捨て猫を拾った日

トウリン

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愛猫日記

彼のリベンジ、彼のヤキモチ②

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 テレビでコマーシャルが流れるほど有名ではない、だが、この近隣に住む者にとってはそれなりの遊び場所となるその遊園地は、日曜日ともなるとなかなかの人出になる。

 どこかしら人に触れずには歩けないという人混みの中、五十嵐大いがらし だいは、すぐ右隣にいる真白ましろについつい目が行ってしまうのを止められなかった。
 小柄な彼女の頭の天辺は、大の肩くらいにある。よほど顔を上げなければ彼女の目が彼の顔に向くことはないから、こうやって彼が彼女を見ていても、気付かれることはない。

 だけど。

(なんで、こんなに目が離せないんだろう)
 大自身にも、それは不思議だった。

 真白は、天使のような美少女というわけではない。単純に容姿が整っているかどうかという点で言えば、何かと彼にアプローチを仕掛けてくる篠原千沙しのはら ちさの方が確実に『上』だ。
 今も篠原はひっきりなしに大に話しかけたり、彼の袖を引いて気を引こうとしたりしてきていた。彼女は元々はっきりしている目鼻立ちを際立たせる化粧をして、髪型だって凝っている。服は可愛らしさと若干のセクシーさが同居する、多分、考えに考えたコーディネイトなのだろう。
 まさに、触れなば落ちん、という感じで。
 それに対して、真白は大のことなんてほとんど見やしない。他のメンバーに対するものと同じ態度で、声をかければ応じてくれる程度だ。
 髪は高校時代にしていたのと同じ、腰まで届きそうなほどの一本の緩い三つ編みで、彼女が歩くごとに猫の尻尾のように揺れている。そのままでもシミ一つない柔らかそうな頬は、ファンデーションも塗ってないのだろう――自然な、けれど透き通るような白さだ。唇はきれいな桜色だけれど、これもまた天然に違いない。

 髪も、頬も、唇も、触れてみたくてたまらない。

 けれどそれは、けっして叶わない望みだった。

 ――あの日、あの時、真白に想いを打ち明けていなければ、友達面して何気なく触れることができていたかもしれない。
 だが、彼は、真白に告白し、抱き締めて、そして逃げられていた。
 真白にとって『男』は婚約者を名乗るあいつだけなのだ。

 前に真白を迎えに来た――同居しているという、あの男。
 あいつの所為で焦ってしまって、まだ早いことは判っていたのに思わず告白してしまったのだ。

 つくづく、恨めしい。

 告白してからしばらくは、滅茶苦茶彼女に警戒されていた。気持ちを覆い隠していかにもただの友達面を心がけ、ようやく普通に言葉を交わせるようになるまでには、二ヶ月はかかっている。

(まだあの時と全然変わらないくらい好きなんだって言ったら、どうなるだろう)
 友達としては割とうまくいっている。
 真白だって、真っ赤な他人よりは大に対していくばくかの好意を抱いている筈だ。
 今なら、あの時よりは違う反応を見せてくれるだろうか。
 それとも、ほんの少しでも『男』としての想いを見せたら、毛を逆立てた仔猫のように逃げていってしまうのだろうか。

 ――怖くて、とてもじゃないが試せない。

 園内を歩き始めてからほとんどずっと、大の右手がポケットの中に入りっぱなしなのは、そうしておかないと無意識に真白に手を伸ばしてしまいそうになるからだ。

 手をつないだりとか腕を組んだりとか肩や腰を抱いたりとか。
(たまにこっちを見上げて笑ってくれたりしてね)

 そんな『ごく普通のカップル』の姿を夢想して、大はこっそりとため息をこぼす。
 仮に恋人同士として付き合ったとしても、真白がそんなふうになるとは思えない。
(彼女でも、アイツの前じゃ、少しは意識したりするんだろうか)
 ふとそう思った大の脳裏に、憎たらしい男の顔が浮かぶ。あの時、我が物顔で真白を抱き締めていたあの男の顔が。
 ハイネックの長袖Tシャツにチノパンじゃ、今日一緒に来ている野郎どもに少しでもいいところを見せようという気があるようには見えない。その上、何が入っているのか判らないが、随分と大きなカバンを肩にかけている。
 今はこんな格好でも、彼と出かける時にはワンピースとかを着るのかもしれない。
(白いワンピースとか)
 大の頭の中にその姿が浮かんで、顔をしかめた。とても良く似合っていたにもかかわらず、何故かむしゃくしゃする。

(だいたい、この気温に何でハイネックなんだ?)
 梅雨入り直前の五月下旬は、かなり暑い。特に、今日のように良く晴れていれば。
 大は真白の服装を改めてまじまじと見直して、次の瞬間思わず舌打ちを漏らした。
「どうしたの?」
 目を丸くした篠原が彼を見上げる。
「何でもない。ちょっと目にゴミが入って」
「大丈夫? 見てあげようか?」
「平気。もう取れた」

『ゴミ』は、真白の白い肌に浮かぶ、目障りな色だ。ある程度の身長差がないと気付かない、ハイネックの襟でギリギリ隠れるところに、打ち身のように刻み込まれている。
 大も、それが何なのか判らないようなお子様ではなかった。
 真白は、『婚約者』と同居している。いい年をした、いかにも女慣れしていそうな男が、一緒に住んでいる女性に何もしないわけがない。

(判ってるさ。そりゃ、判ってるけど……)
 その証拠を目の当たりにすると、流石に落ち込む。

「あ、ねえねえ、五十嵐君!」
 ガックリと肩を落とした大の腕を、篠原が引っ張った。彼女はこの遊園地の中でも目玉になっている絶叫マシーンを指差している。
「ほら、アレ乗ろうよ」
「ああいうの、私ちょっと苦手なんだけど」
 ためらいがちにそう言ったのは清水という名のバイト仲間の女性で、大たちよりも二、三歳上の筈だ。他に、竹原という二十代半ばの男性と中野という男子高校生がいる。
 怯んでいる清水に、篠原はケラケラと笑いながら片手を振った。
「えぇえ、大丈夫ですよ。気持ちイイですよぉ? スカッとしますって。行きましょうよ」
「でも……」
「大丈夫、大丈夫」
 清水の腕を取って歩き出す篠原を見送って、大は真白を見下ろした。彼女も篠原たちの背中を見つめていたが、微かに眉をひそめている。

「大月も、行くだろ?」
(この流れだったら……)
 大は手を上げ、さりげなく、真白の背中に触れようとした。

 が。

「あ、うん……」
 真白が、大に振り返る。大きな栗色の目で見上げられた途端、身体が硬まった。
(なんで、こんなに真っ直ぐに見るんだ?)
 他の女子のように愛想笑いを浮かべることもなく、まじまじと。

「五十嵐君?」
 柔らかな声で名前を呼ばれて、彼は詰めていた息を吐き出した。今日、集合場所で顔を合わせてから、真白が彼の名前を呼ぶのは初めてだった。
(下の名前で呼んでもらえたら)
 多分、頭がおかしくなりそうなほど、嬉しくなるだろう。

 だが、そうはならない。

「五十嵐君?」
「や、何でもない。行こう」
 大は宙に浮いていた手をやっとの思いでポケットの中にねじ込み、先に立って歩き出す。できるだけ何気ない振りを装って、先に絶叫マシーンの乗り口に集まっていた者たちに合流した。
 すかさず、篠原が大の腕にしがみ付いてくる。心持ち、真白のことを睨み付けて。

(彼女の隣に座るのは――無理だろうな)
 大は微かな希望を抱いたが、もちろん、篠原がそれを許すはずもない。
 結局、先頭に大と篠原、次に清水と竹原、最後に真白と中野という組み合わせで席に着く。

 コースターが動き出し、ほんの数分間のスピードと回転とアップダウン。

「凄かったねぇ! 楽しかった!」
 コースターが完全に止まると同時に、隣の篠原が歓声を上げる。大の方は、始終彼女があげっ放しだった悲鳴で鼓膜がおかしくなるかと思ったのだが。
 車両から降りて地に足を付けると、大は少しふらついた。力の入っていた肩と首を回すと、コキンと音がする。
 他の者は――真白はどうだろうかと振り返ってみると、彼女よりも先に蒼白な顔をして竹原に支えられている清水が目に入った。彼女は最後まで渋っていたのを、篠原に押し切られる形で乗る羽目になったのだが。

「大丈夫ですか?」
「大丈夫よ」
 弱々しい声での返事は、少しも大丈夫そうには見えない。
「取り敢えず、横になった方がいいんじゃないか?」
 竹原の言葉で辺りを見渡すと、こういう時の為ではないだろうが、ゲートのすぐ脇にベンチが置かれていた。

 さっそくそこに清水を寝かせ、大は何か飲み物を持ってこようかと最寄りの自販機を探す。が、そんな彼の横から、すっとミネラルウォーターのペットボトルが差し出された。

「どうぞ」

 それを持つ手の主は真白で、彼女はいつも通りの生真面目な顔でベンチの脇にしゃがみこんだ。横になったままでも飲めるようにか、蓋の開いたボトルには曲がるタイプのストローが刺さっている。
 清水が水を受け取るのを待ってから、真白はバッグの中に手を入れて水をもう一本とハンドタオルを取り出した。そうしてタオルを濡らして絞ると、清水の額に押し当てる。

「随分用意がいいな……」
 カバンの中にはそんなものが入っていたのかと感心しながら、大は呟いた。真白は清水を見つめたまま答える。
「子どもたちを連れてくると、たいてい、一人や二人はこうなったから」
 子どもたち、という言葉に大は一瞬眉をひそめたが、真白が児童養護施設にいたことは周知のことだった。彼女も教師もそんなことを公言してはいなかったが、いつの間にか、それは皆の知るところとなっていた。
(そこの子たちのことなんだろうな)
 てきぱきと清水の世話を焼くその姿は、長い年月の間に培われてきたものに違いない。

 そう言えば、と大は思い返す。
 そう言えば、彼が真白に惹かれるきっかけになったのも、こんなような状況だったのだ。

 あれは高校一年生、入学してすぐの頃だった。受験から解放されたテンションで浮かれまくっていた大とその仲間たちは、バカみたいに教室ではしゃいでいた。高校生のくせに小学生のように、室内でキャッチボールなんてしてしまったのだ。
 友人が投げた球を受け損なってよろめいて――大は窓ガラスに腕を突っ込んだ。
 更に運が悪いことに、動いて暑くなっていた大は学生服を脱いでいて、ワイシャツの袖も肘の上までめくっていた。服を着ていれば多少の防御になっただろうに、割れて尖ったガラスはスッパリと彼の腕を切り裂いた。真っ赤な血がボタボタと滴り落ちて、教室内は一気にパニックに陥ったのだ。男子はおろおろするばかりで、女子は合唱のように悲鳴を上げて。

 そんな中で、真白だけが冷静だった。

 カバンから取り出したタオルを大の傷にあてがい、痛みと血を見たショックで呆然としていた彼を黙って保健室へと連れて行った。保健室には誰もいなくて、真白は彼を椅子に座らせると、黙々と包帯と消毒液を取り、さっさと手当てをしてしまった。
「あ……ありがとう」
 口ごもりながら礼を言った大に、真白は軽く首をかしげて、そしてほんの少しだけ微笑んだのだ。

 それが、きっかけ。

 傷の手当てをしてもらった事か、それとも微かな笑みを目にした事か。

 何が大の心をとらえたのかは判らない。
 とにかく、以来、大の目は彼女を追いかけるようになったのだった。

 そうして気付いたのは、時折真白が見せる眼差し。

 何かを探すような、遠くを見るような眼差し。
 帰る場所が見つからない子どものような、心許なげな眼差し。

 クラスの他の女子とは違う空気を身にまとう彼女がふとした拍子に見せるその眼差しが、大の心にいっそう深く楔を打ち込んだ。
 とらえどころのないその視線を自分に向けさせたいと大は何度も思ったけれど、中学の頃は部活ばかりで女子と口をきくことなんてほとんどなかったのだ。

 どうしたらよいのか判らないままあっという間に一年が過ぎ、結局、二年生になったらクラスが離れてしまい、その一年は、彼女にまったく近付くことができなかった。
 三年生のクラス分けの張り紙で自分と彼女の名前を同じ枠の中に見た時に、「今度こそは」と気合を入れたのだが――

 無意識のうちに、大は左腕に残る長い傷跡に触れる。

(あの時に声をかけていたら、何か違っていたのかな)
 まさに、後悔先に立たず、だ。
(もう、遅い……?)
 いいや、そんなことはない筈だ。
 大は両手をグッと握り締める。
 まだ、間に合う――間に合ってくれ。
 いつも付き合いが悪くて仕事以外の時間ではなかなか捕まえることのできなかった真白を、ようやく誘い出したのだ。
 この希少なチャンスに、大は一縷の望みをかけていた。
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