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第3章 蒼き海原と氷雪の砦
70話 海中に潜むもの
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「なんであそこだけ凍ったままなんだ?」
海岸にポツンと丸く残留した氷を空中から見下ろしながら俺は思わずそう声を漏らした。切り抜かれたかのように直径十五メートルほど円盤状の氷塊が凍結を解かれた範囲の中に佇む様子は、偶然の産物とは思えず何かしらの意図が絡んでいるのではという疑念を抱かせるのに十分な違和感を放っている。うまく言語化できないが、何か嫌な予感がする。
そこまで考えたところで俺に向かってアレウエが今度は左腕の剣を振り上げた。鋸状の刃がそのサイズからは想像もできないほどの速度で迫るのを視覚と聴覚で感じながら俺は左手に意識を集中させる。
「テネロ・エメルゲ・ルーン!!」
激しい風切りの音を裂いて放たれた詠唱が左手の先に魔法陣を紡ぎ、一拍遅れて視界を覆い尽くす黒い炎が噴き出す。ほぼ同時に超速で俺を断ち切らんと氷の大剣が迫り、伸ばした左腕ごと俺の体を真っ二つに切り裂く……寸前で両者の間に魔法陣と黒炎が割り込み、瞬く間に刃を包み込んだ。
黒い火炎と青白い氷が拮抗し、じりじりとではあるが着実に一列に並んだ鋭い氷を消し飛ばしていくが、不意に何かが胸からこみ上げる感覚が襲って俺は思わず魔法を解除してしまった。こみ上げた不快感が一気に構内に駆け上り慌てて吐き出す。自身の口中から吐き出された大量のそれが、ついさっき鼻から流れた真っ黒い液体と同じものであると認識した瞬間、刃を融かされた結果純粋な打撃武器と化したアレウエの氷剣がまっすぐに左手を打ち据えた。途方もない衝撃と振動が左腕を襲い、手のひらから前腕の順に恐らく骨が砕けたであろうバキバキという痛々しい音が響くのがこの騒音の中でも分かった。このままでは衝撃が連鎖して胴体や頭部にまでダメージが行くのではないだろうか。スローモーションになった世界の中で、アレウエを破壊に至らしめた俺の作戦が頭をよぎり喉元にナイフをあてがわれたかのような冷たい恐怖感がこみ上げる。まずい、どうにか、どうにかしなければ。
「ぐっ!」
必死の思考の末、俺は氷塊に叩きつけられた左腕を無理やり外向きに振って体を大きくその軌道から逸らした。体の左すれすれを氷の剣が通過していく。それに一瞬遅れて逃げた衝撃に跳ね飛ばされた左腕が肩関節から脱離する鈍い音が鳴り響いた。頭に焼けた鉄を刺しこまれたような赤熱する激痛とともに左手の先に電撃が走り視界がちかちかと明滅する。
必死に唇を噛みしめて意識を手放さないようにすると左肩を見やると、完全に脱臼してはいるものの、幸い右腕のようにちぎれることなくなんとか体にくっついている。しかしまた何ともひどい見てくれだ。
最悪の状況を免れたことに一抹の安堵を抱きつつ、俺は次なる一手のために行動を開始した。左腕は外れている上に感覚が途絶えているため魔法を行使できない。眼下に迫る地面をちらりと見やり高度を確認しながら俺は切断されて短くなった右腕をある標的に向けた。可能な限り右腕の先に意識を集中させようとするが肉体が切断されているのが原因なのか、あるいはきつく締められた紐が原因なのか、なかなかエネルギーの収束が起こらない。そうこうしているうちにどんどんと俺の体は地面へと向かって落ちていく。早くしなければ着地のための魔法すらも間に合わなくなりかねない。もはや迷っている時間はない。
俺は息を吸い込んで覚悟を決めると歯で上腕に結ばれた紐を噛んで思い切り引っ張った。強い抵抗感の後するりと紐が解け、ほとばしる黒い液体とともに急激にエネルギーの流れが発生する。
「テネロ・ショトゥ・ルーンッ!!」
叫びに乗せて放たれた魔法の矢が狙うのはアレウエ……ではなく、海岸に浮かぶ氷塊。ねじくれた黒い矢が回転しながら音を置き去りにして飛翔し、はるか遠くの氷に直撃した。少し遅れて破砕音が響きゆっくりと氷が分断されていく。
嫌な予感はただの思い違いだったかと安堵しかけたその時、俺の目が割れた氷の下に佇む何かの影を捉えた。円盤状の氷の直径とほぼ同じ体長、滑らかな流線型のやや細長いフォルムは魚類というよりは哺乳類、海獣の類のように見える。
しかしその正体を看破するほどの時間は今もなお落下中の俺には当然ない。観察を諦めて視線を近景に戻し落下に備えようとした俺の視界の端に、しかし海中の影の恐らく目と思われる部分が金色にぼんやりと燐光を発したのが映り込んだ。その冷たい刃を思わせる眼光が、現在進行形で頭上から照射されるアレウエの目線と完全に一致しているように見えて。
衝撃の発見に思わず気を取られたその刹那を狙っていたかのように──あるいは本当に狙っていたのかもしれないが──、アレウエの氷の茨が落下する俺に向かって殺到した。慌ててなおも黒い血の滴る右腕を向けるが、あまりの数、方向からの攻撃のためにすべてに対応しきれない。絶望が心を満たしていくのを感じながらも俺は式句を詠唱し始める
。心喰いの呪いの発動時には三単語まで魔法の詠唱が省略されるようだが、今はその三単語すら果てしなく長い。二単語目”顕現せよ”を唱え始めた時にはすでに視界を幾本もの茨が覆い尽くしていた。明確な死の接近を知覚して無意識に式句を紡ぎ出す口が動きを止めた瞬間、しかしその凍り付く死の予感を撥ね退けるように猛々しい男の雄叫びが高らかに響き渡った。
「ルー-ーンッ!!!」
次の瞬間、俺の視界が純白に染め上げられた。眼前に現れた、恐らく円筒状に俺の周りを取り囲んでいるのであろう、眩く輝く光のカーテンは五月雨のような騒音を上げながら俺を中心に周囲に拡大していく。白い天蓋は直径五メートルほどまで成長したのち、不意にその姿を消失させた。後に残ったのは俺と、円筒形に削り取られたアレウエの茨。
後方から放たれた光属性と思しき魔法によって茨の脅威から解放された俺は、当たり前だが今も落下を続けていた。落ちて、落ちて、落ちて……、突然俺の背中に地面とは比べ物にならないほど柔らかい感触が衝突した。
「よく耐えたな、坊主。あとは俺たちに任せろ!」
落下してきた俺を見事にキャッチして見せたニワトリ面の巨漢は、仰向けになったまま呆然とする俺の顔をニヤリと笑いながら見下ろしていた。
「──とにかく野郎をどでかくぶち壊してやればいいんだな?」
「はい。……でも気をつけてください。アレウエは再生に合わせて自分を強化するんです」
突然の男たち、もといマナーゼンの乱入によってアレウエとの戦闘から半ば強引に離脱した俺は、彼らの仲間と思しき男たちに囲まれながら情報の共有を行っていた。どうやらアレウエの破壊による町の解放はその間、初めに俺とアレウエの戦いに割って入ったニワトリ頭の大男とムキムキの光魔法使いに追加でマナーゼン数人が合流し何とかアレウエの猛攻を押しとどめている。
「しかしあいつの名前が”アレウエ”とはなあ……」
応急処置を受ける俺を囲むマナーゼンの中、一人の禿げ頭の大鎌使いが何やら渋い顔で呟いた。男のつぶやきに賛同するように複数人の男たちも複雑そうな表情で頷く。
「アレウエっていう名前に何かあるんですか?」
「ん? ああ、お前さん旅人か。『氷の妖精アレウエ』っつー、フレントーラで育った奴ならガキの頃に一度は聞いたことがあるおとぎ話があってな。ちょっとばかり悲しい話なもんだから、今あそこにいる野郎とは似ても似つかねえなあって思ってな」
「そうなんですか……。アレウエっていう妖精はもしかしてクジラみたいだったりしませんか?」
仮に今現在広場で暴れまわっているアレウエがおとぎ話の中の同名の妖精と何らかの関連を持つとして、もしおとぎ話の中のアレウエなる氷の妖精がクジラの形をとっているのならば、破壊した氷の下に沈んでいた怪しい影がアレウエの正体、つまりは広場の氷の巨人はただの操り人形であり、海中のクジラこそが本体だという可能性が浮かび上がってくる。
そんなアレウエ打倒の糸口になりそうな可能性に賭けて質問を投げかけた俺だったが、しかし大鎌使いから返ってきたのはなぜそんな質問を投げるのだと言わんばかりの不思議そうな顔といいやという否定だった。
「少なくとも俺の聞いた話じゃちっせえガキの姿だった気がするが……。まあ多分あのデカブツとは関係ねえよ。じゃあ俺たちはあいつをぶっ壊しに行ってくるからお前さんは休んどけよ」
「分かりました……。気をつけて!」
いかつい顔面に似つかわしくないくしゃっとした笑顔を浮かべて大鎌を担いだ禿げ頭はアレウエに向かって行った。一度浮上した可能性を否定されてもなお胸中に残るもやもやは消えない。あれがアレウエの本体ではないとするならば、じゃああれは何なのだという話になるし、あの凍るような金の瞳は同じ色をした目を対面した者として無視しきれない。
一旦の処置が終了し、治療士に体を支えられながら広場から離れる俺の耳に不意に軽く不規則な足音が届く。足音の方に顔を向けると馴染みのある小柄なシルエットと再び目深にかぶられたフーデッドケープが見えた。
「ソーマっ!!」
自分もぼろぼろであるはずのカイナはそんなことなどお構いなしに、今にも泣きそうな顔をして俺のもとに走ってきた。
海岸にポツンと丸く残留した氷を空中から見下ろしながら俺は思わずそう声を漏らした。切り抜かれたかのように直径十五メートルほど円盤状の氷塊が凍結を解かれた範囲の中に佇む様子は、偶然の産物とは思えず何かしらの意図が絡んでいるのではという疑念を抱かせるのに十分な違和感を放っている。うまく言語化できないが、何か嫌な予感がする。
そこまで考えたところで俺に向かってアレウエが今度は左腕の剣を振り上げた。鋸状の刃がそのサイズからは想像もできないほどの速度で迫るのを視覚と聴覚で感じながら俺は左手に意識を集中させる。
「テネロ・エメルゲ・ルーン!!」
激しい風切りの音を裂いて放たれた詠唱が左手の先に魔法陣を紡ぎ、一拍遅れて視界を覆い尽くす黒い炎が噴き出す。ほぼ同時に超速で俺を断ち切らんと氷の大剣が迫り、伸ばした左腕ごと俺の体を真っ二つに切り裂く……寸前で両者の間に魔法陣と黒炎が割り込み、瞬く間に刃を包み込んだ。
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「ぐっ!」
必死の思考の末、俺は氷塊に叩きつけられた左腕を無理やり外向きに振って体を大きくその軌道から逸らした。体の左すれすれを氷の剣が通過していく。それに一瞬遅れて逃げた衝撃に跳ね飛ばされた左腕が肩関節から脱離する鈍い音が鳴り響いた。頭に焼けた鉄を刺しこまれたような赤熱する激痛とともに左手の先に電撃が走り視界がちかちかと明滅する。
必死に唇を噛みしめて意識を手放さないようにすると左肩を見やると、完全に脱臼してはいるものの、幸い右腕のようにちぎれることなくなんとか体にくっついている。しかしまた何ともひどい見てくれだ。
最悪の状況を免れたことに一抹の安堵を抱きつつ、俺は次なる一手のために行動を開始した。左腕は外れている上に感覚が途絶えているため魔法を行使できない。眼下に迫る地面をちらりと見やり高度を確認しながら俺は切断されて短くなった右腕をある標的に向けた。可能な限り右腕の先に意識を集中させようとするが肉体が切断されているのが原因なのか、あるいはきつく締められた紐が原因なのか、なかなかエネルギーの収束が起こらない。そうこうしているうちにどんどんと俺の体は地面へと向かって落ちていく。早くしなければ着地のための魔法すらも間に合わなくなりかねない。もはや迷っている時間はない。
俺は息を吸い込んで覚悟を決めると歯で上腕に結ばれた紐を噛んで思い切り引っ張った。強い抵抗感の後するりと紐が解け、ほとばしる黒い液体とともに急激にエネルギーの流れが発生する。
「テネロ・ショトゥ・ルーンッ!!」
叫びに乗せて放たれた魔法の矢が狙うのはアレウエ……ではなく、海岸に浮かぶ氷塊。ねじくれた黒い矢が回転しながら音を置き去りにして飛翔し、はるか遠くの氷に直撃した。少し遅れて破砕音が響きゆっくりと氷が分断されていく。
嫌な予感はただの思い違いだったかと安堵しかけたその時、俺の目が割れた氷の下に佇む何かの影を捉えた。円盤状の氷の直径とほぼ同じ体長、滑らかな流線型のやや細長いフォルムは魚類というよりは哺乳類、海獣の類のように見える。
しかしその正体を看破するほどの時間は今もなお落下中の俺には当然ない。観察を諦めて視線を近景に戻し落下に備えようとした俺の視界の端に、しかし海中の影の恐らく目と思われる部分が金色にぼんやりと燐光を発したのが映り込んだ。その冷たい刃を思わせる眼光が、現在進行形で頭上から照射されるアレウエの目線と完全に一致しているように見えて。
衝撃の発見に思わず気を取られたその刹那を狙っていたかのように──あるいは本当に狙っていたのかもしれないが──、アレウエの氷の茨が落下する俺に向かって殺到した。慌ててなおも黒い血の滴る右腕を向けるが、あまりの数、方向からの攻撃のためにすべてに対応しきれない。絶望が心を満たしていくのを感じながらも俺は式句を詠唱し始める
。心喰いの呪いの発動時には三単語まで魔法の詠唱が省略されるようだが、今はその三単語すら果てしなく長い。二単語目”顕現せよ”を唱え始めた時にはすでに視界を幾本もの茨が覆い尽くしていた。明確な死の接近を知覚して無意識に式句を紡ぎ出す口が動きを止めた瞬間、しかしその凍り付く死の予感を撥ね退けるように猛々しい男の雄叫びが高らかに響き渡った。
「ルー-ーンッ!!!」
次の瞬間、俺の視界が純白に染め上げられた。眼前に現れた、恐らく円筒状に俺の周りを取り囲んでいるのであろう、眩く輝く光のカーテンは五月雨のような騒音を上げながら俺を中心に周囲に拡大していく。白い天蓋は直径五メートルほどまで成長したのち、不意にその姿を消失させた。後に残ったのは俺と、円筒形に削り取られたアレウエの茨。
後方から放たれた光属性と思しき魔法によって茨の脅威から解放された俺は、当たり前だが今も落下を続けていた。落ちて、落ちて、落ちて……、突然俺の背中に地面とは比べ物にならないほど柔らかい感触が衝突した。
「よく耐えたな、坊主。あとは俺たちに任せろ!」
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「はい。……でも気をつけてください。アレウエは再生に合わせて自分を強化するんです」
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「しかしあいつの名前が”アレウエ”とはなあ……」
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「ん? ああ、お前さん旅人か。『氷の妖精アレウエ』っつー、フレントーラで育った奴ならガキの頃に一度は聞いたことがあるおとぎ話があってな。ちょっとばかり悲しい話なもんだから、今あそこにいる野郎とは似ても似つかねえなあって思ってな」
「そうなんですか……。アレウエっていう妖精はもしかしてクジラみたいだったりしませんか?」
仮に今現在広場で暴れまわっているアレウエがおとぎ話の中の同名の妖精と何らかの関連を持つとして、もしおとぎ話の中のアレウエなる氷の妖精がクジラの形をとっているのならば、破壊した氷の下に沈んでいた怪しい影がアレウエの正体、つまりは広場の氷の巨人はただの操り人形であり、海中のクジラこそが本体だという可能性が浮かび上がってくる。
そんなアレウエ打倒の糸口になりそうな可能性に賭けて質問を投げかけた俺だったが、しかし大鎌使いから返ってきたのはなぜそんな質問を投げるのだと言わんばかりの不思議そうな顔といいやという否定だった。
「少なくとも俺の聞いた話じゃちっせえガキの姿だった気がするが……。まあ多分あのデカブツとは関係ねえよ。じゃあ俺たちはあいつをぶっ壊しに行ってくるからお前さんは休んどけよ」
「分かりました……。気をつけて!」
いかつい顔面に似つかわしくないくしゃっとした笑顔を浮かべて大鎌を担いだ禿げ頭はアレウエに向かって行った。一度浮上した可能性を否定されてもなお胸中に残るもやもやは消えない。あれがアレウエの本体ではないとするならば、じゃああれは何なのだという話になるし、あの凍るような金の瞳は同じ色をした目を対面した者として無視しきれない。
一旦の処置が終了し、治療士に体を支えられながら広場から離れる俺の耳に不意に軽く不規則な足音が届く。足音の方に顔を向けると馴染みのある小柄なシルエットと再び目深にかぶられたフーデッドケープが見えた。
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