クローバー

上野たすく

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 凜は母の実家に戻り、苗字も瀬戸内から浮世絵に変わった。それからはガラリと生活が一変した。
 忍びという枠から離れた世界は、どこまでも広く、輝いていた。
 高校に入ってからは、同世代の女の子たちと遊んだ。
 甘くて、キラキラでふわふわで、いい香りがして、胸がときめいた。
 毎日が楽しくて、新鮮で、今までの日常が遠くなっていくのを感じた。
 だけど、不意に、優しかった弟の顔が頭を過ぎった。
 初めて男の子から告白をされたとき、友だちとタピオカミルクティーを飲んで、おいしさにびっくりしたとき、進路を考えなければいけなくなったとき、伊佐那に会いたくてしかたがなかった。
 会いたいけど、相手は嫌がるかもしれない。
 伊佐那は、両親が離婚すると決まったとき、瀬戸内として生きていくことを選んだ。
 凜が鍛錬をすること拒んだのは、凜の欠点に気づき、落第の印を押したのではないか。
 端的に言えば、見放す。諦める。
 会いに行って、拒絶されたらと思うと、怖くて、瀬戸内の家の門を潜れなかった。
 忘れようとして、忘れられなくて、進路だって、昔、伊佐那が褒めてくれた絵を学べる道に足を踏み入れた。
 いつか、きっと、思っていれば、会える。
 そのときは、笑って、「久しぶり」って言うんだ。
 嫌われていても、バカにされても、笑って「会いたかった」って。
 大学で絵を学んでいる中、クローバー病が世界で流行し出した。
 凜がクローバー病にかかったなら、病院で隔離され、強制的に地下へ運ばれた。治療を受け、体を動かせるようになったら、特殊武器の適性試験をさせられて、試験になぜか受かってしまって、そうしたら、班長の役割をもらった。
 班長の集まりに出かけた場所に、伊佐那がいた。弟は凜を目にし、驚いたようだった。けど、それだけじゃない感情が、その瞳から、その表情から透けて見えて、凜は自分が嫌われていたのではないのだとわかった。
 伊佐那は瞬時に、顔を作ったが、すでに凜の弟への恐怖心はなくなっていた。
 みんなの前で、弟だと言ったら、伊佐那は露骨に嫌な顔をした。
 けど、知って欲しかった。自分と伊佐那の関係を。他人なんかじゃないって。
 さっき、夏目が見せてくれた、伊佐那の朝波朔への想いは心配と思いやりの塊だった。
 弟のやさしさは、凜を幸せな気持ちにさせた。
 E班の部屋のセキュリティのボタンを押す。ほどなくして、女の人が出た。佐古さこめぐるだ。
「はい」
「浮世絵です。伊佐那はいますか?」
「今、開けますね」
 ドアが開く、佐古は戦闘服を着て、長い髪を一つにまとめていた。
 佐古が部屋に向かって声を張り上げる。
「班長! 凜さん!」
 班員の視線が凜に集中する。
 凜は丁寧にお辞儀をして、その視線に応えた。
「佐古さんも、いつも、伊佐名のこと、ありがとう。それから、待機、お疲れ様です」
「凜さんこそ、お疲れ様です」
 背筋が伸び、シャンとした佐古は、伊佐那からの信頼も厚い。
 地下へ来る前からの知り合いらしかった。
「お茶、入れますね」
 佐古が動こうとし、伊佐那が彼女の肩に手をのせた。
「いい。通路へ出る。指令班から連絡があったら、教えてくれ」
「了解」
 通路に出ると、弟は腕を組んだ。
「なんだよ?」
「うん、あのね。一緒に、朝波君のお見舞いに行かない? 赤星君も行くって」
 伊佐那は凜をじっと見つめてから、目を細めた。
「行かない」
「待機命令に従っているのは知っているよ。ほんの少しでも、無理かな?」
「無理じゃねえけど、お前らと朝波に会いに行くのは無理だ」
「どうして?」
「どうしてって」
 伊佐那は息をついた。
「朝波は記憶喪失なんだろ? 騒いでいい状態じゃねえだろうが」
「伊佐那は私たちがドンチャンするって思ってるの?」
「しないって言えんのかよ。特に、お前が」
「私は」
 しないと言っても、埒が明かない。
「するかもしれない」
「だろ? 俺は仕事を抜けられたとして、僅かな時間だ。朝波の体調が悪くなっても、構えねえ。責任、とれねえんだよ」
「じゃあ、そうならないように、騒ぎそうになっちゃったら、伊佐那が私を叱ってよ」
「だから、俺は行かねえっつってんだろ」
 凜は唇を伸ばし、自分より身長が高くなった弟を見上げた。
「朝波君が心配なんでしょ?」
 伊佐那は目を大きくした。
「一緒に行こ。伊佐那が行くことで、朝波君が何かを思い出すかもしれないじゃない?」
「……んな、都合のいいこと、起きっこねえわ」
 そうかもしれない。
「でも、今の朝波君の記憶には残るよ」
 笑いかけると、舌打ちされた。
「てめぇら、ぜってぇ、俺に迷惑かけんなよ。約束しろ」
「え~」
「え~、じゃねえ。いいか。赤星にも言っとけ。さ、わ、ぐ、なってな」
 シフトを変更してくる、とつっけんどんに言い、弟は部屋へ入っていった。
 次に、部屋のドアが開いたとき、伊佐那の手には大きなフルーツ盛りがあった。
「佐古が、持ってけって」
 伊佐那も佐古に強く出られないところがあるのだろう。
 弟と佐古のやり取りを想像し、微笑むと、上から舌打ちが返ってきた。
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