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第2章
(5)死神
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カロンッ──。
店内にまたカウベルの音が響いて、お客様の来訪を告げた。
「とばりん~」
甲高い声を響かせた女子高生の三人組が、賑やかに店内に入ってくる。
「いらっしゃいませ」
「とばりーん。私、失恋しちゃった。またお話聞いてよー」
「それは辛いご経験を……。ですが本日は先約のお客様がいらっしゃるので、申し訳ありませんが後日でも宜しいですか?」
「そっかぁ~、残念。じゃあ、今日はこっちの席にするね」
そう言って女子高生たちが、テーブル席へ移動していく。彼女たちの注文を聞き、カウンターへと戻ってきたマスターに小さく問いかけた。
「あの……。私の話は後にした方が宜しいでしょうか?」
「いえ。話の内容に関わらず、先着順と決めていますので、それはお気になさらず」
爽やかに答えて、マスターこと、『とばりん』がココアの準備をしている。
「あの……。とばりんと呼ばれているのですね」
「ええ。彼女たちが付けたあだ名です。初めて呼ばれた時は驚きましたが、いつの間にか聞き慣れてしまいました」
カウンターの向こうで手際良くホットココアが三つ用意され、マスターがその上にホイップクリームを搾っている。
焦げ茶色のココアの表面に、光沢のある純白の生クリームが重なり、美しいコントラストが完成するのが見えた。
ココア独特の甘い香りが、珈琲の匂いでいっぱいだった店内にまるで華を咲かせたように広がる。
これも非常に美味しそうだなと、またそんなことを考えてしまう。しかし私の目の前には、既に出来立ての蜂蜜バタートーストがあった。
結局、頼んでしまったのだ。
自身に課された労働の数を頭の中で振り返る。閉店後の店内清掃にトイレ清掃。そして、追加で店主の自宅清掃だ。
気付けば、清掃業者の道を真っ直ぐに歩んでしまっている自分自身に私は苦笑する。それに、懸案事項であるマスターの自宅の広さをまだ確認できていなかった。
しっかり確認しなければと私は意気込む。その他にも、マスターに聞きたいことがあった。
「死神さん、お待たせしました」
「いえ。あの……マスターのお名前は、このお店の名前と同じ、帳とおっしゃるのですか?」
女子高生達がつけたあだ名から推察する。
「はい。帳 和也 といいます。もし差し支えなければ、死神さんのお名前も伺って宜しいですか?」
帳さんにそう問われ、私は口籠った。
「あ、あの……私は、その……。自分の名前が、あまり好きではなくて……」
人に名前を聞いておきながら、名乗らないのは失礼な事だと知りつつ、それでも名乗ることをためらってしまう。
「そうですか。ではこのまま、死神さんと呼ばせて頂きますね」
帳さんは私が名乗らなかったことに対して、何も気にしていないようだった。
私が名を嫌う訳は、大した理由ではない。
それでも、名前がコンプレックスだった。だから帳さんの深追いしないこの対応を、とても嬉しく感じたのだ。
こちらの話を聞いてくれる。けれど、こちらには踏み込み過ぎないでいてくれる。彼のこの絶妙な距離感が、たまらなく心地良かった。
「帳さん。ありがとうございます」
彼を見つめて小さく笑うと、美しい笑みを返してくれた。
「さて、お話の続きを伺いましょうか。営業時間終了後は、労働が待っていますし」
「労働……」
その一言で、忘れていた清掃業務を思い出し、私の顔から笑顔が消える。
「帳さん。まだその、ご自宅の広さを」
「あ、まだ言ってませんでしたか? それは申し訳ありません。僕はマンションを一棟、所有しております」
「一棟…………は?」
広さの問題だけではなく、一棟という恐ろしい単位に私は震える。
「さぁ、お話の続きをどうぞ!」
「え? いや……あの」
「さぁ、どうぞ」
一瞬、帳さんの爽やかな笑みに流され、話の続きをはじめそうになったけれど……。
「い、今は、続きどころではなく! 一棟はさすがに、自宅の範疇を越えていると思うのですが!」
所有しているとは言え、一棟丸々を自宅として使っている訳ではないはずだ。賃貸マンションとして貸し出しているのなら、それは借主の自宅という定義になるはず。
「あ、気づきました?」
「気づきますよ!」
全く悪びれた様子もなく、マンション一棟分の清掃を押し付けようとしていた帳さんが、フフッと笑いながら頭を掻いて誤魔化している。
この美しい笑顔のマスターは、悪い人ではないが、決して良い人でもない……ような気がする。
けれど厄介なことに、帳 和也という人は驚くほどの聞き上手で、何より彼の手から作り出される飲み物や食べ物は、病み付きになるほどうまいのだ。
やるせない思いで、私は目の前の蜂蜜バタートーストに齧り付いた。
コクのあるバターと蜂蜜がカリカリの表面からモチモチの生地へたっぷりと染み込んでいる。
「おいしい!」
「ありがとうございます。しっかり食べて、しっかり労働して下さいね」
「あ。…………はい」
美味しさを噛み締めている時に、労働の二文字を突きつけてくるなんて、自分よりよっぽどこの帳さんの方が、死神らしいたちの悪さを秘めているような気がした。
店内にまたカウベルの音が響いて、お客様の来訪を告げた。
「とばりん~」
甲高い声を響かせた女子高生の三人組が、賑やかに店内に入ってくる。
「いらっしゃいませ」
「とばりーん。私、失恋しちゃった。またお話聞いてよー」
「それは辛いご経験を……。ですが本日は先約のお客様がいらっしゃるので、申し訳ありませんが後日でも宜しいですか?」
「そっかぁ~、残念。じゃあ、今日はこっちの席にするね」
そう言って女子高生たちが、テーブル席へ移動していく。彼女たちの注文を聞き、カウンターへと戻ってきたマスターに小さく問いかけた。
「あの……。私の話は後にした方が宜しいでしょうか?」
「いえ。話の内容に関わらず、先着順と決めていますので、それはお気になさらず」
爽やかに答えて、マスターこと、『とばりん』がココアの準備をしている。
「あの……。とばりんと呼ばれているのですね」
「ええ。彼女たちが付けたあだ名です。初めて呼ばれた時は驚きましたが、いつの間にか聞き慣れてしまいました」
カウンターの向こうで手際良くホットココアが三つ用意され、マスターがその上にホイップクリームを搾っている。
焦げ茶色のココアの表面に、光沢のある純白の生クリームが重なり、美しいコントラストが完成するのが見えた。
ココア独特の甘い香りが、珈琲の匂いでいっぱいだった店内にまるで華を咲かせたように広がる。
これも非常に美味しそうだなと、またそんなことを考えてしまう。しかし私の目の前には、既に出来立ての蜂蜜バタートーストがあった。
結局、頼んでしまったのだ。
自身に課された労働の数を頭の中で振り返る。閉店後の店内清掃にトイレ清掃。そして、追加で店主の自宅清掃だ。
気付けば、清掃業者の道を真っ直ぐに歩んでしまっている自分自身に私は苦笑する。それに、懸案事項であるマスターの自宅の広さをまだ確認できていなかった。
しっかり確認しなければと私は意気込む。その他にも、マスターに聞きたいことがあった。
「死神さん、お待たせしました」
「いえ。あの……マスターのお名前は、このお店の名前と同じ、帳とおっしゃるのですか?」
女子高生達がつけたあだ名から推察する。
「はい。帳 和也 といいます。もし差し支えなければ、死神さんのお名前も伺って宜しいですか?」
帳さんにそう問われ、私は口籠った。
「あ、あの……私は、その……。自分の名前が、あまり好きではなくて……」
人に名前を聞いておきながら、名乗らないのは失礼な事だと知りつつ、それでも名乗ることをためらってしまう。
「そうですか。ではこのまま、死神さんと呼ばせて頂きますね」
帳さんは私が名乗らなかったことに対して、何も気にしていないようだった。
私が名を嫌う訳は、大した理由ではない。
それでも、名前がコンプレックスだった。だから帳さんの深追いしないこの対応を、とても嬉しく感じたのだ。
こちらの話を聞いてくれる。けれど、こちらには踏み込み過ぎないでいてくれる。彼のこの絶妙な距離感が、たまらなく心地良かった。
「帳さん。ありがとうございます」
彼を見つめて小さく笑うと、美しい笑みを返してくれた。
「さて、お話の続きを伺いましょうか。営業時間終了後は、労働が待っていますし」
「労働……」
その一言で、忘れていた清掃業務を思い出し、私の顔から笑顔が消える。
「帳さん。まだその、ご自宅の広さを」
「あ、まだ言ってませんでしたか? それは申し訳ありません。僕はマンションを一棟、所有しております」
「一棟…………は?」
広さの問題だけではなく、一棟という恐ろしい単位に私は震える。
「さぁ、お話の続きをどうぞ!」
「え? いや……あの」
「さぁ、どうぞ」
一瞬、帳さんの爽やかな笑みに流され、話の続きをはじめそうになったけれど……。
「い、今は、続きどころではなく! 一棟はさすがに、自宅の範疇を越えていると思うのですが!」
所有しているとは言え、一棟丸々を自宅として使っている訳ではないはずだ。賃貸マンションとして貸し出しているのなら、それは借主の自宅という定義になるはず。
「あ、気づきました?」
「気づきますよ!」
全く悪びれた様子もなく、マンション一棟分の清掃を押し付けようとしていた帳さんが、フフッと笑いながら頭を掻いて誤魔化している。
この美しい笑顔のマスターは、悪い人ではないが、決して良い人でもない……ような気がする。
けれど厄介なことに、帳 和也という人は驚くほどの聞き上手で、何より彼の手から作り出される飲み物や食べ物は、病み付きになるほどうまいのだ。
やるせない思いで、私は目の前の蜂蜜バタートーストに齧り付いた。
コクのあるバターと蜂蜜がカリカリの表面からモチモチの生地へたっぷりと染み込んでいる。
「おいしい!」
「ありがとうございます。しっかり食べて、しっかり労働して下さいね」
「あ。…………はい」
美味しさを噛み締めている時に、労働の二文字を突きつけてくるなんて、自分よりよっぽどこの帳さんの方が、死神らしいたちの悪さを秘めているような気がした。
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