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第11章
(30)夢なんか見ない女
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健次郎さんの言葉でその場が静まり返った。
私は頭を畳に擦り付けて土下座している健次郎さんを見つめる。小町さんが布団の上から這い出るようにして、健次郎さんの腕を掴んだ。
「に、二ヶ月前に亡くなっているって……どう、どういう……どういう事なの」
「電話が掛かってきた」
流れる涙もそのままに、健次郎さんが顔を上げて話し出す。
他県の自治体から水寺家に電話が入ったのは、ちょうど二ヶ月前の出来事だったという。
それは、高架下に寄り集まって生活していたホームレスの一人が風邪を拗らせて亡くなり、仲間の一人が遺体をどうすればいいかと自治体の窓口に相談してきた事で発覚した。
自治体から警察へ連絡して調べてもらったけれど、その時は身元が分かるものは見当たらず、その遺体は不明のまま法律に則り火葬された。
その後一定期間遺骨を保管したのち、身元不明者や身寄りのない者を埋葬する無縁塚に、遺骨が埋葬される段取りが組まれていたらしい。
その後、近隣住民から高架下近辺の治安についての苦情が多く寄せられていた事から、高架下のホームレスについて強制移動が開始され、ダンボールとビニールシートで作られたホームレス達の寝床の下から、砂に埋もれた父の身元を示す古い免許証が見つかったという。
「自治体からの電話をとった後、すぐに遺骨を引き取りに行った」
ちょうどその時は、小町さんが一番体調を崩し床に臥していたので、健次郎さんが一人で外出しても小町さんがそれを不思議に思う事はなかったのだろう。
「宗一が亡くなった事をお前が知ったら、ますます体調が悪化するのではないかと思って……」
健次郎さんは遺骨を小町さんの目に入らないようにして黙っていた。その後も小町さんの体調が芳しくなく、言い出す機会を失ったまま今日に至ってしまったとの事だった。
「何度も言おうとしたが、宗一の写真を握り締めるお前を見たら……どうしても……どうしても……言い出せなかった。何よりあいつが、宗一が出て行ったのは、あの日私が叱りつけたからだ」
初音にとってもそれは驚きの内容だったけれど、小町さんにはもっと大きな衝撃だったに違いない。そしてそれを一人で胸の内に抱えていた健次郎さんもまた、やり切れ無い思いを抱えていたようだった。
押し潰されてしまいそうな重い沈黙の中で、私は無意識に小町さんと健次郎さんへ向かって手を伸ばしていた。
「私の名前は……初音といいます。初めての音と書いて初音です。この名前は、父がつけました」
自分と父親を繋ぐもの、それはもう名前しかない。
私にとって憎しみの鎖でしかなかったものが、今、自分と目の前の老夫婦を繋ぐ一筋の糸に思えた。
あの父親が、何を思って自分にその名をつけたのかは知らない。それでも、この名前をつけたのが父であると、小町さんと健次郎さんにどうしても伝えなければいけない。そんな気がしたのだ。
その時ふと、嬉しそうに弾んだ母の声が耳の奥に響いた。
『初音。その名前はね、パパが付けたのよ。綺麗な響きね。初音、大好きよ。名前も、あなたも!』
私の中で色濃く残っていた記憶はどれも、憎しみのこもった母の声だった。けれど、かつては母も愛を込めてこの名を呼んでいた。その声を、思い出せたのだ。
そんな風に呼んでもらえたのは、短いひと時の間だったのかもしれない。それでも、私が娘として愛された時間は、確かに存在していた。
「この名前は……父が、つけました! 初音と言います。私の名前は、初音と言います」
私の伸ばした手を、小町さんと健次郎さんが震える手で握り締める。
「そう、あの子が付けたの! そんな美しい名をあのこが……! 初音さん。初音ちゃんっ。なんてっ……素敵な名前かしら! 初音ちゃん、初音ちゃん……。会いに来てくれてありがとうっ……。あの子の……宗一のせいで、たくさん、たくさん辛い思いをしたのでしょう? ごめんなさい! ごめんなさいね。それなのに……それなのに会いに来てくれてっ」
泣き崩れる小町さんの横で、健次郎さんも泣きながら何度も私に頭を下げる。
「申し訳なかった。申し訳……なっ……。初音ちゃんっ……。私たちに、会いに来てくれて有り難う。本当にっ……本当に有り難う。孫に、まさか孫にっ……」
痩せてしまった細い手で、それでもしっかりと小町さんが私の手を握り締めている。その上からは、健次郎さんの手が二人の手を抱き締めるように包み込んでいた。
小町さんと健次郎さんにとっては、息子の最期を看取れなかった事など、色々と思う事はあるだろう。健次郎さんはわだかまりを残して別れたままで、小町さんは思い続けた再会が叶わぬままとなった。
それでも、こうして会いに来た事を二人はこんなにも喜んでくれた。勇気を出しここへ来て良かったと、そう思う事ができた。
「もし……もし、初音ちゃんが……嫌じゃなければ、また……またここに……」
遠慮がちに問われた小町さんの言葉に、私はうなずく。
「会いに来ます」
私の言葉に、不安げだった小町さんと健次郎さんの表情にほんの少し安堵の色が浮かぶ。
私は涙に濡れた目で、この様子を見守ってくれていた真島くんへと視線を向ける。この場にいる誰よりも、彼は激しく涙を流していた。
自分の為に泣いてくれる人がいる。
なんて、幸せな事なのだろう。
そして縁側にいた黒猫も、小町さんの部屋の窓辺から中の様子を眺めていて、まるで状況を理解しているかのようにポロポロと涙を流していた。
私は改めて、真島くんとこの黒猫のお陰だと思い、心の中で一人と一匹に「ありがとう。だいすき」と、つぶやいたのだった。
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私は頭を畳に擦り付けて土下座している健次郎さんを見つめる。小町さんが布団の上から這い出るようにして、健次郎さんの腕を掴んだ。
「に、二ヶ月前に亡くなっているって……どう、どういう……どういう事なの」
「電話が掛かってきた」
流れる涙もそのままに、健次郎さんが顔を上げて話し出す。
他県の自治体から水寺家に電話が入ったのは、ちょうど二ヶ月前の出来事だったという。
それは、高架下に寄り集まって生活していたホームレスの一人が風邪を拗らせて亡くなり、仲間の一人が遺体をどうすればいいかと自治体の窓口に相談してきた事で発覚した。
自治体から警察へ連絡して調べてもらったけれど、その時は身元が分かるものは見当たらず、その遺体は不明のまま法律に則り火葬された。
その後一定期間遺骨を保管したのち、身元不明者や身寄りのない者を埋葬する無縁塚に、遺骨が埋葬される段取りが組まれていたらしい。
その後、近隣住民から高架下近辺の治安についての苦情が多く寄せられていた事から、高架下のホームレスについて強制移動が開始され、ダンボールとビニールシートで作られたホームレス達の寝床の下から、砂に埋もれた父の身元を示す古い免許証が見つかったという。
「自治体からの電話をとった後、すぐに遺骨を引き取りに行った」
ちょうどその時は、小町さんが一番体調を崩し床に臥していたので、健次郎さんが一人で外出しても小町さんがそれを不思議に思う事はなかったのだろう。
「宗一が亡くなった事をお前が知ったら、ますます体調が悪化するのではないかと思って……」
健次郎さんは遺骨を小町さんの目に入らないようにして黙っていた。その後も小町さんの体調が芳しくなく、言い出す機会を失ったまま今日に至ってしまったとの事だった。
「何度も言おうとしたが、宗一の写真を握り締めるお前を見たら……どうしても……どうしても……言い出せなかった。何よりあいつが、宗一が出て行ったのは、あの日私が叱りつけたからだ」
初音にとってもそれは驚きの内容だったけれど、小町さんにはもっと大きな衝撃だったに違いない。そしてそれを一人で胸の内に抱えていた健次郎さんもまた、やり切れ無い思いを抱えていたようだった。
押し潰されてしまいそうな重い沈黙の中で、私は無意識に小町さんと健次郎さんへ向かって手を伸ばしていた。
「私の名前は……初音といいます。初めての音と書いて初音です。この名前は、父がつけました」
自分と父親を繋ぐもの、それはもう名前しかない。
私にとって憎しみの鎖でしかなかったものが、今、自分と目の前の老夫婦を繋ぐ一筋の糸に思えた。
あの父親が、何を思って自分にその名をつけたのかは知らない。それでも、この名前をつけたのが父であると、小町さんと健次郎さんにどうしても伝えなければいけない。そんな気がしたのだ。
その時ふと、嬉しそうに弾んだ母の声が耳の奥に響いた。
『初音。その名前はね、パパが付けたのよ。綺麗な響きね。初音、大好きよ。名前も、あなたも!』
私の中で色濃く残っていた記憶はどれも、憎しみのこもった母の声だった。けれど、かつては母も愛を込めてこの名を呼んでいた。その声を、思い出せたのだ。
そんな風に呼んでもらえたのは、短いひと時の間だったのかもしれない。それでも、私が娘として愛された時間は、確かに存在していた。
「この名前は……父が、つけました! 初音と言います。私の名前は、初音と言います」
私の伸ばした手を、小町さんと健次郎さんが震える手で握り締める。
「そう、あの子が付けたの! そんな美しい名をあのこが……! 初音さん。初音ちゃんっ。なんてっ……素敵な名前かしら! 初音ちゃん、初音ちゃん……。会いに来てくれてありがとうっ……。あの子の……宗一のせいで、たくさん、たくさん辛い思いをしたのでしょう? ごめんなさい! ごめんなさいね。それなのに……それなのに会いに来てくれてっ」
泣き崩れる小町さんの横で、健次郎さんも泣きながら何度も私に頭を下げる。
「申し訳なかった。申し訳……なっ……。初音ちゃんっ……。私たちに、会いに来てくれて有り難う。本当にっ……本当に有り難う。孫に、まさか孫にっ……」
痩せてしまった細い手で、それでもしっかりと小町さんが私の手を握り締めている。その上からは、健次郎さんの手が二人の手を抱き締めるように包み込んでいた。
小町さんと健次郎さんにとっては、息子の最期を看取れなかった事など、色々と思う事はあるだろう。健次郎さんはわだかまりを残して別れたままで、小町さんは思い続けた再会が叶わぬままとなった。
それでも、こうして会いに来た事を二人はこんなにも喜んでくれた。勇気を出しここへ来て良かったと、そう思う事ができた。
「もし……もし、初音ちゃんが……嫌じゃなければ、また……またここに……」
遠慮がちに問われた小町さんの言葉に、私はうなずく。
「会いに来ます」
私の言葉に、不安げだった小町さんと健次郎さんの表情にほんの少し安堵の色が浮かぶ。
私は涙に濡れた目で、この様子を見守ってくれていた真島くんへと視線を向ける。この場にいる誰よりも、彼は激しく涙を流していた。
自分の為に泣いてくれる人がいる。
なんて、幸せな事なのだろう。
そして縁側にいた黒猫も、小町さんの部屋の窓辺から中の様子を眺めていて、まるで状況を理解しているかのようにポロポロと涙を流していた。
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