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第3章
(8)死神
しおりを挟む時刻は、二十二時――。
帳珈琲店の営業時間は、十八時から二十二時までとなっている。
閉店後に、帳さんが遅い夕食を作ってくれることになり、お客様のいない店内にはその調理の音だけが響いていた。
もちろん「それは無料ですよね!」と確認済みだ。私もそろそろ、抑えるべきポイントが分かってきた。
「まかない飯なので無料ですよ。心配性ですね、死神さんは」
「えっと……、どなたのせいで心配性になったと思ってるんですか?」
「どなたです?」
「あなたです」
そして、微妙な沈黙が通り過ぎていく。
「まぁ、いろいろありますよね」
テヘっと笑いながら、帳さんがこの話題を終了させた。
たちの悪い人ですねと思いつつ、私も苦笑して頭を切り替えた。
まかないは、残り物のレタス・ツナ・卵を使ったピラフを作るらしい。眼前で料理をする帳の鮮やかな手つきを、私はカウンターテーブルから身を乗り出して眺める。
「それにしても、人が料理を作る姿はまるで魔法使いのようですね」
常々、私は人間の調理技術は魔法ではないだろうかと思っている。数々の材料の組み合わせで、想像もできない新たな味を生む。その素晴らしさに、敬意すら感じていたのだ。
「魔法ですか? 死神とは思えないロマンチックな例えですね」
「は、恥ずかしいので、からかわないで下さい! 本当にそう思うし、すごいことだと感服しているのですから。それに……帳さんは、特に所作が美しいので見入ってしまいます」
照れながら言葉の最後にそう付け足すと、帳さんが嬉しそうに目を細めた。
「それは有り難うございます。さて、もうすぐ出来上がりますよ」
しばらくして、ほかほかのピラフが私の前に置かれた。瞳を輝かせてそれを見つめていると、帳さんがまた何かを作り始める。
「まだあるのですか?」
「簡単なスープとサラダです」
その後すぐに、溶き卵とブロッコリーのスープが完成し、冷蔵庫にあったポテトサラダと一緒にカウンターテーブルに並んだ。
「すごい!」
やはり魔法みたいだと改めて思う。私の隣の席に同じものを配膳した帳さんが、そちらの席についた。
「いただきます」
この世界で、こんな風に誰かと並んで食事をするというのも、私には初めてのことだった。
『いただきます』
この言葉もきっと幸せの魔力を持つ言葉に違いないとこっそり考える。美味しいごはんを誰かと食べる。それは、こんなにも心を嬉しくさせる行為だったのかと改めて感心していた。
「ところで、死神さんと関わった人は皆さん幸せを享受されていますが、僕が何も変わり映えしないのはなぜですかね?」
そういえば……と、私は帳さんを見た。
「恐らく、不幸にしようと思って行動していないからではないかと」
「なるほど。それなら、幸せにしようと思って行動すれば、それが裏目に出て、相手を不幸にする事ができるのでは?」
「それは既に試してみました。残念な事に、なぜかその場合に限り裏目にはでず、ただ相手がそのまま幸せになりました」
食事中の帳さんが、吹き出しそうになるのを堪えている。なんとか口の中のものを飲み込み一息ついていた。
「まさにラッキーキャットですね。もう幸せの伝道師という事で、いいのでは?」
「よくないです! ちっとも、よくないです」
ちっともよくないが、そのお陰で帳珈琲店にたどり着き、この美味しい料理に出会えた。今は、悪いことばかりでもなかったなと、そう思っている。
なにより、この少し意地悪なマスターとの軽快なお喋りが、自分にとって思いのほか楽しいものだったのだ。誰かと話をするのに、少しの気負いもなく流れるように言葉が出てくる。そんなことは初めてだった。
今までずっと、相手の顔色を伺って会話をしてきた。落ちこぼれの自分を隠すように、相手と視線も合わせられずに……。
何を話せばいいのだろう。こんな事を言って嫌われないだろうかと、相手の望む言葉を必死になって探していたのだ。
特に家族の前では一番、自分を押し殺して生きてきたと思う。
――頑張ります。
それは、私が母へ送り続けた手紙の言葉だ。
死神試験の採点員が、二週間に一度、元の世界へ手紙を運んでくれる。しかし、私の元にその返事が届いたことは一度もない。
――頑張ります。
本当は、人間を不幸になどしたくないのに。
――頑張ります。
偽りの言葉を送り続けることでしか、自分の存在を示すことが出来ずに。
――頑張ります。
振り向いて欲しい。
認めて欲しい。
そして優秀な兄弟たちのように、彼らと同じ分量でなくてもいいから、できればほんの少し……愛して欲しかった。
『楽しいですよ。僕は楽しいです』
不意に、帳さんの言葉が脳裏をよぎる。
初めて自分との会話を楽しいと言われた。
これは、友人の条件をクリアしたという事なのだろうか。友人のいない私には、何をもって友達だと言えるのか、その線引きが分からなかった。
あとどれだけ言葉を交わせば、友人の証になるのだろう。そもそも、そんな証があるのかさえ知らないけれど……。
それでも私は、帳珈琲店の扉を開けてからの自分自身を、初めて好きだと思えるような気がしていた。
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