59 / 86
第19章.我孫子弘之
2.
しおりを挟む
カウンターではなく、奥のテーブル席に向かい合って座る。
「何を飲む?」
「えと……」
何を頼めばいいんだろう?康介さんがカクテル言葉を幾つか教えてくれたから、どうしても意味を考えてしまう。
「じゃあ、オレの好きなやつでいい?」
「あ、はい」
我孫子監督は、マティーニを2つ注文した。
「沢村とも知り合いなんだってね」
「あ、はい」
「君の事、凄く褒めてたよ?優しくて努力家だって」
「はは……」
カクテルが運ばれてきて、取り敢えず乾杯し、口をつける。アルコール度数も高く、辛口だ。
「で、朋樹の事だけど……」
「何でしょう?」
居ずまいを正し、監督を見遣る。がっしりとした体格で、ラフな──濃紺のスーツに薄水色のシャツを合わせ、ボタンは上2つ開けてある──格好だ。
「沢村にも確認したんだが、本当に付き合ってはいないんだね?」
「はい。親しくはさせていただいてますが、そう言う関係ではありません」
きっぱりと否定する。すると監督は──腕を組みながら──頷いた。
「じゃあ、沢村……康介とは?」
「え?」
顔が強張る。別に──康介さんとも──付き合っていないのに。
ついさっき、会っていたからだろう。
「付き合ってはいないが、関係はある……?」
「監督」
「何だ?」
「どうして、そんな事を?」
「ふふ……沢村が否定したからね」
「だったら……!」
「嘘が下手でね。オレにはすぐ分かるんだよ」
そう言ってマティーニを飲み干す。俺は監督の深意が分からず、戸惑った。
「あの親子は本当に、嘘が下手だ。君もね」
監督の顔から笑みが消える。背筋に、冷たいものを感じた。
「何も隠す事はない。みんな、独身だしね」
だが、と、前傾になり、監督は空いたグラスを脇に退け、そこに結んだ手を置いた。
「朋樹が大事な時期だと、君も分かってるな?」
「……ぅ、あ、はい」
「息抜きも大事だろうが、彼には金メダルを獲ってもらいたい。練習は更に過酷になるだろう。だが、オレの方針としては、甘えは許さない。オレ自身がそうだったからね。生半可な事では、獲れないんだよ」
気迫が滲み出ているようで、畏縮してしまう。
頂点を極める事が、どれ程大変か。個人技と団体では違うだろうが、その練習量や精神的なプレッシャーの重さは分かる。そして、監督の言う事も。
「全ては、朋樹が金メダルを獲ってからにしてくれ」
「……はい」
ニコリ、と、笑むと、監督は俺の手を握ってきた。指先が、手の甲を撫でる。
「朋樹は、悔しさもそうだが、それ以上に、怒りが原動力になるみたいなんだ」
「あ……の」
「君が朋樹の特別なのは分かってる」
そこで、監督のスマホから着信音が鳴った。
「もしもし?」
俺の手を──片手で──握りながら、電話に出る。相手は分からないが、知り合いのようだ。
「え?いやいや……おい!」
切られた、と呟き、監督は改めて俺を見てくる。
「あの、どうかされましたか?」
「いや?それより、場所を変えないか?」
「構いませんが……何処へ?」
この流れだと、ホテルにと、告げられそうだ。それだけは回避しなければ。
「勿論ホテルさ。朋樹を怒らせる為にね」
「こっ、困ります!」
「どうして?彼のやる気は、君にかかってるんだよ?」
「それ以外にも、方法はある筈です」
掴まれている手に力がこもる。引き離したいのに、凄い握力だ。
「例えば?」
「さ……支えてくれる人の為に、とか……」
「それって、君の事?」
ニヤリ、と笑われ、顔が──馬鹿にされたような気がして──熱くなる。
「そ、そんなじゃありません……こ、康介さんとかの事です」
「へぇ?オレはそうは思わないね。もしそうなら、昨年の世界柔道で勝ててた筈だし」
引き寄せられ、顔が近付く。吐息のかかる距離に、心臓が痛い。その時、誰か入店──扉が背中側にあるから、俺からは見えない──してきた。監督の顔が引っ込む。
「我孫子、何をしている?」
「ちぇっ、見つかった」
康介さんの声だ。手が離され、俺は慌てて引っ込めた。
「大丈夫かい?」
「こ、康介さん……」
振り返ると、安堵に涙が滲む。
「彼に近付くなと言った筈だ」
ぐいと肩を抱かれ、俺はその腕に顔を埋めた。
「朋樹の話をしていただけさ。そんな怖い顔するなよ」
「今度近付いたら、ただじゃ済まさないぞ」
「はいはい。だがな、沢村……朋樹にメダルを獲らせたかったら、怒らせろ」
甘やかすなよ、と言い、監督は──俺のぶんまで支払いを済ませ──出て行った。康介さんが、向かい側に座る。
「すまない。我孫子が……」
「いえ、何もなかったですから……」
もう少し、康介さんの到着が遅かったら、と思うと、本当に良かったと思った。
「……そうか。じゃあ、お詫びに1杯奢るよ」
「そんな……!康介さんが悪い訳じゃ……」
「なら、プレゼントするよ」
そう言い、グランド・スラムを、と言った。
「さっきの電話、もしかして康介さんだったんですか?」
「うん?我孫子にかけたのは私だ。何だか……嫌な予感がしてね」
あんな形で別れたのに、気にかけてくれていたのが嬉しい。
「お待たせしました」
運ばれてきたのは、茶色──より明るい、パンプキンカラーだ──のカクテルだった。
「これにも何か意味が?」
「2人だけの秘密 、って意味だよ」
「秘密、ですか?」
「あぁ……我孫子の事もそうだが、先日の……接待の件も、朋樹には黙っていようって……」
「そうですね……」
言える筈がない。
「知ったら恐らく、怒りで回りが見えなくなるだろう。それに、手を出さないとも限らない。そうなれば、オリンピック出場権は剥奪され、当面全ての試合には出られなくなるだろう」
それは──朋樹の選手生命にも関わる──絶対に避けなければ。俺は強く頷いた。
「はい、勿論です」
「じゃあ、乾杯」
「乾杯」
この後送るよ、と言われ、俺は再び頷いた。
「何を飲む?」
「えと……」
何を頼めばいいんだろう?康介さんがカクテル言葉を幾つか教えてくれたから、どうしても意味を考えてしまう。
「じゃあ、オレの好きなやつでいい?」
「あ、はい」
我孫子監督は、マティーニを2つ注文した。
「沢村とも知り合いなんだってね」
「あ、はい」
「君の事、凄く褒めてたよ?優しくて努力家だって」
「はは……」
カクテルが運ばれてきて、取り敢えず乾杯し、口をつける。アルコール度数も高く、辛口だ。
「で、朋樹の事だけど……」
「何でしょう?」
居ずまいを正し、監督を見遣る。がっしりとした体格で、ラフな──濃紺のスーツに薄水色のシャツを合わせ、ボタンは上2つ開けてある──格好だ。
「沢村にも確認したんだが、本当に付き合ってはいないんだね?」
「はい。親しくはさせていただいてますが、そう言う関係ではありません」
きっぱりと否定する。すると監督は──腕を組みながら──頷いた。
「じゃあ、沢村……康介とは?」
「え?」
顔が強張る。別に──康介さんとも──付き合っていないのに。
ついさっき、会っていたからだろう。
「付き合ってはいないが、関係はある……?」
「監督」
「何だ?」
「どうして、そんな事を?」
「ふふ……沢村が否定したからね」
「だったら……!」
「嘘が下手でね。オレにはすぐ分かるんだよ」
そう言ってマティーニを飲み干す。俺は監督の深意が分からず、戸惑った。
「あの親子は本当に、嘘が下手だ。君もね」
監督の顔から笑みが消える。背筋に、冷たいものを感じた。
「何も隠す事はない。みんな、独身だしね」
だが、と、前傾になり、監督は空いたグラスを脇に退け、そこに結んだ手を置いた。
「朋樹が大事な時期だと、君も分かってるな?」
「……ぅ、あ、はい」
「息抜きも大事だろうが、彼には金メダルを獲ってもらいたい。練習は更に過酷になるだろう。だが、オレの方針としては、甘えは許さない。オレ自身がそうだったからね。生半可な事では、獲れないんだよ」
気迫が滲み出ているようで、畏縮してしまう。
頂点を極める事が、どれ程大変か。個人技と団体では違うだろうが、その練習量や精神的なプレッシャーの重さは分かる。そして、監督の言う事も。
「全ては、朋樹が金メダルを獲ってからにしてくれ」
「……はい」
ニコリ、と、笑むと、監督は俺の手を握ってきた。指先が、手の甲を撫でる。
「朋樹は、悔しさもそうだが、それ以上に、怒りが原動力になるみたいなんだ」
「あ……の」
「君が朋樹の特別なのは分かってる」
そこで、監督のスマホから着信音が鳴った。
「もしもし?」
俺の手を──片手で──握りながら、電話に出る。相手は分からないが、知り合いのようだ。
「え?いやいや……おい!」
切られた、と呟き、監督は改めて俺を見てくる。
「あの、どうかされましたか?」
「いや?それより、場所を変えないか?」
「構いませんが……何処へ?」
この流れだと、ホテルにと、告げられそうだ。それだけは回避しなければ。
「勿論ホテルさ。朋樹を怒らせる為にね」
「こっ、困ります!」
「どうして?彼のやる気は、君にかかってるんだよ?」
「それ以外にも、方法はある筈です」
掴まれている手に力がこもる。引き離したいのに、凄い握力だ。
「例えば?」
「さ……支えてくれる人の為に、とか……」
「それって、君の事?」
ニヤリ、と笑われ、顔が──馬鹿にされたような気がして──熱くなる。
「そ、そんなじゃありません……こ、康介さんとかの事です」
「へぇ?オレはそうは思わないね。もしそうなら、昨年の世界柔道で勝ててた筈だし」
引き寄せられ、顔が近付く。吐息のかかる距離に、心臓が痛い。その時、誰か入店──扉が背中側にあるから、俺からは見えない──してきた。監督の顔が引っ込む。
「我孫子、何をしている?」
「ちぇっ、見つかった」
康介さんの声だ。手が離され、俺は慌てて引っ込めた。
「大丈夫かい?」
「こ、康介さん……」
振り返ると、安堵に涙が滲む。
「彼に近付くなと言った筈だ」
ぐいと肩を抱かれ、俺はその腕に顔を埋めた。
「朋樹の話をしていただけさ。そんな怖い顔するなよ」
「今度近付いたら、ただじゃ済まさないぞ」
「はいはい。だがな、沢村……朋樹にメダルを獲らせたかったら、怒らせろ」
甘やかすなよ、と言い、監督は──俺のぶんまで支払いを済ませ──出て行った。康介さんが、向かい側に座る。
「すまない。我孫子が……」
「いえ、何もなかったですから……」
もう少し、康介さんの到着が遅かったら、と思うと、本当に良かったと思った。
「……そうか。じゃあ、お詫びに1杯奢るよ」
「そんな……!康介さんが悪い訳じゃ……」
「なら、プレゼントするよ」
そう言い、グランド・スラムを、と言った。
「さっきの電話、もしかして康介さんだったんですか?」
「うん?我孫子にかけたのは私だ。何だか……嫌な予感がしてね」
あんな形で別れたのに、気にかけてくれていたのが嬉しい。
「お待たせしました」
運ばれてきたのは、茶色──より明るい、パンプキンカラーだ──のカクテルだった。
「これにも何か意味が?」
「2人だけの秘密 、って意味だよ」
「秘密、ですか?」
「あぁ……我孫子の事もそうだが、先日の……接待の件も、朋樹には黙っていようって……」
「そうですね……」
言える筈がない。
「知ったら恐らく、怒りで回りが見えなくなるだろう。それに、手を出さないとも限らない。そうなれば、オリンピック出場権は剥奪され、当面全ての試合には出られなくなるだろう」
それは──朋樹の選手生命にも関わる──絶対に避けなければ。俺は強く頷いた。
「はい、勿論です」
「じゃあ、乾杯」
「乾杯」
この後送るよ、と言われ、俺は再び頷いた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
【完結】 男達の性宴
蔵屋
BL
僕が通う高校の学校医望月先生に
今夜8時に来るよう、青山のホテルに
誘われた。
ホテルに来れば会場に案内すると
言われ、会場案内図を渡された。
高三最後の夏休み。家業を継ぐ僕を
早くも社会人扱いする両親。
僕は嬉しくて夕食後、バイクに乗り、
東京へ飛ばして行った。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる