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第3章
(6)老婦人
しおりを挟む【 水寺 小町の場合】
自宅の前を箒で掃きながら、私は小さく呟いた。
「あの子は、どこかで元気にしているのかしら」
私は今年で七十八歳になる。
若く見えると周りからは言われることが多く、自身でも体力は実年齢よりあると思っている。
それでも年齢による老いは確実にあり、近頃は立ち眩みをするなど不調を感じることが多くなっていた。
ホームから転落しそうになったあの時も、突然の目眩が私を襲った。もし真田理人さんに腕を掴んでもらえていなかったら、そう考えるだけでゾッとする。
そんな死に繋がる事態を経験して、ずっと押さえ込んでいた息子への思いが私の心に溢れ出していた。
表札に書かれた家族の名前を見る。
夫の水寺健次郎の横に、自身の小町という名前。そしてその隣にある息子・宗一。
宗一は、二十二歳の時に家を飛び出した。健次郎と酷い親子喧嘩をしたからだ。
宗一は売れないバンドでギターをしていた。大半のバンドマンは、音楽で芽がでるまでは、バイトをしてお金を稼ぎ生計を立てている。しかし宗一はまったく働こうとはせず、私にお金の工面を頼むばかりだった。
厳格な健次郎がそれを許さず、口論の末に、宗一は家を出て行ったのだ。それきり音沙汰も無いまま、もう三十年弱の月日が流れてしまっていた。
『あんな息子、勘当だ!』
許す様子のない夫に隠れて、私は懸命に宗一を探したが情報は得られず、警察に相談して届け出も出したけれど、その行方は分からなかった。
元気に暮らしていれば、宗一は今年、もう五十一歳になる。それでも、小町の脳裏に浮かぶのは、出て行った当時のまだ青年だった息子の顔だ。
きっとどこかで、幸せに暮らしているに違いない。便りがないのは無事な証拠だと、自分の心に言い聞かせて生きてきた。
どんなに駄目な息子でも、既にオジサンの年齢になっていようと、それでも会いたい。そう思うのだ。
「小町おばあちゃん! ただいま~」
息子に思いを馳せていた私は、ハッとして声の方へ顔を向けた。
「あら、美空ちゃん。おかえり!」
隣家の娘さんである手塚 美空は、私の大切なお友達だ。まだ赤ちゃんだった頃からその笑顔を見守ってきた若い若いお友達だった。
そんな彼女と、家の縁側でお茶を飲みながら一緒に甘いモノを食べるのも、私にとって大きな楽しみの一つだ。
もし孫がいたらこんな気持ちになるのかしらと、いつも愛しい思いで彼女を見ていた。
「美空ちゃん、今日はご機嫌ね」
スーツ姿で戻ってきた彼女は、いつも沈んだ表情をしている。就職活動がなかなか上手くいかないのだと、落ち込んでいる事が大半だった。そんな美空ちゃんが、今日はどこかウキウキとした顔に見える。
「面接は上手くできなかったけれど、その帰りに高校の同級生に会ったの」
「そう。それは良かったわね」
「ミュージカルにその子が出るのよ」
嬉しそうに笑って、チケットを見せてくれる。
「なんだか凄くキラキラしてて、羨ましくなっちゃった! 自分が本当にやりたい事に挑戦してる人って、みんなあんなに生き生きしてるのかな」
美空ちゃんの言葉で、また私は宗一のことを考えた。あの子も、そんな風にキラキラとした人生を歩めたのかしら……。息子を思うと、やはり胸の奥がギュッとなる。
その時ーー。
一匹の黒猫が、まるで何かから逃げるように、何度も何度も後ろを振り返りながら、私たちの前を通り過ぎて行った。
「あ!」
隣にいた美空ちゃんが、声を上げて黒猫を指差す。
「小町おばあちゃん! 私、あの黒猫のお陰で、同級生と再会できたの!」
「まぁ。猫のおかげで?」
私と美空ちゃんの声に、黒猫は一瞬足を止めて振り返ったけれど、すぐに路地裏へと身を隠してしまう。
「隠れちゃったね」
美空ちゃんが残念そうにつぶやく。
しばらくして、一組の男女が、黒猫が歩いてきた道を追い掛けるようにこちらへと近づいてきた。
「あの、すみません。黒猫を見かけませんでしたか?」
男性に問われ、私は驚く。
「黒猫なら、路地裏の方に逃げて行きましたよ」
「そうですか……。あの黒猫は、猫好きの間で今とても有名でして」
「有名?」
尋ねると、男性が一歩こちらへ近づき返答する。
「ラッキーキャットと呼ばれています。あの猫と関わると、なにか良い事が起こるという都市伝説があるんです」
男性の言葉に、私の隣で話を聞いていた美空ちゃんが声を弾ませた。
「実は私! あの猫のお陰で良い事があったんです!」
「えぇ! 実際にラッキーにあやかれた人と会えるなんて、嬉しいなぁ~」
男性は瞳を輝かせて美空ちゃんを見ている。しかし、一緒にいる女性の方は、冷めた視線を向けるだけだった。
「ただの偶然よ」
そして、そんな風につぶやいたような気がする。
とても小さな声だったので確証はないけれど……。その女性は、何かたくさんの我慢を重ね、また、たくさんの事を諦めてきたような悲しい瞳の色をしていると、何故かそう感じた。
女性はこちらへ一礼すると、歩いて来た道を引き返していく。それを見た男性もこちらへ一礼し、急いで女性を追いかけて行った。
慌ただしく去って行った男女の背中を、私と美空ちゃんはポカンとして見つめる。
「突然やって来て、あっと言う間に去っていったわね。……女性の方は、なんだか寂しそうな顔をしていたけれど」
なぜか、彼女の表情がいつまでも私の心に引っかかりを残す。
あの彼女にも、黒猫がもたらす幸せが訪れますようにと、無意識のようにそんな事を願っていた。
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