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第2章 王都フレンテと魔王の影
20話 ようこそトカゲの角亭へ!
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「まずいな……。どこか宿を探さないとな」
始まりの剣の力試しをした広場からしばらく歩いたところで俺はふと気づいた。つい新しいものに興奮して歩き回ってしまったが、そういえばまだ今日泊まる場所を確保できていない。この街は見たところ観光客も多いらしいし、ともすれば宿が取れず野宿、ということにもなりかねない。グレン村までの四日間でもう十分野宿をしてきたのでなるべく室内でゆっくり眠りたいところだが……。すでに傾いてきた太陽を一睨みして、俺は宿らしき建物を探しながら道を歩いていった。
数十分歩いた結果としては、三軒の宿を見つけたがどれもすでに予約がいっぱいで泊まることが出来なかった。やはり中心部は特に観光客が多いのか、どこの宿も大盛況らしい。焦りを感じつつ見知らぬ街を駆け回っていると、やがて街の西のはずれにある一軒の宿屋にたどり着いた。外壁に蔦が這っている二階建ての古めかしい建物で、普段なら入るのに少しためらわれるようなところだが、今はそんな悠長なことをしている余地はない。予約に空きがあることを祈りながら、俺は意を決して重い扉を開けた。
「いらっしゃい! ようこそ”トカゲの角亭”へ!」
俺が扉をくぐった途端に正面に見えるカウンターから威勢のいい声が飛んできた。トカゲの角とな……。なんとも俺の嫌な記憶が刺激されるような名前をしているが、まあ逆に縁があっていいかもしれない。室内に入ると、カウンターのほかにキッチンや大きなテーブル、本棚など雑多なものが配置されているのが目に入ってくる。
とりあえず空き部屋があるかを確認しないことには安心できない。俺はカウンターに向かうと、先ほどの発言主であるふくよかな女性に話しかけた。
「すみません、ここってまだ空き部屋はありますか?」
「お客さん運がいいね! ちょうど一部屋だけさっき予約がなくなって空いているよ。何日泊まるのかい?」
良かった、やっと泊まる場所を確保できた。直近の目的は日本に帰還する方法についての情報を集めることなので、そこそこの期間この街にとどまる必要がある。
「連泊はどのくらいまで可能ですか?」
「連泊かい、それなら別にいつまでっていう制限はないよ。ちゃんと宿代を払ってくれる限りは、だがね。ちなみに値段はこんな感じだよ」
女将さんが指さした後ろの壁には宿泊料金の表が張られている。一日宿泊が三百レカで、連泊は少し安い一日当たり二百五十レカらしい。昼に食べたパエーゼが六十レカだったが、それの四、五倍というのが果たして安いのか高いのか、相場を知らないので見当がつかない。フレンテのような観光客の多い街で、一日の宿泊よりも安い連泊を無期限でオーケーにしているのが何とも太っ腹なサービスだ。また、表の下には食事が朝食が〇クロンから、昼食が四クロンから、夕食が八クロンからであり、宿泊費とは別料金だとも書いてあった。この世界は日の出の鐘の音を一日の始まりとして〇クロンとするそうなので、朝食は六時、昼食と夕食はそれぞれ十二時と六時ということになる。というかグレン村では一日二食だったのに、この街では三食なのか。何か文化的な違いがあるのだろうか。
それはともかくとりあえず宿泊の手続きをしなければ。
「じゃあ、一月分連泊をお願いします」
どれくらい滞在するかはわからないが、とりあえず長く泊まることにしておけば寝床を失うということにはならないだろう。
「一月ね、大丈夫だよ。支払いは一週間ごとにしてもらうからお金の準備はしておいてくれよ。ああ、あとうちも忙しいから連泊のお客さんにはちょっと掃除とかを手伝ってもらっているんだけど、構わないかい?」
女将さんの言葉に俺はすぐに頷いた。長く泊まらせてくれるのに、何もしない──もちろん宿泊費は払うが──のはなんとなく不義理に思えてしまうので、女将さんのお願いはむしろありがたかった。というかここで嫌です! などと断りでもしたら、俺はせっかく見つけた部屋を失うことになってしまう。
「ありがとさん。じゃあ、ここにお客さんの名前を書いておくれ。そしたら滞在確認書と鍵を渡すよ」
女将さんに示された予約表らしきものに自分の名前を書こうとしたが、そこでふと手が止まる。危ない、日本語で書いたら女将さんには読めないではないか。ここはフレントーラ語で書かなければと、何とか頭の中の辞書をめくりながら俺は自分の名前を枠に書き込んだ。それを受け取った女将さんが満足げにソウマさんだね、と言って表の代わりに、長期滞在を確認しました、と書かれた紙と鍵を取り出した。
そんなわけで部屋を取り終えると、女将さんから部屋の鍵を受け取り俺は二階への階段を上っていった。
階段を上ると壁に沿って細い廊下が伸びているのがまず目に入った。向こうの角で曲がってさらに奥まで続いているらしい。壁に貼られた間取り図によると、壁に沿ってコの字に伸びる廊下に沿って手前から順に一号室から五号室まで部屋が並んでいるらしい。俺の部屋は四号室なので図の部屋の中で左上に描かれている部屋がそれだとわかる。どんな内装なのだろうかと少しわくわくしながら廊下を歩いていくとすぐに件の部屋の前にたどり着いた。フレントーラ語の四の数字が刻印された金属の薄い板が扉に取り付けられている。無骨な鍵を鍵穴に差し込むと俺はドアの奥に進んだ。
扉の奥に広がっていたのは、元の世界のホテルとは程遠い、民家の一室のような雰囲気の部屋だった。部屋の奥にある窓から差し込む夕方の日差しが、部屋の中の年季の入った家具たちをキラキラと照らしている。扉の近くから、タンス、簡素な机といす、小物を入れるようであろう小さなチェストボックス、そして奥の壁際にふかふかそうなベッドが置いてある。ちなみにトイレは建物の外にあるらしい。
ここがしばらくの家になるのかと感慨深い気持ちになりながら俺は部屋の中に入った。土間らしき場所がなく、入口からそのまま置くまで板張りなので、どうやらここもグレン村と同じく靴を脱がずに部屋に入るスタイルらしい。
とりあえず背負っていた荷物を机の上に置いて、俺はベッドに体を投げ出した。瞬間、干した布団特有の、いわゆるお日様の匂いが鼻腔をくすぐり、途端に懐かしさがこみ上げてくる。その郷愁の念の行く先は元の世界かはたまたグレン村か定かではない。
落ち着いたところで今更ここまでの旅の疲れが押し寄せてきた。思えば遠くへ来たものだ。右も左もわからないこの世界で、夢としか思えない出来事をかつてないほどの密度で経験してきたのだ。褒めてくれなどとはさすがに思わないが、少し休むくらい許してもらいたい。そんな言い訳を心に浮かべながらベッドに寝転がっていると、次第に眠気が押し寄せてきた。少しだけ、少しだけ仮眠を取ろうとスリープモードに移行しつつある頭で正当化して、俺は落下していくように眠りに入っていった。
久しぶりに夢を見た。いつか見たのと同じ夢だ。目の前の真っ白な少女が不安げな表情で俺に語りかけている。そして俺も何か少女に声をかけた後、少女の口が動くとともに視界いっぱいに虹色の光が広がる。そして光以外のものが何も見えなくなった時落下するような感覚が襲い掛かった。俺の意識は反対に眠りから浮上していく。
目が覚めたとき、まず自分がどこにいるのかわからなかった。背中に当たる感触は、フレンテまでの道中の野宿での地面に布を敷いただけの簡易的な寝床とは比べ物にならないほどふかふかだ。昨日は一体何をしていたっけ。
そこなで考えたところでぼんやりとした頭が次第に回復してきて、ようやく俺がフレンテの宿に泊まったことを思い出した。ベッドから起き上がり周囲を見回すが、まだ日は登っていないようで部屋の中は薄暗い。とりあえず光源を確保しようと、机の上に置いた荷物からランプと魔石の入った小袋を取り出すとランプに明かりを灯した。柔らかな光に照らされた部屋を見て、ライさんにはグレン村でも、ここまでの道中でも、そして今もお世話になってばかりだなあと他人事のように思う。
だんだんと昨日の記憶が鮮明によみがえってくると、俺は夕方にちょっと一休みすると言ってそのまま一晩中出てしまったことに気がついた。自分のことながらその計画性の無さには呆れてしまうが、まあ新天地で動き回って疲れたのだから仕方あるまい。ひとまずは夜が明けるまで部屋の中で昨日の分までいろいろ計画を立てておこう。
俺の最大の目標は元の世界に帰ること、そしてそのために帰還する方法に関する情報を収集することである。それらの目標を達成するには、まず可能ならば帰還する方法を発見すること、それが無理ならば情報が集まるような場所を探すことが不可欠となる。そしてそのためには長期間の調査を可能にするだけの資金が必要だ。ノルト村長に頂いたお金があるとはいえ無限ではない。どうにかしてお金を稼がなくてはならない。だが元の世界の常識で考えるならば、身分証も何も持っていない俺が働けるような仕事ははたして存在するんだろうか。朝食の時にでも女将さんに聞いてみるとしよう。
そんなこんなで当分の計画を立ててみたはいいが、まだ朝日は登らないようだ。そりゃあ夕方から寝ればこんな早朝というか深夜に起きるのも当然だ。ならばこの余った時間を魔法の練習にでも費やすとしよう。
まず深呼吸をして心を落ち着かせた後に、右の手首を左手で掴んで右手のひらに意識を集中。体と腕で輪を描くスタイルがライさん流の魔法の効率化の方法だそうだ。自分を魔法を出力する回路と例えるなら、こうやって輪を作るのは正しいのかもしれない。マナがゆっくりと右手の方へ流れていっているのを感じたところで、俺は式句──魔法詠唱のための呪文のようなもの──を唱えた。
「テネロ・エメルゲ・クーベ・ソルド・ルーン」
一つひとつの式句を唱えていくごとに、右手のひらの上の中心にして水平面上に複雑な模様を描く円が形成されていく。そして最後の式句を唱えると同時に一斉に円が紫の光を放ち、多重円の上に一辺三十センチメートルほどの立方体が現れた。
ライさんの工房での訓練からオークの襲撃の夜まで数えきれないほど魔法を使用してきたが、そのメカニズム自体はまるで分かっていない。今のところ分かっていることとしては、まず最初に魔法の属性を指定する文言を唱え、次に具体的な命令を述べていくといった大まかな魔法実行までの流れだ。命令に使われる式句もどうやら無数に存在するようで、それぞれに異なった命令を下すことが出来るらしいのだ。
そして、今唱えた魔法のように、一つの命令の式句の後ろに式句を加えていくことで、さらに複雑な命令が可能になる。可能になるという言い方になるのは、式”句”というからには原則複数の語の組み合わせを意味しており、命令の式句にはもともと実行に関する設定が備わっているため、それ単体でも魔法は実行されるからだ。例えるなら属性というジャンルの食べ物を扱うレストランで、命令の式句のメニューを選び、そこに追加の式句、すなわちトッピングやオプションをつけていくといった感じだ。少なくとも俺の中ではそう解釈している。よって魔法の訓練は、実践を除けばその他全て式句の暗記と言ってもいいくらいなのだ。
そんな感じにデジタルな仕組みによって管理されている(らしい)魔法だが、実際にはアナログな要素も関わっている。例えば今詠唱した魔法の中の”ソルド”なる式句は意味のまま生成する物体を固体にする魔法なのだが、これは実際のところは密度の範囲を気体・液体・固体の三段階に分割した範囲を指定する式句であり、本人のさじ加減でその範囲内でなら密度を変化させることが出来るのだ。もちろん密度を大きくすればそのために必要とされるマナの量も多くなる。
必ずしも必要というわけではないが、せっかく魔法が存在する世界に迷い込んだのだ。うまく使えるように時間を見つけてこれからも練習しておこう。
何度か魔法の試行錯誤を繰り返しているうちに、気づけばドアの小さな窓から明るい光が差し込んできていた。そして朝日に続くように、一日の始まりを告げる鐘の音が外で響き渡った。確か昨日見た張り紙には朝食は〇クロン、すなわち六時からだったはずなので、恐らくは今から朝食が食べられるはずだ。コインの入った袋からくすんだ灰色のコイン──十レカ硬貨を十枚ほど取り出してズボンのポケットに突っ込むと、俺は部屋に一応鍵をかけてから階下を目指した。
始まりの剣の力試しをした広場からしばらく歩いたところで俺はふと気づいた。つい新しいものに興奮して歩き回ってしまったが、そういえばまだ今日泊まる場所を確保できていない。この街は見たところ観光客も多いらしいし、ともすれば宿が取れず野宿、ということにもなりかねない。グレン村までの四日間でもう十分野宿をしてきたのでなるべく室内でゆっくり眠りたいところだが……。すでに傾いてきた太陽を一睨みして、俺は宿らしき建物を探しながら道を歩いていった。
数十分歩いた結果としては、三軒の宿を見つけたがどれもすでに予約がいっぱいで泊まることが出来なかった。やはり中心部は特に観光客が多いのか、どこの宿も大盛況らしい。焦りを感じつつ見知らぬ街を駆け回っていると、やがて街の西のはずれにある一軒の宿屋にたどり着いた。外壁に蔦が這っている二階建ての古めかしい建物で、普段なら入るのに少しためらわれるようなところだが、今はそんな悠長なことをしている余地はない。予約に空きがあることを祈りながら、俺は意を決して重い扉を開けた。
「いらっしゃい! ようこそ”トカゲの角亭”へ!」
俺が扉をくぐった途端に正面に見えるカウンターから威勢のいい声が飛んできた。トカゲの角とな……。なんとも俺の嫌な記憶が刺激されるような名前をしているが、まあ逆に縁があっていいかもしれない。室内に入ると、カウンターのほかにキッチンや大きなテーブル、本棚など雑多なものが配置されているのが目に入ってくる。
とりあえず空き部屋があるかを確認しないことには安心できない。俺はカウンターに向かうと、先ほどの発言主であるふくよかな女性に話しかけた。
「すみません、ここってまだ空き部屋はありますか?」
「お客さん運がいいね! ちょうど一部屋だけさっき予約がなくなって空いているよ。何日泊まるのかい?」
良かった、やっと泊まる場所を確保できた。直近の目的は日本に帰還する方法についての情報を集めることなので、そこそこの期間この街にとどまる必要がある。
「連泊はどのくらいまで可能ですか?」
「連泊かい、それなら別にいつまでっていう制限はないよ。ちゃんと宿代を払ってくれる限りは、だがね。ちなみに値段はこんな感じだよ」
女将さんが指さした後ろの壁には宿泊料金の表が張られている。一日宿泊が三百レカで、連泊は少し安い一日当たり二百五十レカらしい。昼に食べたパエーゼが六十レカだったが、それの四、五倍というのが果たして安いのか高いのか、相場を知らないので見当がつかない。フレンテのような観光客の多い街で、一日の宿泊よりも安い連泊を無期限でオーケーにしているのが何とも太っ腹なサービスだ。また、表の下には食事が朝食が〇クロンから、昼食が四クロンから、夕食が八クロンからであり、宿泊費とは別料金だとも書いてあった。この世界は日の出の鐘の音を一日の始まりとして〇クロンとするそうなので、朝食は六時、昼食と夕食はそれぞれ十二時と六時ということになる。というかグレン村では一日二食だったのに、この街では三食なのか。何か文化的な違いがあるのだろうか。
それはともかくとりあえず宿泊の手続きをしなければ。
「じゃあ、一月分連泊をお願いします」
どれくらい滞在するかはわからないが、とりあえず長く泊まることにしておけば寝床を失うということにはならないだろう。
「一月ね、大丈夫だよ。支払いは一週間ごとにしてもらうからお金の準備はしておいてくれよ。ああ、あとうちも忙しいから連泊のお客さんにはちょっと掃除とかを手伝ってもらっているんだけど、構わないかい?」
女将さんの言葉に俺はすぐに頷いた。長く泊まらせてくれるのに、何もしない──もちろん宿泊費は払うが──のはなんとなく不義理に思えてしまうので、女将さんのお願いはむしろありがたかった。というかここで嫌です! などと断りでもしたら、俺はせっかく見つけた部屋を失うことになってしまう。
「ありがとさん。じゃあ、ここにお客さんの名前を書いておくれ。そしたら滞在確認書と鍵を渡すよ」
女将さんに示された予約表らしきものに自分の名前を書こうとしたが、そこでふと手が止まる。危ない、日本語で書いたら女将さんには読めないではないか。ここはフレントーラ語で書かなければと、何とか頭の中の辞書をめくりながら俺は自分の名前を枠に書き込んだ。それを受け取った女将さんが満足げにソウマさんだね、と言って表の代わりに、長期滞在を確認しました、と書かれた紙と鍵を取り出した。
そんなわけで部屋を取り終えると、女将さんから部屋の鍵を受け取り俺は二階への階段を上っていった。
階段を上ると壁に沿って細い廊下が伸びているのがまず目に入った。向こうの角で曲がってさらに奥まで続いているらしい。壁に貼られた間取り図によると、壁に沿ってコの字に伸びる廊下に沿って手前から順に一号室から五号室まで部屋が並んでいるらしい。俺の部屋は四号室なので図の部屋の中で左上に描かれている部屋がそれだとわかる。どんな内装なのだろうかと少しわくわくしながら廊下を歩いていくとすぐに件の部屋の前にたどり着いた。フレントーラ語の四の数字が刻印された金属の薄い板が扉に取り付けられている。無骨な鍵を鍵穴に差し込むと俺はドアの奥に進んだ。
扉の奥に広がっていたのは、元の世界のホテルとは程遠い、民家の一室のような雰囲気の部屋だった。部屋の奥にある窓から差し込む夕方の日差しが、部屋の中の年季の入った家具たちをキラキラと照らしている。扉の近くから、タンス、簡素な机といす、小物を入れるようであろう小さなチェストボックス、そして奥の壁際にふかふかそうなベッドが置いてある。ちなみにトイレは建物の外にあるらしい。
ここがしばらくの家になるのかと感慨深い気持ちになりながら俺は部屋の中に入った。土間らしき場所がなく、入口からそのまま置くまで板張りなので、どうやらここもグレン村と同じく靴を脱がずに部屋に入るスタイルらしい。
とりあえず背負っていた荷物を机の上に置いて、俺はベッドに体を投げ出した。瞬間、干した布団特有の、いわゆるお日様の匂いが鼻腔をくすぐり、途端に懐かしさがこみ上げてくる。その郷愁の念の行く先は元の世界かはたまたグレン村か定かではない。
落ち着いたところで今更ここまでの旅の疲れが押し寄せてきた。思えば遠くへ来たものだ。右も左もわからないこの世界で、夢としか思えない出来事をかつてないほどの密度で経験してきたのだ。褒めてくれなどとはさすがに思わないが、少し休むくらい許してもらいたい。そんな言い訳を心に浮かべながらベッドに寝転がっていると、次第に眠気が押し寄せてきた。少しだけ、少しだけ仮眠を取ろうとスリープモードに移行しつつある頭で正当化して、俺は落下していくように眠りに入っていった。
久しぶりに夢を見た。いつか見たのと同じ夢だ。目の前の真っ白な少女が不安げな表情で俺に語りかけている。そして俺も何か少女に声をかけた後、少女の口が動くとともに視界いっぱいに虹色の光が広がる。そして光以外のものが何も見えなくなった時落下するような感覚が襲い掛かった。俺の意識は反対に眠りから浮上していく。
目が覚めたとき、まず自分がどこにいるのかわからなかった。背中に当たる感触は、フレンテまでの道中の野宿での地面に布を敷いただけの簡易的な寝床とは比べ物にならないほどふかふかだ。昨日は一体何をしていたっけ。
そこなで考えたところでぼんやりとした頭が次第に回復してきて、ようやく俺がフレンテの宿に泊まったことを思い出した。ベッドから起き上がり周囲を見回すが、まだ日は登っていないようで部屋の中は薄暗い。とりあえず光源を確保しようと、机の上に置いた荷物からランプと魔石の入った小袋を取り出すとランプに明かりを灯した。柔らかな光に照らされた部屋を見て、ライさんにはグレン村でも、ここまでの道中でも、そして今もお世話になってばかりだなあと他人事のように思う。
だんだんと昨日の記憶が鮮明によみがえってくると、俺は夕方にちょっと一休みすると言ってそのまま一晩中出てしまったことに気がついた。自分のことながらその計画性の無さには呆れてしまうが、まあ新天地で動き回って疲れたのだから仕方あるまい。ひとまずは夜が明けるまで部屋の中で昨日の分までいろいろ計画を立てておこう。
俺の最大の目標は元の世界に帰ること、そしてそのために帰還する方法に関する情報を収集することである。それらの目標を達成するには、まず可能ならば帰還する方法を発見すること、それが無理ならば情報が集まるような場所を探すことが不可欠となる。そしてそのためには長期間の調査を可能にするだけの資金が必要だ。ノルト村長に頂いたお金があるとはいえ無限ではない。どうにかしてお金を稼がなくてはならない。だが元の世界の常識で考えるならば、身分証も何も持っていない俺が働けるような仕事ははたして存在するんだろうか。朝食の時にでも女将さんに聞いてみるとしよう。
そんなこんなで当分の計画を立ててみたはいいが、まだ朝日は登らないようだ。そりゃあ夕方から寝ればこんな早朝というか深夜に起きるのも当然だ。ならばこの余った時間を魔法の練習にでも費やすとしよう。
まず深呼吸をして心を落ち着かせた後に、右の手首を左手で掴んで右手のひらに意識を集中。体と腕で輪を描くスタイルがライさん流の魔法の効率化の方法だそうだ。自分を魔法を出力する回路と例えるなら、こうやって輪を作るのは正しいのかもしれない。マナがゆっくりと右手の方へ流れていっているのを感じたところで、俺は式句──魔法詠唱のための呪文のようなもの──を唱えた。
「テネロ・エメルゲ・クーベ・ソルド・ルーン」
一つひとつの式句を唱えていくごとに、右手のひらの上の中心にして水平面上に複雑な模様を描く円が形成されていく。そして最後の式句を唱えると同時に一斉に円が紫の光を放ち、多重円の上に一辺三十センチメートルほどの立方体が現れた。
ライさんの工房での訓練からオークの襲撃の夜まで数えきれないほど魔法を使用してきたが、そのメカニズム自体はまるで分かっていない。今のところ分かっていることとしては、まず最初に魔法の属性を指定する文言を唱え、次に具体的な命令を述べていくといった大まかな魔法実行までの流れだ。命令に使われる式句もどうやら無数に存在するようで、それぞれに異なった命令を下すことが出来るらしいのだ。
そして、今唱えた魔法のように、一つの命令の式句の後ろに式句を加えていくことで、さらに複雑な命令が可能になる。可能になるという言い方になるのは、式”句”というからには原則複数の語の組み合わせを意味しており、命令の式句にはもともと実行に関する設定が備わっているため、それ単体でも魔法は実行されるからだ。例えるなら属性というジャンルの食べ物を扱うレストランで、命令の式句のメニューを選び、そこに追加の式句、すなわちトッピングやオプションをつけていくといった感じだ。少なくとも俺の中ではそう解釈している。よって魔法の訓練は、実践を除けばその他全て式句の暗記と言ってもいいくらいなのだ。
そんな感じにデジタルな仕組みによって管理されている(らしい)魔法だが、実際にはアナログな要素も関わっている。例えば今詠唱した魔法の中の”ソルド”なる式句は意味のまま生成する物体を固体にする魔法なのだが、これは実際のところは密度の範囲を気体・液体・固体の三段階に分割した範囲を指定する式句であり、本人のさじ加減でその範囲内でなら密度を変化させることが出来るのだ。もちろん密度を大きくすればそのために必要とされるマナの量も多くなる。
必ずしも必要というわけではないが、せっかく魔法が存在する世界に迷い込んだのだ。うまく使えるように時間を見つけてこれからも練習しておこう。
何度か魔法の試行錯誤を繰り返しているうちに、気づけばドアの小さな窓から明るい光が差し込んできていた。そして朝日に続くように、一日の始まりを告げる鐘の音が外で響き渡った。確か昨日見た張り紙には朝食は〇クロン、すなわち六時からだったはずなので、恐らくは今から朝食が食べられるはずだ。コインの入った袋からくすんだ灰色のコイン──十レカ硬貨を十枚ほど取り出してズボンのポケットに突っ込むと、俺は部屋に一応鍵をかけてから階下を目指した。
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