に傘を貸すなんて、いくらでもしてそうですから」
「わたし、一輝君に傘を貸したの?」
「そう。そして、その時僕にとって必要だったものをくださいました。僕はあの日、恋に落ちたんです」
そう言うと、目を丸くしている弥生についつい我慢が効かなくなって、一輝は彼女の頬に、首筋に、ついばむようなキスを落とした。
うひゃ、とか何とか、彼女の口から漏れた色気の欠片もない声が可愛らしくて思わず笑みを浮かべてしまう。
「それから、あなたが元気で過ごしているか、見ていました――一歩間違えばストーカーですけどね。あの債務の事がなければ、僕は一生、こうしてあなたに触れることはなかったでしょう」
ある意味、僕にとっては幸運でした、と、今度は手を取り、指先に唇を触れる。
「一緒に過ごしているうちにどんどん気持ちが膨らんで、ただ見ているだけだなんて、できなくなって。――あの、あなたが僕の腕の中で泣いた時、僕はあなたを愛していると気付いたんです。あの時、あなたを護りたいと――幸せにしたいと、願いました。そして、本当に新藤商事を背負う覚悟ができたんです」
真っ直ぐに見つめてそう告げると、涙で汚れた弥生の顔が、ぱぁっと陽が射すようにほころんでいく。
「わたしが幸せなら、一輝君は幸せになれるの?」
「あなたが幸せで、変わらず笑っていてくださることが、僕にとって何にも勝る、何ものにも代えられない幸せです」
じゃあ、と弥生は心からの笑みを浮かべる。
「わたしは、一輝君を幸せにできるのね!」
笑いながら一輝の首にしがみ付いてきた。
そんな彼女を抱き締め返しながら、彼は弥生の耳元で囁く。
「あなたしか、僕を幸せにできる人はいません。それに、あなたを幸せにするのは、僕でありたいんです」
「わたしも、一輝君を幸せにしたいと思ってたの。多分、ずっと前から」
一輝は、長く望んできた温もりをようやく手に入れることができたことが、信じられなかった。だが、弥生は柔らかだけれども確かな力で、彼を抱き締めてくれている――その温もりは夢ではない。一輝は彼女の身体に回した腕に力を込めた。
弥生が、自信に溢れた声で宣言する。
「わたし、一輝君を幸せにするわ、絶対」
――もう充分、幸せです。
そう答える代りに、一輝は弥生の頬にそっと手を添える。
そうして、二度目に交わした口付けは、優しく甘いものだった。
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