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糸を操る者①
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部屋に駆け込んできたイチを、キーツは眉をひそめて迎えた。
彼がこの彼女の部屋に来たのは、もう一時間も前になる。その一時間、彼は苛立ちと焦燥を胸にイチを待っていた。
彼女が戻ってきて、キーツは安堵するどころか、いっそう不安を掻き立てられる。
流れる水か何かのように常に捉えどころのない静かな動きをするイチが息を切らせて走ってくるなど、今まで見たことが無かった。
「イチ……お前、何処に行ってたんだ?」
目を細めて、キーツはそう訊いた。これまで、イチがキーツに嘘偽りを言ったことは無い。しかし、今の彼女が返す答えは、どこか信用できない気がした。
「イチ?」
押し黙ったままのイチに、苛立った声で重ねて問う。
だが、彼女は肩で息をしたまま、俯いた顔を上げようとはしなかった。
その小さな頭の天辺を見下ろすキーツの心中に、昼間覚えた嫌な予感が蘇える。
つい数分前までは、イチにとって自分は『特別』な存在であるという自信が、キーツにはあった。彼女を支配しているのは自分である、と確信していたのだ。
その安心、あるいは油断は、今は焦燥に取って代わられている。
「まさか、外には行ってないだろうな……?」
キーツの台詞に、隠しようも無く、少女の細い肩がピクリと震えた。たったそれだけのわずかな動揺が、何よりも雄弁な返事となった。
「イチ? どうなんだ?」
優しげにすら聞こえる声で、キーツはイチを追い詰める。何処に、何をしに行ったのかはすでに判りきっている。が、イチの口から出た返事が、どうしても聞きたかった。
「答えるんだ」
穏やかな口調のまま、イチを促す。
塵が落ちた音だけでも空気が砕け散ってしまいそうな、沈黙。
そして、イチが答えた。
「外には、行っていません」
それが嘘であることは、火を見るよりも明らかだった。
「……そうか。なら、いいんだ」
そう言って、キーツはイチに向けて手を伸ばしかけ、結局彼女に届くことは無くその手を下ろす。イチの嘘によって生じた亀裂は、もしかしたら、キーツが彼女に触れることによって埋めることができたのかもしれない。
しかし、それでも、彼は目の前の少女に指先ですら触れることができなかった。
俯いたままのイチの横を通り抜け、キーツは扉に手を掛ける。
「もう、大分遅いな。あまりあちこちうろつかずに、おとなしく寝ろよ」
部屋を出がけに、キーツはそう言い残した。
廊下を歩くキーツの頭の中では、イチを繋ぎ止めておく為にすべきことは何なのかと言うことがめまぐるしく回っていた。先ほど彼女に手を触れることができなかったように、己の態度を変えることはできそうもない。
ということは、ただ一つ。
イチの目が向いている相手の方を消してしまえばいい。今ならば、まだ、彼女自身が自分の気持ちにはっきりと気付いてはおらず、あの少年を殺したところで傷はまだ浅かろう。再びあの二人が顔を合わせることの無いように、早急に手を打つ必要があった。
自室に着いたキーツは、各砦に一部隊ずつ配備されている特殊部隊──すなわち、イチが現れるまではこの国で最強の兵士と呼ばれていた男たちの一人を呼び出した。彼らは、今では何らかの理由でイチが戦闘に出られない時の為の補欠としての立場に甘んじている。
「お呼びですか、キーツ殿」
部屋に現れ、いつものように皮肉の色を含ませてそう言った男は、この砦の特殊部隊の中でも随一の能力を誇る、ゲオルグ・バッシュだった。
キーツはゲオルグに椅子を勧めることなく、己は机の角に尻を乗せ、話を始める。
「一人消してきてくれ」
その短い言葉のみで、キーツはゲオルグに向けて一枚の写真を放り投げた。監視カメラの映像を拡大したもので画像は粗いが、たった一つの特徴が標的を決して間違えることのないものにしている。
「ちょっと待ってくださいよ。こんなガキを殺れってんですか?」
心底から嫌そうな顔で肩を竦め、ゲオルグはキーツに写真を返す。そのまま身を翻して部屋を出て行こうとした彼を、キーツの声が引き止める。
「給料一年分の特別手当を出すぞ」
振り返ったゲオルグの顔は、心の内を雄弁に語っていた。
「ガキ一人が、一年分?」
あの少女の無反応ぶりにうんざりして、気晴らしに他の奴をからかおうとでも考えたのかとゲオルグはキーツの顔を眇めて見たが、彼の真顔は裏に何かあるものとは思えなかった。
「本気、のようですね」
「至ってな。とにかく、頼んだ。そいつだって民間人じゃない。昨日この砦を襲撃した反乱軍の一人だ。確かに見てくれは子供だが、傭兵たちの中じゃぁ結構名が通っているらしい」
「……へぇ。ああ、そう言えば聞いたことがあるな。腕の立つ子供の傭兵がいるとか」
再び写真を手に取り、ゲオルグは物珍しそうに眺めた。
「多分、こいつがそうなんだろうさ。とにかく頼んだぞ。奴らは東の森の中に潜んでいるらしい。狙うのはその子供一人だからな、お前一人の方が身軽だろう」
そう言われ、ゲオルグは写真から目を上げてキーツに怪訝な顔を向けた。
「ちょっと待ってくださいよ。反乱軍の居場所が割れているなら、それこそ貴方の秘蔵っ子を使って一気に叩き潰しちまえばいいことじゃないですか」
「それがちょっと、な」
何でわざわざ余分な金を払ってまで、と言わんばかりのゲオルグに、キーツは言葉尻を濁す。
成り上がり、しかも自分の能力を使ってすらいないキーツに心底から忠誠を誓っている者は、皆無に近い。このゲオルグという男にしても、迂闊に弱みを見せるのは危険すぎる賭けだった。
「ま、色々と事情があるんだよ。あいつもまだ子供だからな」
「……そうですか。まあ、いずれにせよ、命令とあれば行ってくるしかないですかね」
それ以上食い下がっても得るものはないと悟ったゲオルグは、あまり真面目にやっているようには見えない敬礼をキーツに向けて投げ、扉に向かう。
「じゃ、特別手当の方、くれぐれも忘れないで下さいよ」
最後にそう残し、ゲオルグは去っていった。
彼がこの彼女の部屋に来たのは、もう一時間も前になる。その一時間、彼は苛立ちと焦燥を胸にイチを待っていた。
彼女が戻ってきて、キーツは安堵するどころか、いっそう不安を掻き立てられる。
流れる水か何かのように常に捉えどころのない静かな動きをするイチが息を切らせて走ってくるなど、今まで見たことが無かった。
「イチ……お前、何処に行ってたんだ?」
目を細めて、キーツはそう訊いた。これまで、イチがキーツに嘘偽りを言ったことは無い。しかし、今の彼女が返す答えは、どこか信用できない気がした。
「イチ?」
押し黙ったままのイチに、苛立った声で重ねて問う。
だが、彼女は肩で息をしたまま、俯いた顔を上げようとはしなかった。
その小さな頭の天辺を見下ろすキーツの心中に、昼間覚えた嫌な予感が蘇える。
つい数分前までは、イチにとって自分は『特別』な存在であるという自信が、キーツにはあった。彼女を支配しているのは自分である、と確信していたのだ。
その安心、あるいは油断は、今は焦燥に取って代わられている。
「まさか、外には行ってないだろうな……?」
キーツの台詞に、隠しようも無く、少女の細い肩がピクリと震えた。たったそれだけのわずかな動揺が、何よりも雄弁な返事となった。
「イチ? どうなんだ?」
優しげにすら聞こえる声で、キーツはイチを追い詰める。何処に、何をしに行ったのかはすでに判りきっている。が、イチの口から出た返事が、どうしても聞きたかった。
「答えるんだ」
穏やかな口調のまま、イチを促す。
塵が落ちた音だけでも空気が砕け散ってしまいそうな、沈黙。
そして、イチが答えた。
「外には、行っていません」
それが嘘であることは、火を見るよりも明らかだった。
「……そうか。なら、いいんだ」
そう言って、キーツはイチに向けて手を伸ばしかけ、結局彼女に届くことは無くその手を下ろす。イチの嘘によって生じた亀裂は、もしかしたら、キーツが彼女に触れることによって埋めることができたのかもしれない。
しかし、それでも、彼は目の前の少女に指先ですら触れることができなかった。
俯いたままのイチの横を通り抜け、キーツは扉に手を掛ける。
「もう、大分遅いな。あまりあちこちうろつかずに、おとなしく寝ろよ」
部屋を出がけに、キーツはそう言い残した。
廊下を歩くキーツの頭の中では、イチを繋ぎ止めておく為にすべきことは何なのかと言うことがめまぐるしく回っていた。先ほど彼女に手を触れることができなかったように、己の態度を変えることはできそうもない。
ということは、ただ一つ。
イチの目が向いている相手の方を消してしまえばいい。今ならば、まだ、彼女自身が自分の気持ちにはっきりと気付いてはおらず、あの少年を殺したところで傷はまだ浅かろう。再びあの二人が顔を合わせることの無いように、早急に手を打つ必要があった。
自室に着いたキーツは、各砦に一部隊ずつ配備されている特殊部隊──すなわち、イチが現れるまではこの国で最強の兵士と呼ばれていた男たちの一人を呼び出した。彼らは、今では何らかの理由でイチが戦闘に出られない時の為の補欠としての立場に甘んじている。
「お呼びですか、キーツ殿」
部屋に現れ、いつものように皮肉の色を含ませてそう言った男は、この砦の特殊部隊の中でも随一の能力を誇る、ゲオルグ・バッシュだった。
キーツはゲオルグに椅子を勧めることなく、己は机の角に尻を乗せ、話を始める。
「一人消してきてくれ」
その短い言葉のみで、キーツはゲオルグに向けて一枚の写真を放り投げた。監視カメラの映像を拡大したもので画像は粗いが、たった一つの特徴が標的を決して間違えることのないものにしている。
「ちょっと待ってくださいよ。こんなガキを殺れってんですか?」
心底から嫌そうな顔で肩を竦め、ゲオルグはキーツに写真を返す。そのまま身を翻して部屋を出て行こうとした彼を、キーツの声が引き止める。
「給料一年分の特別手当を出すぞ」
振り返ったゲオルグの顔は、心の内を雄弁に語っていた。
「ガキ一人が、一年分?」
あの少女の無反応ぶりにうんざりして、気晴らしに他の奴をからかおうとでも考えたのかとゲオルグはキーツの顔を眇めて見たが、彼の真顔は裏に何かあるものとは思えなかった。
「本気、のようですね」
「至ってな。とにかく、頼んだ。そいつだって民間人じゃない。昨日この砦を襲撃した反乱軍の一人だ。確かに見てくれは子供だが、傭兵たちの中じゃぁ結構名が通っているらしい」
「……へぇ。ああ、そう言えば聞いたことがあるな。腕の立つ子供の傭兵がいるとか」
再び写真を手に取り、ゲオルグは物珍しそうに眺めた。
「多分、こいつがそうなんだろうさ。とにかく頼んだぞ。奴らは東の森の中に潜んでいるらしい。狙うのはその子供一人だからな、お前一人の方が身軽だろう」
そう言われ、ゲオルグは写真から目を上げてキーツに怪訝な顔を向けた。
「ちょっと待ってくださいよ。反乱軍の居場所が割れているなら、それこそ貴方の秘蔵っ子を使って一気に叩き潰しちまえばいいことじゃないですか」
「それがちょっと、な」
何でわざわざ余分な金を払ってまで、と言わんばかりのゲオルグに、キーツは言葉尻を濁す。
成り上がり、しかも自分の能力を使ってすらいないキーツに心底から忠誠を誓っている者は、皆無に近い。このゲオルグという男にしても、迂闊に弱みを見せるのは危険すぎる賭けだった。
「ま、色々と事情があるんだよ。あいつもまだ子供だからな」
「……そうですか。まあ、いずれにせよ、命令とあれば行ってくるしかないですかね」
それ以上食い下がっても得るものはないと悟ったゲオルグは、あまり真面目にやっているようには見えない敬礼をキーツに向けて投げ、扉に向かう。
「じゃ、特別手当の方、くれぐれも忘れないで下さいよ」
最後にそう残し、ゲオルグは去っていった。
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