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失われたもの
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通学路の景色が、全部同じだった。
信号が変わるタイミング。横断歩道で追い抜いていく自転車の色。コンビニの前に積まれた段ボールの数。昨日——いや、"前の今日"——歩いたときと、何ひとつ変わらない。
当たり前だ。同じ日なんだから。
朝七時十五分に戻った。日付も天気も母の言葉も落ちた卵も、全部同じだった。それは家を出る前に確認した。だから今こうして同じ道を歩いていることにも、もう驚かない。驚いている場合じゃない。
今日の俺には、やることがある。
ポケットからスマホを出した。メモアプリを開く。さっき家で打ち込んだ二行が表示されている。
『言うな(すっきりした、等)。余計なことを言うな』
『待て。先輩の返事を最後まで聞け』
これだけだ。これだけ守ればいい。
前の今日、俺は告白に成功しかけた。先輩は「嬉しい」と言った。頬が赤かった。目が笑っていた。あの瞬間までは完璧だった。壊したのはたった一言。舞い上がって、余計なことを言った。それだけだ。
だから今度は——言わない。
先輩が「嬉しい」と言ったら、黙る。笑って、黙る。先輩の次の言葉を待つ。それだけ。
それだけで、全部うまくいく。
校門が見えてきた。空は晴れている。雲ひとつない。制服の胸元に手を当てると、第2ボタンの硬い感触が返ってくる。灰がかった糸。結城が縫った、あのボタン。
昨日、俺はこれを引きちぎった。そして今、ここに戻っている。
理由は分からない。仕組みも分からない。でも今はそんなことより——
今度こそ、成功させる。
---
下駄箱で上履きに替えて、三階の教室に向かった。
二階の廊下を曲がると、家庭科室からミシンの音が聞こえた。カタカタカタ。ドアが少し開いていて、隙間から白い光が漏れている。——同じだ。前の今日と同じ。
通り過ぎようとしたとき、中から声がした。
「あ、相沢くん」
結城紬の声。振り向いてもいないのに、気配で分かるらしい。——これも同じだ。
「ボタン、引っ張らないでね。せっかく付けたんだから」
「……引っ張ってねえよ」
「触ってるでしょ、今も」
触ってた。右手が制服の第2ボタンに添えられていた。前の今日とまったく同じ癖。同じ指の位置。
「取れるときは一瞬だから。ほどけたら持ってきて。また縫うから」
ミシンの音が速くなる。結城は手元に戻った。
「……はいはい」
同じ返事をして、歩き出した。背中にミシンの音が追ってくる。前の今日と同じ音。同じリズム。同じ距離で、同じように消えていく。
全部同じだ。
この世界は一ミリもズレていない。ズレているのは俺だけだ。俺だけが"二回目"を知っていて、俺だけが今日の結末を知っている。
知っているから——変えられる。
教室に入った。段ボール、模造紙、ペンキの缶。文化祭の準備で散らかった教室。——同じ。
「相沢、ちょっと」
颯太が椅子ごと滑ってきた。同じ音。同じ方向。同じ顔。
「体育館の垂れ幕の件、お前段取り表作ってくれた?」
「……昨日送った。見てない?」
「見た見た。だから言ってんだよ。細かすぎ。実行委員が見たら引くって」
同じだ。一字一句同じだ。颯太の声のトーンも、笑い方も、椅子の軋みも。
「段取りは細かいほうがいい」
「出た。お前のそれ」
颯太が笑う。
「いや、今日なんか硬くね? 顔。もっと硬い」
——来た。この後に「告る日?」が来る。前の今日はここで黙って、三秒の沈黙が答えになった。颯太に告白を知られて、「当たって砕けろ」と言われた。
今日は変える。余計な変数は増やさない。
「別に。寝不足」
「あー、まあ文化祭前だしな」
颯太はそれ以上突っ込まなかった。話題が垂れ幕のサイズに移って、そのまま流れた。
——よし。
前の今日と違う選択をした。小さな分岐だけど、ちゃんと変えられる。変えられるということは、やり直しが効いているということだ。世界は同じ朝を繰り返しているけど、俺の選択は固定されていない。
つまり、17時51分の告白も——変えられる。
五限が終わった。六限が終わった。掃除が終わった。
時計を見るたび心臓が鳴ったけど、前の今日ほどじゃなかった。当たり前だ。一度やっている。先輩がどこに立つか知っている。先輩が何と言うか知っている。先輩の頬が赤くなるタイミングまで知っている。
知っている。全部。
今日の俺は——答えを持っている。
---
17時46分。校舎裏。
西日が校庭のフェンスの影を長く引いている。前の今日と同じ色、同じ角度、同じ温度。
スマホを確認する。メモアプリ。
『言うな。待て。』
それだけ。ポケットにしまった。
17時50分。
17時51分——。
角から、先輩が現れた。
ギターケースの黒いソフトケース。歩幅の広い歩き方。ポニーテールが揺れる。夕日がケースの金具に当たって、一瞬だけ光った。——全部同じだ。同じ先輩が、同じ場所を、同じ時刻に通る。
「——先輩」
声は落ち着いていた。前の今日より、ずっと。
先輩が足を止めた。
こっちを見た。
——あれ。
前の今日と違う。目を細めて、口元がゆるんで、「相沢くん」と呼んでくれるはずだった。でも先輩は——首を傾げている。こっちを見ているのに、焦点が合っていない。知っている人を見る目じゃない。知らない人に声をかけられたときの、あの一瞬の警戒が混じっている。
「……えっと」
先輩が小さく眉を寄せた。
「ごめん、何年生……?」
何年生。
名前じゃなく、学年を聞かれた。先週の木曜に名前で呼び合った人に、学年を聞かれている。
「二年の——相沢です」
「相沢くん……ごめん、どこかで話したことある?」
話した。何度も話した。軽音部のライブの打ち合わせで。PA機材のケーブルを一緒に運んだ。ギターの弦の種類について教えてもらった。先輩が笑うと目が細くなることを知っている。声が低いことを知っている。左手首を返す仕草がきれいだと思った。全部、先輩との間に積み上がった時間のはずだった。
「先輩、俺です。軽音のライブの打ち合わせで何度か——先週の木曜にもPA機材の件で——」
「軽音? うーん……」
先輩が視線を上に向けた。思い出そうとしている。思い出そうとして——見つからない、という顔。
嘘だろ。
「先輩、ギターの弦の話をしてくれたじゃないですか。ニッケルとステンレスの違いが——」
「ごめん。ほんとにごめん。覚えてなくて……」
先輩が申し訳なさそうに笑った。困っている。純粋に困っている。演技じゃない。本気で、俺のことを思い出せないでいる。
胸の奥で、何かが軋んだ。
でも——まだだ。まだ分からない。ここで引いたら確認できない。もう一歩。もう一歩だけ踏み込め。
「好きです」
言った。
予定通り言った。ここで言えば、前の今日と同じ反応が来るはずだ。目が広がって、頬が赤くなって、「嬉しい」と——
先輩の目が広がった。
でもそれは驚きじゃなかった。
困惑だった。
「…………え?」
先輩が半歩下がった。前の今日の半歩とは違う種類の後退だった。前の今日は"驚いて体が動いた"という後退だった。今日のは——距離を取るための後退だった。
「あの……ごめん。私、あなたのこと——」
先輩の目が俺の顔を見ている。まっすぐ見ている。だけど、そこに何もない。引っかかりがない。俺という人間に対する蓄積が、何ひとつない。先週話したこと。先々週笑い合ったこと。ギターの弦の話をしたこと。PA機材のケーブルを一緒に運んだこと。全部——先輩の目の奥から、消えている。
「……誰?」
先輩がそう言った。
小さな声だった。意地悪でも冗談でもなかった。怒ってすらいなかった。ただ純粋に——この人は誰だろう、と思っている顔だった。
音が、遠くなった。
吹奏楽の音が遠退いた。校庭のボールの音が消えた。自分の呼吸だけが耳の奥で回っている。——前の今日の、あの瞬間と同じだ。ボタンを引きちぎる直前と同じ感覚。でも今は何もちぎっていない。何もしていないのに、世界が薄くなっている。
「……冗談、ですよね」
声が出た。掠れていた。
「冗談じゃなくて……ほんとにごめん。——ねえ、名前、何?」
名前。
名前を聞かれている。俺の名前を。先週「相沢くん」と呼んでくれた人に。さっき自分で名乗ったのに、それすら引っかからなかった。俺の名前が、この人の中をすり抜けている。
「……相沢です。相沢、恒一」
「相沢くん。……ごめんね。ほんとに心当たりがなくて」
先輩は困っていた。純粋に困っていた。知らない人に突然告白されて、しかもその人が「前に話したことがある」と言い張っている。先輩から見れば、俺のほうがおかしい。俺のほうが怖い。
「——ごめん、ちょっと怖い」
先輩がもう一歩下がった。
怖い。
前の今日も、先輩は「怖い」と言った。でもあのときの「怖い」は失言に対する拒絶だった。今日の「怖い」は——知らない人間に対する恐怖だ。
俺が知らない人間になっている。
「すみません。——すみません。忘れてください」
忘れてください、と言った。もう忘れているのに。俺のことを全部忘れている人に、忘れてくださいと言った。
先輩が背を向けた。ポニーテールが揺れて、ギターケースが夕日に黒く光って、渡り廊下の向こうに消えていく。
前の今日と同じ背中だ。
でも、前の今日の先輩は「なかったことにして」と言った。少なくとも"あったこと"を知った上で、なかったことにしてくれと言った。
今日の先輩には、"あったこと"すらない。
最初から——何もない。
---
帰り道は、ほとんど記憶がない。
気がついたら通学路を歩いていた。信号が赤になって立ち止まって、そこでようやく自分が呼吸していることを思い出した。
息を吸った。吐いた。手が震えている。
何が起きた。
整理しろ。俺は正解主義だ。段取りを組む人間だ。だから、感情じゃなく事実を並べろ。
ひとつ。朝七時十五分に戻った。世界は同じ日を繰り返している。母のセリフ、天気予報、卵、颯太の会話——全部、前の今日と同じだった。
ふたつ。先輩だけが違った。先輩だけが、俺を知らなかった。
みっつ。先輩は演技じゃなかった。本気で覚えていなかった。俺の名前も、顔も、話した記憶も、全部——消えていた。
信号が青に変わった。歩き出した。足が重い。
まず考えろ。先輩が俺を忘れた理由として、何がありうる。
可能性その一。先輩がたまたま忘れていた。——ありえない。先週の木曜に話した相手を、四日で丸ごと忘れる人間はいない。名前だけじゃない。顔も、会話の内容も、全部消えていた。病気を疑うレベルだ。でも先輩は他のことは普通に覚えている。ギターケースを持っていた。部活に行こうとしていた。日常は正常に機能している。消えたのは——俺に関することだけだ。
可能性その二。巻き戻しのせいで世界全体がリセットされた。——でも、それなら母も颯太も結城も俺を忘れているはずだ。忘れていなかった。全員、普通に俺を知っていた。「おはよう」「相沢」「相沢くん」。俺の名前を呼んでくれた。先輩だけが呼べなかった。
先輩だけ。
なぜ先輩だけ。
可能性その三。巻き戻しに何か「条件」がある。全員の記憶が消えるんじゃなくて、特定の誰かの記憶だけが消える。
だとしたら——その「特定」は、何で決まる?
信号がまた赤になった。立ち止まった。自分の靴を見た。靴紐の結び目がゆるんでいる。朝は固く結んだはずだ。走ったわけでもないのに——いや、そんなことはどうでもいい。
考えろ。
今日はクラスの奴らや、母、結城、先輩。先輩だけが忘れた。先輩と他の人で何が違う?
母は家族だ。クラスの奴らや颯太は友達だ。結城は他のクラスの同級生——正確にはボタンを縫ってくれた知り合い。先輩は——好きな人だ。告白した相手。やり直したかった相手。
やり直したかった相手。
あのとき、ボタンを引きちぎった瞬間、俺の頭の中は何でいっぱいだった。先輩の顔。先輩の声。先輩の背中。「もう一回やらせてくれ」。全部——先輩だった。やり直したい相手が先輩で、取り返したい瞬間が先輩との瞬間で、引きちぎった衝動のすべてが先輩に向いていた。
そして——先輩だけが忘れた。
まだ偶然かもしれない。巻き戻し自体が初めてだ。サンプルが一回しかない。一回の結果から法則を決めつけるのは早い。
でも。
でも、もし——これが偶然じゃなかったら。
もし「やり直したいと思った相手」の記憶が消えるんだったら。
やり直したかった相手が——やり直せない相手になる。
取り返したかった関係が——最初からなかったことになる。
「なかったことにして」——前の今日、先輩が言ったあの言葉が頭をよぎった。比喩じゃなく。文字通り。先輩の中で、俺は本当に「なかったこと」になった。
笑いそうになった。笑えなかった。喉の奥が引きつっただけだった。
まだ確証はない。仮説だ。たった一回の結果から組み立てた仮説にすぎない。
でも——もしこの仮説が正しいなら。
「俺はスマホのメモに、白鳥玲奈、とだけ打ち込んだ。消えたのは“先輩”じゃない。“先輩の中の俺”だ。」
もう一回ボタンを引きちぎったら——次は誰が消える?
颯太か。結城か。母か。
右手が制服の前に伸びた。指先がボタンの縁に触れた。
引きちぎれば、もう一回やり直せる。先輩の記憶が消えたのはこのボタンのせいだ。なら、もう一回ちぎれば——先輩の記憶が戻るかもしれない。別のやり方があるかもしれない。
——でも。
もし戻らなかったら。もし「もう一回」のたびに、また誰かが消えたら。
指が震えた。
ボタンの硬い縫い目が、指の腹を押し返している。結城が丁寧に縫い止めた糸。ほどけないように、逆向きにもう一度縫い止めた糸。
引っ張らないで。取れるときは一瞬だから。
結城の声が頭の中で鳴った。
指を離した。
ボタンから手を離して、拳を膝の上に落とした。使わない。今は使わない。使ったら何が起きるか分からない。分からないまま使うのは——それは段取りじゃない。それはただの暴走だ。
でも——このまま何もしなければ、先輩は俺を知らないままだ。
先輩の中の俺は、もう死んでいる。
「…………くそ」
声が落ちた。部屋に吸い込まれて消えた。
怖い。
前の今日、先輩は「そういうの、怖い」と言った。失言した俺を怖がった。今日の先輩も「怖い」と言った。知らない俺を怖がった。
どっちも——怖がらせたのは俺だ。
やり直す前も、やり直した後も、俺は先輩を怖がらせた。何も変わっていない。正解を選んだはずなのに、結果が悪くなっている。失言を消したら、存在ごと消えた。
正解なんて——なかったんじゃないか。
最初から。
---
どれくらい座っていたか分からない。窓の外が暗くなっていた。
頭の中で、同じ問いがずっと回っている。
なぜ先輩が忘れたのか。このボタンは何なのか。誰が作って、なぜ俺の制服に付いているのか。
——結城が、付けた。
先週、家庭科室で。取れかけていたボタンを「貸して」と言って持っていって、翌朝には直っていた。あのとき結城が使った糸は、他のボタンと色が違った。縫い方も違った。
結城は知っているのか?
このボタンが何なのか。引きちぎったらどうなるのか。代償のことを。
「引っ張らないで」——あれは、ただの注意だったのか?
それとも。
立ち上がった。スマホを見た。もう十九時を過ぎている。家庭科室はとっくに閉まっている。明日だ。明日の朝——結城はいつも朝早くから家庭科室にいる。ミシンの音が聞こえる。ドアが少し開いている。
明日、結城に聞く。
このボタンのことを。この糸のことを。そして——俺に何が起きているのかを。
ベッドに倒れ込んだ。天井を見た。照明カバーの右上のシミ。今朝——二回目の今朝——目を覚ましたとき最初に見たシミ。
目を閉じた。先輩の顔が浮かんだ。「嬉しい」と言ってくれた顔じゃなかった。「……誰?」と言った顔だった。困惑した顔。怖がった顔。俺を知らない顔。
あの「嬉しい」は、もうどこにもない。先輩の中にも、世界のどこにもない。俺の記憶の中だけにある。俺だけが覚えている。
胸の奥が、理由もなく痛んだ。
——明日。
明日、家庭科室に行く。
---
翌朝。
七時二十分に家を出て、いつもより早く学校に着いた。下駄箱で上履きに替えて、二階に向かう。廊下を曲がる前から、もう聞こえていた。
カタカタカタ。
ミシンの音。家庭科室のドアが十センチほど開いている。隙間から白い光が漏れている。
ドアの前で立ち止まった。
手を上げた。ノックしようとした指が、震えた。
俺はこの人に何を聞くんだ。「このボタンは何ですか」。「時間が巻き戻ったんですけど」。「先輩が俺のことを忘れたんですけど」。——どれもまともじゃない。どれも正気の質問じゃない。
でも聞かなきゃ分からない。
分からないまま、もう一日は過ごせない。
拳を握った。ノックした。コンコン、と軽い音が廊下に落ちた。
ミシンの音が止まった。
数秒の沈黙。
それから、椅子が引かれる音がして、足音が近づいてきて、ドアが内側から開いた。
結城紬が立っていた。髪をひとつに束ねて、制服の袖を肘まで捲って。いつもの結城だ。昨日——前の今日——の結城と同じ顔。同じ目。
その目が俺を見た。
「あ、相沢くん。おはよ」
——やっぱり、覚えてる。
今日のように俺を覚えている。名前を知っている。「相沢くん」と呼んでいる。先輩みたいに「誰?」とは言わない。
「……おはよう」
声が震えた。自分でも分かるくらい震えた。結城が少し目を細めた。
「どうしたの、朝から」
俺は結城の目を見た。何を言えばいい。何から言えばいい。段取りなんて組めない。正解なんて分からない。分からないまま口を開いた。
「結城。——このボタンのこと、聞きたい」
ボタンを指さした。第2ボタン。灰がかった糸。硬い縫い目。
結城の目が、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——揺れた。
「ボタン?」
「お前が縫ったやつ。先週。——この糸、他のと違うだろ」
結城は俺の制服の前を見た。
その視線が、第2ボタンの縫い目で止まる。
——ほんのわずか、糸が“逆向きに撚れた”みたいに見えた。
結城の息が、一拍遅れて浅くなる。
「……入って」
結城がドアを大きく開けた。
家庭科室の中は朝の光で白かった。ミシンが一台、布をくわえたまま止まっている。作業台の上に裁ちばさみと糸巻きが並んでいる。奥の棚に、古い箱がいくつか積まれている。
結城は作業台の前に立って、俺のほうを向いた。
「相沢くん」
「なんだよ」
「一つだけ聞いていい?」
——結城の目が、まっすぐ俺を射抜いた。
「ボタン、引きちぎったでしょ」
信号が変わるタイミング。横断歩道で追い抜いていく自転車の色。コンビニの前に積まれた段ボールの数。昨日——いや、"前の今日"——歩いたときと、何ひとつ変わらない。
当たり前だ。同じ日なんだから。
朝七時十五分に戻った。日付も天気も母の言葉も落ちた卵も、全部同じだった。それは家を出る前に確認した。だから今こうして同じ道を歩いていることにも、もう驚かない。驚いている場合じゃない。
今日の俺には、やることがある。
ポケットからスマホを出した。メモアプリを開く。さっき家で打ち込んだ二行が表示されている。
『言うな(すっきりした、等)。余計なことを言うな』
『待て。先輩の返事を最後まで聞け』
これだけだ。これだけ守ればいい。
前の今日、俺は告白に成功しかけた。先輩は「嬉しい」と言った。頬が赤かった。目が笑っていた。あの瞬間までは完璧だった。壊したのはたった一言。舞い上がって、余計なことを言った。それだけだ。
だから今度は——言わない。
先輩が「嬉しい」と言ったら、黙る。笑って、黙る。先輩の次の言葉を待つ。それだけ。
それだけで、全部うまくいく。
校門が見えてきた。空は晴れている。雲ひとつない。制服の胸元に手を当てると、第2ボタンの硬い感触が返ってくる。灰がかった糸。結城が縫った、あのボタン。
昨日、俺はこれを引きちぎった。そして今、ここに戻っている。
理由は分からない。仕組みも分からない。でも今はそんなことより——
今度こそ、成功させる。
---
下駄箱で上履きに替えて、三階の教室に向かった。
二階の廊下を曲がると、家庭科室からミシンの音が聞こえた。カタカタカタ。ドアが少し開いていて、隙間から白い光が漏れている。——同じだ。前の今日と同じ。
通り過ぎようとしたとき、中から声がした。
「あ、相沢くん」
結城紬の声。振り向いてもいないのに、気配で分かるらしい。——これも同じだ。
「ボタン、引っ張らないでね。せっかく付けたんだから」
「……引っ張ってねえよ」
「触ってるでしょ、今も」
触ってた。右手が制服の第2ボタンに添えられていた。前の今日とまったく同じ癖。同じ指の位置。
「取れるときは一瞬だから。ほどけたら持ってきて。また縫うから」
ミシンの音が速くなる。結城は手元に戻った。
「……はいはい」
同じ返事をして、歩き出した。背中にミシンの音が追ってくる。前の今日と同じ音。同じリズム。同じ距離で、同じように消えていく。
全部同じだ。
この世界は一ミリもズレていない。ズレているのは俺だけだ。俺だけが"二回目"を知っていて、俺だけが今日の結末を知っている。
知っているから——変えられる。
教室に入った。段ボール、模造紙、ペンキの缶。文化祭の準備で散らかった教室。——同じ。
「相沢、ちょっと」
颯太が椅子ごと滑ってきた。同じ音。同じ方向。同じ顔。
「体育館の垂れ幕の件、お前段取り表作ってくれた?」
「……昨日送った。見てない?」
「見た見た。だから言ってんだよ。細かすぎ。実行委員が見たら引くって」
同じだ。一字一句同じだ。颯太の声のトーンも、笑い方も、椅子の軋みも。
「段取りは細かいほうがいい」
「出た。お前のそれ」
颯太が笑う。
「いや、今日なんか硬くね? 顔。もっと硬い」
——来た。この後に「告る日?」が来る。前の今日はここで黙って、三秒の沈黙が答えになった。颯太に告白を知られて、「当たって砕けろ」と言われた。
今日は変える。余計な変数は増やさない。
「別に。寝不足」
「あー、まあ文化祭前だしな」
颯太はそれ以上突っ込まなかった。話題が垂れ幕のサイズに移って、そのまま流れた。
——よし。
前の今日と違う選択をした。小さな分岐だけど、ちゃんと変えられる。変えられるということは、やり直しが効いているということだ。世界は同じ朝を繰り返しているけど、俺の選択は固定されていない。
つまり、17時51分の告白も——変えられる。
五限が終わった。六限が終わった。掃除が終わった。
時計を見るたび心臓が鳴ったけど、前の今日ほどじゃなかった。当たり前だ。一度やっている。先輩がどこに立つか知っている。先輩が何と言うか知っている。先輩の頬が赤くなるタイミングまで知っている。
知っている。全部。
今日の俺は——答えを持っている。
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17時46分。校舎裏。
西日が校庭のフェンスの影を長く引いている。前の今日と同じ色、同じ角度、同じ温度。
スマホを確認する。メモアプリ。
『言うな。待て。』
それだけ。ポケットにしまった。
17時50分。
17時51分——。
角から、先輩が現れた。
ギターケースの黒いソフトケース。歩幅の広い歩き方。ポニーテールが揺れる。夕日がケースの金具に当たって、一瞬だけ光った。——全部同じだ。同じ先輩が、同じ場所を、同じ時刻に通る。
「——先輩」
声は落ち着いていた。前の今日より、ずっと。
先輩が足を止めた。
こっちを見た。
——あれ。
前の今日と違う。目を細めて、口元がゆるんで、「相沢くん」と呼んでくれるはずだった。でも先輩は——首を傾げている。こっちを見ているのに、焦点が合っていない。知っている人を見る目じゃない。知らない人に声をかけられたときの、あの一瞬の警戒が混じっている。
「……えっと」
先輩が小さく眉を寄せた。
「ごめん、何年生……?」
何年生。
名前じゃなく、学年を聞かれた。先週の木曜に名前で呼び合った人に、学年を聞かれている。
「二年の——相沢です」
「相沢くん……ごめん、どこかで話したことある?」
話した。何度も話した。軽音部のライブの打ち合わせで。PA機材のケーブルを一緒に運んだ。ギターの弦の種類について教えてもらった。先輩が笑うと目が細くなることを知っている。声が低いことを知っている。左手首を返す仕草がきれいだと思った。全部、先輩との間に積み上がった時間のはずだった。
「先輩、俺です。軽音のライブの打ち合わせで何度か——先週の木曜にもPA機材の件で——」
「軽音? うーん……」
先輩が視線を上に向けた。思い出そうとしている。思い出そうとして——見つからない、という顔。
嘘だろ。
「先輩、ギターの弦の話をしてくれたじゃないですか。ニッケルとステンレスの違いが——」
「ごめん。ほんとにごめん。覚えてなくて……」
先輩が申し訳なさそうに笑った。困っている。純粋に困っている。演技じゃない。本気で、俺のことを思い出せないでいる。
胸の奥で、何かが軋んだ。
でも——まだだ。まだ分からない。ここで引いたら確認できない。もう一歩。もう一歩だけ踏み込め。
「好きです」
言った。
予定通り言った。ここで言えば、前の今日と同じ反応が来るはずだ。目が広がって、頬が赤くなって、「嬉しい」と——
先輩の目が広がった。
でもそれは驚きじゃなかった。
困惑だった。
「…………え?」
先輩が半歩下がった。前の今日の半歩とは違う種類の後退だった。前の今日は"驚いて体が動いた"という後退だった。今日のは——距離を取るための後退だった。
「あの……ごめん。私、あなたのこと——」
先輩の目が俺の顔を見ている。まっすぐ見ている。だけど、そこに何もない。引っかかりがない。俺という人間に対する蓄積が、何ひとつない。先週話したこと。先々週笑い合ったこと。ギターの弦の話をしたこと。PA機材のケーブルを一緒に運んだこと。全部——先輩の目の奥から、消えている。
「……誰?」
先輩がそう言った。
小さな声だった。意地悪でも冗談でもなかった。怒ってすらいなかった。ただ純粋に——この人は誰だろう、と思っている顔だった。
音が、遠くなった。
吹奏楽の音が遠退いた。校庭のボールの音が消えた。自分の呼吸だけが耳の奥で回っている。——前の今日の、あの瞬間と同じだ。ボタンを引きちぎる直前と同じ感覚。でも今は何もちぎっていない。何もしていないのに、世界が薄くなっている。
「……冗談、ですよね」
声が出た。掠れていた。
「冗談じゃなくて……ほんとにごめん。——ねえ、名前、何?」
名前。
名前を聞かれている。俺の名前を。先週「相沢くん」と呼んでくれた人に。さっき自分で名乗ったのに、それすら引っかからなかった。俺の名前が、この人の中をすり抜けている。
「……相沢です。相沢、恒一」
「相沢くん。……ごめんね。ほんとに心当たりがなくて」
先輩は困っていた。純粋に困っていた。知らない人に突然告白されて、しかもその人が「前に話したことがある」と言い張っている。先輩から見れば、俺のほうがおかしい。俺のほうが怖い。
「——ごめん、ちょっと怖い」
先輩がもう一歩下がった。
怖い。
前の今日も、先輩は「怖い」と言った。でもあのときの「怖い」は失言に対する拒絶だった。今日の「怖い」は——知らない人間に対する恐怖だ。
俺が知らない人間になっている。
「すみません。——すみません。忘れてください」
忘れてください、と言った。もう忘れているのに。俺のことを全部忘れている人に、忘れてくださいと言った。
先輩が背を向けた。ポニーテールが揺れて、ギターケースが夕日に黒く光って、渡り廊下の向こうに消えていく。
前の今日と同じ背中だ。
でも、前の今日の先輩は「なかったことにして」と言った。少なくとも"あったこと"を知った上で、なかったことにしてくれと言った。
今日の先輩には、"あったこと"すらない。
最初から——何もない。
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帰り道は、ほとんど記憶がない。
気がついたら通学路を歩いていた。信号が赤になって立ち止まって、そこでようやく自分が呼吸していることを思い出した。
息を吸った。吐いた。手が震えている。
何が起きた。
整理しろ。俺は正解主義だ。段取りを組む人間だ。だから、感情じゃなく事実を並べろ。
ひとつ。朝七時十五分に戻った。世界は同じ日を繰り返している。母のセリフ、天気予報、卵、颯太の会話——全部、前の今日と同じだった。
ふたつ。先輩だけが違った。先輩だけが、俺を知らなかった。
みっつ。先輩は演技じゃなかった。本気で覚えていなかった。俺の名前も、顔も、話した記憶も、全部——消えていた。
信号が青に変わった。歩き出した。足が重い。
まず考えろ。先輩が俺を忘れた理由として、何がありうる。
可能性その一。先輩がたまたま忘れていた。——ありえない。先週の木曜に話した相手を、四日で丸ごと忘れる人間はいない。名前だけじゃない。顔も、会話の内容も、全部消えていた。病気を疑うレベルだ。でも先輩は他のことは普通に覚えている。ギターケースを持っていた。部活に行こうとしていた。日常は正常に機能している。消えたのは——俺に関することだけだ。
可能性その二。巻き戻しのせいで世界全体がリセットされた。——でも、それなら母も颯太も結城も俺を忘れているはずだ。忘れていなかった。全員、普通に俺を知っていた。「おはよう」「相沢」「相沢くん」。俺の名前を呼んでくれた。先輩だけが呼べなかった。
先輩だけ。
なぜ先輩だけ。
可能性その三。巻き戻しに何か「条件」がある。全員の記憶が消えるんじゃなくて、特定の誰かの記憶だけが消える。
だとしたら——その「特定」は、何で決まる?
信号がまた赤になった。立ち止まった。自分の靴を見た。靴紐の結び目がゆるんでいる。朝は固く結んだはずだ。走ったわけでもないのに——いや、そんなことはどうでもいい。
考えろ。
今日はクラスの奴らや、母、結城、先輩。先輩だけが忘れた。先輩と他の人で何が違う?
母は家族だ。クラスの奴らや颯太は友達だ。結城は他のクラスの同級生——正確にはボタンを縫ってくれた知り合い。先輩は——好きな人だ。告白した相手。やり直したかった相手。
やり直したかった相手。
あのとき、ボタンを引きちぎった瞬間、俺の頭の中は何でいっぱいだった。先輩の顔。先輩の声。先輩の背中。「もう一回やらせてくれ」。全部——先輩だった。やり直したい相手が先輩で、取り返したい瞬間が先輩との瞬間で、引きちぎった衝動のすべてが先輩に向いていた。
そして——先輩だけが忘れた。
まだ偶然かもしれない。巻き戻し自体が初めてだ。サンプルが一回しかない。一回の結果から法則を決めつけるのは早い。
でも。
でも、もし——これが偶然じゃなかったら。
もし「やり直したいと思った相手」の記憶が消えるんだったら。
やり直したかった相手が——やり直せない相手になる。
取り返したかった関係が——最初からなかったことになる。
「なかったことにして」——前の今日、先輩が言ったあの言葉が頭をよぎった。比喩じゃなく。文字通り。先輩の中で、俺は本当に「なかったこと」になった。
笑いそうになった。笑えなかった。喉の奥が引きつっただけだった。
まだ確証はない。仮説だ。たった一回の結果から組み立てた仮説にすぎない。
でも——もしこの仮説が正しいなら。
「俺はスマホのメモに、白鳥玲奈、とだけ打ち込んだ。消えたのは“先輩”じゃない。“先輩の中の俺”だ。」
もう一回ボタンを引きちぎったら——次は誰が消える?
颯太か。結城か。母か。
右手が制服の前に伸びた。指先がボタンの縁に触れた。
引きちぎれば、もう一回やり直せる。先輩の記憶が消えたのはこのボタンのせいだ。なら、もう一回ちぎれば——先輩の記憶が戻るかもしれない。別のやり方があるかもしれない。
——でも。
もし戻らなかったら。もし「もう一回」のたびに、また誰かが消えたら。
指が震えた。
ボタンの硬い縫い目が、指の腹を押し返している。結城が丁寧に縫い止めた糸。ほどけないように、逆向きにもう一度縫い止めた糸。
引っ張らないで。取れるときは一瞬だから。
結城の声が頭の中で鳴った。
指を離した。
ボタンから手を離して、拳を膝の上に落とした。使わない。今は使わない。使ったら何が起きるか分からない。分からないまま使うのは——それは段取りじゃない。それはただの暴走だ。
でも——このまま何もしなければ、先輩は俺を知らないままだ。
先輩の中の俺は、もう死んでいる。
「…………くそ」
声が落ちた。部屋に吸い込まれて消えた。
怖い。
前の今日、先輩は「そういうの、怖い」と言った。失言した俺を怖がった。今日の先輩も「怖い」と言った。知らない俺を怖がった。
どっちも——怖がらせたのは俺だ。
やり直す前も、やり直した後も、俺は先輩を怖がらせた。何も変わっていない。正解を選んだはずなのに、結果が悪くなっている。失言を消したら、存在ごと消えた。
正解なんて——なかったんじゃないか。
最初から。
---
どれくらい座っていたか分からない。窓の外が暗くなっていた。
頭の中で、同じ問いがずっと回っている。
なぜ先輩が忘れたのか。このボタンは何なのか。誰が作って、なぜ俺の制服に付いているのか。
——結城が、付けた。
先週、家庭科室で。取れかけていたボタンを「貸して」と言って持っていって、翌朝には直っていた。あのとき結城が使った糸は、他のボタンと色が違った。縫い方も違った。
結城は知っているのか?
このボタンが何なのか。引きちぎったらどうなるのか。代償のことを。
「引っ張らないで」——あれは、ただの注意だったのか?
それとも。
立ち上がった。スマホを見た。もう十九時を過ぎている。家庭科室はとっくに閉まっている。明日だ。明日の朝——結城はいつも朝早くから家庭科室にいる。ミシンの音が聞こえる。ドアが少し開いている。
明日、結城に聞く。
このボタンのことを。この糸のことを。そして——俺に何が起きているのかを。
ベッドに倒れ込んだ。天井を見た。照明カバーの右上のシミ。今朝——二回目の今朝——目を覚ましたとき最初に見たシミ。
目を閉じた。先輩の顔が浮かんだ。「嬉しい」と言ってくれた顔じゃなかった。「……誰?」と言った顔だった。困惑した顔。怖がった顔。俺を知らない顔。
あの「嬉しい」は、もうどこにもない。先輩の中にも、世界のどこにもない。俺の記憶の中だけにある。俺だけが覚えている。
胸の奥が、理由もなく痛んだ。
——明日。
明日、家庭科室に行く。
---
翌朝。
七時二十分に家を出て、いつもより早く学校に着いた。下駄箱で上履きに替えて、二階に向かう。廊下を曲がる前から、もう聞こえていた。
カタカタカタ。
ミシンの音。家庭科室のドアが十センチほど開いている。隙間から白い光が漏れている。
ドアの前で立ち止まった。
手を上げた。ノックしようとした指が、震えた。
俺はこの人に何を聞くんだ。「このボタンは何ですか」。「時間が巻き戻ったんですけど」。「先輩が俺のことを忘れたんですけど」。——どれもまともじゃない。どれも正気の質問じゃない。
でも聞かなきゃ分からない。
分からないまま、もう一日は過ごせない。
拳を握った。ノックした。コンコン、と軽い音が廊下に落ちた。
ミシンの音が止まった。
数秒の沈黙。
それから、椅子が引かれる音がして、足音が近づいてきて、ドアが内側から開いた。
結城紬が立っていた。髪をひとつに束ねて、制服の袖を肘まで捲って。いつもの結城だ。昨日——前の今日——の結城と同じ顔。同じ目。
その目が俺を見た。
「あ、相沢くん。おはよ」
——やっぱり、覚えてる。
今日のように俺を覚えている。名前を知っている。「相沢くん」と呼んでいる。先輩みたいに「誰?」とは言わない。
「……おはよう」
声が震えた。自分でも分かるくらい震えた。結城が少し目を細めた。
「どうしたの、朝から」
俺は結城の目を見た。何を言えばいい。何から言えばいい。段取りなんて組めない。正解なんて分からない。分からないまま口を開いた。
「結城。——このボタンのこと、聞きたい」
ボタンを指さした。第2ボタン。灰がかった糸。硬い縫い目。
結城の目が、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——揺れた。
「ボタン?」
「お前が縫ったやつ。先週。——この糸、他のと違うだろ」
結城は俺の制服の前を見た。
その視線が、第2ボタンの縫い目で止まる。
——ほんのわずか、糸が“逆向きに撚れた”みたいに見えた。
結城の息が、一拍遅れて浅くなる。
「……入って」
結城がドアを大きく開けた。
家庭科室の中は朝の光で白かった。ミシンが一台、布をくわえたまま止まっている。作業台の上に裁ちばさみと糸巻きが並んでいる。奥の棚に、古い箱がいくつか積まれている。
結城は作業台の前に立って、俺のほうを向いた。
「相沢くん」
「なんだよ」
「一つだけ聞いていい?」
——結城の目が、まっすぐ俺を射抜いた。
「ボタン、引きちぎったでしょ」
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