鈍色の先へ

上野たすく

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 知らない女だ。
 年上の、綺麗な女。
 佐伯はキスを止め、「加藤」と呟いた。
 甘い香水の匂いがする。

「ごめん。邪魔したみたいで」

 ドアを閉め、足早に店内へ入り、バーテンに頭を下げて店を出た。
 傷ついてはいない。
 俺は最初から自分の恋が叶わないことを、ちゃんとわかっている。
 歩く速度が上がっていく。
 傷ついてなんかいない。
 腕を掴まれ、振り向かされる。
 佐伯は息を切らしていた。
 着替えもしていない。

「なに?」

 強張る顔を、必死に繕った。
 佐伯は俺を拘束したまま、呼吸を整えた。
 住宅街は夕食時ということもあってか、人がひっきりなしに横を通っていく。

「黙っていて悪かった」

 バイトをしていたことを言っているのか、女がいることを言っているのか、どちらにもとれる言い回しだった。

「なにが?」

 声に嗚咽が混じる。

「お前が謝ることなんて、一つもないだろ?」

 佐伯の握力が減る。
 全身の血液を抜かれるような脱力感に口角を上げた。

「店に戻れよ。バーテン、一人だと、接客がおっつかない」
「だったら、一緒に行こう。飲みに来たんだろ?」
「……彼女はどうするんだ? 俺なんか口説いている場合かよ」

 弱まったと思った佐伯の握力が強まり、顔面に笑顔を張り付けた。

「佐伯が望むなら、今まで通り、金は渡す。だけど、これからは彼女のところへ帰れ」
「とにかく、一緒に来い」
「行かない」
「ここじゃ、話せない」
「見たくないんだよ!」

 檻に入れたはずの感情が、外へ出たいと鉄格子を掴んで暴れ出した瞬間だった。
 後悔しても、もう遅い。

「見たくないんだ。俺は恋人の傍で笑うお前を、見たくない」

 佐伯を見つめ、唇を伸ばす。

「察してくれ」

 佐伯は深く息を吐いた。

「あの女は俺の母親だ」

 相手は自分を詰るように、顔を歪めた。

「厳密に言えば、父の後妻だ」

 最後まで聴くか、と問われ、首を左右し、謝罪した。

「彼女は父のところへ帰った。あの女が愛するのは俺の父だからな。で、加藤がバーに行きたくない理由はなくなったと思うけど、どうする? 帰るか?」

 佐伯はずるい。
 俺が帰らないことを前提にしているくせに、選択肢をこちらに託すのだから。

「今日は飲みたかったんだ。なにか作ってくれ」
「じゃあ、今日はお前が味見役な」

 佐伯の屈託のない笑顔に、泥酔する彼の事情が浮かび上がり、苦笑した。
 佐伯は作ったカクテルを、自分で飲んでいたのだろう。

「まずかったらまずいって言うからな」
「色々、教えてくれ、先輩」

 佐伯と二人で店のドアを開くと、バーテンダーは胸を撫で下ろした。
 佐伯が客に出せるカクテルは少ないらしく、ほとんどを年配のバーテンが作っていた。
 雑用の合間、佐伯はせっせと俺にカクテルを作り、疲れも手伝ってか、あっという間に酔いが回ってしまった。
 佐伯は仕事が終わると、不甲斐ない俺を背負った。
 バーテンから「今夜は店に泊まっていけ」と言われたが、佐伯は丁重に断った。
 外気は寒いのに、佐伯の背は温かく、眠気が襲ってくる。

「バイトの件、相談せずに決めてごめん。俺が金を稼げば、お前の精神的な負担を減らせられると思ったんだ」

 佐伯の声がする。

「お前が煙草を吸おうとしていた日に会ったのは、偶然じゃない。あの日、俺、バーへ行ったんだ。そうしたら、お前は帰ったあとだった。追いかけろと言ってくれたのが、さっきのバーテンの男性だ。加藤が客に夢を貶され、弱っているからって。お前が作ったムーン・リバーもタダで飲ませてくれた。旨かったよ。今更だけど」

 佐伯が俺の体を上へとずらす。
 その揺れすら心地いい。

「芸術家は自分の意思で輝けるわけじゃない。だから、俺は小説家になれないかもしれない」

 佐伯からあの柔軟剤の匂いがする。

「やれるだけやって、それでも、俺の作品が認められなかったなら、俺の力はそういうレベルなんだと受けとめようと思う」

 好きな男の体を背後から抱きしめた。

「佐伯……」
「ん?」

 佐伯はもう俺の気持ちを知っている。
 応えをくれないことが、答えなのだ。

「俺は」
「うん」

 言わなくてもいいのに。
 どうせ、結果は変わらない。
 言わなくても……。

「……俺は」

 佐伯が立ち止まる。
 こちらの声を聴こうとしてくれる姿勢に、涙が零れた。

「好きだ」

 あれだけ抑え込まれていたというのに、佐伯を想う、その感情は俺の体内から優しく溢れてくれた。

「俺は佐伯が好きだ……」

 好きだ。
 どうしようもないくらい、好きだ。
 佐伯の声も、話し方も、香りも、顔も、体も、なにもかもが好きだ。
 これ以上、人を愛するのは無理だと思うほど、佐伯が好きだ。

「……ありがとう」

 俺も好きだ、と佐伯は言った。
 そして、友達として、とも。
 俺は佐伯の背からおり、こちらから視線を外さない友人を見つめた。

「ありがとう」
「礼を言われるようなことはしていない」
「俺の告白を遮らず、最後まで聴いてくれた」

 佐伯は、にこりともしない。
 だけど、痛々しいものを見るような目もしない。
 だから、俺は俺を取り戻すことができた。

「俺は文芸学科をクズだと思っていない。同志だと思っていた」

 佐伯は口をわずかに開けた。
 なにかを言おうとするように。

「もう、俺の夢を佐伯の夢に重ねたりしない。だから、無理に夢を追い続けようとしなくてもいい。ただ、お前が諦めるまで、俺は応援し続ける。友達として」

 コートのポケットから折りたたまれたハンカチを取り出す。

「ずっと返しそびれていた」
「捨ててもよかったんだぜ」

 持っていたかったんだ。
 お前が使っていた物だから。

「俺って物持ちいいほうだからな」
「自分で言うか?」

 佐伯が笑う。

「だな」

 俺も笑う。
 そして、笑いあえることに、心底、安堵する。

 佐伯にハンカチを渡すと同時に、俺は友人を演じようと誓った。
 佐伯が他に部屋を探すなら、引っ越しを手伝おうとも思っていた。
 いくら互いに友人宣言をしたとしても、男の俺から告白を受け、平気でいられるわけがない。
 気持ち悪いとか、わだかまりとか、そういうなにかしらのひずみが生まれるはずだ。
 だが、佐伯は部屋を出ず、なにもなかったかのように、俺の傍にいた。
 あまりにも、今まで通り過ぎて、あの告白は夢の中の出来事だったのではないか、という気すらした。

 俺が忘れてしまえば、本当になかったことになるのだろう。
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