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第1章
(1)自殺二秒前の男
しおりを挟む【真田 理人の場合】
今日と決めていた訳ではなかった。
それでも、飛び込んでしまいたい。その衝動には毎日襲われていたと思う。
もう随分長く缶コーヒーを握り締めて、俺はホームのベンチに座っていた。
視線の先で、規則正しく並んだ人の列が電車の中に雪崩れ込み、そしてまたすぐに列ができる。そんな変わり映えしない朝の通勤・通学風景を、ずっと見つめていた。
しかし、見ているという表現は違うかもしれない。俺はその景色を目に写しているだけで、心に据えている訳ではなかった。頭の中は、自身に降りかかった災難の事でいっぱいだったのだ。
『真田理人先生に酷い事をされたと彼女は言っているが、それは本当なのか?』
『は? なんの事ですか。何もしていません』
このまま数歩進んで飛び込んでしまえば……。
そんな思いが脳裏を通過する。俺は静かにベンチから立ち上がり、死への一歩を踏み出した。
その時、どこからか現れた黒猫が、缶コーヒーを握り締めている手に飛び付いてきたのだ。
「うわっ」
驚いた拍子に缶が手から滑り落ちてホームを転がっていく。俺は、ようやくそこでハッと我に返った。
線路に、飛び込むところだったのだ。
それに今は、誰かが転がる缶コーヒーに躓いたら危険だ。俺は慌ててその缶を追いかける。
そして、ようやくそれを手にした時、視線のすぐ先で、一人の老婦人がよろけて線路に落ちそうになっている姿が目に入った。
「危ない!」
周りで悲鳴が上がる。
間一髪、伸ばした手が老婦人の腕を掴んでいた。同時に、ホームにいた人達から安堵の拍手が湧き起こる。
「ありがとうございます。なんとお礼を言えばいいか……。改めてお礼に伺いたいので、お住まいを聞いてもいいかしら」
老婦人が俺の手を握り締めて切望してくる。
「いえ、お礼なんて……。たまたま近くにいただけです。目眩は、もう大丈夫ですか?」
「ええ、落とした切符を拾って立ち上がった時に、立ちくらみがしただけよ。でも、本当にありがとう。危ないところだったわ。だからせめて、お電話を伺えないかしら? 主人にこの事を話して、主人からもぜひお礼をお伝えしたいの」
どうしてもと老婦人に頭を下げられて、俺は名前と携帯番号を伝えた。
「真田 理人さん、有り難うございます。私は水寺 小町と申します。では、また改めて」
老婦人が振り返り、何度も何度も頭を下げて去っていく。
自殺の二秒前に人助けをする事になるなんて、どんな運命だと可笑しくなる。その時、自身の口角が上がっている感覚に気付いて、俺は自分が笑っていた事を知った。
いつぶりだろう。
酷い濡れ衣を着せられて以来、笑う事を忘れていたというのに……。
*
俺は高校の教師をしている。
教師生活も八年目となり自信も身についてきた頃だった。年齢も三十代に突入し、教師として一番充実している時だった。
バレンタインデーには女子生徒からチョコを渡される事もあり、それなりに生徒から人気のある教師だったと自負している。
そしてその中の一人に、「先生の事が本気で好きだから付き合って欲しい」と告白された事が、今の自分へと繋がる不幸の始まりだった。
俺は彼女を傷付けないよう優しく断ったが、彼女のプライドは酷く傷ついたらしい。
彼女はとても容姿の美しい生徒で、小学生の頃からずっとみんなのアイドル的な存在だったようだ。今までフラれた事など一度も無く、「真田先生も私の気持ちを受け止めてくれるに決まっている」と、周囲にそう話していた事を後に知った。
俺が断った事で、彼女の俺への愛は一瞬にして敵意に変わった。俺は彼女の心を傷付けた酷い男で、学校での彼女の地位を傷物にした許せない男なのだと。
しばらくして教頭に呼び出しを受けた俺は、告げられた言葉に愕然とする。
「真田理人先生に無理やり酷いことをされたと言っているが、本当なのか」
俺は事実無根を訴え、何度も話し合いを繰り返した。次第に彼女の主張に信憑性がない事が明らかとなっていき、最終的に彼女が嘘をついていた事を認めた。
しかし解決までの間に、その噂は瞬く間に広がり、生徒や保護者達から白い目で見られる事態になっていた。
保護者に対し、俺が潔白であった事は学校側から伝えられたが、まだ未成年である彼女を追い詰める事態を避けるため、学校側は簡単な説明のみで詳細は語らなかった。
その中途半端な説明が更に疑念を深くさせる事になり、俺への疑惑の目だけが今も学校に残っている。
何よりショックだったのは、結婚を約束していた同僚の婚約者がこの話を知った時に、俺の言葉を疑ったことだった。
何もかも、一気に失った。
学校を変え教師を続けていたが、心に活力が湧いてくる事はなく、もう限界のような気がしていたのだ。
--あなたのお陰です。
先程の老婦人に握られた手が熱い。久し振りに人の体温を感じた。
--あなたがいなかったら。
何度も何度も、感謝を伝えられた言葉が脳裏を通過する。
--ありがとうございます。
それは限界だった心に、まだあともう少し、もう少しだけ頑張ってみようと、そんな気持ちを呼び起こさせるものだった。
きっと、ギリギリの淵に立つ人間を、闇へ突き落とすのも、光へ引き戻すのも、恐らくどちらも些細な言葉なのだろう。
引き戻してもらえた。
俺はそう感じていた。
あの黒猫が手元に飛び付き缶が転がっていなければ、老婦人を救う事も、そして俺が心を救われる事もなかった。
大事なきっかけとなった黒猫に感謝しなければいけないなと周りを見渡す。
駅の階段を降りていく後ろ姿を発見して、俺は「ありがとう」と小さく呟いたのだった。
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