帳(とばり)珈琲店 〜お気の毒ですがまた幸せな結末です〜

第１１章

（２９）夢なんか見ない女

　私は今──、水寺小町さんの家の前にいた。

　緊張で固まる私の手を、隣に立つ真島くんがそっと握ってくれている。こうして会いに来る決断が出来たのも、真島くんがいたからだった。

　二人で一緒に朝を迎えた翌日。
　私は改めて小町さんの息子の事について考え、小町さんに会いに行く決断をした。

　真島くんから雨宮さんへ、そして真田さんと手塚さんへ連絡を回してもらい、手塚さんからお隣である小町さんへと話を通してもらった。そして全員の都合を擦り合わせた二週間後の今日、こうして家を訪ねる事になったのだ。

　真田さん達三人は、隣の手塚さんの家で話が終わるのを待っているとの事だった。

「じゃあ、押します」
「うん」

　真島くんの指が小町さんの家のインターホンを押す。その音が響くと、すぐに老夫が扉を開けてくれた。

「水寺 健次郎です。話は、隣の美空ちゃんから聞いております」

　静かに一礼して顔を上げた健次郎さんの表情にも、緊張の色が浮かんでいるように見える。

「日比野と申します。宜しくお願いいたします」
「真島と申します。本日は同席させて頂きます」

　健次郎さんに案内されて、私は真島くんと一緒に家の中へと足を進める。廊下を歩く途中、ガラス戸の向こうの縁側に黒猫がいるのが見えた。

「あ……」

　奥にある小町さんの部屋の様子を、黒猫は心配そうに見つめている。真島くんもそれに気付いたようで、互いに視線で頷きあった。

　襖を開けた部屋の中に、布団の上で上半身を起こした小町さんがいる。

「こんな格好で、ごめんなさいね」
「いえ。お身体に触るようでしたら、すぐにおっしゃって下さい」
「お気遣い有り難う。二人とも、来て下さって嬉しいわ。美空ちゃんから話を聞いて……すぐにお会いしたくて……。来て頂いて早々だけれど、これが、出ていった頃の宗一です」

　逸る思いを止められないように、小町さんは握り締めていた写真をこちらに差し出した。
　私はそれを、不安な思いで受け取る。

　父親の顔は、もう覚えていない。
　けれどそれは、無意識の自己防衛で思い出さないようにしている可能性が強いと、施設の先生に言われた事があった。

　父親は、私が一生許さないと決めた男だ。

　もしかすると写真を見つめた瞬間に、とてつもない怒りで心が潰れそうになるかもしれない。
　あの男の両親である小町さん達に、ひどい暴言を吐いてしまうかもしれない。

　決断したはずなのに、写真を持つ手が震える。
　そんな私の背に、そっと温かい掌が触れた。

　真島くん……。

　彼がくれた温もりに、もう一人ではないと勇気が湧いてくる。彼と視線を交わして頷き、私は深呼吸をしてから写真の中の男を見つめた。

　その瞬間、靄のかかった記憶の残像が、写真の中の人物と同じ顔でくっきりと蘇っていく。


『金は？』


　働こうともせず、ギリギリの状態で頑張る母に向かって言った非常な男の声が、私の耳の奥で反響した。

　湧き上がる怒りに奥歯を噛み締める。
　落ち着けと心で叫びながら、胸に手を当て深い呼吸を繰り返した。

　私は小町さんと健次郎さんの二人を見る。
　そして、しっかりと頷いた。


「……父です」


　私の言葉に二人の息を飲む音が聞こえた。
　その刹那、小町さんの隣にいた健次郎さんが、突然、私と小町さんに向かって床に頭を擦り付けるように土下座をしたのだ。


「死んでいるんだ……あいつは……、宗一はもう、二ヶ月前に亡くなっているんだ！　黙っていてすまなかった」


　あまりに突然の告白に、状況が分からず混乱する。
　その場にいる全員が言葉を失い。すすり泣く健次郎さんの声だけが、その部屋の中に響いていた。