ホワイト・ルシアン

たける

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第19章.我孫子弘之

1.

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駅から出てくる人波に逆らい、早足に歩く。時折ぶつかり──謝りながら──目的もなく、ただただバーから離れて行った。


──康介さん……


俺は彼が好きだった。あの優しさも、頼もしさも、時折見せる甘えた顔──秋田犬みたいに可愛い──も、少し低い声も。
好意を抱かれてると思ってた。多分、あったのだろうと思う。それを打ち明けてくれなかったのは、朋樹の為だけではないだろう。


──分かってる……分かってる、けど……!


ドシン、と、誰かにぶつかった。慌てて謝りながら顔を上げると、何処かで見た顔──我孫子監督だ──だった。

「危ないじゃないか」
「も……申し訳ありません!」

大きい──康介さんよりも──体は微動だにしなかったが。

「剣崎澪君、だね?」

猫のような凛々しい顔付きに、微笑が広がる。俺は、はい、と答え、改めて──すみませんと──謝った。

「ちょうど、君を探していたんだ」
「え……?」

いつの間にか、足は海沿いに続く歩道へと向かっていたようで、遠くの闇の間に──海岸線と──自社ビルが見えた。

「朋樹の事で話があるんだ。ちょっといいかな?」
「……はい」

断る理由はない。だが──少しだけ──怖い雰囲気がある。それでも、朋樹の話なら聞かない訳にはいかないだろう。朋樹も、怒られた、と言っていたし。

「じゃあ、駅まで戻ろうか」

そう言って歩き出した我孫子監督に続き、来た道を戻る。その道中で、我孫子監督は俺の事を幾つか質問してきた。

「元ラグビー選手なんだってね」
「え、えぇ、はい。もう引退して、2年になりますが」
「リアルタイムで君の出場試合を見てはいなかったんだが……先日、動画で見たよ」

大活躍だったね、と、笑う。俺は恥ずかしくて、ありがとうございます、と、俯いた。

「沢村とオレは、ライバルだったんだけど」
「そうなんですね」

だとしたら、我孫子監督も100キロ超級だったのだろう。それにしても──引退してから随分経つのに──体型はほぼ変わっていないようだった。

「ほぼ互角だったんだよね」
「へぇ……」
「でも、オレが現役最後の試合で……オリンピック最終選考の試合でさ、沢村と決勝で当たった時、負けたんだよ」

で、オリンピック出場は逃したんだ、と、遠くを見ながら笑った。そこに悔しさはないように見える。

「オレを倒した沢村は、見事金メダル。凄いよね」
「そうですね」

表彰台に乗っている画像を見た事がある。感極まっているだろうと思うのに──歯を食いしばり──無感情を装っているようだった。

「多分、オレの任期が終わったら、沢村が日本代表の監督になるだろうね」

足が止まる。いつの間にか、ルトロヴァイユの前にいた。


──え……?


「ここでいいかな?」
「いや、あの……」

もしかしたら、まだ康介さんがいるかも知れない。

「駄目かな?いいよね?」

そう言って扉を開く。が、康介さんの姿は──カウンターには──なかった。




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